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その38「猫の爪切り抗戦記」



 ……


 …………


 ………………記憶がない。


 昨日の飲み会の途中からの記憶がないのよ。


 ええと、確か、後輩ちゃんがねこねっとの動画をみんなにも見せようとして、それをやめさせようとして……その辺から記憶がない。後輩ちゃんの一番おいしいおつまみを決めるのは、どうなったんだっけ?


 それよりも、ちゃんと家にいて、いつものお気に入りの座布団の上で寝ていたわけで……どうやって帰って来たの? それすら覚えていないのよ。え、怖い。後輩ちゃんに聞く? 後輩ちゃんは無事かしら?



「ママー! 猫さんなんかおかしいよー!」



 娘ちゃん、ご主人の残した一人娘、我が家の同居人の一人である湯島亜美、いい子、時々、進撃の幼女になる彼女の母親を呼ぶ声で、意識は覚醒していく。


 娘ちゃんの手には猫エサの大きな袋。彼女の足元、自分の目の前には、私の朝ごはんとしてお皿に盛られた、毎度毎度のドライフード、通称カリカリ。娘ちゃんは私を見て、おろおろと心配そうにしている。


 今の自分を客観的に見てみる。


 座布団の上に香箱座りをしているが、目は虚ろで視線は定まらず、口はだらしなく半開きになって、娘ちゃんにもカリカリごはんにも反応しない、と……うん、これは、心配するよね。ごめんね。大丈夫。けど今はちょっと、そっとしておいて欲しいのよ。


 すぐに母親のあづきがやって来て、私の体を優しく撫でる。


「本当、どうしたのかしら? 病気? マル、辛い? 何か言ってちょうだい」


 何も言わないからね。猫に言葉を喋らそうとするんじゃない。


「マルー、大好きなカリカリだよー、いつもガツガツ食べるカリカリだよー」


 食べ物に誘導しようとするあづき。いつもガツガツしてないもん。失礼なの。


「食べない……これは本気で心配なやつだ……。ちょ、ちょっと待ってね、マル、これは? これは食べる?」


 あづきは何処からか、どれほど調子の悪い猫でも喰いつく必殺ごはん兵器、ちゅ~るを取り出してハサミで袋の先端を切り取り、私の鼻先に突きつける。


 私はちょっと匂いを嗅いでみる、鼻先を舐める。


 あれ、食欲が、湧いてこない?


 こっ、この症状は……っ!? ……食べすぎだよね。


 明らかに昨日食べ過ぎた。もう何も入らない。ペースト状の憎い奴、魅惑の食べ物ちゅ~る様でも口に出来ないくらいなのよ。もう、本当に無理だから。


「マルぅ、食べてよぅ」


 食べられないから。押し付けないで。


「猫さん死んじゃう!」


 死なないから。揺らさないで。


 あづきも娘ちゃんも涙声になっていく。ただの食べすぎだから放っておいて欲しいのよ。あづきは諦めることなくグイグイとちゅ~るを押し付けてくる。心配してくれているのはわかるから、やめて。


 こういう時に言葉による意思の疎通が出来ないのは面倒なのよ。……喋るか? いっそ喋ってやるか? いや、やめとこう。怖がらせるだけだからね。


 これは私が食べないとどうしようもない流れなのでは? ちょっとだけ舐めてみる、無理。


「病院、そうだ動物病院に連れて行かなきゃ……」


 あーづーきー、もーやめてー。病院も行かないからね。


「そろそろ爪も切らないといけなかったし、見てもらうついでに切ってもらお?」


 動物病院で爪切りかー。そういや、いつもついでにやってもらっているのよね、爪切り。あれ、嫌なのよね。だって爪を切ると踏ん張りが利かなくなって滑る……屋根、カシャン、落ちる猫、笑う白猫、うっ、頭が。


 とにかく病院には行かない。爪も切ってもらわない。決定なの。断固、拒否。


 あづきはお出かけ用の猫のキャリーケースを持ち出して来て私を中に入れようとする。けど無駄なの。梃子でも動かぬ所存。


 私がいつまでもケースに入らないので、ちゅ~るをケースの中に入れて誘導するあづき。本気なの? 食べ物では釣られないってば。


「本当に心配だわ、いつもは大人しく入ってくれるのに……病院に行くんだよー、マルー、入って」


 確かに、物わかりの悪い子供じゃ無いもの、普段は抵抗もせず自分からキャリーケースの中に入るんだけどね、今日は嫌。


 しかし、あづきも諦めない。私を持ち上げようとする。私は座布団から剝がされないように爪を立てて必死に抵抗する。 ぬあ!? あづきめ、座布団ごと私を持ち上げよった!? ふんぬふんぬと、私と座布団を持ち上げたままキャリーケースに近づくあづき。しかし猫用キャリーケースは横から入るタイプ。困るあづき。計画性!


「亜美、座布団、取って!」


 母親に言われた通りに素直に行動する娘ちゃん。いい子、じゃなくて、やめてー。グイグイと容赦なく座布団を剥がそうとする。爪が、爪がああ。このままじゃあいけないと、たまらず爪を引っ込める。私は座布団から引きはがされる。私はあづきに持ち上げられたままの状態。乱暴にしないでって、その座布団、お気に入りなのよ、破れちゃうからー。


「亜美、ケースを立てて! それからふたを開けて」


 ぜーぜーと息継ぎをしながら娘ちゃんに指示を出すあづきと、その指示を完璧に理解して従う娘ちゃん。娘ちゃん、成長したなぁ、じゃなくて。


 このままではケースに入れられる。病院に連れていかれる! 爪を切られちゃう!


 わきを掴まれているので前足は前にびょーんと出た状態で動かすことができない。だから自由な後ろ足を使いケースの端をしっかりと捉えて離さない。大股開き、はしたない、けど言ってられない。上からケースに入れようとするあづきと、踏ん張ってケースに入れられることに抵抗する私。


 しばらくの拮抗状態。


 娘ちゃんが見守る中、あづきがついに諦めて私を床へと解き放つ。ヨロヨロと座布団の上に乗っかる私。もう離さない。



「ぜぇー、ぜぇー、そういえば、まだ診察時間じゃなかったわ」



 だよね!? そういえばそうだった! 今からケースに入っても何時間も待たされる所だったのよ。


 さっきまでのはなんの戦いだったの? 無意味すぎる……


 しかし、動いたおかげでお腹に余裕が生まれた、気がする。私のごはんが盛られたお皿の所まで行ってカリカリを食べる。うん、頑張れば、入る。


「食べた! マル、病院いかなくていい? ちゅ~るは食べる?」


 出されたちゅ~るを舐めとる。おいしい。


「ママー、猫さん、病気なおった?」


「……とりあえず、いそいで病院に連れて行かなくていいみたいだね。様子を見ましょう。……マルが本気でケースに入るのを嫌がると、こんなにも大変なんだ……むしろマルが元気すぎる……」


 勝った。けど虚しい勝利なの。


 お腹が空いていないけど頑張ってカリカリを詰め込む。



「病院には行かなくても、爪は切るからね、マル。えっと猫用の爪切り、どこだったかしら……」



 問題解決、してなかったのよ。


 嫌だけど、爪は結局切らないと駄目っぽい。あづき、爪切り下手っぴなのよ。いつも深爪をしてしまうから。猫の爪は中に神経が通っているからね、ほんのちょっと先端を切るだけでいいの。深く切られると痛いし血が出ちゃう。あづきに爪を切られるくらいなら病院でやってもらうほうが安心だったかも。


 爪切りするなら深爪やめてって、言葉を使わずにどうやって伝えようか考えながらカリカリを食べる。お腹いっぱい。


 これじゃあ私、本当に丸くなっちゃうからね!




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