表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

赤ちゃん言葉

作者: 雉白書屋

「上野さん、これアーウーに、あっ」


「え?」


「あははは、ほら、赤ちゃんのアレ、出ちゃったよ」


「ああっ、ふふふっ。赤ちゃん言葉ですね。何かと思っちゃいましたよ。

係長、赤ちゃんがいらっしゃるんですね」


 会社のオフィス内。一瞬戸惑った上野だったが、赤ちゃんと

そして子煩悩な係長の姿を思い浮かべ、自然と笑顔になる。


「あ、はははっ、まあね」


「ふふふっ、かわいいですよね。

私も去年、姉に子供が生まれてもう、ほんとかわいくって!

あっ、『ダダ』って呼ばれたりしてるんですか?」


「まあね、ははははは! あーぶぶぶぶぶ!」


「もー、あははは!」


 入社して一月。良い雰囲気の職場だし馴染めて良かった。

上野はそう思った。でも……。



「あ、小原さん。お疲れ様です……」


「ああ……」


 先輩の小原さん……ああ、嫌な――


「ふん、嫌な人とトイレで会っちゃったなって思った?」


「え、いや、いやそんなことないですよもー!」


 会社の女子トイレ内。上野は鏡に映る小原に向かって笑顔を作る。

が、その鏡こそが今しがたトイレに入って来た小原を目にした上野が

嫌な顔をしたことを小原に伝えた密告犯。

 そのことが頭にあるため、上野の笑みはやや歪に映った。


「ま、どうでもいいけどね。可愛がってもらってるんでしょ? 赤ちゃんみたいにさぁ」


 いっつもこんな風に棘のある言い方をする。

でも先輩だし、まさか言い返すわけにもいかない……。

 上野はため息を堪え、笑顔を維持して言う。


「赤ちゃん……そ、そうですね、新人ですし、皆さん年上で

ご家庭もあるみたいで、子供扱いであはははは……」


「ふん、言うじゃないの。悪かったわねぇ、未婚のオバさんでさーあ」


「あ、いや、その……あ、で、でもそう言えばこの会社

アットホームな感じでいいですよねっ。小さい会社ですし、ほんと家族みたいな」


「家族ぅ? はぁ……なーんも知らないくせに……」


 小原は手を洗い終えると、吐き捨てるようにそう言いトイレから出て行った。

 その際、彼女は歩きながらハンカチで手を拭いたが

まるで手にタールがついたかのように荒々しい拭い方であったと上野は思った。


 ――知らないくせに


 その言葉の意味を上野が知ったのはそれからしばらく経ってからだった。


「お、もうこんな時間だまんま、まんま」

「これアーウーが」

「アーウーさ、アブブブで」

「アムアムをしてよ、でな」

「それってバババじゃん!」


 と、上野はこんな風に会社の至る所で赤ちゃん言葉を耳にするように

いや、気づくようになった。仕事に慣れて余裕が出てきたのもあるが

あの一件以降、意識するようになったことがその理由だろう。

 つい家の癖が出てしまっているのだろう。

まあ、いい大人が少々、不気味な気も……とは上野は思わなかった。むしろ好意的。


 どうやら私が入社する前からそんな習慣のようなものができていたらしい。

 コミットだのアジェンダだのエーエスエーピーだのコンサンスだのなんだの

ビジネス用語を使われることに比べたらマシだとは思う。

 この前の合コン相手なんか酷くて何言っているか

訳が分からなすぎて首が凝ってしまった。

 そう、だからマシ。

でも……あの赤ちゃん言葉を使っている時のみんなの顔はどこか……。


「ねぇ、上野さんもそろそろ覚える?」


「え?」

 

 自分の席に座っていた上野は

話しかけてきた男性社員の顔を見上げ、そう気の抜けた返事をした。


「おいおい、まだ早いよ」


「そうかぁ? お、アーウーが外から戻って来た」

「あ、おいおい、バレちゃうって、はははっ」


「え? 外からって……小原先輩? あのどういう……」


 どういうことかは上野はもう察しがついていた。

 隠語。それも陰湿な。次いで、上野の脳内に小原の言葉が蘇る。

 

 ――知らないくせに


 知ったからどうだっていうの? 頭の中でそう、言葉が変化した。

それは自分の声か、それとも小原の声か。どちらでもいい。

その心の声に上野は答える前にもう立ち上がっていた。


「……あの、そういうのやめませんか?」


「え、そういうのって、なぁ」

「ああ、はははは」


「……幼稚すぎ。ほんと最低」


 上野は二人の先輩社員にそう吐き捨てるように言うと背を向け、オフィスから出て行った。

 その際、チラッと、小原を見ると彼女が一瞬笑ったような気がした。

 これからは小原先輩と、みんなとモアベターな関係を築ける。上野はそう思った。



「ウーウーがなぁ」

「ああ、これウーウーにやらせれば?」

「ウーウーはははっ」

「ね、ウーウーってねアブブで……」

「あー、ウーウーかぁ……」


 それから数週間が経ったが、上野はより赤ちゃん言葉を耳にするようになった。

彼らがこそこそ話しているにもかかわらず不思議なもので自然と。

そして上野が目を向けると彼らは卑しい笑みを作り、そそくさとその場から消える。

 醜悪な保育所。そして、その連中の中にはあの小原先輩の顔もあった。

 嫌気がさした上野は会社を辞め、のちに出会った彼と結婚。

子供を授かり、幸せを手に入れた。



「あ、上野さーん!」

「あ、上野さんだぁ」

「こんにちは!」


「あら、お散歩?」

「かわいいわねぇ。『まんま』ですって」

「ふふふ、あ、今日はあの人、来てないんですね」


「ああ、あの人ね……」

「うん、ね。安田さん、あの人さ」


「しぃー、外だし誰が聴いているかわからないわよ?」

「でもぉ、ねえ? 上野さんもちょっと思うところあるわよね?」


「ええ、確かに私もこの前、安田さ……アーウーにね……」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ