主役の御主君
日本語しか話せません。
残念ながら、中国語とかは『ニーハオ』『アイヤ』『イー』『アル』『サン』ぐらいしか知りません。
そんな人でも、『水滸伝』や『西遊記』『三国志』は知っている。
そんな人は大勢だろう。
それ程「これら」は面白い。どうして。
それは切磋琢磨されて進化して来たから。
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中国の長い歴史の中でも、北宋時代は、大衆文化の花咲いた時代とされる。
帝都に限ら無い。
中国各地の大抵の都市ならば「繁華街」が軒を連ね、夜の娼館や酒楼だけでは無く、
昼から『芝居』『講釈』などの「寄席」が繁盛した。
そうした繁盛の中で、当時は人気者しかし現代までは名前が残るとは限ら無かった多くの講釈師
そして、大多数の無名の大衆とが、正しく切磋琢磨する中で生き残って発展して行った………。
……。
…そうして進化し続けた末に「インテリ」を気取った誰か、
明王朝の頃の施耐庵とか羅貫中とか名乗っていた誰かが1連の本に編集した。
それが、現在に残る『水滸伝』や『西遊記』『三国志演義』の「原作」である。
そうした成立過程からすると、実は『水滸伝』と他の<2つ>にはThymeLagが存在する。
『水滸伝』の最初の元ネタと成る「実在」の盗賊団が、山東地方を荒らし回って居た頃、
帝都、開封では『西遊記』や『三国志演義』の「芝居」や「講釈」が大人気だった。
そのためだろうか?
例えば『西遊記』の三蔵法師や『三国志演義』の劉備玄徳と、
『水滸伝』の宋江とのキャラクターは微妙に異なっている。
3者とも「物語」の中での、立ち位置は同様である。
大活躍する「主人公」たちが、何のために、誰のために戦うか、と言う意味を与える「御主君」
「その」位置を、無名多数の大衆から与えられのだ。
大衆は求めた。史実の玄奘三蔵や劉備を求めたのでは無い。
大衆の英雄である孫悟空に「強さの意味」を与える存在、
関羽の強さや孔明の英知に存在理由を与えるキャラクターを求めた。
だからこそ『西遊記』の三蔵法師とか『演義』の劉備は、
偽善者まがいの理想家、お人好しな程の善人に成って行った。
かつてGodHandとか呼ばれた、とある武道家は弟子たちに説いたそうである。
「力無き正義も、むなしい。正義無き力も、むなしい」
三蔵や劉備が、お人好しで理想家だったからこそ、
悟空や関羽が強くて孔明が賢者である理由が存在したのだ。
講釈「ファン」の大衆に関しては。
では、宋江はと言えば、三蔵や劉備に比較しても「突っ込み」処の大有りなキャラクター
かも知れない。
善人にしてはセコい。
お人好しにしては犯罪行為、それも主人公がやる様な憤慨の結果でも無さそうな事をしでかす。
とてもでも無いが「主人公」らしく活躍する好漢たちが、何処に惚れたのか?
と言う回答に困惑しそうだ。
少なくとも、三蔵法師に孫悟空が従っているとか、劉備の魅力に関羽や孔明が惑わされたとか、
の方が、まだ回答が付きそうな調子だ。
史実の「盗賊」宋江を持ち出すのは、ヤボに過ぎない。
あくまで『西遊記』の三蔵、『演義』の劉備「も」大衆が求めた。
おそらく「史実」の宋江が盗賊だった頃には、もうキャラクターが出来上がっていたかも知れない。
「その」後で、大衆が『水滸伝』の宋江に「こう言う」キャラクターを求めたのだ。
では、どんな?
あらためて『水滸伝』の宋江は、「主人公」らしい好漢たち程に活躍するキャラクターでは無い。
セコくて、平凡で、何処にでも居そうだ。
そう「何処にでも居そう」なキャラクターである事が求められたのでは無いだろうか?
劉備や三蔵法師の様に、お人好しで理想家で「その」意味では<非凡>なキャラクターよりも、
もっと、平凡な庶民でも感情移入し易いキャラクター。
「そんな」自分の分身が、『主人公』たちを従える。それを大衆は求めたのだろうか?
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『歴史』とは、ただの「事実」だけでは無い。
ときには「事実」以上の「真実」が求められる。
名も無い、大多数によって。
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