第2話 斬撃
幸いなことに、外に狼はいなかった。
3人の少女は、カレンの家へ向かって走っていく。
「この調子だと、すぐにカレンの家に着きそうだわ」
エルザはそう思った。
カレンは足が速いので随分と先を走っているが、モニカはいつも家で本を読んでいるような子だから随分と離されてしまっている。
エルザは、すぐにモニカの背中へと追いついた。近付いてみると、モニカは声をあげて泣きながら、カレンの後を追って走っていた。モニカの泣き方があまりにもひどいので、ちゃんと前が見えているのか、エルザはとても心配になった。
「モニカ! 顔をあげて! カレンの家が見えたわ! もう少しよ!」
モニカが顔を上げると、遠くに赤い屋根が見えた。モニカは泣きながら何かを言ったが、それは泣き声が混じって言葉になってなかった。
エルザは、モニカを励ましながら、周りを見渡していった。右手には水車を回す川があり、左手は丘である。魔獣が来るとすれば、左手の丘から来るのだろうが、少なくとも目で見える範囲に魔獣の姿はない。それよりカレンの家の、赤い屋根が見えて来たので、エルザの胸の中では、安堵の気持ちが大きくなってきていた。
そして、今では、あのまま水車小屋で震えているより、思い切って走って良かったのかもしれないとさえ思うようになっていた。
◆
その頃、カレンの家の裏には、10匹のブラックファングがいた。
庭で放し飼いにしていた鶏たちは、すっかりブラックファングの餌食になっていた。
カレンの母親は、鶏を小屋へ戻す余裕がなかったのである。しかし、小さい鶏を数匹など、ブラックファングにとってはおやつのようなものだ。
そんな時、小さな女の子が、ブラックファングの群れの方へと近づいて来るのだ。それは、ブラックファングにとって、食べてくださいと言っているようなものである。……まずは、先に気付いた1匹のブラックファングが、女の子に向かって走り出していった。
◆
先頭を走っていたのはカレンだった。
彼女はようやく自分の家に辿り着いて、扉を叩いた。
「お母様! お母様! ここを開けて! 私よ! モニカとエルザも一緒なの! 早く開けて! 早くしないと、狼が来ちゃうわ!」
その頃、モニカはもう息も絶え絶えだった。走る速度は目に見えて遅く、走っているのか、歩いているのかよくわからない速さにまで落ちている。これにはさすがのエルザも、ジリジリと気が急いてきていた。
遠くを見ると、カレンは家に着いて、扉を叩いているようである。エルザはモニカを励まして言った。
「モニカ! カレンは家に着いて玄関の扉を叩いているわ! もう少しだから頑張って!」
エルザはモニカに声をかけた。モニカは息が苦しくて、顔を縦に振ることしかできない。モニカは袖口で涙をぬぐった。
その時、左手に広がる丘の上から、1匹のブラックファングが走って来るのが見えた。エルザの背筋に寒気が走った。
「モニカ! 魔獣よ! 走って! 早く!」
モニカは一度だけエルザの方を振り向いたが、その顔は驚きと恐怖に色塗られ、信じられない、という表情をしていた。
足に力が入っており、前に進もうと頑張っているのはわかるのだが、肝心の速度の方は全然上がっていない。
ブラックファングは、猛スピードで駆けて来て、あっという間に、モニカの15メートルほど先の正面へ躍り出た。
エルザが叫んだ。
「モニカーっ! 止まって!」
エルザの声を聞いたモニカが顔を上げると、1匹のブラックファングが、目の前へと迫ってきていた。
「きゃあああっ!」
モニカを悲鳴をあげて尻もちを着いた。
猛スピードで駆けてくるブラックファング。
モニカが瞬きをして目を開けた時にはもう、ブラックファングはもう目の前に迫っていた。
モニカは頭を抱えて目を閉じた。
そこへエルザが走ってきて、そのままブラックファングの右目へスレッジハンマーをぶち当て、頭蓋を打ち砕いた。
「おおおりゃあ!」
ハンマーといっても、このスレッジハンマーは頭部だけで3キロほどの重さがあり、長さは80cmほどもあるのだ。ブラックファングはギャンと一声悲鳴をあげると、頭から血を吹いて、そのまま動かなくなった。
「やったの?」
エルザは、すぐさまモニカを見て、脇を抱えた。
「モニカ。走るわよ!もうちょっとなの。立ってモニカ!」
モニカを立たせようとしたが、どうも反応が鈍い。……エルザは、膝をついて、モニカの様子を見た。……モニカはガタガタ震えて声も出ない様子だ。
「モニカ……大丈夫?……」
モニカは痺れているのだろうか。返事はなかった。
「……ブラックファングの爪か何かが当たったのかしら?」
よく見ると、腕のあたりに赤い擦り傷があるのが見えた。
「もしかして……たったこれだけで麻痺してしまうわけ?」
エルザは驚いてしまったが、このままモニカを置いて逃げる訳にはいかない。モニカを抱えて走ろうかと思ったが、思いのほか、他のブラックファングの到着は早かった。
今度は2匹である。
エルザは、スレッジハンマーを握りしめて立ち上がった。
ブラックファングは、体長が1.5m程度。エルザとさほど変わらない大きさだが、俊敏さはけた違いに速い。
2匹のブラックファングは、しばらくエルザの様子を見ていたが、やがて2匹同時に、エルザへ向かって走りだしてきた。
エルザはスレッジハンマーの頭近くを短く持って、小回りを利かせながら2匹のブラックファングへハンマーを叩き込んだ。
ギャン!ギャイン!
1匹は腹、1匹は頭に当たる。だが、それは、当てにいくのがやっとのこと。悲鳴をあげてブラックファングは横へ飛び退いたが、倒すには、力が足りなかったようだ。
「くそう!」
だが、悔しがっている暇はない。目の前の2匹がダメージを受けている間に、もう一撃入れたいエルザは前へ飛んだ。
2頭のブラックファングは、痛さを紛らすために少し地面を転がっていたが、やがて身を起こして遠吠えをはじめた。
オオーーーン
オオーーーン
エルザは遠吠えを始めたブラックファングの片割れに近付くと、スレッジハンマーで頭蓋を叩き割った。するともう1匹のブラックファングは遠吠えを止めて逃げようとしたが、エルザの動きの方が少しだけ早かった。エルザに背中をハンマーで打ち付けられ、血を吐いてぶっ倒れた。
だが、問題はこれからだ。
エルザが顔をあげて丘の方を見ると、7匹のブラックファングがこちらへ向かって駆けてくるのが見えた。
「ちょっと、7匹だって? 冗談じゃないわよ!」
これには、さすがのエルザも青ざめてしまった。
(こうなったらモニカを抱いて、川へ飛び込しかない!)
そんなを考えていたエルザだったが、そこへ、1人のおじいちゃんが、エルザの目の前へふらりと現れて、エルザに言った。
「よく頑張ったな」
そう言って、腰に差してあった剣を抜いた。
エルザはその輝く刀身を見つめた。
剣といえば怖い武器のはずなのに、この時ばかりは何よりも頼もしいものに見えた。
そして、襲い掛かる7匹のブラックファングめがけて、手に持った剣を振り回すと、たちまち数匹を斬りつけてしまった。その時、そのご老人は、まるで踊りでも踊っているかのようにクルクルと舞いながら、狼たちの攻撃を巧みに躱し、斬りつけていった。
「まるで猛獣使いに操られ、自分から斬られに行ってるみたいだわ……」
エルザはそう思いながら、おじいちゃんの身のこなしに見とれてしまっていた。
ギャイン、ギャン!
ブラックファングは悲鳴をあげながら周囲を走り回っていた。
「ふむ、即死は2匹だけか」
おじいちゃんはエルザを見下ろして笑った。
「お嬢ちゃん、名前は?」
「エルザ……」
「よし、エルザ。ワシはセドリックだ。いいか、お前はこの剣を持っておけ。もし狼が襲ってきたらな、そいつを振りまわすんだ」
「どうやって振ったらいいの?」
「そうだな、頭の上でこうやって剣を構えてな、魔獣が来たら振り下ろせ」
セドリックそういってじ上段に構えてから、上段から剣を振り下ろして見せた。
「うん……こんな感じかな……」
その構えをエルザは真似をした。
「そう……それでいい。狼が来たら、何度もそれを繰り返せ」
「わかった」
エルザはそう言って剣を見つめた。
「ワシは武器がないから、お前の大きなハンマーを借りるぞ」
おじいちゃんはそう言って、転がっているスレッジハンマーを手に取った。
その頃、倒れていた5匹のブラックファングは、体勢を立て直してエルザたちを丸く取り囲んだ。そして、ゆっくりと輪になって走り出した。
シッシッシッ……
エルザは、四方から聞こえる、ブラックファングの足音や息遣いに冷や汗が流れた。
ブラックファングたちは、輪になって走る速度をだんだんと早くしていく。
そして、今度はその輪をだんだんと小さくしていく。
「もうすぐ来るぞ」
「うん!」
そう話した直後、ついにブラックファングたちは、5頭同時に飛び掛かってきた。
エルザの正面へも、1頭のブラックファングが飛び掛かって来る。エルザはその頭蓋に上段からの振り下ろしをぶつけた。
その剣先は、ブラックファングの右目を斬り裂き、頭蓋骨でガツッっと止まった。切っ先から血が噴出する。そして、魔獣は痛みのあまり絶叫して暴れたが、エルザはその叫び声を黙らせるかのように、上から地面へ押さえつけるように刃を押し込んでいく。
「えええぃ!」
エルザが力を込めると、魔獣の頭蓋は縦にカチ割れ、血しぶきが飛んだ。
倒したブラックファングを剣で押さえつけていると、前から別のブラックファングが走り寄って来ていた。剣を振り上げる暇がなかったエルザは、剣先をそのまま前へと突き出す。
「ええええい!」
エルザが突き出した剣は魔獣が向かってくる勢いのまま、ブラックファングの右目から吸い込まれるように突き刺さり、顔面が剣の鍔にぶつかって止まった。
ブラックファングは四肢を突っ張らせて呻き声をあげ、そのまま絶命した。
エルザはしばらくその魔獣を凝視していたが、我に返るとセドリックの方へ目を向けた。すると、残り3匹はすでに倒された後だった。
スレッジハンマーで叩き殺されたのである。エルザの視線に気づいたセドリックは、ニヤリと笑って声を掛けてきた。
「2匹もやったのか?」
セドリックはそう言ってニヤリと笑った。
「怖かったわ……助かったのね?」
「ああ、このあたりに、魔獣はもういないさ」
セドリックはエルザのそばまできて、魔獣の目に突き刺さった剣を抜くと、布で剣の血をぬぐってから鞘へ納めた。
「エルザ、怪我はないか」
「大丈夫……」
極限までの恐怖から解放されたことと、モニカも無事に守ることが出来たこと。エルザはホッとしたあまりに力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。
セドリックは、ブラックファングが倒れている光景を眺めた。
「……お前、5匹も倒したのだな」
「……そんなにも倒したのね?……。でも、良かったわ! 最後に狼たちが集団でやってきた時は、ホント。私、終わりだと思ったもの」
「はっはっは、たいしたもんだな。それに、剣の扱いもなかなか良かったぞ」
「そうなの? ただ振り回しただけだけど」
「普通はそれが、なかなか出来んのだ」
「そうなんだ」
「なんだ、疑問でもあるのか?」
「なんで、上で構えさせたのかなと思って……」
「なんだそんなことか。お前は素人だろう? だから簡単な方法を教えたのさ。つまりだな、普通に構えていたら、一旦剣を振り上げてから打ち下ろさなければならないだろう。最初から振り上げていたら、振り下ろすだけで攻撃できるだろうが」
「あーなるほど……なんだか面白いわね」
「魔獣を斬るのがか?」
「剣を振ることよ」
それを聞いてセドリックは笑った。
「変わった奴だな」
それから、エルザはモニカの所へ歩いて行った。
「友達が爪で引っかかれちゃったかもしれないの」
「ん?どれどれ」
セドリックはモニカに近寄って、腕の傷を見た。
「んー。そんなに深い傷じゃないから大丈夫だ。もう少ししたら痺れも取れるだろう」
「ほんとに?」
「ああ、本当だ……さあ、その子はワシが抱っこして行こう。エルザは一人で歩けるか?」
「うん、歩けるわ」
「よし。とりあえず、あの家に行って休ませてもらおう」
「あの家は、私の友達の家よ」
「おお、そうか。じゃあ、案内してくれるか?」
「うん!」
エルザはそういうと、セドリックの前を歩いて道案内をした。エルザたちがカレンの家へ近づくと、中からカレンの母親、サンドラが出て来た。
「おばちゃん!」
エルザはサンドラの方へ駆けて行った。
「エルザ!大丈夫だったかい?」
そういって、エルザを抱きしめていた。
「あんたは本当に勇気のある子だよ!」
そういって、エルザの頭をなでていた。
セドリックが歩いて行くと、サンドラはエルザを抱きしめたままお礼を言った。
「剣聖様。娘たちを助けて頂き本当にありがとうございます。なんとお礼を言ったらいいか……」
「いや、礼には及ばんよ。村に入り込んだ魔獣は10匹だけだと言ってたな……もう大丈夫だろう。……ただこの子が魔獣に怪我させられていてな。医者を呼んでくるまで休ませてもらえんかね」
「もちろんいいですとも」
そういってサンドラは家の中へと招き入れた。
「あ!忘れてた」
エルザは家に入ろうとして急に立ち止まり、振り返った。
そして、セドリックの方を向いて、お辞儀をした。
「おじいちゃん、助けてくれてありがとう!」
「これはこれは、ご丁寧に。だがおじいちゃんはやめてくれよ」
セドリックはそう言って笑ったのだった。