第二話 名前を決めましょう
続けて投稿です。
慌ただしく実家を出ることになった少女は、あれよあれよと言う間に冥の屋敷に連れてこられていた。少女の実家も使用人を雇えるくらいには裕福であったが、冥の屋敷は比べ物にならないほどに大きかった。大貴族の屋敷と言っても差し支えないほどの大きさだ。だが、その屋敷はどうしてだか、城下町から電車で三十分程かかる山の中にぽつんと建っていた。お陰で此処へ来るまでに、筋力の無い少女の足は動かなくなってしまった。そのため、途中から冥が横抱きにして連れてきてくれたのだ。
周りには他の住居がなく、人の気配もなければ動物の気配もない。どこを見渡しても木ばかりだ。その木によって空が遮られているこの山は、夜ということもあって静まり返りどこまでも闇が広がっている。
碌に外に出たことのない少女が、怖がるのは当然のことだった。横抱きになったままの少女が、縋るように冥の胸元を握れば相手からにこりと蕩けるような笑みが返ってきて体を支える腕の力が強くなる。
「大丈夫ですよ。喜びも悲しみも私と共有しましょうね」
「いうぅ‥‥‥?」
少女は冥の言葉の意味をいまいち理解していなかったが、彼がそう言った瞬間少女の中の不安な気持ちは消え去って、代わりにわくわくとした気持ちになった。冥は少女の顔を見ると満足そうに笑って、屋敷の中へと足を進めた。
屋敷の中は外と変わらないくらい静かで殺風景だった。必要最低限のものしか置いてない部屋の中は、人が住んでいるようにはとても見えない。
「暗いですね。明かりをつけましょうか」
「あぁい」
「少し待っていてください」
冥は漸く少女を腕の中から解放すると、紐を引っ張って蛍光灯を付けた。少女はといえば、床に座り込みながらも冥が明かりを灯す様子をじっと観察していた。
「穴が空いてしまいそうですね」
冥がそう言えば少女は首を傾げながら彼の元まで近寄って、顔をペタペタと触った。
「おやおや、本当に穴が開くわけではないのですよ。比喩というものです」
「いぅ?」
「そうですね、いつまでも貴方と呼ぶのも味気ない。貴方のお姉様からは許可を貰いましたし、名前を決めましょうか」
不思議そうに首を傾げる少女を見つめながら、冥はまた人のよさそうな笑みを浮かべた。
「私も人に名前をつけたことなんてありませんからね。ふむふむ、そうですね‥‥‥紅はどうでしょう」
「えいぃ?」
長い前髪の間で、少女の真っ赤な瞳が瞬いた。
「気に入ったようで何よりです」
この日、この瞬間から、少女の名前は紅になった。
「まずはその格好から何とかしましょうか」
少女改め紅の格好は、酷いものだった。本来赤だっただろう着物は、土に薄汚れ破けていた。自分で着たであろう着物は、何も考えずに帯を結んだのだろうダルダルに緩んで下に着ている長襦袢が肩の辺りまで見えてしまっている。その長襦袢も黄ばんでいて、とてもではないが呉服屋の娘とは思えない。
「そうですね、まずは体を清めましょうか」
「あぃ、」
「良い子ですね、少し待っていてください」
そう言うと冥は、台所で湯を沸かして桶に汲むとそこに手拭いを浸した。
「これで体を拭ってください」
「あぁい」
紅はそれを受け取ると何の躊躇もなく着物を脱いだ。それを見て冥は困ったように笑って、後ろを向く。
「紅、人前で恥じらいもなく脱ぐのはいかがなものかと思います」
「うぅー?」
「貴方が気にしないのなら良いのですけどね」
紅は首を傾げながら体をいいかげんに拭くと、また着物を着直した。静かになったことで冥は再び紅に向き直る。
「‥‥‥紅に任せていると、いつまで経っても綺麗になりませんね」
紅の格好は、拭く前とあまり変わっていなかった。髪も体も薄汚れたままだ。
冥はひとつ息を吐くと、紅から手拭いを奪って桶に浸して絞った。思った通り、お湯には全くと言っていいほど汚れが浮かんでこない。紅が満足に体を拭いてない証拠だった。
「身なりを整えて損することはありませんからね。貴方は今年で十六の立派な女性です。これからは身なりもひとりで整えられるようになるといいですが‥‥‥まぁ、出来ないのなら、私がして差し上げましょう」
「あぁーい?」
そう言うと冥は紅の着物を脱がせて、体の端々まで拭ってやった。手拭いは瞬く間に汚れて髪を拭う頃には桶のお湯を三回も変えていた。おかげで、紅の薄茶色だった髪は雪のような白色になり本来の姿を取り戻していた。
それを見て冥は、奥から女性物の水色の着物と真新しい清潔な長襦袢を持ってきた。そして、紅を立たせると手早く着付けた。
髪はボサボサと伸び放題に伸びているものの、紅の格好はそれなりに見れるようにはなった。
そんな姿を見て冥は目を細める。
「お風呂は明日入りましょうね。今日はもう遅いですから、食事をとって休みましょう」
「いおぅい!」
「ふふっ、簡単なものしか用意できませんが、待っていてください」
冥は残っていた白米と味噌汁、それから漬物を皿に乗せて紅の前へ運んだ。そして、自分も彼女の前へ座ると手を合わせて食べ始めた。紅はそんな冥のことを不思議そうに見ている。
「嗚呼、そうでした。私としたことが、返すのを忘れていました。これ、貴方の物でしょう」
そう言って冥は紅の足元に簪を置く。彼女はそれを見て嬉しそうに顔を綻ばせると、手にとって漬物を刺した。
そう、簪で突き刺したのだ。
そして、当たり前のようにそのまま食べた。
冥は目を細めると立ち上がり、紅の手から簪を取り上げた。ご飯を食べて無邪気に微笑んでいた顔が、一瞬にして悲しそうな泣き出す手前の子供のような顔に変わる。
「紅、これは箸ではありませんよ」
「うぅー」
紅の伸ばされた手を無視して、冥は彼女の後ろへ回ると真っ白な髪を簪で纏めてやった。黄土色のそれは、薄汚れていても確かな輝きを放っている。
「これは簪。髪につけるものです」
「あーぃ?」
「食事は箸で食べるんです」
紅の手に箸を握らせると彼女は少し悩んだ素振りを見せて、両手に一本づつ持った。そして、漬物を刺して食べ白米は両手に持った一本づつの箸で掬うようにして食べている。到底綺麗とは言い難い食べ方だったが、今度は冥は何も言わなかった。
元の位置に戻って食事を再開すれば、真っ白の長い前髪の間から赤い瞳がじっと此方を観察していた。冥はそれに気付きながらも特に気にすることもなく食事を続ける。
軈て紅は右手に持っていた箸の一本を左手に持ち直し、漬物を不器用ながらも箸で掴んだ。だが、その漬物はあともう少しで紅の口に届くと言うところでぼとりと落ちて、見事に白米の上に着地した。
そこで漸く冥は、紅が自分の真似をしようとしていることに気がついた。本来の使い方をしているのに先程よりも余程食べにくそうな紅に、冥はおかしそうに笑う。
「ふふっ、紅は物覚えがいいですね。期待できそうです」
冥が笑っている間も、紅は必死に食べてせっせとその水色の着物を汚していくのだった。
あと一話投稿します。