事故物件クリーナー8
悩みに悩んだ末、その雑誌を買って帰った。
帰り道を歩きながらスマホを操作し、203号室担当の不動産屋に電話をする。
「もしもし?お久しぶりです、小林です。あの、前の人のこと教えてくれませんか。できる範囲でいいんで」
スマホを切って深呼吸、203号室と書かれたドアの鍵を開ける。
「ただいま」
でかい声を真っ暗い部屋になげかけ、玄関で靴を脱いで廊下を抜ける。壁のスイッチを押して電気を点け、ビニール袋から出した雑誌を手早くめくる。
「ユウさん、男だったんだな」
ユウさんの本名は霧島優。
28歳のイラストレーターだ。
特集が組まれたページを開いて突き付け、やるせない口調で続ける。
「ごめん、読んじまった。『あの事件現場は今?』って記事……ここに書かれてんのユウさんだろ、交際中の彼氏に刺されたって」
ユウさんは男性だ。
そして彼は同性愛者だった。
雑誌には遺族のインタビューや事件に至る経緯も載り、ユウさんのプライベートが容赦なく暴かれていた。
本人の前で読み上げるのは控えたものの、俺の心には一字一句が克明に焼き付いてる。
「ユウさんは数年前に結婚した。相手は当時付き合ってた彼女で、二人には娘が産まれる。カミングアウトは奥さんの出産後だ」
何故ユウさんが結婚したかは謎だ。イラストレーターとしての出世、あるいは世間体を考えての偽装結婚か。恋愛感情とは別種の好意を、奥さんに持っていたからか。
娘を授かったことで、嘘を吐き通すのが恥ずかしくなったのかもしれない。
「奥さんは激怒して離婚、娘は母親に引き取られた。でもユウさん、娘さん愛してたんだよな。奥さんがインタビューで言ってたよ、あの人の事は許せないけどとても優しい、いい父親だったって……パンダが好きな娘さんの為にパンダのイラストを描いてあげて、離婚してからも定期的に会いに行って、事件があった一週間後に動物園に連れてく約束してたんだろ」
ユウさんが熱心に見ていたあの動画の動物園だ。赤ちゃんパンダがのんびり日なたぼっこしている光景が瞼の裏に浮かぶ。
妻子と別れたユウさんは単身者用アパートに引っ越し、在宅イラストレーターとして活動していた。慰謝料と養育費を滞りなく振り込むための節約だ。
「奥さんと離婚後、ユウさんにはゲイの恋人ができた。ユウさんの彼氏はすげえ嫉妬深くて、他の男や元奥さんとの関係を勝手に妄想しちゃあ暴れるようなヤツだった。ユウさんを刺した動機を聞かれて逮捕後こう言ったんだよな、俺より子供をとったアイツが悪いって……」
ユウさんはこの203号室でゲイの恋人に刺し殺された。
ユウさんが殺されたのは、月に一度の娘の面会日と重なるのを理由に、恋人とのデートをキャンセルしたからだ。
彼氏は「子供をダシに嫁とよりを戻そうとしている」とユウさんを逆恨みし、自分から心が離れたと思い込み、発作的に犯行に及んだらしい。
記事は遺族の証言まで引っ張り出し、ゲイカップルの痴情の縺れを面白おかしく書き立てていた。
ユウさんは一体どんな気持ちで、曇りガラスにパンダの絵を描いた?
一体どんな気持ちで、子どもと行くはずだった動物園の動画をくり返し見ていたんだ。
ユウさんにはさんざん世話になった。
しんどい時は黙って愚痴を聞いてくれた、高熱に茹だった額を冷やしてくれた、雨が降りそうな時は傘を倒して教えてくれた、ガスの元栓や電気の消し忘れをフォローしてくれた、物言わず寄り添ってドジでうっかりな俺をたくさんたくさん助けてくれた。
俺はもうすぐいなくなる。
ここを出て、新しい部屋に行く。
「……友達として聞くよ。できることある?」
電気を消す。目を瞑る。深呼吸する。
体と心を全方位に開き、目に見えず声もしない、けれど確かにこの空間にいるユウさんと同調する。
たとえるなら着られる感覚に近い。
ユウさんが俺に入り、切実な懇願が脳裏に直接響く。
『手を貸して』