第1話 狼の魔獣
4月も半ばだというのに、山岳地帯であるアルカンディアには、春らしい暖かさはなかなかやってこない。
その日は朝から雪がシンシンと降っていて、山道を真っ白に染めていた。風のない、静かな昼で、落ちて来る雪は静かに地面へ降り積もっていく。
その真っ白な地面の上に、血を吐いた2頭の狼と、1人の少女が倒れていた。
この倒れている狼は、ブラックファングという魔獣である。魔獣とは、魔力が使える獣のことで、そこが普通の動物とは違う所である。蛇が毒を使い、スカンクが臭気をとばすように、魔獣は己の身を守るために、己の特性に合わせた魔力を使うのだ。
この魔獣の場合は、牙や爪で獲物を傷付けることで、一時的に体を硬直させたり、麻痺させる魔法効果を発動させる。この倒れている少女は、この魔獣の爪で傷付けられ、体が硬直して動けなくなっているのだった。
だが、その少女を守るように、大きなハンマーを握りしめた赤い髪の少女が立っていた。
その少女は、口をギュッと結び、切れ長の大きな目を見開いたまま、荒い息遣いで前方を見た。
その少女の瞳には、7頭の狼魔獣が迫り来る姿が映っているのだった。
その少女の名はエルザ。
少女はハンマーの頭を方を両手で握りしめ、これから戦うであろう狼たちに向かって、強い視線で睨みつけるのだった。
◆
林業の村であるアルカンディア地方・ゴント村の春は、伐採作業が本格化する忙しい時期でもある。村は活気のある人の動きや声が飛び交い、この村らしい春らしさを迎えていた。
「父さん、行ってらっしゃい」
「ああ、エルザ。行ってくるよ」
そう言って、バルトはエルザに手を振りながら玄関へ向かった。
バルトはゴント村に住む木こりだ。木こりの仕事は寒い時期が忙しく、今は伐採された木材の搬出に大忙しだった。バルトも朝から山へと入る予定である。
バルトが玄関へ行くと、妻のミラが見送りに来た。
「エルザは背が高くなったな……。少し前までは、こんなに小さかったのに」
バルトはそう言って、腰の高さで手の平を下に向けた。
それを見たミラは笑って、
「一体、いつの話をしているのよ……エルザはもう10歳になったのよ」と言った。
「だが、それにしては背が高い方だろう? 160cmくらいはありそうだ」
「それをエルザの前で言っちゃ駄目よ。割と気にしているんだから」
「気にするなら、腕力が強い方を気にするべきだろう。あの怪力じゃ、勝てる男の子がいなくなってしまう」
「それは負ける男が悪いんですよ」
「手厳しいな」
そういってバルトは笑った。
「それよりも最近、森に狼の魔獣が出るって言うじゃないの。あなた、お仕事は大丈夫なの?」
「ああ……こっちは大丈夫だ。人も大勢いるからな。おそらく村には下りてこないとは思うが、この村は山が近いからな。お前の方こそ気をつけてくれよ」
「わかったわ。……あなたも気をつけて」
「ああ。じゃあ行ってくるよ」
そういうと、バルトは玄関の扉を閉めた。
バルトを見送ったミラは、ため息をひとつついた。リビングの方を覗くと、暖炉の前で赤い髪が揺れるのが見えた。エルザは本を読んでいるようである。ミラはエルザに向かって言った。
「獣はあまり森から出たがらないって言うけど、たまに里へ降りてくるからね。あなたも気をつけるのよ」
ミラの言葉に、エルザが軽い口調でハーイと返事をしたので、ミラは「ちゃんと聞いてるの?」ともう一度聞いた。……だが、小説に夢中のエルザから返事はない。ミラはもう!と一言鼻息を荒くして、キッチンへと戻って行くのだった。
◆
お昼すぎ、友達のカレンとモニカに、お茶会へ誘われていたエルザは、村の水車小屋へと出かけて行った。カレンはゴント村の村長の娘で、モニカは鉱山長の娘である。村長も鉱山長も、仕事で大きな町へ行くことが多いので、お土産に珍しいお菓子を買ってきてくれているらしい。
「ささ、お茶が入りましたわよ? エルザ」
「これはこれは、良い香り……頂戴しますわ」
お茶会遊びは、このあたりの女の子の間で、今流行の遊びである。要はお菓子を食べながらおしゃべりをするだけなのだが、所々で、小説に出てくるようなお茶会の要素を織り交ぜてある。気取った言葉もそのひとつだ。今日は雰囲気をを変えて、水車小屋でお茶会である。3人は愉快におしゃべりをしていた。
「エルザ。あなた、アランを投げ飛ばしたんだって?」
エルザは驚いて聞いた。
「どうしてそれを知ってるの?」
するとカレンは当然よ、といった顔をして
「だって、カミルおばさん言いふらしているもの。あなたがアランを数メートル投げ飛ばして、カミル叔母さんの鳥小屋を破壊したって。村中で話題になってるみたいよ」
それを聞いたエルザは顔色を変えた。
「鳥小屋なんて壊してないわよ! アランを投げ飛ばしたのは本当なのだけど……どうしよう、母さんの耳に入ったらまた叱られるわ」
エルザはそう言って頭を抱えた。
「あはは、災難だったわね……でも、気を付けないとお嫁の貰い手がいなくなっちゃうわよ? エルザ。あなた、村の衆から"馬鹿力のエルザ"なんて呼ばれてるんだから」
紅茶を口に含んだばかりのエルザは、思わず吹き出しそうになっていた。その様子を見て、カレンとモニカは笑った。
「あははは……エルザったら! あなた、じっとしていたら可愛い顔をしているのに。駄目よ、お転婆しちゃ」
そう言うと、カレンとモニカは、エルザを見ながら微笑んでいた。
その時である。
小屋の前を大急ぎで駆け抜けていく、馬が3頭。……口々に何やら叫びながら走り去っていった。この村で、緊急時に行われる連絡方法である。
「狼の魔獣が里へ入ったぞ! 安全な場所へ避難しろ!」
「家の中に入って扉の鍵を閉めろ!」
「家の中から出ないように!」
そう口々に叫びながら、村を回っている。
お茶会に夢中の3人だったが、小屋の外で村人が何か大声で叫びながら走っていくのを、娘たちは聞き逃さなかった。鳥の群れがバタバタバタ……っと飛び立って行く。……モニカは怯えたように窓の外へ視線を走らせた。
「ねえ……今、魔獣が出たとか言ってなかった?……」
モニカが不安そうな顔をして、エルザに身を寄せてくる。
「確かに魔獣って言ってたわよね……しばらくはこの小屋でじっとしてなきゃいけないのかしら」
エルザがそう言うと、カレンは首を振って言った。
「何言ってるのよ。2人とも今すぐ走るわよ! 私の家は近いから、そこまで行けばきっと安全だわ! 行くなら今のうちよ! あの人たちが通ったばかりだから、今は狼はいないってことよ」
カレンはそう言ったが、エルザはそれに反対した。
「でも、今の人たちは家から出ちゃダメって言ってたでしょ?また近くに大人が通るまでここで待ちましょうよ」
エルザは水車小屋で待機していたいのである。だが、カレンは耳を貸さない。カレンはこの小屋にいるのが怖いのである。そして、モニカもまた、カレンと同じくこの小屋にいたくないようだった。
「そんなの待てないわ! だってさっきの人、狼の魔獣って言ってたわよね? それって多分、ブラックファングのことだと思うわ。最近、鉱山で良く見かけるらしいの。……爪で引っ掻かれたり、牙で噛まれたりすると、痺れて動けなくなるらしいのよ」
それを聞くと、エルザは余計に反対した。
「だったら余計に慎重にならなきゃ。もし外でブラックファングに出会ったらどうするつもり?」
薄暗い小屋の中で、水車の回る音が、軋んでギィギィと鳴った。なにげない音なのだが、怯えたモニカには、魔獣の歯軋りのように聞こえたらしい。モニカは消え入るような声で言った。
「私、ギィギィ音が鳴るような、こんな薄気味悪い場所で待っていられないわ」
それを聞いてカレンは
「ほら、モニカもそう言ってるじゃない」
と言った。
横でモニカが首を縦に振って同意している。しかし、エルザは外に出ることは、気乗りしないのだった。
「待って……駄目よ、外にでちゃ駄目よ……」
「いいえ、私は行くわ! 狼がまだ来ない今のうちにね。……早く安全な場所へ避難しなきゃ。グズグズしてちゃ、狼が来ちゃうわよ」
カレンがそう言うと、モニカも声を上げた。
「待って! 私も行く!」
そういうと、二人は外に出ようと水車小屋の扉へと向かった。
エルザは、二人の前に立ちはだかって言った。
「狼が近くに来てるかもしれないのよ! もし家に着く前に、狼に見つかったら逃げられないわ! それでも行くつもり?」
エルザは手を広げて2人を止めた。カレンはエルザに引き留められて、少しイライラしながら言う。
「ねえ、エルザ! 私の家まで走りましょうよ! 私の家はすぐそこなのだから!」
しかし、エルザは首を振ってとめた。そして、思いついたようにカレンへ言った。
「そうだわ、水車小屋の奥にある小麦袋を扉の前に置くといいわ! そうしたら、魔獣が体当たりしてきても、重くて扉は開かないわよ」
エルザの提案に、カレンは否定的な視線を向けてくる。
「あんなに重たいもの、持てっこないって!」
「私が運ぶから! あのくらいの重さ、へっちゃらよ」
それでも、モニカは怯えながら聞いてくる。
「……本当に小麦袋を置いたら、ブラックファングは入ってこれないかしら?」
それに対してエルザは胸を叩いて請け負った。
「大丈夫よ! 袋を3つも積んでおけば入ってこれやしないわ! いい? 私が運んでくるから、2人ともそこの椅子に座っててね……絶対に……外へ出ちゃ駄目よ……」
そう言うと、エルザは2人を椅子へ座らせて、小屋の奥へと入って行った。
小屋の奥には、水車を整備するための道具や、杭を打つためのスレッジハンマー、バールのようなもの、その他、色々なものが雑然と置いてあった。水車が回す臼の近くに、曳かれた小麦粉が袋に詰められて積んであった。1袋25kgくらいのものが、全部で10袋ほどある。
「うん、このくらいの重さがあれば大丈夫よね……」
エルザはそのうち3袋を肩に担ぐと、みんなの元へと戻っていった。エルザが部屋に戻ってみると、2人は扉の前へ立っていた。
エルザは扉まで歩いていって、小麦袋を床へ置くために、一旦、肩から下ろして両手で持った。
するとカレンは叫んだ。
「やっぱりダメ! エルザ! 扉をふさいじゃダメ! あなたが行かなくても、私たちだけでも行くんだから!」
そういうと、カレンはエルザの持つ小麦袋を上から押して床へと落とした。エルザがドサリと落ちた小麦袋へ目をやっているうちに、カレンは扉を開けて外へ出た。
「お母さま! お母さまっ! 助けてっ! 助けてぇ!」
カレンはじっとしていられず走り出してしまった。
すると、それにつられたモニカも反射的に小屋から飛び出して、涙を流しながら大声をあげて、カレンを追いかけていく。エルザは扉の外へ出て叫んだ。
「待って! お願い! 戻って!」
だが、エルザの声は届かず、幼い二人の少女はぐんぐんと走っていく。
エルザは数秒、考え込んでいたが、やがて小屋の中へと戻っていった。
しばらくすると、エルザは両手にスレッジハンマー持って扉から出て来た。そして、その大きなハンマーを両手でしっかり持つと、カレンとモニカの後を追って走り出したのだった。