東照宮の秘密命令
今回の投稿をSSつまり2次創作としますと、
1次作品に当たるのは、井沢元彦先生の「逆説の日本史」になると思います。
未だ『幕末編』まで連載が進んでいない筈ですので、盗作ではない筈と思っております。
「最後の将軍」徳川慶喜は、大正2年まで生きた。
その晩年、渋沢栄一(日本史での「産業革命」の推進者の1人)らの「旧」家臣が、
かつての主君を囲む「座談会」を持った事があり、
その内容に基づいた伝記が、慶喜の死後に公表されたが、
その伝記に書かれなかった内容もあっただろう。
昭和まで生存した渋沢たちも「秘密」に関しては、沈黙したままだった……
……明治も末ごろの、ある時の「座談会」
「勝も死んだ。天璋院様も御なくなりになった。もう余しか生きておらぬな」
渋沢自身は「御舎弟様」の御供でパリ万国博覧会に行っていた時に起きてしまった
「あの」大事件の事だ。
「閣下(明治天皇から公爵を授けられていた)。
今となっては閣下だけが、お知りの事もございましょう。しかしながら…」
「そうだな。今の天朝が続いている限りは、お前たちも「秘密」に巻き込む事になるな(笑)」
何が可笑しいのやら。
………。
……。
…慶応四年睦月。
「安房(勝安房守)。愛弟子の後始末、師匠に付けてもらおうぞ」
「鳥羽伏見」から「敵前逃亡」して戻ったはずの「前」将軍の言い方には、
勝海舟ほどの傍若無人をして、微苦笑させるものがあった。
とは言え、一応、相手は主君で「征夷大将軍」ですらあった事もある相手なのだが。
この前年における「大政奉還」その立役者として、
明治になってから勝自身が吹聴した愛弟子、坂本竜馬。
その「愛弟子」が前面に出た「大政奉還」と
「この」後に「師匠」によって実現する「江戸開城」とを並べれば、師弟を結ぶ糸が見えてくる。
「大政奉還」と「江戸開城」を師弟の糸で結べば、
その間の半年の間に起こった「鳥羽伏見」の方が異質に見えてくる。
そうなると、戦わなかった事の方が繋がっている様にも思えるが、
この師弟の糸には「師匠」の「主君」は「どこ」まで繋がっていたか?
「弟子」の方は、表向きは幕府からの「おたずね者」だったのだから。
※ ※ ※ ※ ※
「安房。そちにしか言えぬ。代々の幕臣などには(勝は祖父の代からの幕臣)
余が裏切ったとしか思わぬであろう」
慶喜は何を告げたのか?やがて、勝の劇的な活躍で、江戸城は開城した。
新政府軍と旧幕府軍との戦争はあったが、これほどの政権の大変動にしては、
極小の犠牲と混乱だったかも知れない。
………。
……。
…慶喜は、渋沢たち「座談」の一座を見回した。
「閣下。勝伯爵にはうち明けられても、それがしたちには出来ませぬか」
「渋沢なら見当がつかぬか?余は水戸の生まれだった」
「御意」
「奇妙と思った事は無かったか?「尊皇攘夷」は水戸から始まったな。
そして「御三家」であっても水戸は…」
そう「尾張」「紀州」と異なり「水戸徳川家」は、将軍候補と成ったことは無い。
慶喜自身は「その」水戸家の末子でありながら、
“当時”は将軍家の「部屋住み」だった「一橋家」に一旦、養子入りしてから十五代将軍に成った。
一方で「水戸家」が「尊王」精神を喧伝して来たのは、幕府が「御三家」を立てた当初からだった。
その「水戸“イデオロギー”」が結局は、幕府を倒す「正義」になった。
それを思えば、その「水戸家」出身の慶喜が最後の将軍だったという事は?
「閣下?よもや」
「最近、真田幸村とかの人気が庶民の間で高いそうだな。
しかし、東照神君の仇にしては、今の真田伯爵家は残っているな」
「それは…真田の家を残すために…。…よもや、水戸のお家とは?!」
「余は、これ以上言わぬ。渋沢も聞かぬな」
真田昌幸・信繁(幸村)父子は、何度も徳川家康の軍を破った。
「関が原」では、後の二代将軍秀忠の指揮する徳川直属軍を遅刻させたし
「大阪の陣」では、家康自身の本陣に迫ったという。
しかし、昌幸の長男で信繁の兄信幸(信之)は「関が原」でも「大阪の陣」でも東軍で一貫した。
兄弟が互いに決別するべく、兄は信幸から信之へ、弟は信繁から幸村に改めてまで。
それは、東西いずれが勝者となっても、兄弟のどちらかは生き残るため。
真田家と「50歩100歩」の弱小大名から、天下にたどり着いた家康には分かっていた。
だから、真田信之には、父祖代々の信州の領地を安堵した。
真田家は、徳川大名として、幕末まで生き残ったのである。
※ ※ ※ ※ ※
そうだ。家康には分かっていた。真田家の陰謀が。
そして、家康も習ったのではないか?
その家康の「秘密命令」によって、水戸家は「御三家」でありながら「尊王」の家となった。
徳川幕府の天下を奪おうとする者が、“朝敵”を「大義名分」としてきた時
「水戸家」が寝返る準備だった?
などと、某小説家とかが主張しているが。
その「水戸家」に生まれた「最後の将軍」によって、徳川家は天下から降りた。
そして、江戸城を明け渡した徳川家自体は「静岡藩“70万石”」として「廃藩置県」を迎え、
明治天皇から公爵を授かった。
徳川家康の秘密命令は達成された。といえるだろう。
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