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病床の令嬢が婚約破棄されるために手厚い治療を受けるお話

 子爵令嬢デシージア・アンフェレートは、幼い頃より家族から疎まれていた。


 デシージアはアンフェレート子爵家の第三子として生まれた。母は産後の肥立ちが悪く、彼女が物心つく前に他界してしまった。

 デシージアは子爵領では不吉とされる黒髪で生まれた。不吉な娘が愛する妻の命を奪ったに違いない――父は悲しみから逃げるためにそんな迷信にすがり、娘を憎むことを選んだ。

 

 アンフェレート子爵家では、優秀な一番上の兄が子爵家を継ぎ、見目麗しい次子の姉が他家との良縁を結ぶことが決まっていた。既に必要な席は埋まっており、三子であるデシージアには何の役割も与えられなかった。子爵家において、彼女はただの不吉な厄介者として扱われた。

 

 子爵家の屋敷には居ることは許されず、デシージアはみすぼらしい離れで暮らすことを強いられた。屋敷へ近づくことすら禁じられ、許可なく子爵邸の敷地外に出ることも許されなかった。

 軟禁状態とも言える境遇のデシージアだったが、しかし、嘆いてふさぎ込むことはなかった。彼女には母が形見に遺してくれたハンカチがあった。生前の母と懇意にしていた使用人が、父の目を盗んで渡してくれたハンカチには、刺繍で文字が刻まれていたのだ。

 

『愛するデシージアへ どうか幸せに生きてください』

 

 死期を覚った母が、自らの手で刺繍してくれた言葉だった。そのハンカチを懐に入れておくと胸が熱くなった。こんな不幸な状況に負けてはならないと、勇気が湧いてきた。

 

 今は世間体を気にして子爵家内にとどめられているが、成人したらどこに放り出されるかわからない。幼い頃から賢かったデシージアは、子爵家にいる間に自力で生きる術を得ようと誓った。

 だがデシージアは一人ではなかった。生前の母は使用人たちを大切にしていた。子爵家で母を信奉する使用人たちは、窮状にあるデシージアの助けになろうと父の目を盗み世話をしてくれた。

 デシージアは、自分に特別優れた体力も魔力も無いことをわかっていた。そしてそれを割り切り、次善策を探ろうとする高い知能と判断力を備えていた。


 使用人たちと相談して考え出した結論は、貴族の学園に入学することだった。

 高い学力があれば貴族の学園に特待生として入学することができる。優秀な成績で卒業できたなら、文官や魔法学の研究者になるなど、貴族として独り立ちすることも可能な職を得られるはずだった。

 

 学ぶことを志したところで、父が家庭教師をつけてくれるはずもない。一人で学ぶしかなかった。

 とにかく本が必要だった。だが離れには勉強の役に立つような書物はなかった。使用人たちと協力し、時にはデシージア自身も屋敷に忍び込み、書斎から必要な書物を無断で借りてきた。一度に多くを持って行ってはバレてしまうため、一冊借りては一冊戻すという、効率が悪く気の長い方法をとるしかなかった。

 だが、デシージアは勉学に関しては類稀な才能を持っていた。一を知れば十も二十も学び取り、記憶力もまた優れていた。要所をまとめ簡単なメモを残しておけば、一度借りた本をもう一度借り直す必要はほとんどなかった。

 

 そして学園の入学が可能な13歳になった時。デシージアは生まれて初めて父に直談判をした。学園の入学にはどうしても親族の許可が必要だったのだ。


「お前が入学試験を上位20位以内で合格すれば入学を許す。そうで無ければ修道院に送る」


 父はそう、厳かに告げた。

 入学試験を受けることが許可された。拍子抜けとも言える結果だったが、聡明なデシージアはその真意を理解していた。

 入学試験で20位以内に入れば入学。そうでなければ修道院行き。どちらの結果になろうとも、この子爵家から追い出されることは変わらない。

 理由もなしに娘を放逐すれば家名を傷つけることになる。だから離れに置いた。そして彼女自らが家を出たいと言えば引き留めない。

 可能な限り干渉せずに、遠ざかるのならば後押しする。そうすることで、自分の人生に関わらせないようにする。父の憎しみは、そんな冷たくて徹底的なものだったのだ。

 

 母が亡くなってから何年も経った。デシージアはほとんどの時間、離れに籠り、父と話す機会すらなかった。母を失った悲しみも癒え、少しは関係を取り戻せるかと思った。

 だが父の憎しみは未だ消え去ってはいなかった。そのことを改めて思い知らされ、デシージアはショックを受けた。だが、その絶望に屈しはしなかった。いつも懐に忍ばせている母の形見のハンカチが勇気をくれたからだ。

 

 考え方を変えれば、これはチャンスなのだ。

 

 どの道、この父の近くにいては幸せにはなれない。向こうから突き放してくれるというのであれば、それを追い風として前に進むだけだ。

 デシージアは入学試験の日まで、これまで以上に勉学に励んだ。そして3位という優秀な成績で入学試験を突破した。誰の師事も受けず独学で至った結果としては、異例と言える成果だった。

 特待生として学費を免除され、デシージアは見事学園に入学したのだった。



 貴族の学園は学問を学ぶだけの場所ではない。そこは将来、貴族社会に出るときの前準備、社交の練習場としての側面もあった。

 そんな学園でなら、貴族子息に嫁入りして家を出るという手もあった。


 だがデシージアは、その手段については最初からあきらめていた。

 不吉とされる黒髪に黒い瞳。幼い頃からあまりいいものを食べさせてもらえず、運動もさほどしなかった身体は肉付きが悪い。顔立ち自体は悪くなく、特に目立った欠点はない。だがそれだけでは、見目麗しい貴族の令嬢の揃った学園では武器にはなりえない。

 

 加えてデシージアは人づきあいというものが苦手だった。離れにこもり、ひたすら勉強の日々。話し相手と言えば使用人のみ。いかに彼女が賢明でも、幼い頃から社交慣れした貴族の多い学園では、既に出来上がりつつある生徒の派閥に入ることすら難しい。

 

 そもそも学園で男あさりに耽る令嬢など、恥さらしもいいところである。下手なことをして悪目立ちすれば父も黙ってはいないだろう。デシージアが学園に居られるのは彼女に放逐するほどの瑕疵がないためだ。正当な理由さえあれば、父は忌まわしい娘を北の僻地や南の未開の地へ送ることをためらわないだろう。

 

 だから当初の計画通り、ひたすら勉学に励んだ。目指すは文官、役人、あるいは商人。勉学に秀でた才能を生かすにはそれらの職業が望ましく、そのためにはより一層の幅広い知識が必要だった。

 

 その意味で、学園は実に素晴らしい環境だった。優秀な教師陣。洗練された高度な授業内容。充実した資料の数々。屋敷の書庫にあったわずかな本で力を磨いてきたデシージアにとって、学園のすべてが光り輝いて見えた。

 日々の授業からもたらされる質と量の伴った知識の数々は、まるで魔物の群れが押し寄せてくるかのようだった。しかし知識の軍勢に押しつぶされることは無かった。彼女にとって知性が剣で、教養が盾だった。その二つの武器を手に、学園の授業を斬り伏せ打ち倒し、自らの経験値へと変えて成長していった。

 

 デシージアは勉学に集中するあまり、周囲に気を配る余裕はなかった。クラスメイトと必要に応じて会話することはあっても、積極的に仲良くなろうとはしなかった。

 友人と呼べるほどの存在を持つことなく、学園入学前とさほど変わらぬ孤独さで、ただ勉学の道を邁進した。




 入学してから3年が過ぎた。16歳になったデシージアは、常に学年上位の成績をキープし続けていた。学問に熱心な彼女は教師の覚えもめでたい。教師から「この成績を保てば王宮の文官に推薦状を書こう」「魔法省の高官が君の才覚に興味を持っている」といった話をされる機会があった。

 この学園は6年制だ。その半ばでそうした話が出るのなら、自分の将来はなんとかなるかもしれない。デシージアはそんな手ごたえを感じ始めていた。

 

 縁談の話が来たのは、そんな頃のことだった。


 学園に入って以来、デシージアは帰省したことはない。実家に帰ったところで本家の屋敷に入れてもらえないだろう。世話をしてくれた使用人たちとは手紙でやりとりをしていた。たまには顔を見せに行きたかったが、下手に子爵領に戻ると父がどう動くかわからないのでやめておいた。

 そんな疎遠な状態だったので、父からの手紙が来た時には驚いた。

 その手紙にはそっけなく、縁談が決まった旨が書かれていた。

 

 縁談の相手は、男爵子息パシオラック・アープスタルトだった。

 

 もともとは商人だったアープスタルト男爵家は、様々な商売で積み上げた資産で貴族まで上り詰めた新興貴族だ。

 歴史は浅く社交界での立場は低い。だが総資産だけなら大貴族に匹敵すると言われ、経済界においては無視できない存在だった。

 アープスタルト男爵家についてはデシージアも以前から知っていた。有名な貴族だったし、もし商人として生計を立てることになれば関わる可能性が高かったからだ。

 

 父はなぜこんな縁談を持ってきたのか。

 学園で熱心に学問にはげむ娘のことを知り、これまで娘を蔑ろにしていたことを反省したのかもしれない。そして、娘の幸せを願って良縁を持ってきた――そんな甘い想像をしてしまい、デシージアは苦笑した。

 

 まさか、そんなはずはない。もし父が考えを改めたのならば、勝手に縁談を決めるはずがない。一度は面と向かって話し合い、お互いのわだかまりを無くしてから相談するというのが筋だろう。

 事前の相談もなしに勝手に縁談を決め、使いもよこさず手紙だけで告げる。そのやり方に、親子の情はまるで感じられない。

 

 ではなぜこんな縁談を決めたのか。それはすぐに想像がついた。

 金だ。

 資産に優れ、いくつもの大商人とのつながりを持つアープスタルト男爵家。その男爵家と親族になれば確実に利益がある。資金面で融資を受けることもできるだろう。子爵家の手掛ける様々な事業も進めやすくなるに違いない。

 つまり父は、金のために娘を売り渡したのだ。

 

 そのことを覚った時、デシージアは生まれて初めて怒りで目がくらんだ。

 これまでは父のことは哀れな人だと思っていた。愛する妻を失い、その原因となった娘を遠ざける気持ちもわからなくはなかった。

 しかし、いくら悲しくとも、自分の未来を切り開くために努力している娘の意志を、踏みにじっていいわけが無い。許しがたい侮辱だった。

 

 だがしかし、デシージアは自らの身の内に燃え盛る怒りを理性で抑えつけた。

 父のことは許せない。それでもこれはチャンスでもあるのだ。

 手紙によれば、この縁談はデシージアの嫁入りという形だ。結婚すればアンフェレート子爵家をようやく離れることになる。

 もともと商人として生きる道も考えていた。商売に長けたアープスタルトの男爵夫人となれば様々な事業に関わることができるだろう。無論、夫の補佐と言う形になるだろうが、それでも一介の商人ではそうそう手の届かない大規模な商売に関われるかもしれない。これまで学んできたことが、どこまで通用するか試したいという気持ちはあった。

 

 デシージアの目指しているのは、母の遺してくれた言葉通りに幸せになることだ。勝手に決められた縁談ではあるが、正しく向き合えばそう悪い話ではない。

 どの道、デシージアは貴族の娘だ。父の持ってきた縁談を、気に入らないからと跳ねのけることなどできはしない。

 ならば最大限に活用すべきだ。デシージアは怒りを鎮め、そう結論付けた。




 男爵子息パシオラック・アープスタルトとの顔合わせは、放課後、学園の食堂ですることとなった。

 貴族同士の縁談なら、家に招いて当主の立ち合いのもと初めての顔合わせするというのが正式な作法だ。今回は特別な場所を用意せず、顔合わせも婚約者の二人のみで、付き添いもいなかった。

 形式にとらわれないのは、商人の血筋のアープスタルト男爵家の流儀なのかもしれない。あるいは、父が面倒を避けたためか。

 どちらにしてもデシージアにはありがたかった。縁談の準備のために実家に戻るのは億劫に思えて仕方なかったのだ。

 

 顔合わせの日。デシージアは早めに待ち合わせの場所に来た。指定されたのは食堂の外に作られたテラス席だ。いくつもの瀟洒なテーブルが立ち並び、生徒たちが歓談している。男女一組の組み合わせが多い。会話の端々に感じられる距離の近さから、その大半は婚約者と思われた。

 

 紅茶を飲みながら、しばらく待つ。テラスは穏やかな空気に包まれており、デシージアにとってはなんだか新鮮だった。放課後は大抵図書室に籠って勉学に励むことが多く、この時間のテラスにはあまりなじみがなかった。

 しばらくそんな慣れない空気を味わっていると、そう待つことなく相手がやって来た。約束の時間までまだ間がある。相手も早めに来てくれたたらしい。


「初めまして。子爵令嬢デシージア・アンフェレートです」

「初めまして。男爵子息パシオラック・アープスタルトです」


 貴族の礼を交わし合い、席に着く。

 そして婚約者となった男爵子息パシオラック・アープスタルトをじっと見た。

 プラチナブロンドの髪に、秋の湖面を思わせる冷たい蒼の瞳。右目に着けたモノクルが理知的な輝きを放っていた。背は高くすらりとしているが、弱々しさは感じない。背筋の伸びたその姿は、身体の中に鉄の棒でも刺さっているかと思うくらいしっかりとしている。

 商人の家系と聞くと、愛想が良くて話好きな姿が思い浮かぶ。だが実際の彼は、物静かな学者のようだった。

 デシージアはこの縁談の前からこの子息のことを知っていた。学園の試験ではいつも順位が近く、数学や経済学では負けることが多かった。密かにライバルの一人として意識していた。そんな相手と婚約を結ぶことになるなんて、なんだか奇妙な気分だった。

 

「突然の縁談で驚いていることと思う。アンフェレート子爵から話を持ち掛けられ、父は機を逃すまいとすぐさま縁談の話を取り付けたのだ。急な話で申し訳ない。だが、心配しないでほしい。君に特別なことは要求しない。当面は婚約者の義務として、週一回、放課後にこうしてお茶の時間を共にしてくれないだろうか。それ以上のことは望まない」


 そう言うと、パシオラックは給仕に紅茶を頼んだ。

 紅茶が来ると、その香りを味わいながら、実に優雅な仕草で紅茶を楽しんだ。

 そして、何も話そうとしなかった。デシージアも言葉を返すタイミングを逸して、残った紅茶を飲み干すと、給仕にお代わりを頼んだ。

 次の紅茶が来ても会話はない。どうやらパシオラックは先ほどの言葉の通り、本当にお茶の時間を共に過ごすだけのつもりらしい。

 

 デシージアは戸惑った。今日の顔合わせのために予習してきた。街で評判の演劇や流行の服や香水、男性に人気の騎士の情報などを可能な限り調べてある。彼女はそうしたことにはあまり興味がなかったが、知識を頭に詰め込むことが好きだったのだ。

 でもどうやらそれは、徒労に終わってしまったようだ。


 先ほどの言葉を思い返す。こちらを気づかっているようでいて、近づけさせたくないような雰囲気が感じられた。好かれているとは思えない。でも、嫌っているふうでもない。本当に義務的に同じ時間を過ごすつもりのようだった。

 

 デシージアにとっては勝手に決められた縁談だ。貴族同士の婚姻とは家同士の契約であり、恋愛小説のように深く愛し合う必要もない。会話のない冷たい関係というのも、貴族の縁談において珍しい話ではない。

 

 しかし、会話もなくただ紅茶を味わう婚約者というのは、周りから少し浮いている。普段はそういうことを気にしないデシージアであったが、さすがにこれはよろしくないと思った。いかに愛のない結婚でも、会ったその日から会話が無いというのは異常に思えた。

 彼女の目指すのは幸せになることだ。このまま結婚して、ろくに会話することもない夫婦となったとして、果たして母が願ってくれたような幸せを手に入れられるのだろうか。

 

 そう考えても、人づきあいの経験が少ないデシージアはどう話を切り出せばいいかわからなかった。

 パシオラックの顔を見ても、何を考えているのかわからない。整った顔はなんの表情も見せない。まるでよくできた人形のようだ。そんなことから、先日の魔法工学の授業で知った魔導人形を思い出した。

 

「先日の授業では魔導人形に使われるボールジョイント式関節について知りました。わたしとしては、前の授業で聞いたラチェット式関節の方が優れているように思います。パシオラック様はどう思われますか?」


 気がつくとそんな言葉が口から滑り出ていた。魔法工学に関するちょっと専門的な質問だ。婚約者同士のやりとりで出すような話題ではなかった。あわてて他の話題に切り替えようと思考を巡らせる。しかし何かを思いつくより早く、パシオラックの淡々とした声が響いた。


「どちらが優れているかは用途次第だと言える。確かにラチェット式関節の方が耐久性に勝るが、ボールジョイント式の方が柔軟性に優れている。例えば家庭内の人間の仕事をさせるのなら柔軟なボールジョイント式の方が向いているだろう」


 簡潔かつ明瞭に答えを返してくれた。その理路整然とした様に、デシージアは知的好奇心を刺激され、更に質問を重ねてみることにした。

 

「でも、ボールジョイント式では摩耗が避けられず、定期的な部品交換を要することになります。パシオラック様のおっしゃるように、魔導人形が家庭内の仕事を代わりにやるようになって世間に普及すれば、メンテナンスの手が足りなくなるのではありませんか?」

「魔導人形がそこまで普及するのであれば、専門の職人が必要になるだろう。だがそれは新たな雇用ができるということだ。商人の家系である私としては、それを欠点とは見ない。むしろ商機と捉える」


 相変わらずパシオラックは表情を変えない。感情を見せないまま、淡々とデシージアの質問に答えてくれた。

 デシージアは、なんだか楽しくなってきた。学園に入学前はひたすら独学に励んでいた。使用人たちはよくしてくれたが、さすがに学問について語り合うことはできなかった。

 入学してからも、自分から友達を作ろうとせず、ひたすら勉学に励んできた。学問について語り合うと言えば、教師に質問することと、たまに同級生から質問を受けるぐらいだった。

 自分と同世代で、同じくらいの学力の子息と、学問について深く語り合う。それは彼女にとって新鮮で、刺激的で、とても楽しいことだった。

 

 パシオラックには特に嫌がる様子も見えない。だからデシージアはその流れのまま、最近の授業や興味のある魔法研究などについて、パシオラックと語り合った。




「……そろそろ時間だ」


 懐から取り出した時計を見ながら、パシオラックがそう告げた。

 いつの間にか日は暮れかけていた。デシージアはこのとき初めて、時間を忘れるほどにパシオラックとの会話に没頭していたことに気づいた。

 

「今日は楽しかったです。これからよろしくお願いします!」


 心からの笑顔でデシージアは言った。


「こちらこそ、よろしく頼む」

 

 パシオラックは相変わらず顔に何の感情も見せず、そう答えた。




 そうして、デシージアとパシオラックの婚約関係が始まった。

 普段は姿を見かけても声をかけることすらしない。週に一度、食堂のテラスでお茶の時間を過ごす。それだけが二人の付き合いだった。

 

 パシオラックから話を振ることはなく、デシージアから質問することが大半だった。彼女はまず授業の内容について話を切り出す。そこから男爵家の事業への質問につなげるのが定番となった。彼女は将来関わるであろう男爵家の事業関連に興味津々だったのだ。

 

 パシオラックはいつも淡々としていた。問えば答えてくれる。こちらが話題に興味を持てば詳しく話してくれる。だがその口ぶりに感情は見えない。会話を楽しんでいるのかわからない。少なくとも、嫌がるそぶりを見せたことは無かった。

 

 普通の婚約者なら、週末に買い物に行ったり、観劇に行くということもあるだろう。だがデシージアとパシオラックは、話がいくらはずんでも、お茶の時間以外に会おうという話は出なかった。

 周囲からみれば形だけの婚約者、情熱を感じない冷めた関係に見えたことだろう。

 だが二人で過ごす時間は、少なくともデシージアにとっては居心地のいいものだった。

 

 子爵家では父も兄も姉も、会話どころか目を合わせる機会すらほとんどなかった。母の愛は受け取った。使用人たちも良くしてくれた。そんな歪な環境で育ったデシージアには、パシオラックと結婚して家族になるということがどういうことなのか、うまく想像できなかった。

 でも、不安に思うことはほとんどなかった。パシオラックとこんな風に過ごせるのなら、やっていけるかもしれない……漠然と、そんな風に考えていた。

 

 静かで、穏やかで、少しだけ温かな婚約関係。

 しかしそれも長くは続かなかった。

 

 


 パシオラックと婚約してから一年を迎えようとした頃。

 ある日突然、何の前触れもなく、デシージアを病魔が襲った。

 奇妙な病だった。夜になると高熱を発し、胸が苦しくなる。それに加えて、身体の全てが朽ちていくような悪寒が彼女を苛んだ。

 その症状は一晩中続く。眠ることなどできなかった。彼女に許されたのは、もがき苦しむことだけだった。

 それなのに、朝になると途端に症状は止む。だが一睡もできず疲労困憊の状態とあっては、日中はまともに起きていることもできない。授業に出るなどとてもできなかった。

 デシージアは夜に苦しみ、日中わずかな時間を食事や身を清めることに当て、後は眠りにつくという生活を強いられた。

 

 学園の魔法医に診てもらったが、原因はまるで分からなかった。身体のどこにも異常が見られない。それなのに夜になると必ず症状が出るのだ。一般的な回復魔法も効果はなく、薬もまるで効き目がなかった。

 そんな状況だったので、日中のデシージアは起きていても朦朧としていた。よく覚えていないが、何度かパシオラックが見舞いに来てくれたような気がする。どんな受け答えをしたかもよく覚えていない。いつものようにこちらが状況を伝えると、淡々と受け答えしてくれていたような……そんな朧な記憶だけがあった。

 相変わらず彼の表情は変わらなくて、何を考えているのかよくわからない。でもわざわざ足を運んでくれているのだから、心配してくれているのだけは確かなようだった。


 日を重ねても回復の兆候は見られなかった。

 そして、デシージアは実家に戻ることとなった。

 

 状況を重く見た学園の配慮だったが、それはデシージアにとって救いとはならなかった。

 久しぶりに戻った我が家。デシージアは離れのベッドに寝かされた。学園に入る前と変わらず、子爵家には彼女の居場所などなかったのだ。

 父は体面を保つためだけに学園から娘を引き取ったのだ。「重病を患った娘を見捨てなかった」という建前が欲しいだけなのだ。

 ここで最低限の治療は受けられるだろう。だがそれでは、この原因不明の病が治る見込みはない。


 離れのベッドに入った時。デシージアは、ここで死ぬに違いないと思った。


 諦めたくはなかった。母の遺してくれた幸せに生きてほしいという願いを裏切りたくはなかった。

 だが毎晩繰り返される苦しみは、彼女の体力と精神を確実に削っていった。遠からず自分の命が尽きることはわかっていた。

 そして離れに押し込められたことが、デシージアにとってとどめとなった。

 頑張ってきた。あがいてきた。でも結局子爵家から出ることはできず、魂はこのみすぼらしい離れに縛られたままだったのだ。

 

 夜は苦しみに身体を苛まれ、昼は絶望に心を苛まれる。そんな日が何日か続いたとき。

 ノックの音が聞こえた。デシージアが返事をするより早くドアが開いた。

 男爵子息パシオラックだった。

 わざわざ来ると思っていなかった。事前に聞いてもいなかった。

 驚きはした。返事も待たずドアを開けるのは不作法だとも思った。でも、何よりも心を占めたのは、来るべき時が来てしまったのだという諦観だった。

 

 みすぼらしい離れの中にある粗末な部屋。そのベッドに横たえられた重病の令嬢。

 彼は一目で状況を察したようだった。

 

「これでは話が違う。残念だが、君との婚約を破棄させてもらいたいと思う」


 デシージアはその言葉を冷静に受け止めていた。

 アープスタルト男爵家は上位貴族とのつながりが欲しかったはずだ。だがこんな離れに住まわされ、家族から見向きもされない令嬢を目の当たりにしては、そんな目論見も泡と消えたことだろう。

 

 ましてデシージアは、治る見込みのない重病に侵されている。早めに縁を切るのが賢い者の選択だ。

 普通なら情に訴えるべき場面なのかもしれない。だがパシオラックと過ごした時間にしたことと言えば、学問の話ばかりだ。男女の関係を築く努力をしなかった。今になって泣きついたところで何が変わるというのだろう。

 

 全てはあたりまえのこと。頭ではそれをわかっている。しかし、デシージアの心はそれを受けとめきれなかった。

 諦めていたはずだ。望みなんてなかったはずだ。

 それでも、悲しかった。

 週に一度のお茶の時間。静かで、穏やかで、温かな時間。もう二度とあんな時間はやってこない。そう思うと身が震えた。鼻の奥がツンとして涙が出てきそうになったが、こらえた。ここで泣いてしまっては、本当にすべてに屈してしまったことになるように思えたからだ。

 そんなことを考えていたから、続くパシオラックの言葉をすぐには理解できなかった。


「だが病床の令嬢を婚約破棄したとあっては、我が男爵家の名に傷がつく。君にはまず健康になってもらい、その上で婚約破棄させてもらう」


 この人はいったい何を言っているのだろう。思わず訝し気な目で向けてしまう。

 パシオラックはいつもと変わらず、表情を見せない。だが彼と長く過ごしたデシージアには、なんとなく彼が怒っているように思えた。

 

「こんなところではまともな治療もできない。君には我が男爵領の診療施設に来てもらう。これからアンフェレート子爵殿に話を取り付けよう。移送の手配も速やかに始めなければならない。来たばかりで申し訳ないが、これで失礼する」


 そう言って、パシオラックは部屋を立ち去った。

 デシージアは今起きたことがいまいちよく分からなかった。ただでさえ、昼間は朦朧としていることが多い。夢でも見ていたに違いないと、寝直すことにした。




 次の日。デシージアは馬車に揺られていた。王侯貴族でも使いそうな立派な馬車だ。その中には立派な寝台まで設えられていた。

 デシージアはその寝台に寝かされていた。馬車の中だというのに、離れの粗末なベッドと比べ物にならないふかふかとした柔らかなベッドだった。

 中にいるのは看護役の使用人のみ。ブラウンの髪の上品な女性だ。確か名前をナールセアと言った。目を向けるとおだやかな笑みを返してくれた。

 パシオラックはいない。もう一台の馬車に乗っていると聞いた。

 馬車の揺れは驚くほど小さい。よほど高級な作りなのだろう。振動緩和の魔法も使われているのかもしれない。学園の授業で一部の高級馬車にそうした技術が使われていると聞いたことがある。

 

 馬車に乗る時にパシオラックから受けた説明を頭の中で反芻する。行く先は男爵領の診療施設らしい。

 パシオラックは本当にデシージアのことを治療するつもりらしい。こうして、馬車の振動を全身で感じているのに、まるで実感が湧かなかった。

 

 確かにパシオラックは現時点では婚約者だ。しかし、これまでの付き合いは学問の事を語り合うばかりで、男女の距離はまるで縮まっていない。おまけにデシージアは治る見込みのない重病を患っている。そしてパシオラックは婚約破棄をするつもりだと言ったはずだ。

 これまでの経緯とこの現状がうまくつながらない。

 夜は苦しみ、昼はまどろむ。起きていてもまともに物を考えるのが難しい。きっとこれも夢に違いない。霞がかかったような意識の中、デシージアはそれ以上考えるのをやめた。




「……ここは?」


 気がつくと見知らぬ部屋にいた。

 白いベッド。柔らかな感触の枕。清潔なシーツからはお日様の匂いがした。

 清潔感のある部屋だった。広々とした部屋の中には棚やテーブル、ソファなどもある。美しい陶磁器の花瓶には、瑞々しい季節の花が飾られていた。

 部屋を見回していると、ベッドの脇に座っていた女性が目が合った。馬車でもずっと世話をしてくれた、使用人のナールセアだ。

 

「デシージア様、お目覚めですか? 私の言葉わかりますか?」

「ええ、わかります」

「指は何本に見えますか?」

「三本に見えます」


 かざした指の本数を正確に答えると、ナールセアは安堵の息を吐いた。


「どうやら大丈夫なようですね。すぐにパシオラック様をお呼びします」


 ナールセアは部屋を出ていった。

 しばらくぼんやり部屋を見回す。広々とした部屋だった。クリーム色の壁に囲まれた部屋。窓からは陽の光が穏やかに差し込んでいた。

 部屋にはデシージアの横たわるベッドのほかに、テーブルとソファ、棚などがある。部屋の隅には小さなキッチンもあった。どの調度品もしっかりした造りで、落ち着いた雰囲気があった。デシージアも貴族令嬢であり、学園の高級な内装に普段から見慣れている。その目で見ても、この部屋を形作る物の数々は、数段上の高級品に思えた。

 一体ここはどこなのだろう。そんなことを考えているうちに使用人のナールセアに連れられて、パシオラックがやって来た。

 

「意識を取り戻して何よりだ。馬車での移動が長かったから、疲れが出たのだろう」

 

 パシオラックは相変わらず淡々としていた。いつもと変わらない彼を見ていると、なんだか現実感が湧いてきた。意識もはっきりしている。どうやら夢を見ているわけではないらしい。

 そうすると、確かめなければならないことがあった。


「ここは……?」

「我がアープスタルト男爵領の診療施設『癒しの手引き』だ」

「だ、男爵領!? 馬車で一週間はかかるはずですよ!?」

「ああ、一週間かかった。日中、君は意識がもうろうとしていたからな。時間感覚が狂うのも無理はない」


 言われる通り、ここ数日はずっと朦朧としていて時間感覚が定かではない。

 ふかふかのベッド。馬車のおだやかな振動。ナールセアに食べさせてもらった温かいシチュー。体調はどうかと声をかけてきた無表情なパシオラック。

 いくつかの断片的な記憶はあるが、それらを積み重ねてもどれだけ時間が経過したかわからなかった。

 だが、パシオラックが嘘を吐く理由もない。彼は言葉通り男爵領まで連れてきてくれたのだろう。

 まさか本当にそこまでしてくれるとは思わなかった。デシージアは感嘆の息を吐いた。

 

「それにしてもすごく高級そうな病室ですね……」

「ああ。この病室は『癒しの手引き』でも最高級の病室だ。王族の入院も想定して調度品も一級品をそろえてある。この診療施設に出資した我が男爵家が特にこだわった一室だ」

「ちょ、ちょっと待ってください! こんな病室……わたしには入院費を払えませんよ!?」


 デシージアは貴族としては金銭感覚はちゃんとしている。子爵邸の離れにいたころは外に出ることもできず、食事も最低限のものだった。使用人たちが身銭を削って食べ物を買ってきてくれた。どれだけお金がかかったかは彼女たちから聞き出して記録してある。将来、自分で稼げるようになってから恩返しするつもりだった。

 学園に入ってからは衣食住こそ学園に保証されたが、家からの仕送りは本当に最低限だった。少しでも勉学の足しにするためにおしゃれも遊びも諦めた。

 

 そんな世知辛い暮らしをしてきたデシージアだったから、ここまで高級な病室の入院費用となるとまるで見当がつかなかった。

 体面を気にする父だから、普通の病室の入院費用程度なら工面してくれるだろう。だがそれ以上は望めない。なにしろ、重病と知りながら離れに押し込めるような人なのだ。


「入院費用については気にする必要はない。こちらが負担する」

「でも、いくら婚約者だからってなにもせずにそんな大金を支払ってもらうなんて……」

「心配ない。君からは十分な対価を受け取ることになる」

「対価を受け取ることになる……? わたしは一体どんな対価を支払えばいいのですか?」


 どうにも不穏な話の成り行きだった。眉を顰めるデシージアに対し、パシオラックは常と変わらぬ様子できっぱりと告げた。

 

「名声だ」


 簡潔だったが意味がわからない回答だった。パシオラックはいつも質問にきちんと答えてくれる。でも無表情で、何を考えているのかわからない。学問について話すときはそれでも問題ないのだが、今のこのおかしな状況では事態を余計わかりづらくしている。


「そうだな、順を追って話そう」


 デシージアの不審の表情を見て、パシオラックは一から説明することに決めたようだ。ベッド近くの椅子に腰を下ろすと、ゆっくりと語り始めた。


「君も知っていることかと思うが、我がアープスタルト男爵家は商人から成り上がって爵位を得た家だ。その資産は大貴族並と言われているが、血筋と歴史が重視される貴族社会でそれだけではやっていけない。むしろ爵位に見合わぬ大金を持っていることで目の敵にされる。金だけの貴族と陰口を叩かれることも少なくない。これでは貴族としての栄達はおぼつかない。

 だから我がアープスタルト男爵家は方針を変えた。がめつく金を稼ぐのではなく、名声を得て貴族としての地位を確かなものとすることにしたのだ。わたしは幼い頃からそのための教育を受けた。笑顔の裏に金儲けの算段を巡らせる商人ではなく、裏表のない誠実な貴族としてふるまうよう幼い頃から厳しくしつけられた」

「そうだったんですか……」


 デシージアは奇妙な納得感を得ていた。

 パシオラックには商人のような愛想の良さがない。理知的で問われたことにはきちんと答える。それは確かに誠実な姿と言えるのかもしれない。彼がこういう人となりである理由は分かった。意図的に入念に作り上げられたものだったのだ。

 

「この『癒しの手引き』も、そうした計画のひとつだ。この診療施設は我が男爵家の出資によって作られた。充実した医療設備に高度なスタッフを可能な限り揃えた。儲けは少ないが、病気やけがに苦しむ領民を救えば、男爵家の名声を高めることになるだろう。

 君を入院させたのもその一環だ。難病に苦しむ子爵令嬢を無償で受け入れ治療する……その物語は男爵家の名を高めることだろう。それは金銭に代えがたい価値がある」

「なるほど……それが対価というわけですか」

「そういうことだ」


 パシオラックは席から立ち上がった。

 

「だから入院費用について心配することはない。君は病を治すことだけを考えるんだ」


 それで言うべきことは言い終えたのか、パシオラックは病室から出ていった。

 男爵家が名声を得るために、難病に苦しむデシージアを入院させたという事情はわかった。

 それでも疑問は残る。それだけのためにここまでするのだろうか。あんなに立派な馬車を仕立て、最高級の病室まで提供するものだろうか。それも名声をだけを対価に無償だなんて、常識的にはあり得ない。

 まだ何かあるのかもしれない。疑問は尽きなかったが、窓から差す陽も下がってきた。夜になればまたもがき苦しむことになる。デシージアがまず考えるべきことは、今夜の発症に耐えることだった。




 入院してから一か月が過ぎた。デシージアの病状はわずかだが回復していた。

 デシージアはこれまで、夜になると病の発症によって体力と精神を削られるばかりだった。だが、手厚い看護、消化に良くて栄養に富んだ食事、それに定期的に回復魔法をかけてもらうことによって、体力を持ち直しつつあった。

 入院前は日中は眠るばかりで、わずかに起きている時間も朦朧としていることが多かった。だが今は、起きている時は頭がはっきりしてまともに物を考えることができるようになった。それだけでもこの『癒しの手引き』という診療施設の優秀さが分かった。職員はみな優秀で、治療も実に的確だ。


 しかし、それでもなお、病の原因はわからなかった。

 

 学園の魔法医の診断結果と同じく、デシージアの身体には何の異常は見つからなかった。夜の苦しみによって疲労困憊になっていることを除けば、デシージアは健康体と言えた。それなのに夜になると症状が出る。もがき苦しむことになる。

 診療施設のスタッフも、その異常性から病ではなく呪いであることを考えた。何度か呪いに詳しい魔導士を招いて調べてもらったが、そうした痕跡は見つけられなかった。


 夜になると症状は確実に現れる。発熱、胸の苦しみ、そして身体の全てが朽ちていくような悪寒。それらは魔法でも薬でも緩和できなかった。

 これほどの診療施設でも回復が見えない。その事実は、上向きかけたデシージアの心を徐々に蝕んでいった。死ぬのを先延ばしにしただけ。苦しみが長引くだけ。それならいっそ……そんな暗いことを考え始めた時。しばらく姿を見せていなかったパシオラックがやってきた。

 

「君の病状について報告は受けている。まだ回復のめどはたっていないとのことだな」

「ええ……これは治らない病気なのかもしれません……」


 パシオラックは今までと変わらず、感情を見せない理知的な態度だった。

 いったい胸の内では何考えているのだろう。デシージアが死んでも構わないのかもしれない。難病に苦しむ令嬢の死に際まで看取る。あるいはそれで、男爵家は十分な名声を得ることができるのかもしれない。

 気落ちしたデシージアは、そんな薄暗い想像をしていた。

 

「学園の魔法医でも原因を突き止められなかったことから、その可能性も考慮していた。だから教会に相談して、ようやく約束をとりつけてきた」

「え、教会?」

「しばらく待っていてくれ。お連れしてくる」


 そう言ってパシオラックは部屋を出て行ってしまった。いつもは理知的に過不足なく受け答えしてくれる彼が、今日に限っては要領を得ない。どこか緊張しているように思えた。いったい誰を呼び寄せたのだろう。

 教会の癒しの奇跡は一般的な回復魔法とは異なる。治療の過程で、教会の司祭に癒しの奇跡を試してもらったこともある。だが結局、病の原因を取り除くことなどできなかった。

 今さら教会から誰かを連れてきても変わらないように思えた。


 そして、扉が開いた。

 その瞬間、目を奪われた。

 長く真っ直ぐな白銀の髪。凛と輝く瞳は琥珀色。まとう装束は穢れ無き白の神官服。手にした銀色の錫杖が、しゃらりと澄んだ音を響かせた。

 

「せ、聖女ライティレア様っ!?」


 デシージアは驚きのあまりその名を叫んだ。

 

「はい、ライティレアです」


 聖女ライティレアはお日様のように明るい笑顔を見せた。


 国によって聖女の定義は異なるが、この王国において聖女と呼ばれる乙女はただ一人だ。

 聖女ライティレア。王国の長い歴史においても最高と評されるほど、凄まじい浄化の力を持つと言われている。数年前、ヴァンパイアロードに率いられた幾万もの亡者の群れを、ただ一度の祈りで浄化した逸話はあまりにも有名だ。

 貴族でもめったに接する機会のある人物ではない。彼女と話せるのは教会の上層部か王族くらいのものだ。デシージアにしても、王国の式典で遠目に姿を見たことがあるだけである。

 だが、間違いない。ただそばにいるだけで何もかもが浄化されるような神聖な空気は、聖女以外にありえない。

 聖女が動くのは国家の存亡に関わる重大事だけと言われている。如何に高級とはいえ、男爵領の診療施設に来るような人物ではないはずだった。


「では診察を始めます。集中したいので、他の方たちは部屋の外で待っていてください」


 部屋の外にはパシオラック以外にも何人もの神官がいた。ドアが締められると、国家の最高位の重要人物と二人っきりになってしまった。デシージアは緊張のあまり子ウサギのように震えた。

 聖女ライティレアはちょこんとベッドわきの椅子に座ると、気さくな笑みを浮かべた。

 

「あ、緊張しないでください、デシージアさん。わたしのことは気安くライティとでも呼んでください」

「お、お戯れを……!」

「わたしなんて女神様から力を授かっただけの普通の娘なんですよ。本当はこういう診療所でバンバン人を癒したいんですけど……あんまり力を使いすぎると世界のバランスが崩れてしまうので、教会から禁止されてるんですよね」


 そう言って、あっはっはと笑う。その言葉も仕草も町娘のようだったが、その内容は笑い事ではなかった。世界のバランスに影響するほど強力な聖女ってなんなんだろう。デシージアはどう答えていいかわからなかった。

 それでも、緊張は解けた。あまりに途方もない話と、彼女の気さくな態度のギャップに、緊張するのがなんだか馬鹿らしくなってしまったのだ。

 そうなると、どうしても聞きたいことがあった。


「あの……聖女様はどうしてここに来て下さったのですか?」

「表向きはパシオラックさんの男爵家からの寄進に応えてってことですけど……実は神託があったんです。全ては女神様のお導き。わたしはそれに従うだけです」


 そして、聖女は診察を始めた。

 まず癒しの奇跡をかけてもらった。デシージアはこれまで何度も回復魔法をかけてもらったし、教会の司祭から癒しの奇跡を受けたこともある。


 聖女の癒しの奇跡はそれらとはまるで違った。

 

 身体よりも先に心が癒された。毎晩の苦しみに耐えかね自殺すら考え始めていたデシージアだったが、久しぶりに心の底から休まる感覚を覚えた。次に身体が温まった。頭の先から足の指さきに至るまで、まるでぬるめのお湯に長い時間浸かったかのように温かくなった。聖女の使う癒しの奇跡は、何もかも癒すのだと初めて知った。

 

 そして診察に移った。言われるとままに上着をはだけて横たわると、みぞおちのあたりに聖女の手があてられた。聖女は目を閉じ、ぶつぶつと聖句を唱えている。

 5分ほどそうした後。聖女は目を見開いた。その目はどこか暗いものがあった。

 

「はい、おしまいです。すぐに結果を教えてあげたい所ですが、聖女の決まりで神官の立会いの下に伝えなくてはいけないんです。皆さんを部屋に迎えるので、上着を着てください」


 身支度を整えると、聖女は病室のドアを開いた。そしてパシオラックや神官たちが招き入れられると、聖女は錫杖を手に語り始めた。

 

「それではデシージア嬢の診察結果をお知らせします」


 目を伏せ、錫杖を手にした聖女は、厳かで神聖だった。先ほどの気さくな態度とはかけ離れた姿。おそらくはこれが公的な聖女としての顔なのだろう。

 その吐息すら神聖に感じられる。神の言葉を伝えるように、聖女は診察結果を語った。


「デシージア嬢を苛む病。これは病ではなく、異教の神の『タタリ』です」


 耳慣れない言葉にデシージアは目をしばたたかせた。

 その疑問を癒すかのように、聖女は穏やかに言葉を紡いだ。


「『タタリ』とは、異教の神の約定を犯した者に下される罰のことです。デシージア嬢は何らかの理由でこの禁を犯したのです。この『タタリ』を聖女の力で強引に取り除けば、異教の神の怒りを買い、大きな災いがもたらされることになるでしょう。残念ながら、わたしには癒すことができません」


 聖女ライティレアはデシージアの方を見た。聖女は見るだけで心休まるような温かな微笑みを浮かべていた。


「ですが、諦めてはなりません。『タタリ』の原因を探しなさい。生きるために努力する者を、女神様は決して見捨てはしません。あなたが諦めない限り、必ず救いはもたらされることでしょう」


 そう告げると、聖女は神官たちを引き連れて病室を後にした。




「まさか病気の原因が、異教の神による『タタリ』だなんて想像もしませんでした……」


 聖女の見送りを終えた後。パシオラックと病室で二人きりとなったデシージアは、そんな感想を漏らした。

 身体には異常が無いのに夜になると熱を発して苦しむ。病気ではなく呪いに近い状態だった。実際、呪いである可能性も考え、専門の魔導士から検査を受けたこともあった。しかし『タタリ』ともなると分野が違ってわからなかったらしい。

 

 王国が主教としているのは世界を創造したとされる女神様だ。しかし世界には他にも神と呼ばれ信仰を集める存在がいる。王国内でも一部地域では『土地神』と呼ばれる神を信仰している人々がいるということを、デシージアは学園の授業で学んでいた。

 ベッドそばの椅子に腰かけたパシオラックが、いつも通りの冷静な様子で語りかけてくる。


「病の理由がわかってなによりだ。次は原因を特定しなければならない。異教の神の不興を買った心当たりはあるだろうか?」

「それが……心当たりがないのです。学園に入学する前は屋敷の離れからろくに外出できませんでしたし、学園に入学してからは勉強に没頭していました。異教の神の禁を犯すような大それたことなんて、思い当たりません」


 デシージアはあれこれ考えてみるが、どうにも思い当たることがない。

 禁を犯すというのは、噛み砕いて言えば「悪いことをした」ということだ。これまでデシージアがやって来た悪事と言えば、せいぜい屋敷の書庫から何度も書物を無断で借りてきたことぐらいである。異教の神が子爵家の書庫に棲みついてた、なんてことがあれば『タタリ』を受けることもあるかもしれないが、さすがにそれはあり得ないだろう。

 念のために本を無断で借りたこともパシオラックに伝えた。彼もやはり、それが原因とは思えないという見解だった。

 そうするとデシージアには思い当たることがなかった。

 だが、パシオラックは他の可能性に思い至ったようだった。

 

「……なるほど。それなら探るべきはアンフェレート子爵領だな」

「子爵領……つまり、この『タタリ』はわたし個人が受けたものではなく、子爵家が受けたものということですか?」

「君自身に心当たりがなければそれしか考えられない。子爵領で何かがあったのだ。子爵家に降りかかった『タタリ』が、君に影響を及ぼしたということなのだろう」


 確かにパシオラックの推察は正しい。それ以外に考えられない。

 だがデシージアとしては受け入れがたいものを感じていた。

 家族から疎まれていた。親兄弟の情などなく、男爵家に売り渡されるように婚約を結ばれてしまった。家族との絆は薄いのに、家に降りかかった『タタリ』が自分だけに回ってきて、こんなにも苦しめられている。あまりに理不尽なことばかりだ。

 そんな考えに囚われていると、パシオラックから声をかけられた。


「聖女様は『生きるために努力するものを、わたしたちの女神は決して見捨てはしません』とおっしゃられていた。余計なことは考えず、君は『タタリ』に耐えるため、体力を維持することに専念するんだ。子爵領の調査は私に任せてほしい」


 デシージアはいつの間にか俯きかけていた顔を上げた。そこにはいつもと変わらぬパシオラックの顔があった。いつもと変わらない無表情。理知的な瞳にモノクル。でもなぜだか、その顔に温かみを覚えた。

 この人に、こんな風に励ましてもらえるとは思わなかった。

 パシオラックは立ち上がった。

 

「早速、子爵領について調べてくる。一年以内に始めた事業、それも土地がらみのものが怪しい。私は商人の家系だ。金の動きについて調べるのに慣れている。すぐに原因を突き止めて見せよう」


 そう言ってパシオラックは病室から出ていった。

 

 パシオラックは原因をすぐに突き止めると言ってくれた。デシージアはその言葉を信じて病の苦しみに立ち向かった。

 だが彼は、すぐには戻ってこなかった。三か月もの間、便りひとつ送ってくることすらなかった。




 聖女から診察を受けてから、三か月が過ぎた。

 デシージアはすっかり回復していた。一月ほど前から、あれほど苦しめられていた病の症状は無くなっていた。今では安らかな夜を過ごすことができている。

 おそらくパシオラックが原因を突き止め、何らかの対策を打ってくれたのだろう。だが、彼が『癒しの手引き』に来ることはなかった。手紙の一つも届かなかった。

 

 パシオラックの身に何かあったのかもしれない。しかし彼の身を案じても、入院中のデシージアにできることはなかった。彼に言われた通り、デシージアはとにかく体力の回復に努めた。

 そしてそろそろ退院の日取りも決まろうとしてた時、ようやくパシオラックは姿を現した。

 

「パシオラック様! ど、どうしたんですか!?」


 病室に入ってきたパシオラックを見て、デシージアは驚きの声を上げた。

 彼は左腕を三角巾で吊っていたのだ。どうやら骨折でもしているらしい。


「ドラゴンゾンビの討伐の際、不覚を取ってしまった」

「ド、ドラゴンゾンビ!?」


 パシオラックはいつもと変わらず淡々と答えた。まったく予想もしなかった魔物の名が出てきて、デシージアは目を丸くした。


「順を追って説明する。少々長い話になるから、座ってくれ」


 そう促されデシージアはベッドに腰かけた。これまではベッドに入って上半身だけを起こすぐらいだったが、回復した今では起きていても辛くない。

 パシオラックはこれまで通りにベッド脇の椅子に腰かけた。目線の高さが合う。今まででより距離が縮まったように思えた。寝間着姿で異性と対峙することに、デシージアは今さら落ち着かないものを感じた。

 パシオラックはいつもと変わらず、淡々と語り始めた。

 

「まず『タタリ』の原因だが……これは実はすぐに分かった。子爵領で約一年前から、ある鉱山の開発が始められていたのだ」

「鉱山を開発したことが原因……つまり、その山が異教の神の聖地かなにかだったのですか?」

「いや、もう少し直接的なものだった。その山の洞窟のひとつに神殿があった。それが開発の過程で生じた崩落によって半壊したそうだ」


 聖女は「『タタリ』とは、異教の神の約定を犯した者に下される罰のこと」と言っていた。

 自分を祀った神殿を破壊されたら、異教の神の怒りを買うのも当然だろう。


「本来、こうした遺跡を発見した際には王国に報告する義務がある。だが、その神殿はとても古いもので、その作りも現代の様式とはまるで異なっていた。当時現場を仕切っていた人間は、ただの古ぼけた遺跡の残骸と思い、さほど気にせず報告しなかったようだ」

「随分詳しく調べてくださったのですね。まるで見てきたかのようです」

「ああ、実際に見てきた。その鉱山は我が男爵家が買い取ったからな。買った品の検分は商人の義務だ」

「えっ、買い取った?」

「調査のためにいちいちアンフェレート子爵に許可を取るのも面倒だった。いち早く原因を突き止めなければならなかったからなおさらだ。神殿についての報告不備を盾にアンフェレート子爵殿と交渉したら、格安で買い取ることができた。実にいい買い物だった」


 何でもないことのようにパシオラックは語るが、デシージアとしては驚くばかりだ。即断即決の行動力に、利益を逃さない強かさ。アープスタルト男爵家の商人としての側面を改めて知った思いだった。

 だが、そうした話の中で引っかかるものがあった。

 

「そんなに早く分かったのなら、どうして知らせてくださらなかったのですか? 心配したんですよ」


 パシオラックは「すぐに分かった」と言っていた。鉱山の購入などの諸手続きで忙しかったにしても、手紙の一通をよこすくらいはできたはずだ。三か月も知らせが無いというのはおかしなことに思えたのだ。

 

「『タタリ』の原因は特定できたが、神殿の由来を調べるうちに調査は暗礁に乗り上げた。神殿は邪龍を祀っていたようだった。だが伝承によれば、その邪龍は勇者によって遠い昔に滅ぼされていたんだ」

「えっ、神様なのに滅ぼされたんですか?」

「私も宗教についてはそこまで詳しくないが、異教の神が人の手で滅ぼされるという伝説はそう珍しいものではないようだ。その邪龍も相当な力を有していたようだが、勇者はそれ以上に強かったということだろう」


 伝説に語られる勇者という存在は、世界を滅ぼそうとする魔王すら打ち滅ぼす人類の救世主にして最強の存在だ。神と崇められた邪龍であろうと、その力には及ばなかったらしい。なんとも途方もない話だった。

 

「滅んだはずの邪龍から『タタリ』を受ける……なるほど、確かにそんなことを知らされたら、さぞや恐ろしかったでしょうね……」


 デシージアはその身をぶるりと震わせた。半年以上の間、デシージアを苦しめた『タタリ』は、今も彼女の心に恐怖として刻まれていた。

 

「君の入院生活に支障をきたすと思い、あえて報告はやめておいた。それで君を不安にさせてしまったのなら申し訳ない」

「そんな、謝らないでください。わたしの方こそ、事情もわからずに文句を言ってしまって、すみませんでした」


 頭を下げるパシオラックに、デシージアも頭を下げた。

 デシージアが顔を上げると、ちょうどパシオラックも顔を上げるところだった。タイミングよく目があってしまい、デシージアはなんだか恥ずかしくなってしまい頬を赤らめた。


「それで……そのあとはどうなったんでしょうか?」

「冒険者ギルドに協力を仰ぎ、情報を集めた。すると邪龍を信仰する者は根強く残っており、王国各地にいくつかの邪教集団を形成していることが分かった。そしてそのうちの一つが……ドラゴンの死体と邪龍の骨を使い、ドラゴンゾンビを作り出したことが分かった」

「ドラゴンの死体と邪龍の骨……! なんて恐ろしいことを……!」

「まったく狂気の沙汰だ。彼らとしては邪龍を復活させるつもりだったらしい。だがなにより恐ろしいのは、その試みが一部だけ成功していたということだ」

「一部だけ成功? それって……邪龍が復活したということですか!?」

「ドラゴンゾンビはその性質上、夜間だけ活動する。邪龍の骨を宿した龍の形をした存在が、動き回る。それはつまり、夜の間だけ邪龍が疑似的に復活したと言える。君を苦しめた『タタリ』が夜の間だけ発現したのは、そうした理由らしい」


 デシージアを苦しめた症状。高熱、胸が苦しみ、そして身体の全てが朽ちていくような悪寒。あれはきっと、無理矢理ゾンビとして復活させられた邪龍の苦しみだ。神殿を侵した不届き者に対し、自分と同じ苦しみを与えようとしたのかもしれない。

 

「本来、『タタリ』というものは一族全員に降りかかるような物だそうだ。だが不完全に復活させられたことにより、君だけに作用することになったようだ」

「そうだったのですね……」

 

 不完全に復活された邪龍が、子爵家から見放された末妹に『タタリ』をもたらす。子爵家に報いを与えるつもりなら見当外れもいいところだ。デシージアはひどく空しくやるせないものを覚えた。

 

「不完全とはいえ、あのドラゴンゾンビは危険な存在だった。そうしたことに詳しい冒険者に話を聞いたが、あのまま放置すれば信仰を集め、かつての邪龍と同等の脅威となる可能性もあったと言う。聖女様が神託を受けたのもおそらくそういった事情だろう。厄介なことになる前に倒せてよかった」


 これまで謎だった『タタリ』の原因がわかった。そしてそれがもうなくなったことも理解した。デシージアはほっと一息ついた。

 気分が落ち着くと、まだ謎が残っていることに気づいた。三角巾で吊られたパシオラックの左腕。彼はどうしてこんなケガをしたのだろうか。

 

「あれ? ちょっと待ってください。パシオラック様ご本人がドラゴンゾンビを討伐されたのですか?」


 パシオラックは剣を振れるような体つきに見えない。知っている限りでは魔力もあまり高くないはずで、魔法で戦ったとも思えない。なにか特殊なスキルでも持っていたのだろうか。デシージアは考えを巡らせるが、どうにも想像しがたいものがあった。

 

「私が直接戦ったわけではない。傭兵と冒険者の混成部隊を組織したのだ。ドラゴンゾンビはもともと強力な存在だ。更に邪龍の骨を使ったなると、通常のものより強いことが予想された。大人数で挑まなければならない。統制を取るため、現地で私自らが指揮を執る必要があったのだ」

「まさか前線に出られたのですか?」

「私の腕力は人並みで、魔力も貴族としては低い方だ。前線で戦うような力はない。本来は後方から指揮を執るだけのはずだった。だがさすが邪龍の骨を有するドラゴンゾンビ、普通のものとはちがった。やつはいきなり指揮所に現れたんだ」

「え!? だ、大丈夫だったのですか!?」

「正直なところ、あまり大丈夫ではなかった。だが指揮所を襲われることも想定して、足止めの罠は用意してあった。指揮所にいた者たちが脱出すると、罠を発動させてドラゴンゾンビの動きを止めた。後は先行した傭兵と冒険者を呼び戻し、包囲して討伐したというわけだ。この左手の骨折は、脱出の混乱で負った傷だ。やはり私はこうした争いごとに向いていないようだ」


 パシオラックは淡々と語るが、その内容はただごとではなかった。一歩間違えば命を落とすことすら有り得る危険な状況だったのだ。

 自分を救うためにそこまでしてくれたのだ。デシージアは胸が熱くなるのを感じた。


「本当に……本当にありがとうございます……!」

「礼は必要ない。今回の件で我が男爵家は得たものは大きい。対価は十分にもらった」


 なぜこの人はこちらの感謝の言葉すら受け取ろうとしないのだろう。そんなデシージアの疑問をよそにパシオラックは今回の成果を数え上げる。


「診療施設『癒しの手引き』は重病の令嬢を見事回復させるという実績を得た。格安で得た鉱山は、これから先、大きな利益を生み出してくれることだろう。そして私自身も、ドラゴンゾンビを討伐したという称号を得た。これらの利益と名声は、間違いなく我が男爵家繁栄の一助となる」


 改めて振り返ると、パシオラックは実に凄まじいことを成し遂げてきた。それなのに彼には誇る様子すらなかった。

 そしてその淡々とした態度のまま、言葉を続けた。


「そして君ももうじき退院だ。復学して落ち着いたら、きちんと婚約破棄しよう」


 その言葉に息が止まりそうになった。

 デシージアも「君との婚約を破棄させてもらいたいと思う」という言葉を覚えてはいた。でも言葉通りには捉えていなかった。だってパシオラックは自分のことを救ってくれたのだ。婚約破棄と言うのも言葉の綾で、本当はするつもりのないことだと思いつつあった。

 だが、今、はっきりと。パシオラックは「婚約破棄しよう」と告げてきた。

 

「わたしのことがお嫌いなのですか? わたしは……あなたの婚約者には相応しくないのでしょうか?」


 問いかけながら、デシージアはそうなのかもしれないと思った。

 優れた判断力と行動力を持ち、見事『タタリ』の元凶であるドラゴンゾンビを討伐したパシオラック。そんな凄い人に、子爵家の厄介者である自分が釣り合うとは思えなかったのだ。


「ああ、相応しくない。君はもっと幸せになるべき人だ」


 その答えはデシージアの予想とは少し違うものだった。

 デシージアは自分がパシオラックに釣り合わないと思っていた。しかし彼の言い方は、まるでその逆のようだった。パシオラックはそんな疑問を汲み取ったように言葉を続けた。


「子爵家の離れに押し込められた君を見た時、君はもっと幸せになるべき人だとすぐに分かった。私のような金儲けと名声稼ぎしか考えない男爵子息とではなく、もっと条件のいい高位の貴族と結婚すべきだ」

「それで……婚約破棄をして、縁を切ろうというのですか?」

「その通りだ。婚約破棄された令嬢は忌避されるものだが、心配することはない。君の新しい婚約相手はこちらで手配する。今回の件で得た名声を有効活用すれば、そう難しいことではないだろう」


 パシオラックはまるでそれが唯一の正解であるかのように語った。

 自分をあんなにも助けてくれた人が、自分の幸せを願って遠ざけようとしている。そのことが受け止めきれず、デシージアは言葉を失った。

 そんな彼女を気遣うようにパシオラックは言葉を続けた。


「……すまなかった。少々性急すぎた。こうした話は、君が退院してからすべきだった」

「そういうことではありません!」


 こらえきれず、デシージアはベッドから立ち上がった。

 座ったままのパシオラックを、上から睨むように見つめながら叫んだ。


「つまりこういうことですか!? わたしの幸せのためにこんな高級な病室に無償で入院させ、聖女様まで連れてきて、鉱山を買い取って、その上ドラゴンゾンビを討伐したというのですか!?」

「その通りだ」

「わたしの幸せを願って婚約破棄するというのですか!?」

「その認識で相違ない」

「一方的にわたしのことを救って、恩返しする機会も与えずに、縁を切るというのですか!?」

「先ほど説明したように男爵家は十分な利益を得た。君が返さねばならない恩などない」

「そんなことでわたしが本当に幸せになれると思っているんですか!?」

「新しい縁談で君が幸せな結婚をできるよう力を尽くすつもりだ」

 

 どれだけ強く問いかけても、届かない。パシオラックは表情を崩さず、声も淡々としたものだった。

 デシージアは泣きたくなってきた。

 苦しい時に救いの手を差し伸べてくれた。ドラゴンゾンビの討伐では自分の命すら危うかったはずだ。どれだけ感謝すればいいのかわからない。それなのに、彼は感謝を受け取ろうとすらしない。

 

「……それなら……あなたの幸せはどこにあるというのですか……?」

「我が男爵家が富と名声を得ること。それだけが私の幸せだ」


 パシオラックは当たり前のように言った。デシージアには、そんな彼の姿が、ひどく寂しいものに思えた。

 パシオラックは言っていた。そうするように幼い頃から教育されたのだ。男爵家の名声を得るためだけに育てられ、こんな歪な姿に成ったのだ

 

 家族から疎まれ、何も与えられず、ただ勉学のみに励んだデシージア。

 父親からただ男爵家の名声を得るために教育され、感情すら見せなくなったパシオラック。

 まったく境遇の違う二人だが、親から愛情を受けなかったという点においては同じなのかもしれない。

 

 今も懐に忍ばせている母の形見のハンカチ。そこから感じる熱が、こんなことは絶対に間違っているとデシージアに確信させた。

 母の遺した幸せに生きてほしいという願いは、一方的に救われることで叶うものではないはずだ。目の前のこの人に、感謝の一つも受け取ってもらえずに、幸せになれるはずなんてないのだ。

 

 どうすればいいのか。頭を巡らせるうちに、これまで起きたことの異常性が浮き上がった。

 男爵家の名声のためとは言え、こんな高級な病室に無償で四か月以上も入院させるのは異常なことだ。

 聖女を引き合わせようとしたことも並大抵のことではない。神託が無ければ、聖女を金で動かそうとしたことで教会から糾弾されたかもしれない。

 ドラゴンゾンビの討伐にしても、いくら傭兵と冒険者の構成部隊の統率のためとは言え、現地に行く必要はなかった。現場で指揮を執らなければ、命を危険にさらすこともなかったはずだ。

 もし仮に、デシージアが途中で命を落としてしまえば……そうした努力のほとんどが無駄になり、男爵家の名に大きな傷を残すことになったかもしれない。

 パシオラックのこれまでの行動は、リスクとリターンがまるで釣り合っていない。

 

 パシオラックが利益と名声のためだけに行動していたというのは嘘だ。別な理由があるはずだ。

 だがデシージアはそれをうまく言葉にできなかった。そもそもいくら言葉を尽くそうと、パシオラックの淡々とした態度を崩せるとは思えない。彼はきっと「男爵家の富と名声のため」だと、話を捻じ曲げてしまうに違いない。

 

 迷ううちに、デシージアは閃いた。

 パシオラックの嘘を暴く方法がある。それはあまりにも大胆で不作法な方法だった。

 だがしかし、彼の頑なな心を暴くにはこれしかない。デシージアはそう確信した。

 

「……パシオラック様。あなたは嘘をついています」

「いったいなんのことだろうか?」

「今からそれを証明します。少し目を閉じていただけますか?」


 パシオラックは不審そうな目を向けたが、やがて目を閉じた。

 デシージアはすぐさま動いた。彼にぐっと近づくと、その唇に自分の唇を重ねた。

 人形のように無表情な人だった。触れた感触も、どこか固いのではないかと思っていた。

 全然違った。やわらかくて、熱い唇だった。

 パシオラックが目を開いた。椅子から転げ落ち、床にしりもちをついた。

 さすがの彼も無表情を保てず、驚きと動揺を露わにした。

 

「い、いったいなにを……!」


 パシオラックが何か言うより早く、デシージアは懐から形見のハンカチを取り出すと、彼に向けて突きつけた。

 

「わたしと婚約破棄しても何も感じないというのであれば、今すぐこのハンカチで唇をぬぐって、この部屋から出て行ってください。もしそれができなければ……」


 ハンカチを彼の口元にぐっと近づけながら、確信を込めて言い放つ。

 

「あなたはわたしのことが好きなのです」


 こんなことに形見のハンカチを使うべきではない。それはデシージア自身もわかっていた。だが今だけは母の力を借りたかった。そうでなければ、とてもこんなことなんてできなかった。

 もしパシオラックが唇をぬぐって部屋を去るのなら、その時は仕方がない。彼は男爵家のために働く感情のない機械なのだと諦めるしかない。

 彼がこのハンカチを手に取ってしまったら、全てが終ってしまう。そう思うと恐ろしくなり、手が震えた。

 

 しかし、パシオラックはハンカチを手に取ることすらしなかった。それどころか、口元を守るように右手で押さえた。ハンカチに触れることを恐れるように顔をそむけた。その顔は見ていて恥ずかしくなるくらいに赤くなっている。

 

 やはりそうだったのだ。男爵家のためと言うのは嘘ではないのだろう。でもここまでした理由が、それだけのはずがなかった。パシオラックは好きな女性(ひと)のために全力を尽くしたのだ。

 デシージアは大きくため息を吐いた。本当に良かったと思った。彼が感情の無い機械でないことが、嬉しくてたまらなかった。とても満たされて安らかな気持ちになった。

 でも、そんな安堵は一時の事だった。

 心臓の音がうるさいくらいに大きくなった。顔は紅潮し、汗が流れてきた。息苦しさまで感じる。一瞬、『タタリ』の症状を思い出したが、すぐに違うとわかった。この胸の高鳴りは、まったく別の種類のものだった。

 デシージアは、今になって初めて自覚した。


……わたしは、この人のことが好きだ。


 デシージアは家族から疎まれてきた。学園に入学してからも友達を作ろうとしなかった。だから、誰かを好きになることなんて考えもしなかった。

 パシオラックはお茶の時間に話をちゃんと聞いてくれた。あの頃から惹かれていた。

 『タタリ』を受けてからは、あんなにも優しくしてくれた。命を賭けて救ってくれた。そんな人を好きにならないわけがなかった。そもそも、自分から離れようとする婚約者をキスでつなぎとめようとするなんて、恋する乙女のすることだ。

 誰もがすぐにわかる当たり前のことを、デシージアは今になってようやく理解したのだ。

 

 好きになる。そんな当たり前のことに、こんな瀬戸際に至るまで気づくことができなかった。なんて愚か歪で、不格好な二人なのだろう。

 でも、仕方ない。これまで知らなかったのだ。ならば知ればいい。止まっていてもなにも始まらない。前に進まなければならない。デシージアという令嬢は、ずっとそうやって生きてきたのだ。

 

「パシオラック様。わたしはあなたのことが好きです。婚約破棄などされてしまっては、絶対に幸せになんてなれません」


 デシージアはまっすぐに告げた。心臓は高鳴ることを止めず、声が震えないようにするのも苦労した。

 彼女を幸せにするために婚約破棄を考えたパシオラックなら、決して無視できない言葉だった。

 彼は口元を押さえる手を下ろし、床に着いたまま、デシージアのことを見つめた。


「だから、婚約破棄なんてやめてください。それより、契約をしましょう」

「契約……?」


 デシージアはハンカチを懐にしまうと、手を差し出した。


「わたしがあなたを幸せにする。あなたがわたしを幸せにする。そういう対等な契約です。婚約というのは、本当はそういうものなんです。その契約を改めて結び直しましょう」


 パシオラックはさっと立ち上がると、右手でデシージアの手を握った。デシージアもまた握り返した。握手は、契約を結ぶ時の最も基本的な作法だった。


「じゅ、十分な利益が見込める契約だ。ぜひ結ばせてもらいたい!」


 パシオラックは顔を真っ赤にして、彼にしては珍しく、しどろもどろでそんなことを言った。

 なんでもそつなくこなすパシオラックだったが、こういうところは不器用なようだった。

 デシージアも彼のことを言えない。顔は真っ赤だし、手は汗ばむし、心臓は早鐘のように高鳴っている。

 それでも……とっても、しあわせな気分だった。

 

『愛するデシージアへ どうか幸せに生きてください』


 母の遺した言葉。きっとこれが、その言葉を果たすための第一歩。パシオラックと共に歩み、幸せになるための第一歩なのだ。


 そして、二人は固まった。

 手を握り合い見つめ合う。恋人同士なら挨拶に過ぎないような行為でも、二人にとっては初めてで、このあとどう動くべきかわからなかったのだ。

 

 ようやく一歩を踏み出せたが、この分では随分長い道のりになりそうだ。でもその長い道のりは、きっと素敵なものになるに違いない。

 固まったまま、それでも楽しい気持ちに満たされて。デシージアは、そんなふうに思うのだった。



終わり

病気を理由に婚約破棄されてしまうという作品をいくつか読みました。

そんなことをする子息は当然不幸になるわけですが、そもそも病気の令嬢を見捨てるという選択は外聞が悪いものです。

そこで「病気になった令嬢を健康にしてから婚約破棄する話を書こう」なんて思いました。

そのネタが成り立つようにキャラと設定を詰めて言ったらこういう話になりました。


これまでだいたい2万文字を越える作品は読みやすくするよう連載形式にしていましたが、うまく分割できなさそうだったので短編として投稿しました。

当初はもっと短くまとまるはずだったのですが予定が狂ってしまいました。

お話づくりはやっぱり難しいですね。


2024/6/25 22時頃

 誤字指摘ありがとうございました! 読み返して気になった細かなところもあちこち修正しました。2024/6/26

 細かいところをいくつか直しました。

2024/6/27、7/1、7/8

 誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!

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[良い点] 理知的で無感情のように見えるけれども、好きな人が絡むとその仮面の下でハンマー投げ並に感情に振り回されてやり過ぎてしまうパシオラック様いいですね お互いこれから長い道のりになりそうですが、勇…
[良い点] 良質な読み応えでした。 毒父、婚約者選定だけはファインプレーでしたね。 [気になる点] あの家で迫害されていたヒロインちゃんだけが理不尽にもタタリを受けた理由ですが。 〈完全でなく理性が無…
[一言] 父にもタタリが来れば良かったのに
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