その2「うちの猫はかしこかわいい」
うちで飼っている猫はとても賢い。まるで人の言葉がわかるようだ。いや、わかっている。
それどころかきっと、しゃべれる。
私の名前は湯島あづき、医療系の会社で事務をしている28歳。亜美という名前の5歳になる娘が一人いる。4年前に夫に先立たれて、悲嘆に暮れていた私のことを、うちで飼っている猫が励ましてくれた。
――なかないのよ、あづき、わたしだってかなしいの、けどなかないの、にゃうん
彼女がしゃべったのを聞いたのは、後にも先にもこの言葉だけ。他人に言うつもりはない。信じてもらえないだろうし、馬鹿にされるのは悔しい。私だけが信じていればいい。
結婚と共に中古の古い家を購入して、夫が飼っていた猫たちと一緒に住み始めたのは7年前。彼と私、それから3匹の猫たちとの生活。オスが子が2匹とメスの子が1匹。オスの2匹の方は問題ないとして、問題だったのはメスの子の方。
三毛猫のマル。それが彼女の名前。
最初の頃の私たちの仲はとにかく悪かった。完全無視とかはまだ良い方、ときに引っかかれ、ときにお気に入りの服で爪を研がれ、熱い料理を持っている時に限って絶妙な力加減でぶつかってきたり……
あまりに賢く、的確に人の嫌がる所を突いてくるこの猫はひょっとして人間の言葉がわかっているんじゃないかと、この頃からもう疑っていた。
病気がちだったあの人が大病を得て寝込むようになったのは、私の妊娠が発覚してしばらくした頃。
「マル。あづきと仲良くしてね」
前々からあの人に言われてはいたけれど、まったく聞く様子のなかったマル。けれど彼が病気で倒れてからは、私への攻撃はピタリとやんだ。マルと一緒に彼の看病をする内に、いつの間にか自然と懐いてくれていた。
彼の闘病生活はそう長くはなかった。その間に子供が生まれて、その子の1歳の誕生日を一緒に祝って、そして、彼は穏やかにその生涯を閉じた。
泣いて、途方に暮れて、泣いて、何もできずに打ちひしがれているだけの私に、彼女は確かに泣かないでと声をかけてくれた。「泣かないで、あづき、私だって悲しいの、けど泣かないの」そう、確かに、聞こえた。
呆然とする私の方を見ないように、不貞腐れたように寝入る彼女を見て、私はようやく周りを見ることができるようになった。沢山の人が支えてくれている。幼い子供がいる。泣いている場合じゃないぞと。
彼が亡くなってしばらくしてオスの2匹は家出をして、そのまま失踪した。できる限りで探し回ったが見つからなかった。「あの猫たちも歳だし、猫は死に顔を見せないなんて言うから、どこかでもう死んでいるだろう」なんて親戚の人は言っていたけれど私は信じていない。たぶんマルも信じていないだろう。
家には私と子供、そして彼女。二人と一匹だけになった。けれど寂しく無かったのは、この子と彼女がいてくれたから。
そう言えば昔、子供が夜中に高熱を出したときには寝ていた私を、あわてて起こしに来てくれたこともあったな。あの時の必死なマルの顔を思い出すとニヤけてしまう。この世の終わりがやってきたのか!? って言いたくなるような顔をしていた。うん、猫のしていい表情じゃないよ? マル。
「ママ笑ってるー」
娘の亜美が私を見て笑う。怪我も無く、酷い病気も無く、すくすくと元気に育ってくれている。マルが見ていてくれるからだよ。
仕事が終わり、子供を預かってもらっていた保育所からの帰り道。もうすぐ家につく。
「思い出し笑いかなー」
「おもいだしわあい」
ちりーん。
鞄に付けた鈴の音が鳴る。元は夫が持っていた鈴。彼が死ぬ前に私にくれた鈴。「この鈴を家の前で鳴らすと猫が玄関で出迎えてくれるんだ」なんて言って笑っていた。確かに彼が鳴らすと猫たちは玄関までやってきて出迎えていた。まぁマルが私を出迎えてくれたことは一回もないのだけれど。今日はどうかな?
さあ、家に着いた。
◇
やっぱり猫の出迎えは無し。はい、いいですよ。わかってましたよ。
帰ってすぐに猫に突撃しようとする娘に手洗いとうがいをさせる。にゃーという気の抜けた鳴き声が聞こえる。
「あれ? カリカリ食べてない」
家を出る前に猫のお皿に入れていったカリカリ、いやドライフードだが、それが減っている様子が無い。年の割に食欲の旺盛なこの猫がカリカリを食べ残すのは初めてかもしれない。ちょっとだけ不安になる。
「猫さん元気ないのー?」
娘が猫を撫でながら猫に聞いているが当然、猫からの返答はない。眉間にしわを寄せて……いや、これは彼女の柄でそう見えるだけだが……娘のされるがままだ。
「ママ―、猫さん元気ないよぅ」
「買ったばかりだけど、これ食べるかしら? 病気じゃないといいんだけど、もう結構お年寄りだし……」
歯も抜けていないが、やはり年齢が高いと食欲も無くなるものだろう。おやつとして買った、突進する猫がトレードマークの柔らかエサの封を切って猫に近づけてみる。食べてくれるだろうか。
眉間にしわを寄せて不機嫌そうに舐めるうちの猫。目を見開き舐めまくる猫、私の手を両方の前足で抱え込み、貪るように勢いよく食べはじめ、あっと言う間に柔らかエサを完食する。彼女は柔らかエサだけじゃ飽き足らないのか、残っていたカリカリを勢いよく平らげていく。
あーーもーー可愛い。
「うちの猫はかしこかわいい」
マル。元気で長生きしてね。