第三話 共有
一部、流血表現があります。
その夜、紅は夢を見た。
薄茶色の女性と手を繋いで、城下町を散歩している夢だ。透き通るような薄茶の髪は艶やかで、とても美しい。だが、女性の顔は霧がかかったように見えない。
それでも、夢の中の紅は女性と手を繋いでいるととても安心する。二人で楽しく歩いていると、唐突に女性は足を止めた。彼女の目線の先には、一際賑わった商店があった。きっと、紅のような小さな子供が行けば、人混みに紛れてしまうだろう。女性は紅を抱き上げると、商店へと足を進める。
女性の表情は見えないが、紅には笑っているように見えた。
女性の髪を纏めている簪が、陽の光を浴びて黄土色に輝いた。
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目を覚ました紅は、瞳から出ている一筋の涙を不思議に思った。なんだか、懐かしいようなそうでないようなそんな夢を見た気がした。思い出そうとしても、何かに阻まれるように何も思い出せない。
「あうぇっ‥‥‥?」
だが、紅の思考はすぐに別のことに塗り変わる。彼女の思考はいつも行ったり来たりと忙しいのだ。
何かいい匂いがする気がする。
紅の思考はそれでいっぱいになった。
何処だろう、何処で、この匂いがするんだろう。紅は良くも悪くも好奇心旺盛だ。
こんな気になる匂いがして、確かめないわけがない。
紅は布団から起き上がると歩き出した。この屋敷に来たのは今日が初めてだというのに、その足取りには迷いがまるでない。ゆっくりと確実に匂いのする方へと足をすすめる。
軈てひとつの部屋に着く。
夜の静かさが支配する屋敷内で、唯一何やら騒がしい部屋だった。
ガタガタ、ボキボキ、そんな恐ろしい音が部屋の外にいる紅まで届く。普段の彼女なら、恐ろしさのあまり逃げ出していたかもしれない。
そう、普段の彼女なら。
今の紅は寧ろその音に匂いに、興奮を覚えていた。
──たまらない。きっと、おいしそうな、えものがいるにちがいない。
紅はバッと襖を開けた。
そこには目を背けたくなるような残酷な光景が広がっていた。
男の‥‥‥冥の体中に足が数百本もあるような大きな虫が這っていた。蜈蚣のようなその虫は、太い体で冥を拘束するようにグルグルと巻きついている。冥はその虫に首を噛みちぎられ大量の血を流していた。
この出血量‥‥‥恐らく事切れているのだろう。その光景は残酷であったが、ある種の美しさもあった。見目麗しい男が蜈蚣のような虫に体を拘束されて食い殺されている。真っ赤な血液は、暗闇の中でも輝きを放って目を惹いた。
それは一枚の絵画のように倒錯的な美しさを孕んでいた。
紅はそんな光景を見て、口の唾液を垂らした。いつの間にか彼女の足元には、唾液によって水たまりが出来ていた。
──だめ、それはわたしの。
紅は強く思った。
その瞬間、ボキボキと殊更近い距離で骨の砕けるような音がした。
紅の意識はここで途切れた。
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冥は首を蜈蚣妖怪に噛みちぎられながら、矢張り理性を失った妖怪の攻撃は堪らないと考えていた。
『蜈蚣妖怪』
その名の通り蜈蚣の妖怪だ。
今、冥を襲っているそれは、攻撃力の強さから見て中程度だろうと予想をつけている。
だが、同時に物足りないとも思っていた。
この程度では、とっくの昔に自分は満足できなくなってしまった。
もっと過激にもっと激しく。それが冥の今の願いだ。単調な痛みにそろそろ飽きてきたし退治してしまおうかと考えた時、唐突に体にかかっていた重さが消える。
目を開ければ目の前では、蜈蚣妖怪の何倍も大きい蜘蛛がそれを投げ飛ばしているところだった。
「おやおや、これはこれは」
目を閉じている時から人の気配には気づいていた。だが、真逆連れてきたその日にこの姿を拝めるとは思ってもいなかった。
冥は顔を綻ばせる。
「蜘蛛妖怪でしたか」
冥が起き上がった後も蜘蛛妖怪は蜈蚣妖怪を口から出した糸で巻き付けて団子のようにしており、此方には見向きもしない。
すると冥の首の傷からボコボコと沸騰したような気泡が現れる。その気泡が治まった時には彼の首は完全に再生して、何事もなかったように傷ひとつなくなった。
あれだけの出血量だ。普通の人間ならまず間違いなく死んでいた。
冥は着崩れた着物はそのままに、突如現れた蜘蛛妖怪を観察した。蜘蛛妖怪の頭──正しく言えば後頭部──には、何か小さいものがぶらんぶらんと揺れている。深夜ということもあり暗い部屋なため、明確には見えないが暗闇でも反射するあの白い髪には見覚えがある。
あれは、紅だ。
そう、蜘蛛妖怪は紅の背中から出ていた。この妖怪は突然現れたわけではない。冥が招き入れたのだ。
「我ながら良い拾い物をしたものですね」
冥の声に反応したように蜘蛛妖怪が此方を向いた。瞬間、蜘蛛妖怪は暫く口をカチカチと動かしたのちに冥の元へ凄まじい速さで寄ってきた。そして、布団の上で上体を起こしていた冥をその八本の足で押し倒した。
「おやおや、私のことも構ってくれるのですか。有難いですね」
「シャアアッーーーー!!!!」
凄まじい鳴き声に鼓膜が破れそうになる。
蜘蛛妖怪は冥を口から出した糸で手と足を拘束するとその首元を思い切り噛みちぎった。
再生した首から再び夥しい量の血が噴き出す。その傷は深く骨まで露出していた。
冥は一瞬、本当に一瞬だけ意識が飛びそうになった。
「はぁっ‥‥‥あっ、この私が、気絶しそうになるなんてっ、矢張り貴方は素晴らしい力をお持ちだ」
ここで冥は蜘蛛妖怪を、その身に飼っている少女を見た。妖蛛が冥を噛むたびに紅はぷらんぷらんと体を揺らした。残忍な行いをしている妖怪とは裏腹に紅は踊るように軽やかに揺れている。
「ですが、まだまだ未熟ですね。貴方にはもっともっと力をつけて、私を満足させてもらわないといけませんよ」
「フシャャャッーーー!!!!」
「嗚呼、すみません。私としたことが、快楽を独り占めしてしまいましたね」
そう言うと冥はにこりと、慈愛に満ち溢れた笑みを浮かべて、蜘蛛妖怪の八本ある足のうちの一本をなぞるように触れた。
「言ったでしょう、これからは喜びも悲しみも全てを『共有』するのです」
その瞬間、今まで元気に首を喰らっていた蜘蛛妖怪が苦痛に体を縮こませる。だが、それでも冥の首を喰うことはやめなかった。
喰えば喰うほど、苦痛が伴うことに蜘蛛妖怪は気がついていないのだ。
「ははっ、あぁ、そうこれこれです‥‥‥素晴らしい! この痛みを得てもっ、尚続けますか。案外貴方は、私と気が合うのかもしれませんねっ!」
冥の生家、東郷家の異能『共有』は相手に触れさえすれば、ありとあらゆる種族と自らが感じていることを共有出来るのだ。
つまり今、蜘蛛妖怪と冥は痛みを共有している。
「ここまで情熱的に求められれば、私も本気で応えないといけませんね」
目から血の涙を流しながらも、冥は異能の解除をしない。己が耐えられる痛みの限界まで異能の解除はしないつもりだ。
ゴリっという凡そ人間からしてはいけない音を立てて、冥の首の骨が折れた。気を失うような痛みだが、それは蜘蛛妖怪も同じだったようだ。
先に根を上げたのは蜘蛛妖怪の方だった。冥の体の上から飛び退くと「フシャャャ」という声を上げながら丸まってしまった。
冥は曲がった首を何でもないことのように再生して、妖蛛の糸を引きちぎると素早く立ち上がる。
「生憎、私は死ぬわけにはいかないのです」
そして、蜘蛛の糸に覆われながらも体をモゾモゾと動かしている蜈蚣妖怪の元へゆっくりと歩く。冥はその巨体を担ぎ上げると蜘蛛妖怪の元へ思い切り投げつけた。
「ですが、貴方を殺すわけにもいかないのです」
蜘蛛妖怪は目の前にある糸で覆われた巨体に見向きもせず、未だに苦しんでいる。
そんな蜘蛛妖怪の元に冥は歩き寄る。彼は再び巨体を持ち上げて、苦しんでいる蜘蛛妖怪の口に巨体──蜈蚣妖怪──を無理やりねじ込んだ。負傷した蜘蛛妖怪は抵抗することもできない。
「覚えなさい、これが妖怪の味です」
無理矢理押し込めば、蜘蛛妖怪の口は動き始める。
「もう人は食べてはいけませんよ。面倒なことになりますから」
蜘蛛妖怪が夢中で喰い始めた。
「そうです。しっかり食べて生きなさい。そして、もっと私に苦痛を与えてくださいね」
軈て蜘蛛妖怪が完全に蜈蚣妖怪を捕食すれば、パリンと軽い音が鳴る。そして、ふわふわと白い球体状の物が冥たちから逃げるように離れていった。
冥はそれを追いかけようとした。
しかし、それよりも早く元気を取り戻したらしい蜘蛛妖怪が動く。白いふわふわした球体──蜈蚣妖怪の魂──を口で捉えると咀嚼し始めた。
ボリボリと言う嫌な音がする。魂は蜘蛛妖怪によって砕かれ消滅した。
「元気になったようでよかったです」
いつの間にか空が明るくなっていた。
冥は日の出を見ながら襟を直し血だらけの着物をきっちりと着込んだ。
「中々気持ちよかったですよ」
冥の視線の先には力尽きたように青い着物の少女が、すやすやと眠っていた。
やっぱり、ドM野郎を書くのは楽しいですね。