真説?賤ヶ岳の戦い
“「太閤記」史観”とでも呼ぶべきだろうか。
豊臣秀吉と近い時代の歴史人物に対して「テンプレ」ともいうべき「イメージ」が存在する。
例えば柴田勝家は、成り上がりの秀吉を認めることの出来ない頑迷な老人。
その配下の佐久間盛政は、現代でも色々な作品に登場するような「猪」キャラ。
そして「賤ヶ岳の戦い」は「頑迷」が「猪」を甘えさせ過ぎた結果、
秀吉に「大見せ場」を与えてしまった。
そんな「イメージ」が先行している。
しかし「太閤記」が“小説”として成立する以前に、近い時代の誰かが書いた「回想録」の類、
例えば「信長公記」とかは、当然ながら、そんな書き方はしていない。
そして、今1つ誤解されている。合戦の内容についてだ。
“織田信長軍団”の「同士討ち」なのだ。それも「長篠」以後の。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「放て―!!」
爆裂音が鳴り渡り、硝煙が煙幕になる。
琵琶湖の北。北陸街道が近江平野へと抜けようとする隘路をめぐって、
両軍は鉄砲玉をぶつけ合っていた。
対峙するのは、柴田勝家と羽柴秀吉を「大将」とする、
いずれも織田信長の下で戦って来た同士の軍勢だった。
「長篠」に武田軍を撃退し、
雑賀鉄砲衆も名高い「本願寺」をその雑賀の拠点である紀州へ退去させ、
まさに“鉄砲”で天下を撃ち取って来た、その「信長軍団」同士が衝突しているのだ。
この山と山の間の狭い平野などは、硝煙で曇るほどの鉄砲の撃ち合いになって当然だった。
この日(天正11年4月2日)の両軍は、
いかにも「信長軍団」らしく派手に鉄砲を撃ち合ったあげく、勝機をつかめずに撤収した。
「どうしてやろうかの?」
羽柴秀吉という男、確かに、織田信長という「悪魔の天才」が消えた今となっては、
恐るべき策士だった。
流石に秀吉は、このまま勝家の「主力」と撃ち合っていても、ラチが空かないと見抜いた。
では、他のどこから状況を動かすか?
秀吉が狙いをつけたのは、織田信孝だった。
この戦いは名目上、実態はどうであれ、大義名分としては、
信長の2人の子である織田信雄と信孝の兄弟が、
父親と長兄を失った後の織田家で幼君の後見人を争っている、という事になっている。
だから、柴田側の名目人である信孝を倒してしまえば、勝家たちは「謀反人」に成り下がる。
少なくとも、名分の上では。
したがって、信孝の居城である岐阜城を攻撃されれば、柴田側は動かざるを得ない筈だ。
秀吉は動いた。岐阜城を目前にする美濃大垣へ移動したが、柴田税の動き次第で反転すべく、
途中の街道沿いに、物資を準備して置きつつの移動である。
柴田側も、それをまったく見抜けもしない訳でも無かっただろう。
おそらく、勝家も盛政も「猪」どころか、信長から与えられた「ポジション」相応の実績を、
軍事にしろ、行政にしろ残してきただけの、それなりの人材だった筈である。
したがって、自分が動けば、秀吉は戻って来ると分かっていた。でなければ、信孝は救えない。
― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
「太閤記」では、奇襲に成功して好い気になった盛政が、勝家の退却命令を無視したあげく、
秀吉が予想以上の「スピード」で戻って来た時には、手遅れになっていた、などと創作している。
実際には、秀吉は逃がしている。
大垣から戻った秀吉軍が集結し、退却する盛政軍に追い付いて攻撃準備をした時には、
盛政軍は「賤ヶ岳」にある羽柴側の陣地から抜け出したばかりか、
反転して決戦の備えをとっていた。
おそらく、秀吉側は、盛政軍が退却しだした段階では兵力不足ではなかったか?
秀吉本人は数時間で到着しても、後に続く軍勢は延々と行軍していた筈である。
しかも「一番乗り」の手柄を立てたのが、
本来は秀吉自身の身辺に控えている筈の小姓たちだった。
後に大名に取り立てた秀吉が「賤ヶ岳の七本槍」などと吹聴したが、
本来なら秀吉本人ともに、本陣に居る筈だった。
それが先頭に立って突撃しなければならないという事は、
兵が追い付いていなかった、のが真相ではないか?
この兵力不足のため、秀吉軍の兵たちが追い付いた時には、盛政軍は決戦の態勢だった。
天正11年4月21日。夜明けとともに、またしても
「信長軍団」同士の、鉄砲玉のぶつけ合いが始まった。
この時、盛政軍が布陣していた地名は「権現坂」と伝えられる。
その名の通り「余呉湖」の方向へと下る坂を背に布陣した盛政軍は、
湖と山に挟まれた秀吉軍を狙って撃ち落した。
秀吉軍も撃ち返す。その結果「ここ」で盛政や勝家の誤算が生じた。
「権現坂」の上、盛政軍の後方で援軍についていた柴田側の前田利家軍に、である。
銃というものは、どうしても外れる時は、上へ外れやすい。
盛政軍を狙って、その頭上へ外れた秀吉軍の流れ玉が、利家軍まで届いただけでなく、
主将である利家本人の身辺に居た、側近を負傷させた。
戦場では、予想もしない事が起こり得る。
この危険を回避しようとしただけの利家軍の後退が、
そこを見逃さず今度は意図的に撃ち込んだ秀吉軍のため、本当の敗走になってしまった。
そして、いまだ互角に撃ち合っていた盛政軍の兵までが、後方の味方の敗走で動揺し、
そこを秀吉軍がさらに撃ち込んで、撃ち崩した。
ついに、盛政軍も撃ち崩され、そして柴田軍全体の連鎖反応が始まった。
秀吉の勝利だった……
― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
太閤、豊臣秀吉は、日本史上に冠たる「立身出世」の代表である事は確かだ。
その「伝説」は、豊臣政権に取って代わり「成り上がり」を悪とした幕藩体制と身分制度の中で、
それゆえにこそ、希望として伝えられた。
そして「明治」とともに「立身出世」が、むしろ煽り立てれる時代が来ると
「立身出世」の「理想」となる。
「太閤記」伝説による「歴史」の上書きが、しかし、無名の多数によって求められていった……
御意見、御感想をお待ちしております。