五回裏
さあ、五回の裏、ドラゴンズの攻撃です。
試合も中盤を迎えて、ドラゴンズが九点リードです。
この回は七番の紀井選手からの攻撃です。
タイガースのマウンドは井ノ元選手、これ以上の失点は許されません。
「何とか無失点で切り抜けて欲しいですね」
左のバッターボックスに紀井選手が入りました。
井ノ元選手、振り被って、初球を投げた。
バッター打った。
打球はセンターの前に落ちる。センター前ヒットで、この回もノーアウトからランナーが出ます。
「猛打賞(注1)ですね」
続くバッターは八番、森本選手、右のバッターボックスに入りました。
ドラゴンズ、更に追加点を奪えるか?
マウンド上、井ノ元選手はセットアップポジションから、初球、投げた。
森本選手、見送ってストライク。
内角低めの厳しいコースでした。
続けて第二球、バッター、スイングしてストライク。
見逃せばボールのようでしたが、振って行きました。
「ちょっとやる気のない様子ですね」
大量リードに油断しているのでしょうか?
しかし勝負は終わるまで分かりません。
マウンドの井ノ元選手、表情が険しい。怒っているようにも見えます。
第三球、ど真ん中。
バッター見送って、三球三振。
「次の回、桐下選手から始めたいのでしょうか?」
そういう狙いもあるかもしれませんね。
さあ、右のバッターボックスには山岡選手が入ります。
山岡選手はここまで内野ゴロによる併殺打が二つ、更に守備でもエラーを記録されるなど、全くいいところがありません。
「改めて言われると、紙にーさまダメよダメダメですぅ」(注2)
ピッチャー井ノ元選手、セットアップポジションから初球、投げた。
バッター、やはり引っ掛けました。打球はショートの華蘭選手が拾って、セカンドの香崙選手へ。
6ー4ー3のダブルプレー!
ドラゴンズ、三人で攻撃を終えて無得点。
「波乱が起きそうですね」
ドラゴンズ、ダッグアウト。
場内整備が行われている間、和哉たちは控え室に移動していた。
「和やん、どうして攻撃の手を抜いたでござるお?」
「そろそろ試合を終わらせようと思ってな」
「だったら、更に点数を取れば諦めるんじゃないか?」
和哉は首を横に振る。
「喜久姉は絶対に諦めないと言っていた」
「そうでござったお」
「だから、諦める方向に試合を進める」
和哉の提案に一同が驚愕した。
「そんなことをするのか?」
「上手く行くとは限らない。一つの賭けだ」
和哉は含みを持たせているが、それでも一同は渋い表情だった。
「それに汚れ役は俺が引き受ける」
その言葉に、佐藤は大きく頷いた。
「分かった、それならマウンドを譲ろう」
「スマン、勝利の宴はすき焼き(注3)にする」
「すき焼きか」
瞬間、全員の瞳が輝いた。
「それなら和哉の作戦で、さっさと試合を終わらせようぜ」
「肉はA5だぞ」(注4)
美食の威力は強い。すき焼きの一言で雰囲気が一変してしまった。
「それに和哉の作戦なら、女性陣も宴に参加できるんじゃないか?」
「そうだな、長野は確実に仕留めろよ」
「お前ら……」
既に試合後の祝宴に意識が移っている一同に、和哉は半ば呆れていた。
「試合に集中してくれよ」
「任せろ、絶対に勝つ。どんな汚い手を使ってでもな」
先程までスポーツマンシップに溢れていたはずが、微塵も感じさせない。
「大人って汚いよな」
「中身オッサンのお前が言うな、でござるお」
外見上は高校生の和哉だが、中身は四十五歳である。
「それで、和哉はピッチャーの経験あったか?」
「心配するな、こんなこともあろうかと、大リーグボール(注5)を全てマスターし、真一号を投げることができる」
ニヤリと笑った和哉だったが、一同は顔を見合わせた。
「真一号?」
「見せてやるよ」
一同はブルペン(注6)に移動する。プロテクターを完全装備したモリモットがポジションについた。
「浩、受けてくれるか?」
「捕れないボールがあるものか、構えたミットで受け止めるでござるお」
気は優しくて力持ち(注7)のセリフである。
「よし、じゃあ行くぞ」
和哉が振り被って投球を開始する。モリモットがミットを構えた位置へ寸分の狂いなく投げ込んだ。
「大した制球力だ」
「これなら、作戦も首尾良く進みそうだな」
投球練習を見ながらドラゴンズ一同は安堵の表情を浮かべる。
「和やん、この分身しながらの速球は、あれでござるお」
「あれって何だ?」
モリモットの言いたい内容が分からず、和哉は困惑する。
「孫六ボール(注8)でござるお」
「あれか。やろうとしているのも、近いものがあるな」
和哉は漫画の内容を思い出し苦笑する。
「実際はアストロ球団(注9)でござるお」
だが、この後の惨劇は彼らの予想を上回るとは、誰も、作戦立案者の和哉でさえも想定していなかった。
声の想定
・桐下 和哉 鈴木達央さん
・小見 敏夫 前野智昭さん
・尾藤 大輔 稲田徹さん
・佐藤 竜也 櫻井孝宏さん
・武藤 龍 玄田哲章さん
・今井 雄三 蒼井翔太さん
・紀井 多聞 森久保祥太郎さん
・モリモット 関智一さん
・山岡 次郎 下野紘さん
・聖女クリス 小林ゆうさん
・ジョアンヌ 河瀬茉希さん
・藤井 照美 伊藤かな恵さん
・藤井 羅二夫 うえだゆうじさん
・ヘファイストス 中尾隆聖さん
・鉄器川 華蘭 竹達彩奈さん
・佐藤 由貴 芹澤優さん
・井ノ元 喜久代 丹下桜さん
・ペンテシレイア 日笠陽子さん
・長野 恵梨香 原由実さん
・倉田 祐子 阿澄佳奈さん
・樋口 鞆絵 喜多村英梨さん
・尾藤 弥生 沼倉愛美さん
・鉄器川 香崙 悠木碧さん
注1 猛打賞
一試合で三安打以上を打つと貰える、日本プロ野球独特の賞。
日本記録の通算一位は張本勲さんの251回、シーズン記録は西岡剛選手と秋山翔吾選手の27回である。
参考記録として、イチローさんの日米通算379回、シーズン34回がある。
注2 ダメよダメダメ
日本エレキテル連合が平成二十六年に流行語大賞を受賞したネタ。
なお流行語大賞を受賞した芸人はその後、人気が急落しメディアへの露出が激減するという呪いが発動する決まりである。
但し、地方営業は増える場合もあるので仕事がなくなるのではない。
注3 すき焼き
鉄製の平鍋を用いて牛肉を焼き、野菜類をその後で煮て食べる関西風すき焼きを直系先祖とし、関東ではそれまでの牛鍋と混然一体と為した料理である。
家庭によって調理法や具材が異なるので、数人で集まってすき焼きを作る場合は、それぞれの意見を聞いてから始めた方が良い。
注4 A5
牛肉の等級で最上級の肉質のこと。
歩留まり等級はABCの三段階に分かれ、可食部が多いほど等級が上がる。
肉質等級は五段階で、脂肪交雑、肉の色沢、肉のしまりときめ、脂肪の色沢と質の四項目について評価が行われ、総合評価が肉質等級になる。
つまりA5もB5も肉質そのものに大きな違いはないが、可食部の多い個体ほど同じ肉質であってもより良い肉質である可能性がある。
注5 大リーグボール
漫画『巨人の星』で主人公の星飛雄馬が会得する魔球。
一号は卓越した集中力で打者のバットに当てて、打たせて取る投球技術。
二号は消える魔球で、土埃などを利用して目の錯覚を誘う投球技術。
三号は極限まで遅く投げられる投球技術で、蝿が止まるとも表現される。あまりの遅さにバットスイングの風圧で球が逃げるほど。
右一号は、いわゆる分身魔球。
注6 ブルペン
投手の練習場。
かつてはグラウンドのファールゾーンで投球練習していたが、打球に当たって負傷するなどの事故が発生したことから、ダッグアウト裏の室内練習場が主流になっている。
注7 気は優しくて力持ち
日本男児の理想形である。
水島新司さんの漫画をアニメ化した『ドカベン』の主題歌の歌詞でも歌われている。
余談ではあるが、水島さんは令和二年十二月一日に漫画家を引退すると表明した。
注8 孫六ボール
さだやす圭さんの漫画『なんと孫六』の主人公、甲斐孫六が投げる豪速球は左右に微妙に揺れながらキャッチャーミットに納まる。
普通の捕手では捕球できない描写があり、バッテリーを組む捕手選びが作中の見所でもあった。
注9 アストロ球団
遠崎史朗さん原作、中島徳博さんの作画による漫画『アストロ球団』は超人たちが活躍する野球漫画である。




