表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ウークイの日

作者: Zoo

   1


電話越しの市橋侑那の声がはっきりしすぎていて、本当の声のようには思えなかった。昔留学していた台湾で一緒だった侑那から七年振りに電話があったのは、春先に東北の方で大きな地震のあった年の六月のことだった。

突然の電話だった。長年、待っていた電話だった。待ちくたびれて、とうに諦めていた電話だった。

台湾に留学していた時のルームメートの王俊英が侑那をガールフレンドとしてアパートに連れてきたのは、今から丁度九年前のことになる。

それから留学を終えるまでの二年間、侑那と俊英と、そして侑那のルームメートだった美婷と四人で、くっついたり離れたりしたことはあったけれど、身を寄せ合って仲間として過ごしていた。人が暮らしていくのに、他者というものは絶対に必要なものだと思う。


「元気だった?」

久しぶりに電話をかけるのに、それなりに勇気を使ったのかもしれない。張りつめた思いを解くような侑那の吐息がわずかに聞こえた。すぐ後で、変わらない声で僕が出たのにほっとしたのが電話越しに伝わってきた。九年前、台湾で出会った侑那は、勝気で男勝りで、烈しい感じのする女だった。それでいて、奥底で物悲しい感じもする女だった。二十三歳の人生最後の無邪気な時なのに、なんでそんな感じがしたのか、今でもわからない。吐息みたいに色香のある女だった。人の美醜は目鼻立ちだけに宿るわけではないことも心得ていて、自分の魅力の表現の仕方をよくわかっていた。

「元気だった」

僕はできるだけ短い声で言った。

その年は、久しぶりに会った人とは地震の時どこにいて、何をしていたかを話すのが常だった。侑那と僕の久しぶりの会話もやっぱりそうなった。久しぶりに話した電話の中で、簡単な挨拶を交わすと、お互いの近況を話すよりも先にその話になった。

 僕よりも半年遅く留学を終えた後、田町に本社がある自動車メーカーに就職して調達先の選定とその契約の仕事をしている侑那は、田町から世田谷の千歳烏山の自宅までの二十キロ程の道を歩いたと言っていた。花粉がひどい日で、避難する人の群れの中で、何度もくしゃみが出て、止まらなくなったと言っていた。

僕は沖縄にいて、揺れを感じることはなかったが、留学時代に知り合った自分も忘れていたような昔の友人から連絡があって、どれ程の出来事だったか思い知らされた。台湾の留学から帰ってきた七年前、僕は沖縄の新聞社に就職して、今の所そのままずっと沖縄で暮らしている。

避難する人波の中で、侑那は故郷の広島のことを思い出したと言っていた。乳呑児だった母はともかく、祖母たちもきっとこうだったのかな、と思った、と侑那は言っていた。侑那は広島出身で、両親と祖母が被爆している。

「火の手に追われているわけでも、後の放射能の被害にさらされているわけでもなく、三月の東京を歩くだけの姿に、未曽有の戦禍を重ねるのはおこがましいけれど、子供の頃に聞かされていた火の海の広島が急に身近なものに思えてきたんだ」

電話越しに、侑那はそうつぶやいていた。

福島でこの国四度目となる原子力被害が起きていたのは、奇妙な符号のようにも思えた。この国で四度もの原子力の受難という偶然には何か意味を求めたくなってしまう。そういうと侑那は、「さあ、あったとしても知りたくない」と言っていた。

あれから、全ての言葉は自由を失ってしまった。何かを語ろうとした時、頭の中だけで理解することのやましさが必ずよぎった。安全で暖かい場所にいて、津波のあの映像を見ることはできなかった。何もできることがなかった。何をするのも僭越で、ただ自分の日常を続けることしかできなかった。

それでも思うことが一つある。地震は辛い記憶を残した一方で、人間が本来何によって生きていかなければならない存在かを教えてくれたのではないだろうか。地震は人間は互助関係や共生によって、そしてそれを可能にする想像力や共感能力によって生きていかなければならないことを語ったような気がする。地震の後、あんなにもたくさんの支援活動が動くとは思ってもみなかった。見ず知らずの人の痛みや受難にこれほど敏感で、心震わせ、具体的に助けるための行動を集団で取るのは、他の生物にはないことのような気がする。

それにしても、地震が起こる前の日常とは何だったか? それは利己心や嫉妬の蠢く中で、小さな力をめぐる争いの世界ではなかったか。我々は、それぞれの家庭や仕事場で、傍から見ればどちらでもいいと思えることについて、主導権とお互いの立場を争っていた。揺れる大地と果てしない瓦礫を見ていると、本当につまらないことに囚われていた、と思うのだ。

地震は、その圧倒的な力によって、我々の日常における自我を巡る諍いがいかに取るに足らないものであるかを語ったように思えてくる。もちろん、そんな現実ではないことはわかっていて、何も知らない者に何かを語る資格はなく、全てのそしりから逃れられず、後ろめたい。それでも勇気を持って何かを話さなければならない、という気持ちに少しはなる。 

地震の話をした途端、始まったばかりの初夏の夜の電話が、急に誰かの魂を鎮めるための歌みたいになった。沖縄は雨が降る物静かな夜だった。自分の今住んでいるコザの古びた街が静かに濡れているのは、これまで亡くなった誰かの魂を想うためかもしれない。

降る雨の音一つ一つが、過去に消えた命のように思えた。

人はもう一度生まれることができるんだろうか? 消えざるを得なかった命を思いながら、それほど遠くない昔に、ここ沖縄でも数多の命が失われたことに今更ながら思い至った。仮に人が亡くなったとしても、その人の使命や存在はなくならない。いつまでも耳に残る雨音は、そんなことを伝えているような気がした。

地震や生命の話をいつまでも続けることはできなかった。新しすぎる記憶がそれを遮った。話題は自然に変わっていった。

「沖縄だよね、今」

「うん」

「記者、してるんだよね?」

押し殺しているけれど、優しい気持ちがあることが声でわかった。お互いに言いたいことがありすぎて、ありふれた言葉しか出てこなかった。語り始めた途端、友達だった侑那との再会を神様に奪われてしまいそうで、つまらないことでいいから、いつまでも話していたかった。何でもいいからお互いの言葉を重ねていたかった。

「うん、沖縄新報で。全国紙は無理だったけど、地方紙で」

一時、小学生の丸々六年間とそれから中学の前半二年間を僕は石垣島で過ごしていた。川崎の小さな孫請け工場で大型トラックの修理工をしていた父親が、急に思い立って、石垣島で漁師になったのだった。今思えば、何を突然と思うし、滑稽だとも思うけれど、父にはあの時、その選択肢しかなかったのかもしれない。若い頃は伊達や酔狂で選んだ愚かな選択だと思っていたけれど、今思うと、きっと元の仕事で立ち行かなくなる何かがあって、そんな選択しかなくなっていたのではないかと思う。父がおかしくなり始めたのは、発注先の業者の管理を任されるようになってからだった。何か汚職や不正や癒着に巻き込まれていってしまったのではないだろうか? 相場より高い値段で発注して、後でどうこう、というのは不正行為の常套手段だった。父はやりたくもないそういったことに巻き込まれていったのではないか。人間は生きていく上で、きれいにだけは生きてはいけない。誰だって清も濁も併せのんで生きている。寡黙で愚直で、いつも何かを諦めていた父のことを思い出すと、三十を過ぎた今はそんな風に感じる。ただ、六歳だったあの時の僕は、親の事情など皆目見知らず、連れてこられた島の自然に圧倒されていた。蒼い夕闇の空を背景に防風林が夜風に揺れているのを見ると、世界が生まれてくる感じがした。


「全然すごいと思うよ。あの時、言った通りにしたんだ」

あの時、というのは多分、僕が留学から引き揚げる時に、台湾の桃園空港の公衆電話から侑那の部屋へ電話をかけた時のことだろう。これからどうするのだ、と聞かれて、何のあてもコネもないけれど、新聞社を中心にもう一度就活をしてみようと思う、と答えた。言葉を使って、何かをする仕事に就きたかったのだ。全国紙はもちろん目指したけれど、最終的に沖縄にしたのは、全国紙にはレベル的に届かなかったことの他に、沖縄戦の聞き取りをしたり、琉球王朝時代のことを調べたりして、記事にしたかったからだ。

一度目の就活のことは色々と侑那に話していた。大手の新聞社や出版社を中心に受けたけれど、筆記試験で大概落ちたこと、唯一面接に進んだ全国紙の新聞社の面接で、「地方の支社に宿直で詰めていた時に火事が起こりました。あなたはどうしますか?」と聞かれて、「火事で困っている人を助けます」と答えたら鼻で笑われたことなど。記者としてどうしますか? という質問だったのはわかるけれど、そんなものは実際に勤めてみないとわからない。近くにいるのに人としてやるべきことをやろうと思わないんだったら、どんな言葉を綴っても駄目だろう。学生時代から憧れに憧れたジャーナリズムって結局は傍観のことなんだろうか? 

たった一回の面接でジャーナリズムについてわかった風なことを言う自分もまあ、随分青臭いと思うし、それに簡単に火事で困っている人を助ける、なんて言っているけれど、大したことはできないはずだ。でも、少なくとも、そんな風に思う気持ちだけは大切な気がする。そんな風に何となく迷って、結局他の業界がどうとかも見ないままに、夏の終わりと共に就活を辞めた。西暦二〇〇〇年をちょっと過ぎた頃だった。正しいのかどうかわからなかったけれど、海外に行くことに決めた。逃げたんだ、と言われたら、それはその通りだと思う。反論はできない。でも、なけなしの強がりを言わせて貰うなら、逃げたというよりは、まだ何かになれると思っていたのだと思う。でも、あの時の自分は会社勤めだって、十分に何かであることを知らなかった。今、思い描いていたのと少し違う形だけれど、職について勤めて、それなり以上に意味があることを思い知る。


七年前、台湾から引き揚げる時、空港の公衆電話から僕は侑那の部屋の電話へかけた。出なければこれっきりにするつもりでかけた。侑那は電話が来ることがわかっていたのか、たった二度のコールで部屋の電話を取った。事前に帰る日付と大体の出発時間をメールしておいた。どこで暮らすかだけ、そして電話番号だけ、後でいいから教えて、と言われた。姉のような、妹のような声音だった。

―侑那? 是我(僕だよ)

―我知道(電話来ると思ってた)

―対不起(この間はごめん)、我……

僕らは中国語で話始めたけれど、すぐに日本語に切り替えた。二年が過ぎ、中国語も流暢になって、自分の言葉になったけれど、本心を形にしてくれるのはいつまでたってもやっぱり日本語だった。

―あなたは何も悪くないじゃない、謝るのは……

―ありがとう

 侑那にありがとう、と言った時、僕の声は滲んでいたと思う。

 ―ありがとう

 侑那の声が一瞬で明るくなった。僕らは何度もありがとうと言いあった。その二年間、僕たちなりに色々あったけれど、一度位は清んだ「ありがとう」を言えたのじゃないかと思う。台湾時代に心を通わすことのできた親友は間違いなく侑那だった。

 ―日本に帰るよ。

 ―うん

 ―侑那に出会えてよかった。本当に楽しかった。

 ―私も、エイキに会えてよかった。楽しかった。

それから、つまらない世間話を少しして、連絡先を後で教える約束をして、電話を切った。本当は、今と同じ、何でもいいからいつまでも話していたかったけれど、侑那には迷惑になるし、第一飛行機に乗るのだから、もう時間はなかった。それに、話もそれ以上弾まなかった。

窓越しに灰色の腹をした大きな生き物みたいに飛行機が、ゲートに誘導されているのが見えた。侑那に「じゃあね」とつぶやき、電話が切れるのを待った。

 電話が切れた後、受話器を持ったまま、空港のガラス窓にもたれて、窓の外の飛行機と流れていく時を眺めていた。切れた電話の電子音がいつまでもなりやまなかった。一瞬、荒い呼吸の泣きあえぐ声のように聞こえた。実際に僕は声をにじませ、薄い涙を浮かべてはいたけれど、でも、別に悲しい気持ちではなかった。子供の頃の自分の人生は別れにばかりまとわりつかれていた。友達、妹、そして父。でも、大人になってからは初めての別れだったかもしれない。清々しい気持ちしかなかった。いつでもまた逢えるような気がしていた。実際この七年間、どれだけ離れていても、侑那の心が聞こえたような気がしたことが何度かあった。


「今度の休み、沖縄に行こうと思うの」

 七年後の侑那の声に、急に現実に戻った。声にも年齢があって、いつの間にか侑那の声は少しだけ歳を重ねていて、昔よりわずかに低くなっていた。

「二人で?」

 旦那と、という意味だ。侑那は三年前に結婚していた。侑那の大学の卒業生ばかりが集まる飲み会で知り合った三歳年上の男性と結婚していた。男は大手の都市銀行に勤めていると聞いた。旧財閥系の銀行と言っていたけど、よく考えたら合併を繰り返していて今はどの銀行もそうのような気がする。大手町のすみからすみまで「東京」という感じのする白いワイシャツみたいなオフィスで働いているらしい。あんな華やかな場所で、資料作りだとか、書類作りだとか、会議だとか、事務処理だとか、そんな泥臭いことをやっているなんて想像がつかないが、きっと稼ぎはべら棒にいいのだろう。我ながらあさましくつまらないことが頭に浮かんだと思うけれど、沖縄で働くということの現実の前に、ついそんなことを感じてしまう。全国規模の大企業はなく、失業率は高く、若者は仕事にあぶれており、なのに早く結婚して、子供を作り、離れて、また新しい貧しさが生まれる。未舗装の路地の奥、古びた木造のアパートは時々電気かガスが止まり、浅黒い肌の子供達はチョークで地面に図形を描き、空気の抜けたボールを蹴り合う。見るからに若い母親が、アパートの中から乱雑な声で子供達の名を叫ぶ。そして時折米軍絡みの事故か事件が起きる。それがいまだにこの島の現実だった。

「ううん、一人で」

「泊まるところは?」

「泊めてくれるの?」

「…………」

 返事に困窮していると侑那はあっさりと僕のよこしまな期待を否定した。

「ホテルとるわよ。那覇にはたくさんビジネスホテルあるじゃない」

「どっかとっとこうか?」

「それくらい自分でとるわよ。少しでいいんだけど、会えたりするかな?」

「それは、もちろん……日程が決まったら教えて」

 侑那と別れてから七年が経つ。僕はあの頃よりも太ったし、侑那だって少しは老けただろう。侑那はどんな七年間を過ごしたのだろうか? 話をし始めた途端に消えた七年の時を改めて思う。

「仕事とかどう?」

「ああ、うん、六月は慰霊の日があるから、ちょっと忙しいんだ」

「すごいね、さすがだね」

 侑那の声と言葉にはいつも旋律と余韻があり、大したことでもないのに心に届いてしまう。強い共感がいつでも言葉の端にあるのだ。七年間、僕は侑那と侑那の声を心の中でも避けてきた。思い出さないようにしてきた。それでも人づてや最近だとネットで、それなりに近況は知っていた。向こうもそうやってそれなりにこちらのことを知っているはずだ。もっとも、告げる程の近況は僕にはないけれど。今時は良くも悪くも、そう簡単には行方不明にはなれない世の中なのだ。知りたくもないことを知り、知られたくないことを知られ、いつもどこかに繋がれているような気がする、便利さ以上の不便を感じる世の中なのだ。

「休みの日程さ、決まったら連絡するよ」

「うん」

「全部、休み取ってくれとは言わないからさ、まあ、二、三日、顔合わせてさ、どっか行こうよ」

 途中で遮って、待ってる、とか楽しみ、だとか、あるいは、どこそこ行こうよ、と具体的な提案をしたってよかった。でも、僕は何となく最後まで侑那に言わせてしまった。今更侑那が僕の所へやってくるのが、嬉しくないわけではないけれど、心ざわつく怖い気持ちもある。

「うん、うん。空港には迎えに行くよ。楽しみ、楽しみ」

僕は何かを取り繕うように、そう言った。

僕が台湾を出る時、侑那は既に大学の寮を出た俊英と暮らしていたし、最後の電話も俊英が出たのだったら、僕は侑那と話すことはなかった。もし、最後の電話であんな風に話していなければ、きっと侑那も今回僕に会いに来ようなどとは思わなかったはずだ。侑那とあの電話の前に交わした会話を思い出していた。留学が終わる直前に、侑那とつまらないことで大ゲンカをしたのだった。何故喧嘩をしたのか、それはもう忘れ去ってしまった。多分お互いに外国暮らしのストレスがあったのだ。それをぶつけ合っていただけのことだ。過ぎた時の中で思えば、それも一つの懐かしさだ。

好きなように思い出せる過去はいつも甘美で、郷愁は強烈な感傷として時として人に足かせをする。恣意的にすぎない過去を強く想うのは、今を生きたくない、それだけのことかもしれない。過ぎた時の中の出来事は本当にあったことだったかどうか、わからなくなる。別段、侑那とは何か過去があったわけではないし、今も昔もただの友達だけれども、選ばなかった道や、選ぶことになった巡りあわせは、偶然を超えていると思う。

後日、侑那からメールで八月の六日の土曜日から十五日の月曜まで沖縄に滞在する旨の連絡が来た。いままでもこれからも日々はあっという間に過ぎていくだろう。


   2


「水村さん、これ、この書類。後、島袋さんが来るように言ってましたよ、第三会議室」

 照屋菜穂が席に戻った瞬間にそう言づけた。菜穂は那覇の商業高校を卒業して、沖縄新報に一般職として就職して、もう八年目になる。今年二十六歳でまだ若いのだけれど、十分世間にもまれて、落ち着いている印象がある。菜穂と僕は、年齢とそして入社月は違うけれど、同じ年に入社した、言ってみれば同期だ。

「体調、大丈夫ですか?」

 昨日思わぬ形で早退したのだった。そう滅多にはないことなのだけれど、昨日は疲れも溜まっていた。

「大丈夫です。ありがとうございます」

僕が応えるのと同時に、慌ただしく、菜穂の電話が鳴った。聞き耳を立てたわけではないが、内部統制やコンプライアンスに関する電話のようだった。うっとうしいルールや規則だってたまには人を救う。ルールとか守ってる方が楽で、考えなくてすむ。てゆうか、ルールをうまく使って自分を護るのだ。今はそんなテクニックが必要な時代なんだと思う。菜穂は電話が終わって、パソコンのディスプレイを見つめている。

一九七〇年に建てられたという薄暗い古いオフィス、外壁はリベット打ち。菜穂に返事をしながら、建付けの悪い窓を開けて、いったん自分の席に座った。

上司の島袋の所へ行こうとした時に、携帯電話がなった。ディスプレイを見て、出るかどうか迷ったけれど、結局出た。

 ―ああ、水村さん?

 新聞の販売店の店主だった

 ―はい

 ―いつもお世話様です。

 ―お世話になっております。

 ―早速ですまないんだけど、この間の件、考えてくれた?

 ―この間の件って、今上司に伺い立てている所です。

 ―いやいや、上司とかじゃなくって、うちの担当は水村さんなんだから、水村さんが会社代表して何とかしてよ。

仕事場での忙しさは相も変わらず、息継ぎをせずに泳いでいるような気持ちになる。卓上電話がなくなって、一人ひとりに携帯電話が支給された。アイフォンやアイパッドが支給されるようになったらどこにいてもメールを見たりしなきゃいけなくなるし、余計に忙しくなる。そんなのは心底嫌だと思う。通信機器って本当に世の中を便利で快適にしているんだろうか? 面倒くさくてかなわないし、その中ではいくつもの自分を使い分けなければならないわけだ。それに遠くにいてもやりとりができるから、実際に会う機会は減ってしまった。実は会って話すのが一番効率がいい。だからアイフォンやスマフォは皮肉にも世の中の効率を下げてるんじゃないかって思う。

にしても、いったい、自分て何個あるんだ? 会社に行けば皆誰かの部下だし、家庭でだって役割はあるだろう。古い友達と会った時でさえ、本当の自分とは少し違う自分を演じているような気がしてくる。息つく暇は皆そんなにはない。本当の自分はいったいどれなんだろう、と思うし、誰でもない自分になりたい、と思うことがあるけれど、知った風なことを言うのは、本当は人の中で定義されていく自分とともに生きることが楽しくもあるということを知っているから、そううそぶいているだけだと思う。そもそも自分とは何かなんて、あまり重要なことじゃないとも思う。誰もが必死になって与えられた自分を生きているうちに本当にそうなるのだから。生きていくということは何も考えずにその通りにするということだ。理想もプライドも生きていく上では、邪魔なだけだけれど、いつの間にか新しい自分に新しい誇りがついてくる。だからもう、自分とは何かなんて考える必要はない。ただ営みに寄り添えばいいのだ。僕は僕であって、僕でない。そんなことは皆わかってる。

―会社代表って、決裁権も何もない一社員ですよ

―いやいや、時と場合によっては会社背負わなきゃいけないでしょ。うちの弟の件あるんだから。

―それはうちの広報と話して貰えれば

―またそんなこと言って逃げる。新聞社なんてさ、正義面してさ、何もしないか、裏でろくでもないことするか、どっちかなんだから

嫌な電話だった。それから、部数だとか、売上だとか、毎年の協力金だとか、嫌なことを色々と言われた。それからあのことも。この販売店の店主の弟さんには不幸があった。卸された部数を裁ききらずに、自ら最悪の選択をされてしまったのだ。そして僕はその件に仕事上関わっていた。個人的には強く心を痛めているけれど、それは到底抱えきれるものではない。あれはお互い立場があっただけの話だと思う。他意は介在せず、知らぬ間にお互い不本意な形になってしまったのだ、と自分に言い聞かせるしかできることはなかった。自分が関わっていたようには今でも思えない部分がある。

 上の空のまま、面倒な電話が切れた。自分にはどうにもできない案件の一つだ。勤め人ならそうした案件の二つや三つ誰でもある。忘れるしかできることはない。


 第三会議室の扉を開けると、島袋が黒いスーツを着て、窓の外を見ていた。一階だから、さしていい景色でもないだろうに、わざわざ窓の外を見ているのは、何かから目を背けるのが目的のようだった。

「悪いね、忙しい所」

「いえ、全然」

「忙しくないの?」

「忙しいです」

「この間のあの話、ね」

「あ、はい」

「色々話してみたよ。部長とも話した。人事ともね。で、結論からなんだが、今回はちょっと厳しいということで」

 申し入れていた人事異動に対する回答だった。担当の変更を申し入れていた。こちらだってそう簡単に通るとは思っていない。

「そうですか」

「ごめんね。残念なんだ。頑張ってもらえればと思ってたから。欠員とかがないわけじゃないんだけど」

「…………」

「資質とかどうこう、というのも言われた。僕としてはそこは向いていると思っているけれど」

 島袋さんは若い頃文芸部の記者で、琉球の伝統舞踊やおもろそうしについての記事を書いていた。僕は今政治部への異動を願い出ている。

「それにこの間の件、あったろ? あれも少し響いている」

勤めに出るようになってから、自分の能力についてはっきりと言われることにも慣れた。そんなことを気にしていたら仕事なんかできないし、就職活動では誰もが落ちまくったのだから、今更傷つくことなんて少しだけだ。人間の能力的な差はちょびっとだから、社会に出たら人間性や性格で勝負が決まって、それだから、負けた時には倍傷つくけれど、負けなしに人生は生きてはいけない。自分を引き上げてくれる人を見つけた者が勝つ。慣れるしかない。

仕事なんて生きていくために必要なだけで、自己実現なんて求めちゃいけない。でもせっかく働くのだったら許される範囲で何とか自分のやりたいことを求めたい。人生で何とかやりたいことをやってみたい。少しでも自分の仕事を愛したい。大好きなトニーモリソンの「Beloved」の中のセサが自分が働かされている昔の女主人の台所に一輪の花をささやかに飾ったように、僕は少しでいいから自分の仕事を愛したい。


「まだ完全に駄目になったというわけじゃないから」

「はい」

「目標持ちながら、目の前のこと一つ一つ集中してこなしていくってのはいくつになっても大事だと思う。僕はまだ応援してるからさ」

「ありがとうございます」

「頑張ろうよ」

 島袋は共感を意識しながら話を続けた。

「わかりました」

たったそれだけのことで上司を恨むほど幼くはないし、上司だって誰かの部下なのだ。会社に行けば皆誰かの部下だし、会社に属さず、自分で仕事したって成功するのはごくわずかだし、当たり前のことだけど、仕事をして普通に生きていくってのは案外おおごとだし、年齢が上がればふられる仕事の難易度はどんどんあがる。


 短いやりとりだった。十五分も話さなかった気がする。

 席に戻ると菜穂が笑って迎えてくれた。

「あの件?」

 菜穂には自分の希望のことはどことなく伝えていて、むしろそれなら思い切って会社に申し入れてみたら、と勧めてくれたうちの一人だ。

「そう、あの件」

「どうでした?」

「いや、駄目でした」

「じゃあ、まだしばらく一緒に働ける」

「それはまあ、いつでも」

 菜穂は気を使って、屈託なく笑ってくれた。菜穂はこうやってバランスを取ってくれるだけでなく、優秀で実務能力に長けていて、忙しい時など、効率よく案件をこなしていってくれて、僕はかなり助かっているし、敬意も持っている。

菜穂がパソコンに向かう姿を見ながら、昨日の侑那からの電話を思い出していた。侑那は少しだけ不安そうな声を出していた。何か気になることがあるんだろうか。


そういえば、菜穂は高校の時に簿記を二級まで取得していたから、僕は菜穂からいくつかの簡単な仕訳と貸借対照表や損益計算書の見方や、それから損益分岐点や製造間接費の配賦の仕方等、簿記の基礎を教わった。菜穂は大卒なのにそんなことも知らないの、とは言わずに簿記と会計の超基礎を快く教えてくれた。菜穂から簿記を教わるために、二人で仕事が終わってから立ち寄った国道沿いのファミレスで、菜穂は、本当は一級まで取りたかったけれど、高校時代だけでは届かなかったんですよ、やっぱりあたしじゃあ、と言っていた。高校で一級とれたら末は会計士にだってなれそうなくらいだ。それはさておき、高校時代にちゃんと将来に繋がる資格を取っている菜穂を素直に凄いと思ったし、学歴なんかなくっても県内の一流企業に就職してそれなり以上にやっているのだから、もし仮に菜穂がそのことにコンプレックスを感じているならば、心底胸をはって欲しいと思った。

水村さんも三級位だったら取得してみたらいいんじゃないですか、仕事しながらでも多分いけると思いますよ、と言いながら菜穂は自身が母子家庭で育ったことを告げた。菜穂の母親は、那覇で看護師をしながら、菜穂と二つ年下の妹を育て上げた。小さな頃は東京の府中市で暮らしたこともある、と言っていた。競馬場と競艇場のある街で、多摩川が近くにあって、東京の割に空が広かったように記憶している、と言っていた。陳腐すぎるから一度しか言わないですよ、と前置きした上で、菜穂は高校生の頃、好奇心とそれからやるせない気持ちもあって、一時期煙草を吸っていたと言っていた。勉強はしっかりと、子供の頃からやっていて、高校でも成績が優秀だったから、東京の私立大学の指定校推薦にチャレンジしてみないか、という話を担任の先生から貰った。商学部だったから会計の勉強を続けることもできると思った。候補は二人。成績は悪くなかった。しかし、誰にも相談せずに辞退して、就職を選んだ。少しは東京を知っている母に相談すれば、無理をしてでも、あるいは父親に連絡をしてでも、行かせてくれただろうから、と言葉を濁すように菜穂はそう言った。

「照屋さんには沖縄で十分以上の暮らしがあるじゃない」

今の菜穂からは、十代の終わりの菜穂が、心紛らわせるために、半ば見つかってもいいと思いながら、隠れてただ一人煙草を吸う姿は想像がつかないけれど、そんなことでもやってみようと思う位、行き詰っていたのかもしれない。高校生と煙草なんて陳腐すぎて、今は誰もいないと思う。そもそももう買えないし、煙草に憧れる人は圧倒的に減った。数か月、菜穂の喫煙は続いたのだそうだけれど、結局、高校卒業と同時に、珊瑚の海にライターと残った数本のマルボロライトを投げ捨てて、それっきり辞めたと言っていた。

菜穂の話に、自分自身のことを思い出しそうになったけれど、久しぶりの週末の夜に、自由な気持ちで、ドリンクバーで四杯目のコーラが終わる頃、「女子大生会計士の事件簿」の話で盛り上がって、金曜の夜に久しぶりに高校の放課後みたいな気持ちになって、家に帰った。沖縄の冬のことで、ファミレスの外に出ると、コートは着ていないけど、夜風と街が少し冷たかった。さっきのファミレスで有線放送から、何年か前に流行ったキンモクセイの「二人のアカボシ」が流れていたのを思い出した。

隣で菜穂がしんとした顔をして、僕に話しかけようとしていたように感じられた。何か伝えようとしていたようだったけれど、結局菜穂も僕も何も言わなかった。

それ以来、菜穂に心寄せている部分はあるけれど、何も行動は起こせていなかった。言い訳はいくらでもあった。距離が近すぎて、万一こじれたら困るだとか、ずっと沖縄で暮らすかわからない、だとか。でも、言い訳の数だけ、一番は意気地がないことに思い至るだけだった。駄目でいいから半歩踏み出してみろ、と思うけれど、足はいつもすくむ。「あのさ、今度よかったら」と切り出せばいいだけなのだ。でも、何故かできない。心に何かがひっかかっている気がいつもする。


 それからぼんやりと仕事をしていたら、嘉数さんがやってきた。

「水村くん」

 石垣島出身の嘉数さんは八重山商工で甲子園に出場し、その後、立教大学に進み、東京の六大学野球で活躍した。中軸を打つ強肩強打でしかも俊足の捕手だったけれど、プロ野球はおろか、社会人野球にすら進むことはなく、沖縄に戻り、沖縄新報に就職した。肩に怪我があったみたいで、野球の話をすることは普段少ないけれど、何かの時に野球を続けられなかった思いを吐露していた。最初はスポーツ部で主に野球の取材をする記者だったけれど、数年して今の部署に異動してきた。

 甲子園の大きな銀傘の影が深まる第四試合の終盤、嘉数さんは試合を決めるホームランを打ったらしい。甲子園のヒーローだった嘉数さんは、今でも沖縄中どこにいっても、声をかけられる。大阪も神奈川も四国も広島あたりも東京も、最近では東北も北海道も、甲子園は全国津々浦々人気があるだろうけれど、本土に遅れて参加した沖縄の高校野球は格別で、沖縄の人たちは人一倍故郷を重ねて、汗と泥にまみれた部活の高校生達を応援している。試合の時間には誰もいなくなり、宅配便すら出て貰えない。ましてや嘉数さんの時は離島から初の甲子園出場だった。

 去年は興南高校が春夏連覇をしたから県内は老いも若きも盛り上がった。首里高校から始まった沖縄の悲願成就だった。

年齢と不釣り合いの脚光を、まだ年端もいかない頃からいびつに浴びて、それでも自分を保ってこれたのだから、よほど周りの大人がしっかりしていたのか、それとも嘉数さんがしっかりしていたからなのか、わからないけれど、自分との闘いの中で磨き上げたものを持っている人だけにある包容力と真の意味での心の余裕があったし、仕事でどんなに辛いことがあってもそれは崩れなかったし、僕はそれを慕っていた。

「今日は飲みにでも行く?」

「今日の今日っすか?」

 結婚をして子供もいる嘉数さんが何の前触れもなく誘ってくるのは珍しい。

「いや、都合つかないんだったら全然いいんだけど」

「行くっす、行きます。菜穂さんは?」

「行きますよ」

 沖縄の居酒屋で、僕は酒は飲まないけれど、嘉数さんと菜穂が結構飲む。

 何気なくありふれた職場の付き合いだけれど、今日みたいな日にはありがたかった。急な誘いの事情はわからないけれど、それでいいと思った。


   3


 メールは携帯に来ていた。「今羽田、これから飛行機に乗るよ」素っ気なく、気風がいい。侑那らしかった。八時過ぎの飛行機だった。那覇には十一時頃に着く。

侑那の突然の来訪は知らない街から届いた絵葉書みたいに、心が弾む。旧い友達だから、さすがに懐かしい。会いたい。朋の遠方より来るあり、また楽しからずや。この言葉の中の遠方とは物理的な距離のことではなく、きっと時間的な距離のことなんだろう。

侑那がやってきたら、僕の通勤と買い物用の中古のekワゴンに乗って、ラジオを聞きながら、沖縄の海辺をドライブしよう。五十八号線を、米軍が造った道だなんて野暮なこと言わず、窓を開けて千年前から同じ紺碧の海を見ながら走ろう。夏が来たのだ。何年会わなくたって、友達は友達。恋しい。


 空港での待ち時間はつれづれで、それとなく昔のことを思い出してしいた。

侑那のルームメートだった美婷はどうしているのだろう。台湾に第二次世界大戦の前から住んでいた本省人の家族出身で、お祖母ちゃんもお祖父ちゃんも日本語を話せた葉美婷は、台湾の穀倉地帯の夕暮れのように、どこか昔からの知り合いのような気がする相手だった。美婷と出会った時に聞いたのも、美婷を育てたというお祖母ちゃんのことだった。美婷と出会った時、僕は侑那と一緒にいた。侑那と二人で学食でご飯を食べている時に、美婷がやってきて、侑那がぼそっと、「私のルームメート」と紹介してくれたのだった。窓外の蘇鉄が亜熱帯の風に揺れる真夏のことだった。

台湾大学の学生食堂で美婷は、お祖母ちゃんが深夜放送で日本のプロレスを見るのが好きだということと、紅白歌合戦は毎年見ているという話をしてくれた。それから美婷はお祖父ちゃんとお祖母ちゃんは夫婦喧嘩の時は日本語で、誰も意味がわからなくてかえって都合がよかったと言っていた。昭和六十四年の昭和天皇のご崩御の際には涙を流したという話には、戦後の平和教育を結構徹底して受けてきた侑那も僕もどう答えていいかわからなくて、口に学食の中華料理がしこたま入ったまま心の中でこっそり顔を見合わせた。風琴と魚を売る声が聞こえてきそうな昭和の日本の音色が、海を隔ててこんな所に高い純度を保ったまま残っていた。

日本が大好きだというお祖母ちゃんは一度、侑那と僕を食事に誘ってくれた。板橋の客家料理のお店で、侑那と僕は美婷と、来月には徴兵で軍隊に行ってしまうという美婷の弟と一緒に食事をした。

食事の最中に、美婷のお祖母ちゃんが通じないはずの日本語で、いきなり美婷を叱りつける場面があった。「あんたに何がわかるの!」その他の美婷とお祖母ちゃんの会話は台湾語だったから、僕たちには意味はわからなかったけれど、もしかしたら美婷はお祖母ちゃんの憚らない親日ぶりに嫌悪を示したのかもしれない。でも、お祖母ちゃんからすればそれは、どうにもしようのないことだ。嫌だったこともあったかもしれないけど、その後の国民党の時代よりはずっとましと思っているのかもしれない。ひょっとしたら現在で言えば、外資系に買われた会社に勤めている人たちは似た気持ちで働いているかもしれない。国が国や地域を軍事力を背景に支配することはいわゆる先進国ではなくなったけど、資金力を持って会社が会社を実行支配することは今の世でありふれている。人類の発明である貨幣も資本も法律も、実は誰かを支配するために使われることが多い。知らぬうちに暴力になっている。

その後に林ガーデンに行き、三人でかつての妾部屋を眺めていた。生きていくのに、その生き方を自分で選べる人はこの世にどれくらいいるのだろう? そうそう皆、選んだ生き方はしていないんじゃないかと思う。妾になった人だって、そうなる瞬間まで、ひょっとしたらそうなった後だって、自分が妾になるだなんて思わなかっただろう。家に入る時に、川を渡る橋だって、誰かが自分を渡すためにかけたんじゃないか、と恨んだかもしれない。人には運命だとしか思えないことが、生きているといくつかある。妾だって、なってみれば案外生きていけたのかもしれない。運が良ければ、いい旦那に巡り会ったかもしれない。その逆もあったかもしれない。どっちにせよ、それでも人は生きていかなくちゃいけない。生きていくのに理由はいらない。生きていかない、という選択肢は人にはない。

そんな中、人は偶然に生きる。その偶然に意味を見出そうとするのも一つの生き方だろう。窓の外からはガジュマルの木が風に揺れるのが見えた。人が生きていくのだって本当はガジュマルが生育していくのと大差ないはずなのに。

美婷は七歳の時に、父親に引き取られ、父方の祖母に育てられたのだと言っていた。父親に引き取られたと言っていたから、ひょっとしたらお母さんの方に何か問題があったのかもしれない。当たり前だけど、美婷はそのことについて多くは語らない。けれど、俊英が何かの時に「母親に若い男ができたせいだ」、と言っていた。俊英のその言い方が案外口さががなくって、小さく驚いた記憶がある。そもそも、本当かどうかは知らないし、例えそうだとしても、多分それだけが理由ということもないだろう。子供のいる夫婦はそれ位じゃ別れないような気がする。そんなことより、陰でそんな話をする俊英を、長身で男前で、颯爽としている割に案外下卑た所もあるのだな、とうっすら負け惜しみ混じりに思った。とはいえ、俊英のことなどどうでもよかったから、そのことはそんなに印象に残さず、ただ美婷のことは余計に好きになった。誰はばからず育て親であるお祖母ちゃんを慕う美婷を見ていると、昔との繋がりが濃くて、心落ち着くし、幼い頃に傷ついた人特有のためらいがちな優しさを持っていて、会わなくなった今でも美婷には心寄せる部分がある。

決して自分を中国人と呼ばない彼女は、僕の留学が終わる少し前に、アメリカへ行ってしまった。台湾大学で経営学の修士を修めた後、かなり頑張ったらしく、カリフォルニア大学のバークレー校の経営学の修士課程に入った。外国なんて行ったってしょうがないって思うけれど、それが彼女の生き方なんだろう。二つも修士号を持っている彼女は今頃、シリコンバレーの辺りの企業で、朝食にベーグルでも食べながら働いているのだろうか。

 侑那といるのに疲れた時、この美婷と少し話をするだけで、随分と報われた気持ちになった。自分は本当は美婷の方に心を寄せていたのではないかとも思う。「美婷だって奔放にやってた部分もあるのよ」と侑那はぼそっと言っていたけど、それは誰でもそんなものだと思う。それのどこが悪いんだろう。


そういえば一度、台湾で九份へ四人で出かけたことがあった。九份は、台湾を旅した人なら必ず訪れる有名な観光地で、僕たちは、秋学期の一週間の休みを利用して、一泊二日で出かけた。

元々日帰りのつもりで出かけたのだけれど、急に泊まろうという話になって、中々宿が見つからなくて、四人で一部屋の民宿に泊まった。男女なのはわかっていたけれど、若かったし、暇だったし、とても自由だったから、そういう成り行きで過ごすのも悪くないと思って、皆声を揃えてそこでいい、と言い合った。何か男女のことがあるならあったで構わないと思っていた。はっきり言ってそういうのが楽しかった。美婷が「村上春樹の小説みたいだね」、と笑いながら言っていた。当時は上海や台北や香港で村上春樹の小説が流行っていた。村上春樹の小説は、表面だけを見れば、男女が軽ろやかに仲良くなって、後で何となく哀しみを知る都会的な青春小説のようで、大分私的な感じのする小説だけれど、本当は暗喩でかなり深い意味のことが語られている。でも、僕たちはそんなことは全く気に留めずに、ただ爽やかで急速に発展するアジアの都市のように、どこか寂しい感じもする村上春樹の小説の表層だけを読んで、愛していた。私小説というのは、リアリティーを出すためのピュアにテクニック的な話で、自分の中の何かについて書いた私的な小説とは根本的にそこが違う、と言った後、「文体がね、好きなのよ」と侑那は颯爽と言っていた。大した感想じゃないのかもしれないけれど、侑那のような美しい女に言われると、それでいいような気がした。

夜が続き、いつまでも起きているのかと思ったら、運転をしていた俊英が最初に寝て、気がつけば美婷も寝ていて、侑那とぼんやり二人になった。夜風を入れるために空けた窓からの風が布団を揺らした。背中にたてた爪痕みたいな月が青白く九份の空に浮かんでいた。さっきまでの侑那の中国語の澄んだ音階がいつまでも耳の奥に残っていた。二人になって急に切り替えた日本語が、異国で前触れもなくみかけた畳と障子みたいで、心が落ち着いた。静かに夜が深まっていった。

さっき見た、昔金山だったという九份の丘の上からの夕日を思いだした。雨上がりで、湿った夕映えが、かつて九份で採れていたという黄金のようだった。あんな夕映えを見ていると今がいつなのかわからなくなる。毎日夏祭りをやっているかのような九份の夜市で、カタコトの日本語を話すパイナップルケーキ売りの若い女性から聞いた、昔この山であったという鉱山事故の話を思い出していた。どこにでもいる土産屋のお姉さんの話だったけれど、知らない内に心に残っていた。少しだけこの世のものでないように思えるこの街の美しい喧噪が、どこか哀しく映るのも、九份を舞台に、二二八事件を扱った台湾映画「非情城市」と、鉱山の悲哀が宿る土地の記憶のせいなのかもしれない。

昔の台湾の映画を見た時に、どこか静かに暗い感じがするのは、二二八事件とその後三十八年に渡って続いた、白色テロが影響しているのだろう。重たい記憶の夢を見ている人は叫びたくとも叫ぶことができず、動きたくとも動くことができない。そんな自分でもわからない感情が映画のどこかに投影されていたのではないか。

あの時で、九份に来たのは二回目だった。

―エイキ、あたしたちも寝る?

―いいけど

やぶから棒に侑那が言ってきて、断る理由もなかったから、窓際のあいていた二つの布団に別々に入った。入ってからしばらくして、侑那は興奮しているのか、僕の脚を蹴ってきた。ふと横を見るといたずらをする時の顔で笑っている。広島にいた子供の頃、よく遊んでいたと言っていた近所のアサボウの池と呼んでいる小さな池で、侑那はこんな顔をして食用ガエルでも釣っていたのだろうか。美人で健やかで、五月の風みたいなくせに、日焼けのよく似合う野生児のように、がさつにその時の侑那は見えた。くすくすと笑いあっていると、幼馴染と遊んでいるような気持ちになった。

その頃の侑那は、大人の男と女も結局は裸で遊ぶなんてことは知らなかっただろう。

背中で小さな物音が聞こえたように思ったけれど、外から少しずつ入ってくる風の音だと思って振り返ったりはしなかった。知らないうちに、侑那と脚をガジュマルの木の枝のようにからませて、心を重ねてそのまま眠っていた。


朝はカーテンの隙間から入ってきた。台湾の初秋の太陽で目が覚めた。窓からの朝の光をみていると、中々ついていけない歴史学の大学院の授業も、何も決まっていない卒業後のことも、時折日本の友人たちからメールの来る社会人としての新しい生活のことも、どうでもいいことのように思えた。(それは、上司とキャバクラに行っただとか、客先の接待でおっぱぶに行っただとか、実際に心底どうでもいいことであった。けれど、コーヒーに憧れる小学生と同じように、その時の僕は接待だとか、キャバクラとかおっぱぶだとかを自分のまだ知らない世界の象徴のように思っていた)


 あの時みたいに、自由な気持ちで侑那と旅ができるのだろうか。暗いことの多かった自分の人生の中で、あの台湾留学時代は、唯一と言っていいくらい、何にも気兼ねがなかった。自分の人生にあんなひと時が訪れるなんて思いもしなかった。あんな時代があったからこそ、今も生きていける。台湾を思い出させてくれる侑那との再会は思わず心待ちにしてしまう。

でも、たった一人で、結婚もしているのに、昔の友達を訪ねにやってくるなんて、何か変だ。眺めていた発着表で侑那が乗ると言っていた飛行機の便が到着済の表示になった。もう来るのだろう。余計なことを考えるのをやめた。


 人ごみの中の侑那は一人所在無げで、似合いもしないサングラスをTシャツの首からかけ、買っておいた方がいいよと伝えておいた麦わら帽子は、見覚えがあると思ったら、台湾時代に師大路の露店で買ったものだった。うちにも同じものがある。

「うちは毎年この日はお墓参りだった」

 八月六日。那覇国際空港の到着ロビーで七年振りに会った侑那は他の観光客よりも少しだけ固い格好をしていた。広島が故郷の侑那は被爆二世で、祖母を二人亡くしていた。

「お母さんを育てたお祖母ちゃんと本当のお祖母ちゃん。己斐に住んでたひい祖母ちゃんは今でも健在だけどね」

 小さな声で亡くなった身近な人たちの名前を侑那は呟いた。侑那の弔いの声が沖縄の空に消えていった。侑那のお母さんは一歳の時被爆していて、お母さんのお母さん、つまり侑那の本当の祖母はおそらくその時亡くなっている。侑那のお母さんはその時一歳位の娘さんを失くしてしまった母親に育てられたのだそうだ。その母親は侑那の母親を自分の娘と言い張り、親戚中を納得させ、最後の最後まで育て上げたのだそうだ。一歳どころか、生まれてから、一目か二目見れば自分の子供だとか孫だとかはわかるものだ。

だけれども、家族や親子だって人間関係なんだと思う。例え血のつながりがあったって、他の人間関係と同じように、努力や諦めで対人の信頼関係を築いていくものなのだ。僕は自分の家族とはどんな人間関係だって結べなかった。特に母とは。自分の育った家庭のことは、あまり思い出すことはない。父と母は僕を川崎で生んで小さな頃はそこで育てた。上に父親違いの兄がいて、すぐ下に妹がいた。

小さな頃いた川崎の、銀柳街と呼ばれるパチンコ屋だらけのドヤ街みたいな繁華街を抜けて、市役所を通り過ぎて、産業道路の脇に僕が育った家はあった。川崎は父の故郷で、父が母と出会った場所だった。父は川崎の大師の辺りで生まれ育って、地元で大型トラックの修理工をしていた。母はどこか西の方の出身、大阪だとか和歌山だとか言っていた。母の生まれた場所を僕は知らない。団地の中で牛を飼っていた、とだけ短く言っていた。水はけの悪い路地が多かったと言っていたから、多分被差別部落と呼ばれる場所で、だから母は自分の生まれ故郷を消してしまったのだろう。母は若い頃スナックで働いていて、父はそこに来ていた客だった。流れ者の母はその時二十一歳で既に父の知らない男の子供を産んでいて、毎日の暮らしにも事欠いていた。父が何故母のような女と結婚したのか、僕は知らない。もう少し歳を取っていたなら、他に相手がいなかったのかもしれないが、二十七歳と今の僕よりも若く、仕事さえあれば何とかなった時代に、なんでまた、と思うけれども、父は結局母に同情を寄せたのかもしれない。でも、父はそれが母の計算とはいつまでも認めなかったかもしれない。父と結婚して母の暮らしは落ち着いた。知らぬ間に僕が宿り、いつの間にか妹も生まれ、先に母の元に来ていた兄と一緒に、川崎の産業道路の脇の家で、三人大きくなっていった。豊かだった記憶はないけれど、その代わり追い詰められるようなこともなく、幼かった頃の僕は父親違いの兄とすぐ下の妹と平凡な家庭の営みの中にいたと思う。一言で言えば、それなりに幸せだったと思う。


侑那は大切な人たちの名前を言い終わると、笑いながら

「今日みたいな日は広島は人がいっぱいで、静かに亡くなった人のことを偲ぶ気持ちになんかなかなかなれないんだよ」

 と少し晴れやかな声で言った。自分の故郷や生い立ちのことなんか、この空に消したい。今はもう新しく生きているのだから。

侑那も僕も知らないうちに再帰性の中に生きていて、知らない永続を生きている。この世にいた誰かの巡ってきた命の中に自分の存在があるという気持ちに、広島なり沖縄なりにいるとどこかでなる。あれだけの命がただなくなったとはどうしても思いたくない。生命は見えない力で溶けあわされて、それから時を超えて巡るのだ。

 何故か、僕の口をついて出たのはあたりさわりのないつまらなくさかしらなことだった。

「慰霊の日も一緒だよ。なんか基地がどうとか、米軍の治安がどう、とか。そりゃ大事だよ、大事だけどさ、ちょっとなんか違う感じ」

 昔、台湾で侑那は被爆者は被爆者としてだけ生きるわけじゃないのに、知らない人はその部分だけを見てくるから、と言っていた。

「それでもさ、それでも大事なんだ、この日は、うちの家族にとっては……。ま、今年はあたし一人で沖縄、来ちゃったけどね」

そう言うと侑那は笑って二三歩駆け出した。風景が変われば心も変わる。侑那の心も少しだけ弾んでいるのがわかった。遠い日々からの思わぬ来訪者はいつだって目の前にあの時の日々を持ち込んできてくれる。懐かしさと巡りあわせてくれる。

まだ朝の十時半で、侑那は八時丁度くらいの飛行機に乗ったみたいだから、相当に早くに自宅を出たはずだ。世田谷の千歳烏山から羽田まで、案外乗り換えが多い。盆だからといって年末年始みたいに皆が休むような時代ではなくなっていて、夏休みはそれぞれずらして取るのが勤め人の主流になりつつあったけれど、広島で育った侑那は盆はどうしても休みたくなってしまうのだと言っていた。

「ホテル、どこだっけ?」

「……久茂地のリッチモンドホテル」

 侑那の荷物を軽自動車に積み込むと、侑那がラジオをつけた。FM沖縄に周波数を合わせていた。晴れた日の空みたいなパーソナリティーの声が流れてくる。糸数美貴という沖縄方言をうまく取り込んで、リスナーとの距離を縮めるのに長けたローカルタレントの声だった。僕は屈託のない彼女のファンで、何度か公開録音に足を運んでいる。

―では続きまして、東京都にお住まいのラジオネームフニャフニャ社員さん、今日から約十日間、沖縄に行き、昔の友人を訪ねます。元ちとせの「夏の宴」リクエストします。フニャフニャ社員さん、沖縄にようこそ。

 ラジオから元ちとせの歌が流れ始めた。横を見ると侑那は寝たふりをしているが、このリクエストは侑那だとすぐにわかった。元ちとせの「夏の宴」は僕らが台湾に留学していた時によく一緒に聞いた曲だった。

 

 空は青く澄み渡り、僕はただ車を走らせる。

そういえば、侑那は台湾に何故行ったんだろう? 

私学の雄と謳われる慶応大学の湘南にある新しい学部を卒業した侑那なら、いくら厳しいと言われていた当時の氷河期戦線でも普通に勝ち抜けたのではないかと思う。確か湘南藤沢キャンパスで社会学と心理学をやっていたと言っていた。高校だって、広島で一番の女子高を卒業している。僕が憧れた全国紙にだって、その気があればどこかに引っかかっただろうし、今侑那が勤めている自動車会社だって、もっと大手があったかもしれない。商社だ、金融だ、と他の大手企業にだって、きっと就職できたと思う。家も、お父さんが確かマツダで生産技術の仕事をしてて、お母さんは自宅でお祖母さんの代から続くお好み焼き屋さんを経営していたから、結構裕福だったように思う。やっぱり僕とは違う、と会う度にそんな風に思ってしまう。それなのに、大学を卒業して、すぐに就職をするわけでもなく、卒業後のあてもなく外国に出た侑那に対して、春に降る雪みたいにいつも不思議だった。あの時の侑那には何か普通に生きていくのでは埋まらない心の隙間でもあったのだろうか? でも、普通に生きていくってのは結構立派なことで、それで心が埋まらないというのも実は贅沢な話なのだが、それでも埋まらないのは何故なんだろう。

まあ、今風の言葉で言えばお互い自分探しというやつだったのかもしれない。でも、自分なんてどこを探したっていない。いるとしたら、今生きているそこにしかいない。あの時でいえば、逃げたいと思っていた就活とかその後の会社生活とか、本当ならそういう所にいたはずだ。やってみたら、会社も仕事も自分次第で自分を幸せにしてくれるものだった。幸せは栄達やおごりの中ではなく、凡百の中にあるのだ。侑那なら、あの頃でとっくにそんなことはわかっていそうだったし、賢明な侑那が自分探しだなんて中身のないことをするようには思えない。でも、もし聞いたとしたら、顔でもしかめながら「あたしだってさ、別に、普通だし」と自分の気持ちを話始めるだろうけれど、侑那のことはやっぱりよくわからない。でもそのわからなさゆえに気にはなってしまう。

それに比べてあの当時の僕は単純でかぶれていた。本当の自分は全力で生きる日々の中にしかいない。今ある所が一番幸せなのだと考えなければ本当の自分も、本当の未来もやってこない。そんなことも知らなくて、海外にさえ出れば違う自分になれるように思っていた。それは違う。新しい自分は、真に自分を追い込んで何かに誠実に努力することでしか生まれない。そもそも、少しだけ歳を取った今、よくよく考えてみると、本当の自分なんて、別にどうでもいい気がする。本当の自分、なんて言葉は人生の薄さを取り繕っているだけのように思えてしまう。でも、それが僕らの若い頃に流行った言葉だった。後は自分のやりたいこと、という言葉だった。

「この曲、よく聞いたよね」

 寝たふりから起きた侑那が急に声をかけてくる。ずっと聞いていたラジオのことだった。

「リクエストしたの侑那?」

「正解。でもまさか本当に読まれるとは」

「ラジオネーム、フニャフニャ社員って」

「笑えるっしょ」

「ちょっ、普段真面目に仕事してんの?」

「してねえよ」

 そう言いつつ、侑那が真面目に仕事をするタイプの人間だということは僕はよくわかっていた。今は休暇中だという侑那が身にまとっている空気がそういう風に物語っていた。

それにしても、三十を過ぎて、知らないうちに言葉づかいも変わるから、若者言葉なんてきっとしばらく使っていなかったはずだ。だから侑那の「してねえよ」は丈の短くなった中学生の制服ズボンみたいで、大分無理があったけれど、つまらないことを言い合って笑い合っていると一気に昔に戻ったような気がしてきた。

僕らももう三十二歳になっていた。二十代の頃は、自分の年齢が借り物のように思えたけれど、とっくに自分の年齢にも慣れ、時が流れていくことはいつの間にか体の一部になり、気が付けばただの大人以外、何者でもなくなっていた。でも、決して悪くない感覚だった。少しずつ、年齢と小さな嘘を重ねていくのに慣れていくのは決して悪くない。

若夏が過ぎてやってきた沖縄の夏の光が、過去の日々のように美しかった。共に逃げた日々と記憶しているはずの過去でさえ、気がつけば豊かなものに変わっていた。


 ホテルに行く前に、昼食を食べに行くことにした。侑那が思いっきり沖縄っぽいところがいいと言うから、牧志公設市場に出かけた。牧志公設市場は定番の観光地だが、周辺の市場、こっちの言葉でまちぐぁの路地が昔からの繋がりを濃く感じさせてくれる。それが好きで、沖縄に住むようになってからも週末に時々一人で来ていた。戦後の闇市が起こりで、川を埋め立てた土地にできた市場だった。だから道は変な曲がり方をしているし、よくわからない傾斜があって、どこか違う場所に続くかのような道だった。誰かの物語がたくさん詰まっているような感じがする路地が連なっていて、その暗がりが小さかった頃のことを思い出させる。夕立の来た日は尚更、雨の香りの中、昔のことを強く想った。

「台湾にもあったね、こういう市場のような路地のような」

「淡水とか、板橋とか、四方夜市とか、というか台湾ってこういう所ばっかりだった気がする」

「そうそう」

 懐かしさのために会うことにした二人なのに、いざ過去が出てきそうになると、向き合う勇気はまだ持てない。二人、心の中で顔を合わせて、同じようにとある話題を避けた。移ろいの中で二人で申し合わせるように忘れようとした過去のことを、今多分同時に思い出した。九份の夜のことと、その後の顛末のことだった。

「広島もこういう感じのとこあるよ」

「東京も、吉祥寺のハモニカ横丁とか、新宿の思い出横丁とかさ。後、中野とかにもひょこっとあったりする。どっかさ、昔に連れて行かれそうな路地」

「中央線ばっかじゃん。好きなの? 中央線?」

「え? 別に」

朝方の高円寺や阿佐ヶ谷あたりの高架からの風景が頭に浮かんだ。高校生の頃、中央線を使って通学していたのを急に思い出した。

小金井の駅から三鷹を過ぎて、吉祥寺を過ぎて、阿佐ヶ谷と高円寺の高架から遠くを眺めて、中野のあたりで見慣れた市場と副都心の高層ビルを眺めていた。あの時、住んでいた場所は調布なのに、新宿まで出て、それからまた京王線で戻っていた。川崎からは引っ越して、石垣島に父と兄妹達を置き去り、母と二人で調布で暮らしていた。

夜にならない都会の中で、まだ子供だった僕は一人であんまりあてもなく歩いていた。大都会の繁華街は、それなりに怖かった。ネオンが人格を持って迫ってきて、路地裏に連れ去られて、頬をはたかれ、小銭をせびられるような気がした。歌舞伎町が素顔を見せるのは、明け方になってからだと知るのはもう少し後のことだった。川崎の繁華街を思い出した。実際十六歳位の少年の一人歩きは危なかったのではないかと思う。

 アーケードの屋根から漏れてくる光が、ざわつく気持ちを誤魔化すために始めた、僕らのくっだらない会話を照らした。身勝手な声は早く那覇の空に消えていってほしい。


 公設市場は古い建物の二階家で、豚の頭がまるまる置かれている肉屋や島ラッキョウを、手のひらに山と試食用に渡す漬物屋を抜けて、市場の中央にある小さなエスカレーターで二階に行くと、食堂がいくつも並んでいる。そのうちの一軒の食堂に入り、下の魚屋で購入したイラブちゃーの刺身とソーキそばを注文する。ここに来るたびに古い日本映画を見ているような気分になる。

「真昼間だけどビールでも飲む?」

 僕は酒は飲まない。でも侑那がそれなりに飲むのはもちろん知っていた。

「いいよ、そんなの。この時間に飲んだら一日が終わっちゃうよ」

「そうだよね」

「でもさ、うちの旦那はさ、飲む人なんだよね、旅行とか行くと昼間から」

 さりげなく強調された侑那の旦那の存在に一瞬気を取られた。大手町のメガバンクに勤めて、学生時代にはアメフトをやっていたという聞いたことしかない侑那の旦那の面影を想像してみる。帰国子女で英語がペラペラだという。僕も人品とその中身ならペラペラなのだが、英語はたどたどしい。更に、侑那と同じ大学出身ということは、首都圏では無敵の何とかボーイというやつだ。聞けば聞くほど勝てる所のない男で、白いワイシャツとブランド物のネクタイと絶えない笑顔が浮かんだが、善良かどうかは会ってみないとわからない。いや、多分性格もいいはずだ、多くのものを自分の人生から得て、それだけ満たされて生きてきたのなら、何を歪む必要があるだろうか。善人になるのに十分なゆとりと満足を備えているはずだ。不安だって少ないだろうから、感情的にも安定しているだろう。ところで、人間は相手の欠点を愛するものだ。でも、侑那の旦那に欠点なんかあるんだろうか? なくて七癖、人は少なくとも七つ位は欠点があるものだと思うけれど、愛すべき所が果たしてあるのだろうか? そして何かが欠けている人間の気持ちがわかるのだろうか? なんて言うのも負け惜しみだろう。素直に負けを認めるしかない。

「ホテルさ、結構近くだよ。五分とかそんなものかな。となりの美栄橋」

 慌てた感じで話を変えたから、気持ちが揺れて怯んでいたことはすぐわかっただろうけれど、気にしても仕方がない。

「てゆうか、エイキはどこ住んでんの?」

「え、俺? 俺は実は那覇市内じゃなくって、コザ、沖縄市のコザってとこ」

「ふうーん」

「嘉手納基地のさ、ある街。嘉手納基地は聞いたことはあるでしょ?」

「うん。最近の沖縄の基地報道は普天間ばっかりだけど。嘉手納は知ってる。てゆうか街中街中っていうから普天間も那覇市内だと思ってた。さっきスマホで調べたら違うんだね」

「普天間も市街地は市街地だよ」

 隣接する沖縄国際大学の構内に大型輸送ヘリが墜落したのは七年前のことだ。あの時は油の匂いがいつまでも消えないかのように、沖縄の空がしばらく曇った。

 侑那は何も言わずに頷いた。侑那を何にも知らないと笑う気にはなれず、東京でニュースを見てるだけだとそんなものだというのはよくわかる。報道は情報ではなく印象を伝えるものだ。時と場合によっては、物語を残酷に利用するのだ。正しいかどうかはあんまり関係ない。新聞社に勤めていながらも、いや、新聞社に勤めているからこそ、そういう風に思う。中立性なんて意識すればするだけ手から滑り落ちる。

「なんで? 家賃安いの?」

「それもあるけど、コザって街が何となく面白いから」

「ただの物好き?」

「まあ、そう」

「間取りは?」

「1LDK」

「ふーん、じゃあ何とかなるわね。実はさ、ホテル、取らなかったんだ」

「えっ、ビジネスホテルだったらお盆でもぎりぎり取れると思うけど」

「てゆうか、泊めてくれない?」

 侑那はずるく、その言葉に合わせてテーブルの下で足を絡めてくる。あまりに古典的だし、再会してから、この短い間にもさりげなく肩を触れ合わせて来たり、妙に顔を近づけてくることがあったけど、再会の喜びとは別に、僕は一線を越える気はない、と陰に陽に伝えていた。もはや人妻の侑那と一線を越えて、やっかいごとに巻き込まれるのは嫌だった。この歳になると男女が結ばれるというのはそれなりのことなのだ。例え浮気の範疇に収まったとしたって、リスクは十分。色々警戒しなければいけないのだ。

「いんだけどさ……布団ないよ」

「沖縄にニトリないの?」

「あるよ、そりゃ」

「じゃあ、帰りに寄ろうよ」

「え、侑那が帰った後、その布団どうするの?」

「エイキが使えばいいじゃん」

「あるよ、自分の」

「じゃあ、お客さん用に取っておけば」

「お客さんなんて、そう滅多に来ないよ」

「お父さんとかお母さんとか来るでしょ?」

 言った後、侑那はしまったという顔をした。僕があまり家族とうまくいっていないことは、多分忘れていただけだろう。

「……なんかあった? 侑那」

 大人になってから知り合った人には踏み込んだことを聞けないという思いがあるから、言わないセリフだけれど、ぎりぎり大人になる前に知り合った侑那には率直にその言葉をぶつけられる。わざわざ一人、昔の男友達に会いに来るなんて、何かないはずがない。ましてホテルも取らないなんて、実は家出なのかとも思う。

「うちの旦那さ、浮気してんだ。それも今回が初めてじゃないんだ」

 息を短く飲んだ後、侑那は表情を変えずに、淡々と言った。会議の議事録で見る発言みたいに感情が消えていた。それから、侑那は思いのほか暗い表情を作って、肩越しが何故か小さく震えたように見えた。纏わりついている死神か悪魔でも振り払おうとしているかのようだった。

「でさ、今回のは何か本気みたいで……、彼女? とかってゆってんの、相手のこと。やばくない? あたしの前で彼女ってさ、よくゆうよね。まあ、いんだけどね、別に」

「それって、ただの三人称現在単数の彼女じゃなくって?」

「は? 違うわよ、馬鹿」

 侑那はきっと普段はもうちょっと嫋やかに話しているのだろうけれど、再会してからは、ずっと小娘口調で、言葉だけ聞くと三十二歳の人妻には思えない。気を許しているのか、何かの演出なのか、意味も真意も不明だけれど、似合わないコスプレみたいで僕は内心で笑いをかみ殺していた。本当に小娘だったころは広島弁で、じゃけん、じゃけん、としゃべっていたはずだけど、なんで標準語の小娘言葉なんだろうか。

「もてる人だから、色々あるんじゃない。ほっとかないんだよ、周りが」

 会ったこともないくせに、火に油を注ぐようなことを言ってしまった。侑那が僕に対して怒りを持ったのがわかった。

「エイキさ、沖縄来て何年目?」

「七年経ったから、今年で八年目」

「独りでいるんだよね?」

「うん」

「寂しくないの?」

「寂しいよ、普通に」

「何か考えたり、行動起こしたりしないの?」

「今の所は」

「らしいっていえばらしいけど。まあ、でも、自由だね」

 侑那はため息交じりでそう言って、言い合いの中でも気を使ってなのか、少しだけ羨ましい、というような含みを目元に持たせたけど、本心は面倒臭い男と思っている気がする。抒情のスペシャリスト、と侑那が昔僕のことをからかっていたけれど、単にうじうじした小者と言いたかっただけだと思う。

それにしても、確かに、仕事を終えて帰る一人の部屋には何もなく、予定のない週末なぞ考えるだけで身の毛がよだつ。美しい場所も一人で行ったって、なんにも奏でない。沖縄の白砂青松の海も、一人で眺めた所で、何も美しくない。それどころか、暮らしてみると沖縄は案外狭くて、気分転換に出かけようにも、地続きで行けるところが少なくて、まさか毎週のように飛行機に乗るわけにはいかないから、結構窮屈な思いもする。世界中どこにも行ける東京での暮らしとはやっぱり違った。地元のスーパーだって、東京の大型スーパーには品ぞろえで全くかなわない。照明だって妙に暗い。はっきり言って、自分の週末と同じ位貧相だ。自由とは思うよりもそっけないものなのだ。自由の類義語は孤独なのだ。そんなことは侑那だって知っていると思う。

「何か、行動起こした方がいいよ」

「行動って、例えば」

「例えば、わかんないけど。今だったらネットとか」

「ネット?」

「別に、きっかけじゃん、偏見、いらないじゃん」

 侑那は小さくため息をついた。ちょっと苛立ちを抑える感じのため息だった。

「お金と一緒。人類の発明。必要なものと割り切って、どう使うかを考えたらいいじゃない」

 侑那の言うことはもっともだと思う。いつの間にかおさまる所におさまった侑那を見ていると、動いたもの勝ちだということが身に染みた。僕たちは結果を決められない。どうしょうもない外部要因の影響を受けることも多々あるのだし、人は結構偶然に生きる。流されて生きるのは誰も変わらない。だから目の前のことを一生懸命にやるしかない。僕だってこの七年間、記憶の中だけで生きてきたわけではない。それなりに色々してみたけれど、思うようにはいかなくて、そもそも、思うようにいくことの方が少ないって、皆そうだってわかってはいるけれど、最後の最後の所で新しく生きていく気持ちが全然わいてこなかった。まさか、と思うが、侑那が足かせをしていたなんてことはないんだろうか。自分の心の奥は自分ではわからない。追憶に身も心も浸して、気がつけば七年って、どれだけの時を棒に振ったのだろう。

 自身の身の上話から必死で話をそらそうとしているのか、侑那はいつになく饒舌で、懸命だった。夫婦の間には浮気以外にも何かあるんだろうか? そう思わせる位、侑那は自分を護ろうとしている印象だった。それが言葉づかいに表れていた。

そういえば、もはや関係ないけれど、侑那は俊英と、いつ、どうして別れたんだろう? 俊英は侑那を追いかけて、日本の外資系自動車メーカーに就職したから、卒業してからもしばらくは続いていたはずだ。いっとき位は台湾時代に引き続いて東京で一緒に住むようなこともあったんじゃないだろうか。俊英はその会社が青山学院の跡地を買い取って作った愛甲石田の開発センターに設計者として勤めて、その後メキシコに駐在した。アグエスカリエンテスという街で新車の開発に携わったらしい。その後は、主に自動車のボディーの外板を作る大手部品メーカーに高待遇で転職した。台湾で一番の大学の工学部の機械工学科の修士課程まで出た俊英にふさわしいキャリアだと、皮肉なしにそう思う。見事、グローバル化の波に乗ったのだ。でも、そんなに早く、完成車メーカーから部品メーカーに転職した俊英に何があったんだろうか。そういうのはもうちょっと、キャリアの終盤ですることなんじゃないだろうか。後、機械工学だったらトランスミッションとかサスペンションとか、なんかそういう機械的なものに携わりそうだけれど、ボディーなら空力学とか流体力学とか、そんな感じの専攻のような気もする。まあ、そこまで厳密には区分けしないのだろう。もちろん、大手のメーカーの技術部門は下からの突き上げもすごいから(毎年毎年若くて優秀な新入社員が入ってくるのだそうだ)、競争はかなり厳しいと聞くけれど、俊英は、何となくそういう競争には勝っていきそうだし、万一負けたとしても、しつこく相手の首を狙うタイプだ。俊英の人生にも何か思いもかけないことが起こったのだろうか? それはきっと、まあ、侑那も多少関わっているんだろう。今の旦那さんとどんな風に出会ったか知らないけれど、シビアに比較して乗り換え期間が侑那にあったってちっとも驚かない。侑那も強気の恋愛ぐらいしたのだろう。侑那ならそれくらいはやる。そうやって自分以上の男がいなくなる直前に侑那はおさまるところにおさまった。そして俊英は多分そこで敗れた。初めての挫折だったのかどうか、知らない。

俊英のことは卒業後は音信が途絶えてしまったから詳しいことはわからない。ルームメートだからって別に仲がいいとは限らない。外省人で、お父さんは台湾の航空会社の役員で、中国の長沙出身だというお祖父さんは国民党の元官僚、というか軍人で、お母さんは苗栗出身の原住民の家系だけど、自分を躊躇なく「中国人」と呼び、決して「台湾人」とは呼ばない台湾華僑の王俊英は、人品はさておき、いつでも陽の当たるエリート街道が似合うはずだった。

 俊英のことはとうに過去のことになっているのだろう。自分達三人が過ごした時の密度を考えると、とても過去になんかならないように思うのだけれど、侑那はとうに新しく生きている。

ならわざわざここに来て、今更僕の心を乱すこともないのに。侑那と僕は心爽やかに別れたはずなのに。大体、夫婦のことに少しでも巻き込まれるのは大迷惑だ。

「あたしはさ、もういいんだ、別に……、今更好きもなにもないし。別にいいんだ」

「それならそれでいいじゃない」

 本心じゃない言葉を馬鹿みたいに真に受けた僕の膝を侑那は軽く蹴った。それから後はお互い無言だった。大体僕に相談しようとしているのが間違っている。ただ話を聞いてほしいだけなんだろうけど、男女のことならまだしも、家族のことは相槌すら僕はちゃんと打てないのだ。それは侑那もわかっているはずだ。

 侑那は目の前のソーキそばを食べ終わると、荒れた手で水を飲みほした。水仕事で荒れたのだろう。家庭の水仕事で手が荒れるものなのかどうか、僕には不明だけれど、目じりや声よりも、そこには侑那の年齢が出ていた。三十代前半の、まだまだ若い部類にいれてもいい僕らだったが、侑那の荒れた手が、二度と会うことのなかった七年間のように、ふっとこの世の時の流れから浮かんで見えた。

 侑那の無言の不機嫌が、嫌な記憶を思い出させた。十年だと一昔と呼ぶには近すぎて、二十年経とうとしている今だからこそ猛烈にわかることもある。二十年経って、嫌に当時の肌触りや空気を身近に感じる。まるであの頃の自分がすぐそこにいるかのように。心ならずも、僕はあの時、家族を求めていたのかもしれない。侑那の横顔を見ながら、些細なことで言い争う父と母の横顔が浮かんだ。そして家族の別離の風景を思い出していた。この所、久しく思い出すこともなかったのに。自分が先に、侑那の、ホテル取らなかったんだ、という一言に勝手に腹を立ててわざと馬鹿な受け答えをしたのが悪いけど、こうも不機嫌に染まられると動悸を感じる程、どうしていいかわからなくなる。


 それから僕らはニトリに行き、一人分の布団を買い込み、ついでに侑那の分の箸を買った。夫婦どころか恋人同士でもなく、一人分の必需品を買う僕らがどう見えたか、気にする人がいたとも思えないけど、結局夫婦にしか見えなかっただろう。家具屋にいる男女は例外なく寝具や食器を供にするか、過去にしたことのある深い仲だ。

国道五十八号線をドライブしながら、コザの街に向かった。僕のいつもの通勤経路で、途中には太平洋戦争の激戦地の一つだった嘉数高地と嘉数高地からよく中を見下ろすことのできる普天間飛行場がある。嘉数高地の一番上まで行くと、古い銃弾の跡がいくつも残る朽ちかけたトーチカがある。旧日本軍のトーチカで中に入ると夏草が乱雑に生えていて、銃口を出していたと思われる窓から空を覗くと、夏空に一瞬流れている時がいつだかわからなくなる。

 そういえば、侑那は沖縄の戦跡を回りたい、と言っていたから、ここにも連れてくることになるのだろうか。沖縄も広島と似ていて、街のどこかにあの時の記憶がいくつも残っている。大地の見えない陰となって、こびりつくかのように、引き裂かれた肉体と魂の記憶が消えない。大地も記憶を持っている。沖縄も広島も晴天の日でも街がどこかうす暗い感じがするのだ。 

 晴天の国道を中古のekワゴンを走らせていると、古くてうるさいエンジン音の中で、どこか違う世界にでも連れて行かれるような気がしてしまった。ブレーキの調子が最近少し悪い。この車のメーカーに勤めている侑那に言えば直るんだろうか? 信号待ちの軍のトラックの中から、ヘルメットをかぶった米兵の姿が見えた。さすがに十代じゃないだろうけれど、結構若かった。ここが一九五〇年代の朝鮮動乱の時か、あるいは一九七〇年代のベトナム戦争の時の街角のように思えた。侑那の会社はもうその頃戦車や戦闘機を造るのは止めていただろうか。もう作れなかったはずだ。


家について、荷物を置いて、少しだけ休憩をして、散歩がてら夕食を食べにでかけた。学生時代に俊英と僕の部屋で四人でよくやった小さなポットラックパーティーのように、侑那は僕の作った料理を食べたがったが、わざわざ昔のことを思い出すのが面倒くさかったので、代わりにステーキを食べに行くことを提案した。明日、侑那は沖縄の戦跡を巡りたい、と言っていた。真夏の沖縄に来て、ビーチにも水族館にも行かないなんて、変わっちゃいるとは思ったけれど、「本当は私もジャーナリストになりたかったんだよ、だから社会学やったんだもん、そんで台湾にだってそれで行ったんだもん」、と嘘か本当かよくわからないことを言っていた。

「でも、新聞の言葉って、画一的なだけじゃなくって、攻撃的だから、あたしはちょっと触るのツライ時あるんだよね。手触りがさ、キツイ時あるんだ。だから新聞、とんないんだよね、ってごめんねエイキにこんなこと言って」

これは侑那の言うとおりと僕も思う。でも、新聞だけがジャーナリズムじゃないし、テレビだって雑誌だってよかったわけだ。侑那の言葉は相変わらずどこまで本気かわからない。

コザの街を歩いていると侑那は

「なんか、朽ちた感じの街だね」

と言った。今は灯されることのないネオン看板がいくつもあって、夕暮れになると暗い影が落ちてくる。お盆に流した灯篭が水に濡れて、よどみで朽ちたらこんな感じなのではないか、と暮れていくこの街の灯影をみていると思う。

「この街は懐かしいんだ」

 陳腐なセリフにも侑那は黙って頷いてくれた。

随分と色あせた街で、幽霊が出てもこの街なら少しもおかしくはない。長く住んでいながらもこんなにも見えない感じのする街は他にはない気がする。昔この街で起きたという暴動も本当は幽霊の仕業だったのかもしれない。落ちたマブイが集まって、生きている人たちを動かしたのかもしれない。この街はセリフの少ない映画みたいに思わせぶりだった。

ベトナム戦争の頃はここから兵隊と飛行機が出撃して、ジャングルで戦った。その兵隊相手の仕事に離島を含めた沖縄中から色んな身の上を背負った女が集まってきていた。Aサインバーからそうでないお店にも、ひしめきあって生きていた。「見えないマチからショーンカネーが」というコザを舞台にした短編が好きで、それもコザに住んだ一因だった。「夕べママが死んだ」ってカミュの異邦人と同じように始まる「見えないマチからショーンカネーが」を何度も何度も読み返した。コザには昔、米兵相手の売春があった。人間には淫らなものが必要だ。男も女も。それは悪いとか悪くないとかの話ではなくって、誰かの生きていかなきゃならない現実と誰かの疲れと吐き出したい何かがそこにあっただけのことだった。実態は誰かの仕事と束の間の休息と、小さな偽りがあり、でもその偽りも、嘘というよりも言っていないことがあるだけ。そもそもじゃあ、真実にはどんな意味があるんだろう。正義に見える真実の本当の所は残酷で冷たい現実かもしれない。人をかどかわす偽りは、むしろ孤高で甘美かもしれない。でも後日その偽りが何も言わずに送ってくる請求書はあまりにも力が強すぎることがあり、無味乾燥な現実の方がよほど真っ当でありがたいことの方が多い。わからない。人間には肝心なことは何もわからないから、結局安らぎはない。自分の現実の中で目一杯生きて、それを肯定してやるしかない。

街外れに、今は看板を降ろした産婦人科と質素な古い教会があって、この街で起きた出来事の消えない名残を映している。産婦人科は自由診療だったろうか? 医療保険とかの福利厚生だとか、そもそも基本的人権だとか、働いている人たちにはちゃんとあったんだろうか? そんなことを思うと胸がひしゃげそうになる。娼婦はいつだって笑顔だし、でも、そうやって子供の頃から生傷だらけの自分の人生の本当の顔を隠しているのだ。

教会と言えば、よく幼い頃、母親に連れられて川崎の小さな教会に行っていた。そこにはフィリピンやベトナムから来た人や韓国から来た人たちがよくいた。大概女性で、母親と仲良くしていた。中には、日本語をうまくしゃべれない人もいたけれど、そうした人たちは終始笑顔を浮かべて、曖昧さの中に身を置いていた。僕は最初にそこで神様に祈ることを教わった。子供みたいなことを言うようだけど、神様はいると思う。少なくともその意思は至る所に宿っていると思う。クリスチャンと言い切れるわけではないけれど、何らかの信仰心は持っていて、それがないと生きていけない位自分の人生も人並みに過酷だ。

だから奇跡的に進学した大学のすぐ側にあった奉仕園という教会にもよく通った。そこで韓国人の留学生や台湾人の留学生と仲良くなったのも、台湾に行くことに決めた理由だったかもしれない。

そういえば、昔好きだった野球選手がこの街の生まれだったと思う。育ちは兵庫だったらしいが、この街に深いゆかりがあるのだと聞いた。剛腕で悪童とも呼ばれた選手だ。父親がアメリカ人で生き別れになっていたという。本人は否定したけれど、どこかで父親の面影を追いかけて、メジャーリーグに行ったのだという話を美容室に置いてあったナンバーか何か、雑誌で読んだことがあった。十歳歳の離れた野球選手が生まれたのはちょうどベトナム戦争の佳境の頃だった。子が親を慕う気持ちはそんなにも強いものなのだろうか? それにしても、人はあれだけの成功を収めても生い立ちに縛られていくものなのだろうか? それじゃあ人はいったい何のために成功するのだろう? 成功は人の幸せにあまり関係ないんだろうか。幸せになれるかどうかは世界をどれだけ肯定的に捉えられるかだと思う。人の幸せは案外平凡な所に宿る。

交差点みたいに人や出来事が数多流れていったこの街を初めて歩いた時、この街角をアトリエに、自分自身を描きだしてみたくなった。だから、この街に住むことにした。いつまでも抒情に耽る自分は馬鹿なのじゃないか、と結構本気で思う。でも、感傷は無力なのだろうか? 人の情操は何も生まないんだろうか? 人の情動こそこの世界で生きている意味だと思う。


 結局心が揺さぶられたまま、思考の流れがとまらないから、侑那と初めて会った時のことを思い出していた。日本で半年間、中国語の勉強をして、台湾大学の歴史学科の修士課程に、条件付での合格通知を貰ったのは、留学に行った年の三月のこと、つまり大学を卒業する直前のことだった。学部での成績、研究の志向等はマッチしているが、中国語がまだまだなので、五月頃に来台し、本科の始まる九月までの間、台湾大学の語学センターで中国語の勉強をするように、という内容だった。

 人文系の大学院になんか進んだって、どうにもならないのはわかっていた。歴史学なんかやったって、趣味だと笑われるのもわかっていた。留学だってしたって、まして英語圏でもない場所に、何にもならないのはわかっていた。でも、何もしないわけにもいかなかった。例えそれが逃げるということでも。

 中国語を勉強していると自分をからっぽにすることができた。とにかく紙とエンピツで、ひたすら単語と文法を覚えこみ、長文を読み、音読をして、作文をした。勉強が知らないうちに魂を慰めてくれていた。不謹慎だけど自傷行為みたいだって思った。自分を傷つけていると安心した。いびつな癒しに、でも妙に自分になれた気がした。

 その語学センターの同じクラスに侑那がいた。本当はその時初めて侑那に会った。侑那は最初は中国語が全くできなかったけれど、一か月過ぎる間に片言の中国語が話せるようになり、三か月のプログラムが終わる頃には、ほとんどの意思疎通ができるようになっていた。それから半年、一年、と過ぎるうちに僕の耳には台湾人と齟齬のないレベルの中国語を侑那が身に着けていくのを目の当たりにして、才能というものの違いに圧倒された。ルームメートの俊英がガールフレンドとして連れてきた侑那を僕は本当はよく知っていた。初対面のふりをする茶番は嫌で、日本人同士当然知ってるよ、位のわざとらしい自然体で通した。

 そんなことを思い出しているうちに寝入ってしまった。夕食から帰ってきて、侑那がビールを飲むのに麦茶でつきあううちに、いつの間にか眠くなり、僕は居間のソファーで、侑那は僕の寝室に布団を敷いて寝た。


   4


翌朝、目が覚めた。つまらないことを思い出していたせいで、あまりいい目覚めではなかった。

「おはよう」

 侑那も重たそうに声をかけてくる。まだ眠いのだろう。

「おはよう」

 侑那がテレビをつけた。唐突に民放からあの時の映像が流れてきた。地震の後の津波の映像だ。

 忘れない、風化させない。判で押したようにテロップで出るその言葉を見て、侑那は

「風化だって、新しく生きていくには必要じゃない」

 と言った。

 何も同じ過ちを繰り返していい、と思っているわけではない。本当に忘れていいとも思っていない。でも、忘れたいと思う気持ち、そういう気持ちだって必要なんじゃないだろうか? 侑那は多分そう言っている。記憶すること以上に、忘れて新しく生きていくことの方が難しい。それは広島で育った侑那の一つの実感なのだと思う。それに多分、本当に忘れることなんかできない。テレビや新聞では判を押すかのように、忘れてはいけない、風化させてはいけない、と言われる世の中だから、言葉があえて軽くって、思いの他言葉に敏感な侑那は、その言葉を好きになれなくって、そしりを覚悟で口にしてみたのだと思う。目を背ける、っていうのとは違う。忘れるためには一度大いに語って、記憶にして、それからじゃないと忘れられない。辛い記憶と距離を取るには、一度言葉にしないとどうにもどうにも自分から離れてくれない。

 記憶とは物語だ。感情だ。いつだって、塗り替えられるし、今と混ざり合う。過去は変えることができるのだ。

 昔、侑那は僕の話を聞いてくれた数少ない人のうちの一人だ。それもただ聞くだけでなく、否定はせず、共感をしながら、寄り添うように聞いてくれた。聞くことだって表現なんだとその時の侑那と接していて悟った。あんなにも侑那が僕の話を心から聞かなかったら、こんなに長く侑那が心に留まることもなかったと思う。

 声には出さなかったけれど、何か感じ取ったのか、侑那は何も言わず、小さく頷きながら、テレビを見ていた。

 それからチャンネルをNHKに変えて、高校野球を映した。夏空が美しかった。背番号の白さに自分の心の内の汚いもの全てを見られたような気がして、一瞬心が止まった。ショートゴロ、一塁悪送球。カバーに走っていたキャッチャーも取れずに、ランナーは二塁へ。ライトがカバーし、ランナー確認の上、三塁へバウンド送球。

 侑那も僕も野球が好きで、侑那は言わずと知れたカープのファン。僕は節操なく、その年優勝しそうなパリーグのチームを毎年年替わりで応援するのだけれど、しいてあげれば西武ファンだった。震災のあった今年は楽天が強く、これはサッカーの話だけれど、七月にワールドカップでなでしこジャパンが優勝した。

 テレビで見るスポーツに僕らは勝手に心を重ねている。

「そういえばさあ、台湾でタクシー乗った時さ、オリンピックの野球中継聞いてたの覚えてる」

「あ、うん」

「あん時さ、美婷のお祖母ちゃんにご飯に連れて行って貰った日でさ、美婷のお祖母ちゃんと美婷と一緒でさ、丁度日本対台湾戦やってたよね」

「ああ、やってたやってた、よく覚えてるね、そんなこと」

「覚えてるよ、あたし記憶力抜群だもん」

 本当は僕も覚えていた。

「エイキあの時、美婷とお祖母ちゃんに冗談っぽくどっち応援するの、って迫られて、ぼ、ぼくは台湾を応援しますって、答えたのにさ、答えた瞬間、確か高橋由伸さんがさよならホームラン打ったんだよね」

 面識はないのに、先輩だからと有名人にさん付けをする侑那もどうかと思うのだが、それを僕に強要するのも大分今一で、お陰で僕はあたかも知り合いのように十年位前のオリンピックのヒーローを呼ばなければいけない。

「その瞬間さ、エイキ、手叩いて喜んで、完全に日本応援してるじゃんって、あれは笑った。隠せないよね、日本大好きって。でもさ、普通だもん、それが。自分の生まれ故郷を素直に愛せない方が危ういでしょ。私たち、知ってるよ、加害の歴史、叩き込まれたもん。私たちが高校生とか大学生位の時、時代がそうだったもん。そんで留学時代だって、今思えばそれって変だけど、台湾で肩身の狭い思いしてたよ。子供ってさ、背負わすじゃん、関係ないのに。でもさ、自分の故郷が本気で好きだったら、加害の歴史も勉強して、受け止めよう、って思うんじゃん、二度と起きないためにはどうすればいいって、考えるんじゃん。故郷に無関心だったら何もないじゃん」

 侑那がどっかのこてこての右翼のおっさんのように見えてきたけれど、いちいちうなずける。青春時代は左翼全盛だったけど、今は右も左も混ざり合ってわけがわからなくなって、けど、それでいいように思う。歴史って変わるのだ。

 女優の失踪も、大規模な民主化弾圧が起きたついこの間の歴史も、昔の内戦の本当の所だって、知らされない場所もあるけれど、僕らは知らされる。ネットだってバンバン見れる。でも、何かを知っているような気持ちになんて到底なれない。実は知らされることでコントロールされてる部分もあるんじゃないだろうか? 

「あたし、最近めっちゃ右翼だわ。大阪にあるUSJって、United States of Japanのことだと思うし」

 その冗談は全く笑えなかったが、ふと、侑那と台湾で訪れた龍山寺のことを思い出した。龍山寺は台湾で最も古い古刹だ。周辺はかなりいかがわしくて、台湾には珍しく、路地裏には茶色い透けガラス越しに女性の足だけ見える売春窟みたいな店があるし、街角の八百屋では、ノースリーブのワンピースを着た娼婦たちが談笑しているのだが、日曜日ともなると多くの参拝者が集まり、石造りの中庭で読経を上げる。祈りは声というよりもうねりとなって聞こえる。過ぎた時を蘇らせるかのように体に響く。皆誰か他の人のことを祈っているのだろう。そうでなければあんな切実な祈りにはならないと思う。中庭の真ん中に置かれた香炉に差し込まれた紫色の野太い線香から煙が立ち上る。背景の空を霞ませる線香の紫煙を見ていると今がいつなのかわからなくなってくる。

台湾に短い冬がやってくる一月のことで、街は旧正月に向かう年末だった。それが終わると、光に春が混じり始める。朝の時間だった。二人で群衆をかき分けるように歩いていると、日本語で話しかけられた。白髪で背中も曲がり始めたお祖父さんだった。

なんで侑那と二人だったのか。確かあの前日、侑那は萬華の婦人科に付き合ってほしい、と頼んできたのだ。

「日本の人? あっちの剥皮寮見に行った?」

「剥皮寮って?」

「清代の街並みが残ってる区域だよ。昔、淡水河から運んだ木材の皮をそこで剥いでいたんだよ」

龍山寺の付近には清代の名残がいくつも残っている。日本や中華民国の外国政権がやってくる前の台湾。清代の街並みをそのまま残そうとしている。石造りの家々、赤瓦の屋根、剥き出しのパイプ、石畳の路地、瓦斯燈。ここで昔、淡水河から運んだ木材の皮を剥いでいた。石造りの街並は西洋と同じ造りだけれども、西洋の街のような重たい感じはしない。

剥皮寮を見ていると清代のことが台湾の日本語を話す位の年配の人たちのアイデンティティーになっていることに気が付いた。アイデンティティーとはプライドのことだ。日本語で言えば魂のことだ。群れや社会性の動物である人間は共同体感覚やどこかに属しているという帰属意識がないと生きていけない。故郷を、失えば失う程、求めてしまうのもそういう理屈なのかもしれない。

前日に堕胎の手術をした侑那は、定番通り顔は青ざめ、体力は尽きかけていた。この日、俊英でなく僕に声をかけ、同意の書類まで書かせた理由を、台湾を離れる一週間前に聞かされた。二度目の九份の夜のことを、別に侑那は過ちだとは言わなかった。お互いただその存在が心地よくて、深くなんか考えなかった。あの頃は男女のことがあったって、強く気には留めたりはしなかった。でも、そんな準備もしていなかったから、普段はしないことも気がつけば二人でしていた。だから結果そうなった。

侑那は珍しく深い眼をしていた。疲れていたのだと思う。自分を浅はかだったと思う、と言っていた。


「今日さ、どうする?」

「え、別に何も。侑那の好きな所行ったらいいんじゃない」

「人が来るかも?」

「え?」

「うちの旦那さん。沖縄向かうって」

 携帯から顔をあげながら侑那が言った。それはそうだろう、と思う反面、今回も侑那は片一方からしか物を言っていないのだな、と今更ながら思った。

「え、旦那さんも泊まるの?」

「いや、さすがにホテル取るでしょ?」

「今日の今日で空いてるのかな?」

「取れなかったらどうしよ? そん時は泊めてあげるか」

 ここは僕の家なのだが、侑那は面白くもない冗談を言い放つ。

「ってゆうか旦那さんがホテル取れたら侑那もそっち泊まればいいじゃん」

「な、寂しいこと言わないでよ、エイちゃん。まだ一緒にいたいじゃん」

「どっちでもいいから出かけるなら出かけよう。迎えに行く?」

「それはいい。タクシーでもレンタカーでも好きにすればいじゃない」

「結構繁忙期だよ」

「タクシーなら乗れるでしょ」

「迎えに行こうよ」

「いいよ、別に」

「いや、行くっしょ。飛行機、何時?」

「四時過ぎ着、らしいよ」

 侑那はスマフォのメールの画面を見せて説明した。

「四時ならさ、どこか行ってから、それから空港に立ち寄ってピックアップできるじゃん? そんでその間にそのでっかい携帯でホテル探しとけば」

「あたしさ、戦跡巡りしたい」

 随分唐突に響いて面食らったけれど、行きたい所があるのは案内する側としてはありがたい。しかし、何というか、できれば美ら海水族館とか、那覇のDFSとか、NHK朝ドラのちゅらさんのロケ地とか、首里城とか、定番かつ何となくお茶を濁せる所であればもっとありがたいのだが。首里城は、どうしても琉球王国の歴史と向き合うから決して気楽ではないが、でも沖縄観光の定番中の定番で石畳の美しさで色々誤魔化せる。とはいえ、中世の琉球が日本と中国という二つの大国に阻まれながら、離島を抑圧し、何とか生きながらえて発展していった息吹は首里城が一番感じられる。

石畳の丘の上から、那覇の街と海を見下ろすと、変わらない千年の風景に、人の営みの意味なんて問わなくてもいいような気がしてくる。いまだ薄暗い戦争の記憶でさえ、洗われるような気がしてくる。でも、その首里城だって第三十二軍の総司令部が置かれていた。苔むした首里の丘に未だ残る何気ないトンネルの奥に、この世ではない場所に繋がる空間があるのだ。

この島の至る所にある、戦さ世の記憶を辿ろうとする時、いつも自分が冒涜の淵に立っている気がする。安全な所にいて、何を眺めているのか。その行いは不遜だし、意味があるともあまり思えない。しかも、一度その記憶に触れてしまうと、那覇の中心部を走る最新鋭のモノレールさえ、戦前を走っていたという軽便鉄道のように見えてくる。この世の時の流れに戻るのが難しくなるのだ。そして、どうあがいた所でその気持ちがわかるはずはなく、ただ目を閉じて、落ちていく感覚を確かめるだけになる。

それでも、戦跡巡りをしたい、という人が今でもいるなら、月並みなことを言うようだけれど、この世にいまだにどこか生きにくさが残っているからだろう。

 気持ちがわかるなどと言うつもりは毛頭ないけれど、それでもわずかだけ、感じ取れることもある気がする。わかりやすい不幸なんかない時代なのに、どうしてこんなにも生きるのが辛いんだろう。

 

 お互いに着替えを終えて、アパートの階段を降りて、駐車場のekワゴンに乗り込んで、僕はまず渡久地ビーチに向かった。渡久地ビーチは米軍の上陸ポイントで、沖縄戦は一九四五年の四月一日、ここから始まった。夏場だから海水浴の客がたくさんいるだろう。こんな日のビーチは黄金色に輝くんだろう。本当は僕らだってそのうちの一つになりたい所なのだが、侑那のリクエストは戦跡巡り。バカンスのバの字もでてきやしない。揺れるさとうきび畑を通り抜けると海に出て、果てしなく律動を繰り返す波を見て、この世に終わりなんてこないだろうと思う。

 それから、アブチラガマとかチビチリガマだとか洞窟を巡り、かつてそこにいた人の息吹を感じる度に思うのは、同じ市井の人間なのだ、ということだった。亡くなったからといって、その人の人権やプライバシーまでなくなるとも思えない。時として、使命や役割だって残るだろう。いつだってまだすぐ傍にいるような気持ちになるのだから。

 暗い気持ちになるだけだから先を急ごう。嘉数高地と浦添の前田高地を経て、那覇に僕らは向かった。

 シュガーローフと名付けられた本当に小さな丘が、最後の激戦地だったとは到底思えない。現在は水道局のタンクがあり、すぐワンブロック先には那覇のDFSギャラリアがあって、物思いに等耽らせてくれない。その景色からは紛れもなく、今を生きろと言われている。それについて異論はない。やっぱり、過去なんか見つめてどうするんだ、とDFSギャラリアは言っているような気がする。しかし、だとすると何故戦争があったのか、わからなくなる。そしてこれからどうすればいいかわからなくなる。

 これからも戦争みたいなことがあるんだろうか? そんなことはない気がする。人間性だって進化する。僕たちはきっとあの時の人たちより優しいし、他人の傷みに敏感だ。世界は意地になって優しくなろうとしているじゃないか。優しすぎる位に優しくて、時に秩序が驚くほど無化されている時がある。それなのに、僕たちの知らされていない所で、世界はきな臭く動いているようにも思える時がある。

「日本人はね、矢尽き、刀折れ、平和に生きることを選んだんだ。屈服だって、時には方法の一つじゃない」

 思いがけずに侑那がそんなことを言った。シュガーローフの頂上のタンクの影の中、侑那は無言で言葉を結んだ。

屈服は屈辱ではなく、合理なのだ。生き延びていくには時として必要なことなのだ。

「行こうか? 空港」

気がつけば三時半を回っていた。

 音もなく、声もなく、侑那は頷いた。元の暮らしに戻るのだと自分に言い聞かせたような頷きだった。


侑那の旦那は今年三十五歳のはずだけれど、まだまだキャンパスの匂いを身にまとっているかのような若者の雰囲気を残していた。どこか遠い国からの絵葉書のようだった。でも、消印は押されていない感じがする。

「こんにちは」

「こんにちは」

 若い頃は「こんにちは」という挨拶は使わなかったはずだけれど、かといって何と言って初対面の人と警戒を解き合っていたか、思い出せない。

「侑那の夫の三好です。侑那がお世話になりすみません」

「いえ、全然。申し遅れました、友人の水村です」

「よくお話しを伺ってますよ」

「そうですか」

 やりとりは終始穏やかで、笑みは絶えない。心の奥底から人としての光を感じられる。大げさな言い方かもしれないけれど、叡智みたいなものに見える。

奇妙な共感、馬が合う感じがして、出会い方が違ったら、普通に友達になっていたと思う。多分それは侑那の夫の懐の深さなのだと思う。同性愛的な慕情さえ、ひそかに感じる。

自分は健常とされる異性愛者だけれども、それでも性のことについては悩む。自分の性行動や性表現や、性欲自体が、変質的で社会に受け入れられないものなんじゃないかと感じる。節度や自制の問題ではなくって、生物として体に性欲を宿し、それを表現する行動を起こすとき、恥ずかしいことだ、社会に受け入れられないことだ、他人に付け込まれてしまうものだ、と思う。また、思うような性行動に必ずしもありつけるわけではなくって、不本意な性行動や、性行動を起こさないこと自体も多い。何で性が社会的行動なのか? 極めて個人的な情動だと思うのに。なんで社会は、他人の性的指向を個人的なものだとほっておかず、異性愛だろうが同性愛だろうが、後ろ指を指し続けるのか。同性愛者も異性愛者も実は同じようなことで悩んでないだろうか? 自分を受け入れられるかどうか、という点で。人間には淫らなことが必要だし、それが生命だし、性って人権だと思う。性表現や性行動に関しても人権ってあるんじゃないかなと思う。

思考が脇道にそれてしまった。自分とは似ても似つかない相手ともこう心を通わせられるのは、侑那の夫が心爽やかな一角の人物だと言うことに他ならない。

 侑那が横で禍々しい気持ちを抱いていないかちょっと心配になった。

「急だったにも関わらず、泊めてくれたの。ちょっと案内する位のつもりだったと思うけど」

それはそれは、どうもすみません、という侑那の夫の言葉を耳にしながら、口にはしないものの、こんなにも立派な男に、意趣返しとして、一生悪いことをしてしまった、と思わせながら生きていかせようと思っている侑那の執念深さには、一瞬ぞっとするような気がした。ある程度したら許してやれよ、と心の中で思い、そんな視線も投げるのだが、美女の皮を脱いで出てくる侑那の修羅は、相当に情念が深そうだ。結局侑那の恋は自負と計算で、本当の関係じゃないのかもしれない。価値観とは思い込みと偏見だ。本人に言わせれば冷笑を交えながら全身全霊で否定するだろうけれど、少なくとも僕の知っている侑那はそうだ。でも、別に悪いとは到底思わない。自分以上の男が限られる侑那みたいな女には、人知れない苦労があるのかもしれない。

「ホテル取ったから、ブセナテラス、二人分。今日から三泊」

 よく空いてましてね、と言いかけて息を飲んだ。何となく、このことだけ、侑那の夫は有無を言わせないような雰囲気を肩越しに出したような気がした。侑那は黙ってうなずき、夫に肩を並べた。

人間の自我って本当に疲れる。何だって侑那とその旦那さんの自我に付き合わなきゃいけないんだろう。しかも夫婦の揉め事で。夫婦の揉め事なんて、全くもって距離を置きたい。解決なんてしやしない。結婚って結局経済だから、恋愛は友情だけど、どんなことがあったって一緒にいるしかないんだし、他人にできることなんてないじゃないか。お金と生活があるから、問題のない夫婦なんて存在しない。破綻した夫婦関係に心倦み、愛のない結婚生活に苦しむのもまた一つの人生だろう。

人間の悩みは全て人間関係についてのものだ。心さえなければ悩まずに済むのに。悩みという怠惰な営みから人間はいくつになっても自由にならない。自我をどうしてそこまで愛するんだろう。自己愛をどうしてそこまで捨てられないんだろう。自我や自己愛は進化の過程で必要だったんだろうか? 発達していないと生き残れないものだったんだろうか。

二人の後ろ姿を見ながら、もう隠したって仕方がないから、思い出すのだけれど、九年前に、侑那と二人で台湾の古い城を見たいからと、台南に出かけたのは、言葉も光に染まる七月始めのことだった。侑那とはまだ出会ったばかりだった。台湾の梅雨が明けたばかりで、大地はまだ少し湿っているような感じがした。

フォルモサと呼ばれるこの島に降る雨のように枝が複雑に絡んでいる孔子廟のガジュマルの木陰で、初めて侑那の身体に触れた。始めは、ほんの少しだけ二三度肩が触れ合い、それから確かめ合うように手を絡ませると、そこにはお互いの意思をもうはっきりと形として捉えることができた。葉陰から台南の強い日差しがこぼれるのを見ていると、侑那が肩に頭を乗せてきて、後は、足を絡ませて、幹に絡みつくガジュマルように枝垂れた男女の関係になっていった。揺れる木漏れ陽を見て、ここが優しい場所だと気づいた。

昔、侑那と交わした絆は、心からは消えていても、身体には残っていた。記憶がいつまでもまとわりついていた。若くて、時間もあったから、何度も何度も絆を交わした。身体を重ねた。

今更ながら自分の欲望を呪った。こんなにも消えないなんて、思いもしなかった。それが今更目の前に現れて、本当は腹が立つ。なんで東京で幸せにしていてくれなかったんだろう。僕のことなんか、なんで覚えていたんだろう? 向こうは疾うに忘却の彼方だと思っていた。いや、実際にはそうだったんだろう。僕のことを思い出すことなんてなかったはずだ。今年、気まぐれに僕のことを思い出しただけだ、絶対に。

そうやって侑那と若い頃ひと夏を一緒に過ごしたけれど、夏の終わりに侑那に台湾人の恋人ができた。

 ―ねえ、九份、行こうよ。行ったことないでしょ? 今日、夕方、授業が終わったら。

 少しも弾まない声で、でも頑として、侑那は夏の終わりのある日僕を九份に誘った。何か嫌な話があるのだとさすがにすぐにわかった。

日が暮れて、海が夜のようになってから僕らは九份の山に登った。燈がオレンジに染める山の中腹から、基隆湾の入江を見下ろしていた。茜色の九份は誰かの哀しみのように美しかった。わざわざ九份に僕を誘った侑那に真意を訪ねる勇気はなかった。でも、何の話かはすぐにわかった。僕たちの出来事がとうに過去になっていることが侑那の体の端々からわかっていたからだ。

空がどこかに抜けていく。美しい景色だった。

侑那をまだ好きと思う自分は、九份の路地の地べたに置き去りだった。打ちっぱなしのコンクリートに雨だれが刻まれている。スモッグにけがれた雨だったけど、それは台湾ではありふれた雨だった。

基隆湾を見ながら、侑那は台湾人の恋人ができたことを僕に伝えた。そして僕とはもう一緒にいれない、と言った。

僕は自分がなんと答えたか忘れてしまった。それは仕方ないね、うんうん、わかった、これまでありがとう、位のことはちゃんと言えたのだったろうか? 記憶は見事にない。

九份からは結局その夜は別々に帰った。話し終えた後の侑那はびっくりする位冷たくて、でもそうしなければ、結局男女は別れられない、ということを侑那はそれまでの経験から知っていたのだと思う。当然、何度か男と別れたことがあるはずだ。美女は時に人に冷たくする義務がある、と経験から学んだのかもしれない。現に二度目の九份で、僕たちは一度だけ、またそういう関係を持ってしまった。そして龍山寺での出来事に繋がった。

侑那に台湾人の恋人ができたのは、仕方ないと思った。そんなものは侑那の自由にしかならないと思った。別に侑那とずっと一緒にいられるとは思っていなかった。侑那とそうなった時も、何度も異国の寂しさの中でのことだ、日本で普通に生きていたら、自分のような平凡な人間と侑那のような魅力に富んだ女性と袖振り合うことさえなかっただろう、と言い聞かせていた。だから、人並みに寂しく、悲しくはあったけれど、それよりも仕方ない、と諦める気持ちの方が強かった。どこにでもあることだ、誰にでもある体験だ。ありふれて、語るにも値しないことだ。

しばらくは黙って時が過ぎた。侑那の相手が誰なのかは知らなかった。別段知ろうとも思わなかった。まさか、大学の事務局が手配してくれた大学院生専用の寮で同部屋となった王俊英だとは思いもよらなかった。

王俊英は高校時代にバスケットで全国大会に出ていて、台湾で一番の台湾大学の、医学部を除いて、これまた一番人気の機械工学科に所属していた。

それだけで、崩れそうなくらい、心が乱れたのに、王俊英はこちらを知っていた。侑那と僕が恋人関係にあることも知っていた。知っていてアプローチして、ものにしたのだ。

そのことを知ったのは大分後になってからだった。大したことじゃない、俊英がこちらに義理立てする必要など全くない。学生時代の恋なんて、本当に大したことない。あんなもん恋とは呼ばない。俊英が奪うようにして侑那をものにしたのを知った後だって、心なんか挫けたりしない。

強がって、ありふれた悲しみにわざわざ溶け込むことなんてしない。自分は自分だ。気になんかしたことはなかった。


 二度も振ることないのにさ。台湾時代のことを思い出して、その追憶が終わって、三十二歳になっても痛みは変わらないんだな、と思い、夏空の下、侑那の夫の荷物を狭いトランクに入れる。ありふれた痛みだってわかっていても、変わらない。侑那には荷物を持って出て貰っていたから、僕の家に寄る必要は別にない。後は蒲団をどうにかするだけだが、押し入れで被って、残り香でも嗅げばいいんだろうか? 昨日は同じシャンプーと石鹸だから自分の臭いがするだけのような気がするけど。侑那の匂いなんか昔散々嗅いだから、今更何とも思わない。

 いや、もう一つだけ言っていないことがあった。本当は僕が侑那にメールした。七年振りに、春先には大きな地震があったけれど元気でしたか? 変わりはないですか? 僕は沖縄で元気にしています。

 そうしたら侑那は返信をくれて、自動車メーカーに勤務していること、三年前に結婚したこと、本当はメールに書くことじゃないけど、こんな話迷惑だったらごめん、と前置きした上で、不妊治療に悩んでいることを教えてくれた。

 侑那は一度過去に妊娠したことがあるから、原因はおそらく旦那さんの方だと思っていた。でも旦那さんはそうは思っていなくって……、そっちが被爆二世だからじゃないか、って言い始めた。びっくりした、そんなこと言う人じゃ絶対ないと思ってたから。昭和の三十年代の感性じゃない、それ、あり得ない。電話越しに侑那はそう言っていた。さすがに僕もそれが三好さんの本心でないことはわかる。ただそれ以上にわかるのは、彼にそう言わせる何かがあったということだ。

 医者の話を聞くのはつらかった。

 一度に支払う費用は五十万円。侑那夫婦には経済的な余裕があるにせよ、意味のある費用と思えることが何度あっただろう。

そんな話を聞いたからというわけではないけれど、よかったら、一度会えないかな、と返した。そうしたら電話がかかってきた。


 多様な生き方がある世の中だけど、それはより普通が手に入りにくくなったことの証だと思う。変わったようで変わっていないのが人の世で、AIだ、アルゴリズムだ、と持て囃したって、人間が本当に求めているのは、小さな灯りの下の食卓とそれを囲む家族や仲間なのだ。AIはおならをして、親父ギャグも考え、口臭があり、体臭を放ち、とまどいながら子孫を残したりするんだろうか? そうでなければ、シンギュラリティーなんかやってこない。人間はついに人間を創ろうとしはじめたようだけど、そんなのはうまくいくはずがない。

 

「ブセナですね。せっかくだから国道通っていきましょうか? 高速通るよりは色々景色とか見れますよ」

 侑那は後部座席に座り、侑那の夫が助手席に座った。

「水村さんはどうして沖縄で暮らそうと思ったんですか?」

 走り出す車の中、会話をとぎらせたくないだけなのか、侑那の夫が何気なく聞いてきた。当たり障りなく、返そうと思ったのだが、思いの他本音のようなものが口をついて出てしまった。

「自分、沖縄戦とか琉球王朝時代とか興味あったんで。沖縄って日本の歴史の中で、あるいは日中、いや、まあ、日中米の歴史の中で、ちょっと忘れられた形になってるじゃないですか、しかも半分意図的に。自分、僭越なんですけど、そういうのにスポット当てたかった、っていうか、まあ、何か向き合ってみたかったんすよね。台湾が少し似てるんすけど、でも、独立した王朝を昔持ってた、ってのがちょっと違ってて、でもそれが今の人の心性にどう影響してるかとかわかんないんすけど、でも、まあ、住んでみたら、歴史どうこうより、まず経済でしたね。人間経済的に安定しないと歴史もなにもないですね。そんなんわかってなかった自分ってかなり馬鹿っすね」

 侑那の夫は黙って聞いてくれた。そんな所にも叡智が宿っている。

戦後の那覇の街では、夜寝ていると枕元に米兵が立っているようなこともあったのだそうだ。信じられない位恐ろしいけれど、それぐらい安全じゃなかった。

僕たちが教育を受けていた頃は語られていなかったけれど、戦後すぐは日本本土でも似たようなものだったらしい。RAAの話なんてこの間初めて聞いた。やっぱりアメリカだって、普通に支配者として振舞ったんだ。そのために戦ったんだろう。西武電車に米兵が試し打ちで拳銃を発射して人が亡くなってしまった話をこの間ラジオで聞いて、米兵の行動が信じられなかったし、それ以上にごくごく最近までそういう話が語られてこなかったことに驚いた。八十年代なんて、びっくりする位アメリカを礼賛していた。ちょうど日本の経済がうなぎ上りになっていった頃だ。やっぱり色々隠してたんじゃないだろうか。結局は隣の大国と僕らだっておんなじ、知らされていない国民だと思う。もうちょっと手の込んだ方法で、知らせることで肝心なことを隠す巧妙さを持って、うまく誘導されていると思う。

ていうか、この頃はアメリカの景気も悪いし、911以降はアフガンだ、イラクだと侵攻をしていて、もうアメリカの恥部を日本で隠す必要がなくなったみたいだ。「ともだち作戦」って言ってしまうナイーブさとか、もうアメリカに憧れていく必要なんてなくなった。911はサラエボ事件みたいで、そこからまた三十年か四十年かけて世界は変わっていくんだろう。歴史って変わるのだ。

「だから記者されてるんですね」

「そうですね……、てゆうか自分記者じゃないんで。元々は記者志望だったんっすけど、面接の時、営業職だったら、みたいなこと言われて、もちろん、希望すれば営業職から記者に人事異動になった例もあるってつられて、まあ、他受かった所もなかったんで。実際はその逆はあっても、そっち側はほとんどないんですけど……そんで販売代理店の管理してるんすよ。年間に卸す部数とか決めたりしてね。大体定期購読の件数から一つの販売店でどれくらい売れるかわかってるのに、上から言われた部数を卸すんですよ、半ば無理矢理、余るの、わかってるんすけどね。そんでめっちゃ文句言われる感じの仕事っすね。場合によっては脅されてね」

「どんな仕事も多かれ少なかれ、ね、そんなもんでしょ」

「そうですね、思うようになんかならないっすよね。でも、いいんすよ、自分はこれで。小さく生きていくのだって十分ドラマだし、そん中でそれなりに自己実現もありますし、仲間もいますし、まあ、後悔とか敗北感の方が多いっすけど。でも、つまんないことだけじゃないじゃないっすか、どんな仕事も。少なくとも仲間はどんな仕事だってできるし、それだけで働いてる意味ありますもん。それに、大それたことなんて、もう望まないんすよ。帰属意識さえ満たせれば、なんでもいいんすよ、自分は」

なんでこんなに僕はしゃべるんだろう。本当は自分だってただの不満を大きく超えて受け入れられていない部分があるのに、どういうわけか今日は素直な風に話している。

「あたし、知ってたよ、エイキが記者じゃないの……、昨日夜中こっそり机の中の名刺見ちゃったし。他にも色々、机の中」

「家探ししたの?」

「寝室明け渡す方が悪い。居間で爆睡してるんだもん」

侑那の旦那へのケアの仕方がわざとらしくて、本当に呆れる。俺はこの女のことが、実は嫌いなんじゃないか、と今更思ったりもする。ああ、侑那なりのやり方で感傷の淵から呼び戻してくれたのか、とも思ったけれど、まあ、でも侑那のことはもうここに置いていこう。金輪際考えないだろう。

幸せになれるかどうかは、世界をどれだけ肯定的に捉えることができるかだ。いいじゃないか、諦めた夢があったって。いいじゃないか、叶わなかった思いがあったって。

沖縄の夕景が美しいのは、滑稽からぬけだせない小さな一個人を少しでも慰めるためなのかもしれない。色々なものが乏しいこの島に限らず、世界のどこででも、誰もが懸命に生きている。だからこの島の夕景は美しいと感じるのだろう。この島は、生きていこうとするのに理由はいらないって言ってるんだと思う。

車は浦添に入って、キャンプ・キンザーの金網を横目に見ていた。国道から海に向けて、工場や倉庫が広がる。キャンプ・キンザーは米軍に関する補給や兵站を担っている。旧日本陸軍が建設した飛行場を接収して、物資集積所としたのがはじまりだという。でも、ここだって誰かの職場なんだろうし、家族と生きていくための忍耐があるだけかもしれない。歴史歴史って言うけれど、本当の所は小さな一人の暮らしがあるだけだ。

珊瑚の破片の散らばった沖縄の国道は美しく、島の光が満ちていて、心行くまで眺めていたって、文句一つ言わない。僕ら一人一人の存在なんておいて行って、世界はやっぱり続いていく。空はいつだって空だし、海は人の世が焼けても海だから。


ブセナテラスに着いた。豪奢なホテルの入り口に心吸い込まれて、昔一度だけ泊まった時のことを思い出していた。あの時、夕食のレストランから沖縄の海に陽が落ちていくのを見て、昨日よりも今日を生きようと何の脈略もなく思ったのだ。

この島には秋が来ないから、きっと侑那は忘れていくだろう。台湾のことも、この短い邂逅のことも。不妊のことも、旦那さんの不倫のことも。それでいいと思う。過去も涙だって、誰にでもあるけれど、皆新しく生きていかなきゃならない。何度だって。

午後五時四十五分。八月の光は思ったよりも短くて、もし沖縄の海に沈む夏の夕日を見たいのなら、早いところここを立ち去った方がいい。寄る辺ない気持ちの時に、いつも行く岬がある。道の駅に車を止めて、ただ岬の影を見に行く。昔から自然現象を眺めるのが好きだった。自然の中に心を見つけることはない。だから心憂く日を、何もない自然を眺めながら過ごした。何も起こらないのはわかっている。一人暮らしの退屈しのぎにすぎない。でも、無性にその場所に座って、過ぎた日々のことを思い浮かべたくなることがあるのだ。

車にエンジンを灯した。座席が揺れ、一人を感じる。

優しさなんて自分が傷つくだけで、いいことなんて一つもない。それでも傷ついたら傷ついた分、まるでそれで補うかのように、人は自分の中に優しさを積み重ねてしまう。心が感じやすくなってしまう。しかし、優しさってなんてダサい言葉だろう。それは短所なのだ。

海沿いの道を走る。左手の森が人の心の暗い部分みたいに迫っていた。「およげたいやきくん」みたいに、結局人の運命は変わらないのだと言っているみたいで怖かった。急に曇り空になって、夏の黒い風に揺れていた。ラジオも消して、ただエンジンの音を聞きながら、道の駅まで走った。

道の駅でアイスコーヒーでも買おうと思って、外に出た瞬間、動きが止まった。

見慣れた人影が見えたのだ。菜穂さんと、そして嘉数さんだった。

こちらには不自然な位気づいている様子がなかったけれど、でも飲み会で何度も酒を飲まない僕が二人をこの車で送ったことがあるから、僕が気づくよりも先に二人は気づいたと思う。

二人も休暇中だし、どう見ても男女の仲に見えた。それも昨日今日の付き合いじゃなく、お互いに違和感がなくなるまで心と身体を重ね合った男女特有の無遠慮があった。

全く気がつかなかった。いつからなんだろう? 

てゆうか沖縄は狭いから、二人を偶然に見かけたのはきっと僕だけではないだろう。そもそもどこに行っても声を掛けられる嘉数さんといるのだから、これが噂になっていないはずはない。そのことに気がつくと同時に、その噂を今の今まで聞いたことのなかったことに何とも言えない気持ちになった。人の噂というのは古来、群れて生きていくのに必要な情報交換だったから、その輪に入っていないというのは、つまり群れで生きていないということなのだ。必要以上に噂好きの人は、集団から離れるのを不安に思う気持ちが強い人なのだと思う。それにしても、いかんともしがたい気持ちになってしまう。もう沖縄で暮らすのも潮時なんだろうか。

どうするつもりなんだろう、ってそれは二人にしかわからない、というよりも二人にもわからない。人間は本当に自分で何かを選択することなんてできない。人生は選択の連続というけれど、その選択に働く力学のうち、本当に自分が起こしているものがどれだけあるんだろう。実は本当はないんじゃないかとすら思う。人は偶然に生きるし、その置換可能な状態に気がついて愕然とするし、でも自分は自分を生きるしかできることはない。二人はどうなるんだろう?

不自然に車の中に戻ることもできず、僕はただ自分の車の脇に立ち尽くしていた。そうこうするうちに二人が車に乗り、道の駅を後にした。

予定通りコーヒーを買って、岬に座りながら飲んだ。崖に波頭が割れて、白波が立つ。ここに来れば、沖縄の海だって普通の海だって思う。

明日から、僕は普通に生きていくだけだ。ただ起きて仕事に行き、生活をし、時々昔のこと思い出して、つまらないことを考えて、小さな行動を起こすかもしれないけれど、どこにも繋がらない。このままどこかに去りたい気分だ。

空に抜けて、跡形もなく、月並みだけれど雲のように、ただこの世界に溶けてなくなりたい。自分という存在から解放されたい。人類が何千年も叡智をかけてきても理解のできない自意識というものから離れたい。人間にはどうして意識と心があるんだろう? そんなにこの二つが生きるために必要かつ重要だったんだろうか? 誰の人生だって自意識があるから過酷で、こんなに辛く、皆ギリギリの中で生きている。

心救われない日々も、それでも生きていくしかない。

電話が鳴った。知らない番号だった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ