『最後の晩餐』への疑問
レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』
これ自体についての説明は無用だろう。
近年、映画の影響で、イエスについての暗号がどうの、などと言われたが、
それ以前から、キリスト信者でも無ければダ・ヴィンチと同胞でもない異郷の非信者には
「この」絵についての疑問があった。
<<聖杯>>が描かれていない。
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そもそも、キリスト教徒にとっての「最後の晩餐」とは何か。
逮捕の直前、イエスは弟子たちと、おそらくは自由の身としては最後となる食事を共にした。
その席上、銀杯に盛られたブドウ酒で柔らかくしたパンを弟子たちに与えた。
「これは自分の血であり肉である」
この儀式によって弟子たちは、イエスの使命を受け継ぐ12使徒と成った。
キリスト教徒が日曜日ごとに行う「ミサ」とやらは、この儀式の追体験だそうである。
これは完全に余談だが、続いてイエスは、後継者と成る第1使徒ペテロに対して預言した。
「お前は、私のことを知らないと言うだろう」
結果、逮捕を免れたペテロによって教団は受け継がれた。
これはイエスの命令ではなかったろうか?
現代でもアメリカ大統領に何かあった時、
次の大統領が選ばれるまでの代行は20何番目まで順番に決まっているが、
その内の1人はどんな場合にしろ、例えば儀礼上、全員が出席するべき式典の場合でも、
最低1人は「AirForce1」に乗せているらしい。
余談はともかく、非教徒の作者ですら思う。
キリスト教徒にとっての「最後の晩餐」とは<<聖杯>>の儀式の筈では無かったか。
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あらためて、ダ・ヴィンチの名作を観る。
そこに描かれているのは「ユダの裏切り」を預言されて動揺する弟子たちの群像だ。
ドラマチックといえばドラマチックだ。
しかし、これは注文主が注文したものだったろうか?
そう、ダ・ヴィンチは、注文を受けて描いたのだ。
しかも、場所は修道院の食堂である。
修道士たちが祈りと共に食事を取る時に相応しいのは<<聖杯>>ではないのか?
異教徒だって、疑問に思う。
果たして、キリスト信者からは、この疑問に対する解答は得られるのだろうか。
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ここで、無理やり、異教徒の外国人が自問自答した結果だが、
もう1枚あったのでは。
それなら、少なくとも自分としては納得できる。
如何にも修道院に相応しい<<聖杯>>を描いた1枚。
ただし、普通に額に入っていたため、何処かに運ばれた。
あるいは「万能の天才」は良いけれど、
やたらと飛び付き派で興味の分裂しがちだったレオナルドの事、
その結果、やたらと未完成が増え過ぎで、
高名でありながら完成した作品の少ないダ・ヴィンチの事だ。
2枚目の筈の「ユダの裏切り」に力が入り過ぎて、
肝腎の<<聖杯>>の方の完成が遅れた結果、
注文主とケンカに成った、
という事だって大いに有り得る。
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