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海の上のピアノ

作者: 雪見団子

 私の母は、有名なピアニストだった。

 私の家には一際立派な防音室があり、そこには黒くて大きなピアノが一つ置いてあるだけだった。ツヤツヤとした表面はまるで鏡のように何もない部屋を反射し、曲線になっている側面がのぞき込む私の顔を面白おかしくゆがめるのが小さい頃は何度見ても面白かった。私は決してピアノには触れなかった。ピアノが弾けなかったわけではないけれど、ピアノに傷をつけたり私が触ったりしたせいで何かあったら、お母さんがどんな反応をするのかを考えるだけで指紋ひとつ付けることすら許されないような気がしたからだ。

 私が物心つく前からお母さんは毎日ピアノを弾いていて、家の中はいつでもピアノの音が鳴りやまなかった。一緒に遊びたくても、「お母さんは次の演奏会のためにいっぱい練習しないといけないからしーちゃんはお部屋に行って一人で遊んでいてね」と、言われるだけで一度も遊んでもらったことはない。そのおかげで、私の部屋には小学校に上がる前から一人で遊ぶための道具でいっぱいだった。積み木、お絵かきボード、たくさんの人形やぬいぐるみ、おままごとセット、絵本、携帯ゲーム機といったものが部屋中に転がっていた。

 一人遊びをしているときに防音室から漏れてくるピアノの音色だけが、私にとって唯一の母の存在を感じさせてくれるものだった。

 私は小学生になった。この時には、お母さんはテレビに出始めるようになっていた。

 お母さんがテレビに出て有名になるということは、仕事が増えて忙しくなるということで、私の入学式や初めての授業参観、運動会などのイベントにお母さんが来ることはなかった。

 私は寂しかったけれど、大好きなお母さんのことを他の子のお母さんやお父さんから「あなたのお母さんはすごいね」と言われるだけで満足していた。

 一人遊びしかしてこなかったため、人見知りがちな私だったが、クラスメイトの両親や家族はピアニストとしてのお母さんのことを知っているのでクラスメイトの方から声をかけてくれることがほとんどだった。そして、自分から話しかけなくても自然と友達ができていった。

 放課後は家に帰っても一人なので、友達の家によく遊びに行くようになった。遊ぶと言っても、携帯ゲーム機で通信をして友達の手伝いをすることがほとんどだった。一人で何度も遊んだゲームだったけれど、友達と一緒に遊ぶと、初めて遊んだ時のようにとても楽しかった。

 そんなある日のこと、一緒にゲームをしていた友達が、何気なく「いいなー。しーちゃんは、いっぱいゲーム持ってて」と、うらやましそうに言った。「そんなことないよ」と、言おうとしたら、お菓子とジュースを運んできてくれた友達のお母さんが、「しーちゃんのお母さんは人気のピアニストだからいっぱいお金があるのよ」と言った。私は、何か言わなくちゃ、と思って口を開こうとした瞬間、友達のお母さんが、「はい、おやつ持ってきたわよ」と、言ったので私は喉もとまで出かかっていた言葉を飲み込んだ。

 私は、お母さんのことをすごいと言われている気がしてうれしく思ったが、なぜか心の奥がちくりとした。

 それから変わらない毎日を繰り返し、あっという間に時間は過ぎて、私は、小学校を卒業した。

 空まで涙を流した卒業式の日は、一人で家に帰ると、廊下に湿った足跡を残して自分の部屋へこもったことを覚えている。

 私が中学生になると、母はさらに活躍していた。このころになると、母のことを知らない人は周りにいないほどだった。全国ツアーで家を空けることが多くなった母は、たまに家に帰ってきても、私が話しかける度に、「忙しいから」と、ほとんど会話することもなく朝から晩までピアノと向かい続けるだけだった。

 私は、小学生の頃のように毎日友達とゲームをすることもなく、学校以外の時間はいつでも暇だった。だからと言って、部活に入ることもなく、他の子みたいに恋愛に夢中になれるわけでもなかった。しかし、時間を無駄に過ごすのももったいないので、暇な時間は勉強に充てていた。

 その甲斐があってか、二年生になって初めての数学のテストで、今回は難しくしすぎたと先生が言っていたにもかかわらず、一人だけ満点をとることができた。あまりにうれしくて、初めてテストの点数を母に報告したら、驚いた顔をして、「私も学生の頃は数学がとくいだったのよ。よく頑張ったわね」と、初めて褒められた。

 そう言ってすぐに母は、「打ち合わせがあるからもう行くね」と、言って家を出ていった。私は母に褒められたのがうれしくて、より一層勉強に励むようになった。

 私は高校生になった。中学生の時に勉強を頑張ったおかげで、いい高校に入ることが出来た。

 そんなある日のことだった。

 大きな公演を終えて仕事に一段落が付いたからと、ひと月近く家で過ごしていた母は、珍しく同じ時間に夕食を食べにリビングへやってきた。珍しいなと思っていると、母は自分のご飯をよそって準備し、椅子に座ったがなかなか食べ始めない。どうしたんだろう、そう思いながら先に食べ始めると、母は、こちらをちらりと見て、ほめてほしくて顔色をうかがいながら話しかける子供のように、やおらに口を開いた。久しぶりの会話の内容は、やはりピアノのことだった。

 なんでも、有名な豪華客船で世界を一周しながらピアノ演奏することになったらしいのだ。しかも、世界一周がメインではなく、船上で母が演奏することが最大の目的なのだと言う。母は、今まで見てきた中で一番の笑顔で話してくれた。

 私は、幸せそうに話す母の顔を見て自然と笑顔になりながら、「おめでとう」と、言った。

 私の反応を見て安心したのか、母も食事に手を付け始めた。

 その後も、食事を続けながら、甲板で演奏することもできるように潮風や湿気に耐えられる特注のピアノを作ってもらえることや、冬のアラスカ経由だから氷山や流氷の中で演奏することが出来津かもしれないなどと、とても楽しそうに話す母の言葉に耳を傾けながら数年ぶりの親子の時間を過ごした。

 ずっと努力し続け、それがようやく報われようとしている母の姿は本当にうれしそうだった。

 その翌年、母は、予定通り世界一周ピアノ演奏ツアーのために神戸を出港した。航海中はもちろん、立ち寄る港では現地のお客さんを船に乗せて演奏会が開かれる。最終日には、横浜で年越しパーティーが出来るように調整したらしい。そんな手筈で、年明けには家に帰ってくることになった。一〇五日ほどで世界は一周できると聞いて、地球が大きいような小さいような不思議な感じがした。

 それからあっという間に二ヶ月と半月が過ぎて、そろそろクルーズ船は母が楽しみにしていたアラスカ付近に着いて氷山を見ながら演奏しているころかな、と思っていた時に電話は鳴った。

 表示されている番号は、国際電話からだった。

 私は胸騒ぎを覚えながらも電話に出た。

「もしもし、木島さんの娘さんですか?」

 木島は私の名字だ。つまり、母の名字でもある。

「はい、そうですけど」

「わたくし、お母様のマネージャーをしております、浅見と言います」

「はあ」

「実は、二日ほど前にアメリカのジュノーを出港し、アラスカへと向かっているときに、海面にたくさんの流氷が浮かんでいたのを見たお母様が、この景色を見ながら演奏したいとおっしゃったので、氷と氷の間を進みながら急遽予定にはなかった演奏を始めました」

 わたしは黙って次の言葉を待った。

「演奏を始めてしばらくしたときに船が大きく揺れ、ピアノの鍵盤蓋が勢い良く締まったため、その、お母様は指を強く挟んでしまい、両手の指を複数個所骨折されてしまいました。海面下の氷山に船底を大きくこすったことが原因らしいのですが、幸いなことに船体には大きな被害はありませんでした。それでも、安全を優先するために直ちに乗客には避難準備の指示が出されました。船もその場に停泊した状態でアメリカからの救助船を待ちました。船医はいましたが、他にもけが人が多数いたことや、船上であったために応急処置しかすることはできず、そのまま救助を待ちました」

 突然の話に、私はつばを飲み込んだ。乾いた口内をはがされる鈍い痛みが不快に感じた。

「応急処置は迅速に行われたのですが、骨の折れ方が悪かったせいで神経を圧迫する形で処置されたことと、病院で適切な治療を受けるまでに時間がかかってしまったことで、重度と言うわけではないのですが、軽くもない障害が残ると言われました。端的に申し上げると、お母様は今までのようにピアノを弾くことはおそらくできないと思われます。わたくしとしても非常に残念なことであり、お母様自身も、そして娘さんであるあなたにとってもつらい報告をすることになってしまい申し訳ありません。また詳しい話は帰国した際に直接お話いたします。それでは、失礼いたします」

 一方的に説明を言い終えると電話は切れた。私は、受話器を耳に当てたまま、ぼうっとその場に突っ立てることしかできなかった。繰り返される電子音だけが頭の中を埋め尽くしていった。

 アメリカでの事故から二年が過ぎた。

 母はどうなったかと言うと、あの事故の後、一ヶ月ほどして日本に帰国した母の髪には白髪が目立ち、うつろな目をしていた。まるで、アメリカではなく竜宮城から帰ってきたかのようだった。

 私に気が付くと、母は、焦点が合わない眼でこちらを見て言った。

「海、お母さん、ピアノ弾けなくなっちゃった」

 私の名前を呼び、消え入りそうな声でつぶやく母の姿を見て、私の体は静かに震えた。

 母は、リハビリを始めるまでにかなり時間がかかった。最初はピアノが弾けなくなったショックで、リハビリの話をするとヒステリックに反応してばかりだった。それでも、少しずつ説得し、リハビリを繰り返してきたおかげで時間と共にゆっくりと元気を取り戻した。今ではある程度は一人で日常生活を送れるほどにまで心身ともに回復した。

 母は、あれから一度もピアノには触れず、これまで母親としてやってこなかったことを精一杯するようになった。受験戦争の真っ最中である私を良くサポートしてくれる。

 私は、今回の事故があった後の母の姿を見て、医療福祉系の方面へ進むことを決意し、その為の勉強を頑張っている。しかし、勉強ばかりしているとさすがに息苦しくなる時もある。そんなときは、息抜きに近くの海浜公園に行く。公園には、二年前に設置された一つのピアノがある。

 そのピアノは、まだツヤを残した、潮風や湿気にも耐えられる特注品だが、今日も少しずつ海風に侵されている。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

「海の上のピアノ」をテーマに書いたのですが、テーマがそのまま題名になってしまいました。

読み終えた後に、なるほどね、と思っていただけたら何よりです。

Twitterではもっと短い創作を気ままに呟いていますので、ぜひ一度覗いて見てください。

〝 @sousaku_dango 〟

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― 新着の感想 ―
[良い点] タイトルが素晴らしいですね。主人公の名前と苗字も上手く工夫されています。 一瞬の出来事で、ピアニスト生命が絶たれてしまうなんてなんと切なく遣りきれない。重いテーマを、主人公の持ち味で救わ…
2020/12/11 10:16 退会済み
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