最後の1人
1945年7月15日。1隻の軍艦が進水式を迎えていた。
シャンパン役のLadyによって「彼女」は次の如く命名された。
「合衆国軍艦ジュノー」実は「この」名は「彼女」の「姉」から、
そのまま受け継いだものだった。
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「彼女」の誕生を祝う参列者の中に、1人の「元」兵士がいた。
ヨーロッパの戦いは、すでにして5月2日に勝利している。
特に「この」元兵士は、ずっとイギリスでの後方任務だった。
そのため、対日戦争は後1ヶ月だけ残した「この」時期に本国に帰還もしていれば、
すでに退役して「元」兵士に成っている事も出来たのだが。
そして「彼」すなわち、ライアン「元」兵士が「こうして」本国に戻って来れた事と、
目前で進水する巡洋艦とは、実は無関係では無かった。
だから、こうして参列もしたのだが。
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1942年11月13日の金曜日。
日本側の“大本営発表”では第三次ソロモン海戦と呼ばれる、3日3晩の戦闘が発生した。
最終的には「ガダルカナル」島に対する日本軍の艦砲射撃と護送船団は阻止されたが、
アメリカ軍の受けた損害も小さくは無かった。
「アトランタ」クラス防空巡洋艦の「アトランタ」「ジュノー」も参戦していたが、
本来は味方空母を守って、敵の航空機と戦う防空巡洋艦としては不本意な、
夜間殴りこんできた、敵の駆逐艦や高速戦艦との殴り合いの末
「アトランタ」も「ジュノー」も損傷して退却した。
間も無く「アトランタ」は力尽きて沈没。
「ジュノー」もまた、潜水艦伊26からの魚雷攻撃で止めを刺された。
「やっぱり13日の金曜日だった」そうアメリカ艦隊を嘆かせた、
この海戦での「ジュノー」からの生還者は10名しか居なかったと伝えられる。
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特に、大げさに言えば全米を嘆かせたのが「サリヴァン家の5人兄弟」の悲劇だった。
「パールハーバー」の後、サリヴァン家の兄弟は、そろって海軍を志願した。
そして、兄弟が同じ艦に乗り込んで、力を合わせて戦う事を希望した。
結局の処、米海軍は希望を受け入れて、兄弟5人を「ジュノー」に乗せていた。
この時点では、海軍の温情でもあり「美談」として宣伝もされた。
だが、結果として、温情も美談も裏目に出た。
“13日の金曜日”に撃沈された「ジュノー」からの生還者は10名しか居なかった。
その中に「5人兄弟」は1人も居なかった。
………。
……。
…如何に「サリヴァン家の5人兄弟」の悲劇が、当時のアメリカ本国で有名になったかといえば、
逆説的だが、早くも翌43年には「ザ・サリヴァンズ」と命名された駆逐艦を進水させている程だ。
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以後の米軍では「最後の1人ルール」が実施される。
「同じ家族の兄弟は、同じ部隊で、同じ作戦任務に就けてはならない」
「もし、兄弟の内、1人を残して他の全員が「戦死」ないしは「行方不明」になった場合、
最後の1人は前線任務に就けてはならない」
ライアン「元」兵士もまた、この「最後の1人ルール」を適用されて
「ノルマンジー」から連れ戻された。
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一方で「サリヴァン家の5人兄弟」とともに戦った巡洋艦「ジュノー」の艦名も、
建造中だった姉妹艦に受け継がれ、今日、ここに命名と誕生を迎えていた。
その進水していく「ジュノー」を見つめながら、ライアン「元」兵士は
「これから」の人生を思い迷っていた。
「兄」たちの分まで生きなければならない。それだけが判っていた。
………。
……。
…1960年代も半ばを過ぎて、人生の壮年期に差し掛かっていたライアン「元」兵士は、
ある日「ある」場所を訪問した。
ニューヨーク州バファロー市。
一般にはナイアガラ滝の観光基地として知られている都市だが、
ここには海軍軍人記念公園があり、駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」を含めた数隻が保存されていた。
ライアン「元」兵士にとっては「ここ」もまた、1生の間には訪問すべき場所の1つだった。
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