第78話 ジョーの背中
崖に掘られた溝の鎖をもちながら、逃げるジョーとエルザ。
背中の向こうで、何やら恐ろし気な轟音が、何度も何度も響き渡ってくる。振り返ると、木々が燃えた煙なのか、それとも水蒸気なのか……。エルザは冷や汗を流しながら、ジョーに言った。
「何なのあれは……まるで化け物じゃないの」
「余計なことをしゃべる暇があったら足を動かせ!」
「はいはい」
そんなことを言いながら、2人は走り続ける。
そんな緊張感のない言葉を言いながら、恐怖心を胡麻化しているのだ。
(こんな崖をくりぬいたような道では、足場が悪くてなかなか進まん。このままでは追いつかれてしまうだろう。俺はどうなっても、エルザだけはなんとか助けねば)
ジョーは内心、そう考えていた。彼がそこまで悲観的になっていたのも、ジョー自身、体が冷えて頭に熱を持っていたし、エルザを守っていくつかの飛び石で怪我をしていたからである。そして、当たれば即死を免れないほど大魔法が、次々とジョーたちの脇を掠めていくので、ジョーは内心焦りを感じていたのである。
「ジョー! あいつら川の中を歩いてきてるわよ」
「なんかでかくなってないか? あの熊の化け物」
巨大すぎて遠近感がおかしくなりそうだが、周りの風景と照らし合わせてみると、思っているより遠くにいるようである。だが、決して油断はならない。こちらとて、そう早い逃げ足ではないのだから。
一方、追うカミルの方は苛立っていた。
エルザを追いかけてはいるものの、河原を進む魔獣の足は、思ったより早くはならなかった。なぜなら、川の水嵩が増しているからである。もちろんそれは、カミルがめくら滅法に大魔法を撃ちまくった結果なのだが、それに関して反省するつもりはひとつもない。
ただ魔獣の歩みが遅いため、エルザを取り逃がすのではないかという苛立ちがカミルの心を支配していた。
「ええい、往生際の悪い女だ。こうなったら遠距離攻撃で狙い撃ちして、早急に勝負を決めてしまおう」
カミルはそうつぶやくと杖をエルザたちが歩む崖の道へと向けた。
「ええい、ライトニング、10連撃!」
カミルがそう叫ぶと、バリバリバリ!と轟音をあげ、天空より無数の霊撃が落ちてきて、岩肌を削った。その衝撃で岩肌は剥がれ落ち、あれだけ綺麗だった川は、あっという間に岩だらけになってしまっていた。
「ええい、邪魔な!」
カミルと大熊は、自分がやったこととはいえ、大岩で川を進むことが難儀していた。カミルは川の中にある大岩にライトニングを走らせるが、それで大熊が感電してしまう。
「グオオオオッ!」
感電に怒る大熊に、カミルは慌てた。
「うわっ!落ち着け!」
少し興奮状態に陥った魔獣・アースクエイクは、前足で川床を叩き、地震の亀裂を四方へ走らせる。ドゴーンという音と共に、崖を破壊し、ガラガラと崩落させていく。
雨に混じって砂煙なのが、水煙なのか……一時的に視界の悪い状態が続き、カミルの機嫌はさらに悪くなってく。しかし、さすがのカミルもこれ以上、感情に任せて動くと碌なことはないことくらいの判断はついた。
「ふう、ふう……俺は一体どうしたというのだ……。この力を得てから、感情の制御が難しくなった気がする。……もしかすると、ベルメージュが戦いに憑りつかれたようになったのも、この力のせいかもしれないな……」
カミルは視界がクリアになるのを待ってから、エルザとジョーを追って、川を下り始めた。
大熊が足止めを食らっている間に、ジョーとエルザは、先へ急いでいた。
「鍾乳洞へ通じるトンネルまでもう少しだ。頑張れエルザ!」
ジョーの言葉に励まされながら、右腕を三角巾で吊るしたままのエルザは、眉間に皺を寄せながら頑張って歩いていた。激しい雨によってずぶ濡れであり、三角巾も包帯も、水で濡れて傷口が痛んだ。
それから、しばらくして、ジョーとエルザはトンネルの入り口についた。ジョーは黒い穴を覗き込む。
「何も見えないが仕方がない。とりあえず俺からいくぞ。合図をしたらすぐに登ってこい」
ジョーはそういいながら、濡れた岩場へと足をかけた。待っている間、エルザは後ろを振り返ってみた。すると、大熊はもうすぐそこまで迫っているのである。
「大熊が来てるわ! すぐ後ろよ!」
「なに!」
ジョーは、2mほど登ってから、岩だなのような場所へ足をかけた。
「急げ!エルザ! 登って来い!」
降りしきる豪雨の中、大熊は2足歩行で川を歩いていた。川の流れは早く、水嵩も増していたのだが、巨大な大熊は流されるまでには至らなかった。大熊の、頭の上に立つカミルは、エルザに向かって叫んだ。
「やっと追いついたぞ、エルザ! どんな魔法でお前を仕留めてやろうか」
カミルの言葉に、エルザは大声で言い返した。
「何の恨みがあって、わたしたちの命を狙うのよ!」
「恨み? 俺はお前に恨みなんかないさ。あるのはジェームズの方かもな。あいつはお前に、自分が考えた企みをことごとく潰されて、怒り心頭ってところさ」
「それは、あいつが先に仕掛けてきたことでしょ!」
「どっちが先だとか、そんなものは関係ないのさ、エルザ。それは納得の問題なんだよ。俺やジェームズが納得するかどうか。……それが大事なんだよ」
大雨が降る中、背中からジョーが声を投げてくる。
「エルザ!早くあがって来い!」
後ろでジョーが叫んでいる。
だが、今、背を向けると、カミルは魔法を撃ってくるに違いない。だからといって、このまま待っていても攻撃されるだろう。……エルザは体中へ打ち付けてくる雨に顔を顰めながら、カミルを睨みつけていた。
「さて、どんな魔法がいいのかな……そういえば、水魔法で君を攻撃してなかったね……。オリバー師匠の得意分野なのに、使わないなんて失礼だとは思わないかね? 君たちはそこのトンネルから逃げようと思ったのだろう? そうだろうと思ったさ。だが、ここへ水を流し込めばどうかな、エルザ。お前もジョーも一貫の終わりではないかな?」
「エルザ! 何をしているんだ、早く!」
「ダメよジョー! カミルが何かしようとしてる!」
「さあ、早くトンネルの中へ入れよ……運が良ければ水の勢いで鍾乳洞まで引き上げてくれるだろう。だが運が悪ければ、途中の岩にひっかかって、窒息死することになるがな」
そう言いながら、カミルは崖のそばへと接近し、トンネル穴が良く見える位置へと移動した。……そして、水魔法を発動する。
その時、エルザは握っていた崖の鎖から手を放し、崖を蹴って魔獣の方へ飛んだ。
「エルザぁー!」
ジョーは叫んだ。そして両足を踏ん張って、ロープを握りしめた。
詠唱に集中していたカミルは、ほんの数秒、動きが遅れてしまっていた。その間エルザは落ちる勢いのままエルザは剣を腰だめに構え、アースクエイクの左目へ剣を突き刺していったのである。
「エルザっ!」
大熊はギヤアアアッと大きな叫び声をあげて、のけ反り返った。
「うわああっ!」
大熊は刺された目に凶悪な指先の爪を向けたが、エルザの剣は大熊が暴れた際に抜けて、大熊の頭の上で尻もちをついた。
その大揺れになった熊の背で、カミル自身も大きく体勢を崩していた。それを見たエルザは手に持っていた愛剣・剛鉄をカミルに向かって投げつけてしまった。そして、投げられたエルザの剣はカミル肋骨へと突き刺さり、カミルの心臓を貫いていた。
「ぐあああっ!」
カミルが剣を抜き去る間もなく、アースクエイクが横倒しに倒れたため、エルザもカミルも濁流に落ちることになった。濁流に飲まれるカミルとアースクエイク。
しかし、エルザは空中で宙吊りになって、激流の流れへ飲み込まれる前に引き上げられていた。……ジョーがロープを肩に巻いて、しっかりと岩場へ足をかけて踏ん張っていたのである。
「耐えろ! 耐えろよエルザ!」
そうして、猛烈な流れに伴って巻き起こる風の引きに逆らって、ジョーはロープを手繰り寄せ、ついにはずぶぬれのエルザを引き上げていた。
引き上げられたエルザは、雨や水飛沫でずぶ濡れのまま、ジョーの肩へとしがみ付いた。
「エルザ!」
エルザは冷え切った体をジョーに預けて、その頼りがいのある首筋に腕を回していた。
「ジョー……ありがとう。……きっと引き上げてくれると信じていたわ」
そう言うエルザにジョーは優しく言った。
「無茶するんじゃない……心臓が止まるかと思ったぞ」
「ごめんなさい。でも、もう少しで魔法の直撃をくらうところだったのよ。あの時は、これしか思いつかなくて」
そう言って俯くエルザの髪を、ジョーは優しく撫でた。
「そのおかげで俺たちは助かったのはわかるのだが……このせいで、もしお前が帰らぬ人になったらと思うと……俺は本当に肝を冷やしたぞ」
それを聞いてエルザはハッとしてジョーを見た。
「とにかく、上まであがろう。結構距離がありそうだからな。濡れたままでは体に悪い」
「ええ……体が冷えてとても寒いわ」
そう言うと、エルザとジョーはトンネルを上がって行ったのだった。
◆
その頃、濁流に飲まれた魔獣・アースクエイクは、いまわの際の、叫び声をあげていた。
エルザの剣によって、脳が損傷していたのである。
手足を振り回し、めくら滅法に衝撃波を打ち続けていた。その衝撃波は崖を削り、岩を吹き飛ばしながら、美しかった渓谷を破壊し続けていた。
カミルは、エルザに向って放とうとしていた水魔法を、結局は川の上流へと放ってしまい、水勢に勢いをつかせる結果となってしまっていた。それに加えて、これまで放ってきた暴力的な魔法の数々によって、山肌の緩んだ地盤が崩れ落ち、土石流となって流れ落ちて来たのである。
その、抗いがたい自然の暴威に、神のごとく力を身に着けたカミルとて、逆らうことは出来なかった。
「ぬあああ、なんてことだっ!」
死にかけの大熊・アースクエイクは、濁流に飲まれたまま暴れまわり、衝撃波を放ち続けて、自らが壊した崖の岩に埋め尽くされてしまった。そしてアースクエイクは、そのまま窒息死したのである。
カミルは、超回復魔法の力があるので、死ぬような苦しみを繰り返し味わいながら、水の中の岩の下でもがいていた。水の中なので詠唱も出来ず、魔法を起動する魔法陣も持っていなかったため、岩の下でもがきながらも脱出することが出来ないでいたのである。
そして、死ぬ間際に大熊の放った一つの衝撃波によって、崖を形成していた一枚岩が倒れ落ち、カミルの上へと落ちてきた。
その巨大な一枚岩は、カミルを押し付けていた岩を粉々に砕き、その下にいたカミルをも押しつぶした。その、圧倒的な重みはカミルの肉体を圧殺し、心臓に張り付いていた核をも押し潰したのだった。
◆
エルザとジョーは、大雨でずぶ濡れになったまま、トンネルの中へと入って行った。
入口付近の急な登りを終えて、歩いて進める道へ出た時、2人はようやく休憩を取った。
「体が冷えるといけない。とりあえず、服を絞って水気を取ろう」
ジョーは自分の服を脱いでよく絞り、水気を切ってからそれでエルザの髪や顔を拭いていった。
そして、エルザのシャツを脱がせると、よく絞ってからまた着せた。その時、ジョーはエルザの異変に気が付いた。
「エルザ……すごい熱じゃないか……一体いつから?」
「わからない……カミルたちが流されていって、気が緩んだのかしら……急に頭が重くなったわ……」
「これは駄目だ!」
今は武器だけ握って飛び出してきたところだから、薬も食料も、着替えも火を起こすことも出来なかった。……小屋へ戻ろうにも、小屋も道もないし、ここから町まではずいぶんと遠い。
「とにかく、先を急ぐしかない……」
ジョーはそういいながら、立ち上がった。
「エルザ……ここからは俺が背負って歩く。お前は俺の背中で寝ていろ」
「そんなの悪いわ……」
「馬鹿言え。そんな状態で歩いていたら、いつまで経っても森から出られないぞ。いいから背中に乗るんだ」
エルザは頷くと、ふらふらとジョーの背中に倒れ込んでいき、そのまま目を閉じて、意識を手放した。
「エルザ!死ぬな! 頑張って生きるんだ! お前を失ったら、俺は生きて行けない!」
ジョーはそう叫びながら、トンネルを登っていった。その先に見える、一筋の光明を目指して……。




