愛しているから仕方のない話
「稀代の王だってさ」
「ん?」
「お前のこと。歴代の王の中で最も優れた王だと、国民達はこぞって崇めているぜ」
先日、国交が途絶えて百二十年になるガロン王国との外交を復活させた。これで貿易経路は格段に広がる。かつての王達が幾度となく会合を設け交渉を続けてきたが失敗に終わっていた。その条約を彼は王位についてわずか一年で締結させたのである。
「王妃の為さ。彼女、南国のフルーツが好きでね。国交が再開すれば傷みやすいフルーツも簡単に輸入できるようになるだろう?」
デレデレ笑う王を見て、古くからの友である男は呆れ返った。
「お前がこんな風になるとは思わなかった」
「まぁ、オレも驚きだな」
「一体何がどうなった?」
友は心底不思議そうに尋ねた。
王が変わったのは今から一年前のことである。
かつてこの国の王太子だった男は、婚約者を裏切り、別の女性へ心を移した。
そして婚約者に辛辣に言った。
「彼女を愛してしまったのだから仕方ない」
婚約者は幼い頃から王妃になるべく教育を受け淑女として育ち感情を露わにすることがなかった。しかし、王太子が愛した女は天真爛漫に笑い、怒り、喜びを全身で伝える。それが自分の心を満たしたのだ、と王太子は告げた。
婚約者は納得など出来なかった。
王太子が何度呼び出し、婚約解消の意向を伝えても頑なに承諾しなかった。その上、自分から王太子を奪った女にきつく当たるようになった。
すると、最初は婚約者に同情的だった世間の目は、いつしか虐めにも健気に振舞う女の方を擁護するようになった。王太子はいずれ王となる身、一方の婚約者は、貴族としては高位であるが、ただの公爵家の令嬢である。二人のうちどちらにつく方がメリットがあるか。そんな打算も相まって、婚約者はいつしか「愛し合う二人の邪魔をする往生際の悪い哀れな女」と中傷を受けるようになった。
それでも婚約者は婚約解消に応じなかった。
そして、学園の卒業式パーティが開かれたのである。
本来なら卒業と同時に王太子と婚約者の婚儀が行われるはずだった。しかし、王太子は既に愛する女の方を王妃に据える心づもりでいた。そこで、いくら説得しても婚約の解消を承認しない婚約者を、公の場で断罪することにした。嫉妬にかられ、王太子の恋人を貶めた罪。王妃となるに相応しくない、と。
だが、そこにひとりの男が現れた。男は婚約者を擁護し、その正当性を説いた。王太子と女は、自分達の真実の愛を主張したけれど、男には不思議な力があった。事態は急変した。王太子は変わった。
卒業パーティの日以降別人となったのである。
婚約者がこれまでいかに王妃となるべく努力し、感情を押し殺してきたか。跪いて賛辞し、もう二度と悲しい思いはさせないと誓いを立てた。彼の懇願を婚約者は受け入れた。
そして今、王太子は王となり、婚約者だった彼女を娶り、異常なほどの溺愛を寄せている。時折かつてのことを思い出し、自分の行動に思いを馳せる。
「何がどうなったかって?」
友の問い掛けを自身で繰り返し考えた。友は興味津々に眼を輝かせるが、王は首をかしげて言った。
「自分でもよくわからん。こんなことは初めてだ」
******
「我、この血の契約の元に汝を召喚する。応えよ。クロード・ミハエル」
途端に床に置かれた本の魔法陣から黒煙がけぶりたち部屋中に充満していく。
――外に漏れて火事が起こったと勘違いされたら困るのだけれど? こんなに大袈裟に登場する意味があるのかしら?
しかし、悪臭はしなかった。視界だけを閉ざす不思議な煙だ。
――これはもしかしたら幻覚なのかもしれないわ。
エリス・ブリエンヌ公爵令嬢は悪魔召喚の最中であるのに落ち着いた様子で事態を分析し、美しい所作で黙視していた。
まだ煙がたちこめる中、
「オレと契約しようとは、その代償がいかほどか理解してのことだろうな?」
威圧感たっぷりの揶揄するような笑い声が聞こえた。
悪魔召喚。
悪魔を呼び出し己の欲望を叶えさせる禁忌の呪術。天下泰平の世が続く中で廃れた魔術であった。なぜなら、その代償が術者自身であるからだ。両手を奪われた者、眼球を失った者、内臓を抉られた者。呼び出す悪魔が高位なほど、欲望が巨大なほどに払わされる対価は大きく、その殆どが命を落とした。故に、召喚術は過去の遺物として昔話に出てくるだけの存在に成り下がったのである。だが、今まさにエリスはその禁忌を犯し幾世紀ぶりに悪魔儀式を復活させた。
「えぇ。存じておりますわ」
エリスが静かに答える。
「え」
驚いたような小さな反応が返った。対価が何かを知っていても尚、悪魔を呼び出す愚かな人間への喫驚か。よくわからないエリスは静かに思考を巡らせたが、結論は「どうでもよいわね」だった。
「代償は何か知っていますわ。それで、わたくしの願いを聞いてくださいますの?」
エリスは未だ黒煙に遮られ姿の見えない悪魔に告げた。
「お、女の子?」
再びの驚嘆の声。最初の重低音とは違い震えるような声音である。エリスは怪訝に眉根を寄せた。
「確かにわたくしの性別は女性です。それが何か問題おあり?」
まさか悪魔の世界にも女性蔑視があるのか。エリスは益々不快に顔を歪めるが、部屋中に充満していた煙があっという間に本の中に吸い込まれていくので目を見張った。
「あ」
視界が開けた先を見て思わず感嘆の声が漏れた。
――これがクロード・ミハエル?
文献で見るクロードは、かろうじて四肢があるだけの異形の姿をしていた。かつて人間の召喚に応じた悪魔の中で最高位の力と残忍さを有した、と。様々な人間の欲望を満たして世界を混乱に貶めた、と記されていた。しかし今、眼前にいるのは比類なきほど整った容姿を持つ青年なのである。
――情報に誤りがあった? そうね。古い文献だもの。でも、この男が人外の存在であることは確かだわ。
エリスはぐっと力を込めてクロードを見つめ、先程の質問の答えを待った。女だから契約しないと返答されたら、文句の一つも言ってやる腹積りでいた。
「か」
「可?」
クロードは短い返答をした。契約は可能という意味か。急に片言で話し始めた意味がわからず、エリスはやはり眉をしかめた。
「わたくしと契約してくださると言うことでしょうか?」
「あ、あぁ、構わない」
「そうですか」
「望みはなんだ?」
エリスは真っ直ぐにクロードを見つめているが、クロードは何処か視点が定まらない様子で、話を続けて大丈夫なのか、とエリスは少し躊躇った。しかし、あまり時間がない。
「わたくしは、これから三時間後に断罪されるのです」
「何だと?」
「断罪されます」
「ダンザイ?」
「……公衆の面前で罪を暴かれ、婚約破棄を言い渡されるのです!」
「え」
未だ一向に視線が絡まない。
悪魔が人にどのような対応をするか知らない。だから会話が成立しているのかしていないのか、あやふやな状況が好機か危機か判断のしようがなかった。じっとクロードの反応を見る。
――突然、襲い掛かってきそうな雰囲気はないわね。なんだかひどく惚けているけれど、長い眠りから目覚めたような状態なのかしら? おもてなしをすべき?
「お茶でもお持ちしましょうか? 飲食は可能かしら?」
「お茶……」
エリスは言葉にした後、悪魔は人を食べるのではないかと背筋が寒くなった。肉体を捧げることは覚悟の上だが、今は困る。
「対価は契約が全て終了してからでないと困りますわ。せめて一年待って頂けませんか?」
「対価……」
「えぇ、この身を捧げます」
「……! そんなことを急に……」
「……不躾でしたわね。まだこちらの要望もお伝えしておりませんもの。ですから今はお茶を」
クロードは棒立ちのまま目を見開いた。柘榴色の瞳が揺れる。時間がないというのに反応が鈍くて困る。話が先に進まない。こっちのペースで進めてよいのか。
「少しお待ちになって。気つけに濃い紅茶をお持ちします」
無反応だったが、エリスはその言葉を残して私室を後にした。
「嘘だろ?」
呟いたクロードの声は聞こえていなかった。
テーブルを囲い座っている。
侍女に給仕させるわけにはいかなかった為、エリスが自分でポットからカップにお茶を注ぎ、クロードの前にセットした。
「どうぞ」
「どうも」
クロードの人間臭い言葉にエリスはふふっと笑いを漏らした。それはエリス自身想定外のことだった。これから自分は断罪され悪魔に身を引き裂かれる運命だ。絶望しかない未来がすぐ前にある。何故笑みなど溢れるのか。しかし、よくわからないがおかしかった。こんな風に笑ったのは子供の頃以来ではないか。笑いが止まらない。そして、ぼろぼろと涙が溢れた。同時に、
ガチャン
破音が部屋に響いた。エリスはしゃくりあげて滲む視界でクロードを見た。
「あっつい!」
クロードがカップをひっくり返し膝に紅茶を被ったらしい。エリスは急いでテーブルの布巾を手にとるが、
「大丈夫だ! 平気だ。近寄らないでくれ!」
ビリッと空気が尖りエリスが静止すると、クロードは慌てて続けた。
「すまない。大きな声をだして」
「いえ」
クロードが埃を払うような仕草でズボンを払う。一瞬で乾いたように見えた。
「きみは、一体どうした?」
そして、何事もなかったようにぎこちなく告げる。
――こちらの台詞じゃないかしら?
エリスは内心選択する悪魔を間違えたと感じていた。一方で、クロードの奇行により既に涙は引っ込んでいるが、自分の情緒不安定について、心配したように尋ねられていることに不思議な温かさを感じた。
「わたくしは、断罪されるとお伝えしましたわね?」
「あぁ」
「わたくしの婚約者はこの国の王太子なのです。わたくしは、幼い頃から将来王妃になるべく厳しく躾けられました。大声で笑うことははしたない。怒りをぶつけることは品性に欠ける。いつも優雅に見えるように振る舞うことを教育され続けてきたのです。しかし、王太子は最近になって別の女性に心を移しました。天真爛漫に感情を露わにする姿が愛しいという理由からです」
「馬鹿か!」
「え」
「いや、その男だ」
悪魔だから王太子相手にも平気で暴言を吐く。王族侮辱罪などの概念があるはずはない。つまり、率直な意見を告げた。エリスにはそれが心地よかった。誰もそんな風に言ってくれなかった。だからだろう。感情が堰を切ったように流れだした。抑制することを強いられ続けてきたエリスは思いのままに言葉を放った。
アリエス・エトワールが学園に訪れたのは一年前のことだ。エトワール男爵家の嫡男が家名から除外される不祥事を起こし、愛妾に生ませた町娘のアリエスが男爵家へ養子に入った。学園の淑女達と異なり感情豊かに朗らかに笑うアリエスは、あっと言う間に令息達の多くを魅了した。その中の一人、いや筆頭が王太子、カミーユ・ルグランである。
「アリエスは貴族社会に慣れていない。教えてやるのは国を統べる者として当然ではないか」
何故王太子自らその任を務める必要があるのか。しかし、エリスは黙って頷いた。王太子が「義務」の言葉を告げる以上、逆らうことはできなかった。
二人が逢瀬を繰り返し、自分が蔑ろにされていることにも気付いていた。しかし、あくまで王太子としての立場を主張する。だから、エリスは将来の王妃としてそれを許容したのである。
しかし、アリエスの態度に憤りは募った。あまりに気軽に、あまりに容易く王太子に触れ、笑い合う。エリスはアリエスに淑女としての振る舞い、婚約者がいる男性と無闇に二人になってはいけない旨を注意した。しかし、王太子はエリスに苦言を呈しアリエスを擁護した。
「やましいことなど何もない。まるで僕らの仲を疑うような発言こそ淑女としてあるまじきではないか。エリス、君はいつからそんな低俗な女になった?」
「申し訳ありません」
ならばもう放っておこう。半年すれば卒業し結婚する。王妃教育も既に完了している。独身生活の最後を自分の為の時間に使おう。エリスは二人のことに干渉しなくなった。
しかし、そんなエリスにアリエスは信じられない言葉を浴びせた。
「もう少し殿下のお心に寄り添ってあげてください。殿下は学生の身でありながら公務も務めて、神経をすり減らしていらっしゃるのです。その上、婚約者のエリス様に冷たくされては、気持ちの休まる時間がありません」
エリスはアリエスを気が触れた女だと解釈した。アリエスが終始べったりとくっつき王太子の執務の邪魔をしているから仕事が捗らないのである。書類一つ纏められず手伝うこともできない低脳が、王太子のスケジュールを管理して滞りなく進むよう尽力しているのは誰だと思っているのか。
「そうですわね。では、これからはわたくしが殿下のお側に控えます。アリエス様もそろそろ学園生活に慣れたでしょう。執務室に出入りするのはお控えくださいませ」
しかし、アリエスが王太子の側を離れることはなかった。とっくに「義務」は終わっているはずである。エリスはアリエスと王太子の間に入り、自分が婚約者であること、他の女性と仲睦まじくされることは不快であることを率直に告げた。
「変な誤解をしないでくれ。エリス、君はどうかしているぞ」
「エリス様、わたしとカミーユは友人関係ですよ」
白々しい台詞にエリスは微笑んだ。後数カ月の辛抱。五歳から十三年、厳しい王妃教育にも耐えてきた。王妃になる為。全てはその為の人生だった。元々政略結婚だが、愛情がなかったわけではない。幼馴染として情はあったし、互いに励まし合い、成長してきた。しかし、今目の前にいる男は完全にアリエスに溺れている。どう着地点を取るつもりなのか。下手に動いては駄目だ。王妃に相応しいのは自分。エリスは冷静に、
「そうですか。わかりましたわ」
心情を隠して優雅に慎ましく振る舞い続けた。
その結果どうなったか。
「エリス、申し訳ない。アリエスを愛しているんだ。彼女が側にいると満たされる。僕の心を癒してくれる」
そうであることはわかっていた。
見え透いた言い訳を論い逢瀬を繰り返す様を滑稽に思っていた。馬鹿馬鹿しくて反論もできなかった。
「エリス様は、完璧な方ですから弱さを見せられない。カミーユはそれがプレッシャーだったんです」
「エリス、本当にすまない。僕らは表面上の婚約者だった。君にも心通える人が見つかれば、きっとわかるよ」
そして、まだ嘘を吐くのかと呆れた。王太子がアリエスを一目で気にいったことを知っているのだ。ただ、顔が好み。だから側においた。自分をいいように持ち上げてくれる調子のいい女だから選んだ。
「婚約の解消はしませんわ。わたくしは王妃になります」
自分に瑕疵はない。エリスは毅然と告げた。しかし、王太子とアリエスはエリスが思うより巧妙だった。
「申し訳ない」
「すまない」
「心苦しい」
人前でもわざとらしいほどエリスに謝罪した。王太子が膝を折る。それがどれほどの懺悔を意味するか。そして、アリエスはエリスが姿を見せれば王太子と距離をとり、会わないように会わないように避けている様を露骨に示した。そうすると徐々に世間の目はアリエスを擁護するように動いた。真実の愛で結ばれた二人を、王妃になりたい欲望で阻む悪女。
それでもエリスが我慢し続ければ事態が今ほど悪化することはなかった。不貞を働いたのは王太子とアリエスなのだから。しかし、エリスも生身の十八歳の少女である。積りに積もった鬱積は爆発した。
「何度も言っていますわ。婚約の解消はしません」
「エリス……わかってくれ。アリエスを愛してしまったんだ。仕方ないだろう」
「婚約は解消しません」
幾ら頑なにエリスが拒絶したところで、王太子が強行に出れば婚約破棄は免れない。では、これほど幾度も呼び出しを受ける訳合は何か。エリスはその時まで、心の片隅でまだ王太子を信じていた。心変わりしたことに対して真摯に謝罪する気があるのだと思っていた。だが、そんな淡い期待は見事に裏切られた。
その日、エリスが王太子の執務室を出ると、いつからそこにいたのかアリエスが現れて告げたのだ。
「エリス様。どうか、もうカミーユを解放してください。相手の気持ちを思いやれない人間は立派な王妃にはなれません。聡明なエリス様ならお分かりのはずです」
この下賤な女は何を言ったのか。誰が王妃になれないと? 相手の気持ちを思いやれない人間とは誰か。そして、この女は自分が王妃になるつもりだ。焼け爛れるように身体が熱くなった。瞬間、エリスの手がアリエスの頬を打った。
「痛い!」
アリエスの叫び声に執務室から王太子が顔を覗かせる。
「アリエス! どうした?」
「エリス様が……いえ、わたしが悪いんです」
嫉妬にかられて手を上げた女。あっと言う間に噂は広がり、王太子とアリエスはエリスに近づかなくなった。謝罪の要請もない代わりに、婚約解消の承認を求めることもなくなった。暴力に訴える下卑た女は王妃に相応しくない。その事実が欲しかったのである。
嵌められた。愚かしかった。しかし、既に後の祭りだった。エリスにはもはや手持ちの駒がなくなった。そして、昨日、二月ぶりに執務室に呼び出しを受けた。
「婚約の解消を承認してくれ。君には悪いことをした。しかし、アリエスを愛している。仕方ないことなんだ。明日の卒業パーティーには出ないでくれ。君が婚約解消に応じたことを告げ、アリエスとの婚約を発表する。もし、君が現れたら、残念だが、君を断罪する。アリエスに手を上げ、僕に近づくなと脅したこともあったね」
何の話をしているのか。恐怖さえ感じた。愛があれば何をしても許されるのか。だったら、と、その時エリスは思った。
だったら、わたくしの愛は? わたくしは、わたくしの愛の為に何をしても許される?
ならば、わたくしは――――、
「それでオレを召喚したのか」
「はい。クロード様。わたくしと契約してくださいませ」
「クロード様……」
「え?」
「いや、それで……その……きみは、その男を愛しているのか? 悪魔のオレと契約して代償を払うほど」
「いいえ」
視線を合わせはっきり告げるエリスの言葉に偽りはない。
「ならば復讐の為か」
「いいえ。わたくしは、自分自身への愛の為にクロード様を召喚しましたの。わたくしは、王妃になります。この十三年のわたくしの人生をあんな下らない人達に踏みにじられたくはありません」
「そうか」
クロードが心なしか笑ったように見えた。自分の願いが浅ましいからか。或いは、愚かだからか。身体を奪われる人間が王妃になどなったところで一瞬の玉座である。しかし、それでも構わない。アリエスにだけは譲りたくない。
「王妃にしてやることは簡単だ。しかし、王妃になるだけでよいのか? きみは、王を支えて共に国を守り、愛し愛される王妃になりたかったのではないか?」
クロードの問い掛けにエリスは黙った。アリエスが現れる前のカミーユは誠実な男だった。胸の芯が震えるような激情はないが、確かに愛はあった。二人で寄り添い国を守り築いていくはずだった。
「それはもう無理ですもの。いいんですの。王妃になれさえすれば。だから、クロード様、これから行われる卒業パーティーで、わたくしと王太子の婚儀を結んで頂きたいのです。王妃になれればそれで十分ですわ。可能かしら?」
クロードは僅かに沈黙した後笑った。
「見縊って貰っては困るな。王はきみを溺愛するよ。きみを幸せな王妃にしてやる。代償は一年後にもらう。それで構わないのだね?」
自分は愚かなことをしている。冷静ではないのだろう。今ならまだ引き返せるのか。
エリスはクロードを見つめた。吸い込まれるような紅い瞳が柔らかに緩んでいる。これが悪魔の魅力か。エリスは気づけば頷いていた。
「契約は成立だ。悪いようにはしないさ。任せておけ」
「エリス・ブリエンヌ。君との婚約を破棄する」
卒業パーティの最中、予定していた通り王太子は高らかに声を上げた。
「エリス、君とは幼少の頃からの付き合いだ。できればこのような公の場で破棄を宣告などしたくはなかった。僕は以前から何度も君に婚約解消の意向を告げていたね? しかし、どうしても応じてはくれなかった」
王太子の言葉にエリスは表情を崩さず淡々とした様で告げた。
「当然ですわ。わたくしは五歳の頃より王妃になるべく教育を受けてきましたの。そのような何の素養もない女にとって代わられる謂れはありません」
エリスは王太子の傍に守られるように佇むアリエスを一瞥して言った。
「愚かな。アリエスは優しい女性だ。マナーや知識は学べば身につく。だが、心根はどうにもならん」
ざわざわと会場内が揺れている。エリスのアリエスに対する行動を囁く声がちらちらと聞こえてくる。しかし、エリスは凜然として続けた。
「わたくしの心根が卑しいとでも?」
「お前がアリエスに幾度も嫌がらせをしていたのを知っている。全て把握しているのだ。あまつ、手を上げた」
「先にわたくしから殿下を奪ったのは、その女ではありませんか。泥棒に反撃するのは正当防衛といいますのよ?」
エリスが言うと、それまで王太子に肩を抱かれ静観していたアリエスは心痛な表情で口を開いた。
「泥棒だなんて……わたしはただ、殿下を愛してしまっただけなんです……! エリス様には申し訳ないことをしている、そう思って、苦しくて……」
「一年前にぽっと現れた貴方の苦しみと、十三年に渡る努力の末、後一年で漸く結婚式が執り行われると胸を躍らせていたわたくし、どちらの苦しみが大きいかしら?」
「やめないか。愛してしまったのだ。仕方ないだろう」
エリスは笑った。
愛しているから仕方ない。再三に渡る婚約解消の申し出の度、王太子が口にした言葉だった。愛があれば何をしてもよいと言う。
「ならば、貴方方はその愛を貫いてくださればよろしいわ。目を瞑りましょう。その女を側妃にでも、愛妾にでも囲ってくださいませ。わたくしは正妃として許容します。それでよいのではないですか。わたくしがここまで折れなければならない道理はないのですけれど」
「何を馬鹿なことを!」
「それではエリス様が幸せになれません!」
エリスの発言に二人はギョッとして反論した。再び会場がざわざわと物議を醸し出し始めた。エリスはアリエスが現れるまで完璧な淑女だった。王妃として外交問題にも内政にも巧く立ち居振る舞うに十分な教養がある。一方のアリエスは、貴族になりたての何の知識もない町娘だ。国民として、どちらを王妃に据えたいか。
「あら? わたくしは幸せよ?」
「そうまでして王妃になりたいのか!」
「えぇ、そうですわ」
平然と告げるエリスに、王太子とアリエスは沈黙した。会場内は明らかに、エリスの提案を受け入れるべきではないか、という空気へ流れている。エリスはその温度を十分に感じとり乾いた面持ちで、眼前の二人の様子を眺めていた。
――汚いやり方をするからですわ。自分達が不貞を働いたのにわたくしを貶めて正当性を主張するなんて。
卒業パーティで断罪。
しかし、彼らのやり口はそれ以上に汚い。事前にエリスに婚約の解消を打診したこと、それに応じないエリスに対し苦渋の選択であったこと、断罪するしか方法がなかったこと、この行いが正攻法であると周囲に知らしめようとした。自分達の不貞に目が向かないように、誠意をもって尽くしたのに応じなかったエリスが悪であるかのように。
「エリス様、わたしは本当にカミーユを愛しています。カミーユが王太子であるからではありません。一人の男性として愛しています」
「失礼ね。殿下は現状、たった今もわたくしの婚約者でしてよ? 人の婚約者に愛を告げるなんて、非常識にもほどがあるわ! 恥を知りなさい!」
「エリス……やめないか。悪いのは僕だ。アリエスを愛してしまった」
王太子の真摯な姿に、また会場が揺れる。真実の愛を貫く崇高な二人と権力にまみれた悪役令嬢の構図。腸の煮えくり返る激情がエリスの身体に走った。家同士が結んだ婚儀だったが愛情はあった。だからこそエリスは厳しい王妃教育にも弱音を吐かずに取り組んだ。カミーユに見合う王妃になろうと努力を重ねた。それがどうだろう。真実の愛? これまでのエリスの愛情と全ての努力を無に帰す言葉を平気で投げて、自分達の行いが美しいものであるかのような心情でいる。心変わりは仕方ない、しかし、その振る舞いだけは許せない。
「わかりましたわ。では、最後にわたくしのお願いを聞いてくださいますか?」
ほっとしたような王太子とパッと顔を輝かせるアリエスにエリスはとっておきの笑顔で告げた。
「どうぞ、貴方方の結婚式でこう宣誓してくださいませ。
『わたし、王太子カミーユ・ルグランは婚約者であるエリス・ブリアンヌがいながらアリエス・エトワールに心を移し、不実の愛を選択した。この不徳を貫き生涯アリエスと共にすることを誓います』
と。それから、アリエス様は
『わたし、アリエス・エトワールは、エリス・ブリアンヌからカミーユ・ルグランを略奪した。愛しているので仕方なかったのです。エリス・ブリエンヌに生涯心からの懺悔と、この不義の愛を貫くことを誓います』
と。それから毎年貴方方の婚儀の日には、
『わたし達はエリス・ブリアンヌを裏切り不貞行為の上、幸せを得た。エリス・ブリエンヌの不幸と共に成立した結婚に満足している』
と国民に表明して下さいませ。その事実を決して誰もが忘れないようにして頂きたいのです。えぇ、そうしてくださるなら喜んで婚約破棄を受け入れましょう」
「馬鹿なことを言うな! 何様のつもりだ! 婚約は破棄する。アリエスを貶めた行為は王妃になる者として相応しくない。これ以上戯言を口にするならば、王族侮辱罪で国外追放に処すぞ!」
燃え上がるように激高し怒鳴り散らす王太子に対し、エリスは極寒の氷の海のように冷めきった侮蔑の眼差しで告げる。
「馬鹿な女の色香に引っかかった低能な王子の不義を美しい夢物語にでっちあげられたら堪らないわ!」
「今すぐこの女を引きずりだせ!」
王太子が叫び、護衛の騎士がエリスに手を掛けようとしたときだった。
「彼女に触るな」
会場の入り口から聞こえた男の言葉に騎士の動きは止まった。
「何をしている! 捕えろと言っている!」
王太子の命だけがしんとした空間に響いた。しかし騎士が動く気配はない。足がピッタリ床に張り付き身動きがままならない様で、代わりに入り口にいた男の進行に合わせ避けるように人波が開いていく。
「可哀想なエリス。心配はいらない」
「お前は何者だ? 発言を許してはいないぞ!」
男は王太子の言葉に不気味な笑みを浮かべる。銀髪に紅玉の瞳を有し異常なほど美しい容姿をした男。独特の色香を纏い会場の中央へ歩みを寄せるさながらにも、その場にいる全ての者の視線を一様に引き寄せ魅了していた。
「お前ごときがオレの発言に口を挟む権利があると?」
男の声にビリッと空気が揺れる。王太子は一瞬たじろぐも、隣にいるアリエスがぎゅっと腕にしがみついたことで、我に返り続けた。
「僕はこの国の王太子だ」
「そうか。ならば発言を訂正する。たかがこんな国の王太子がオレの発言に口を挟むのか? 正気の沙汰ではないのだが?」
男はエリスを背にカミーユに対峙した。
守られている感覚。ずっと一人で戦ってきたエリスにとっては温かい安らぎ以外のなにものでもなかった。たとえそれが、
「クロード様……」
悪魔であっても。
「お前は一体何者だ? エリスとどういう関係なんだ」
「勘違いしないでくれよ? 君たちのような不埒な関係ではない。婚約者がありながら愛を宣うようなね。彼女はオレの契約者だ」
クロードは王太子とアリエスを交互に見比べ低く笑った。
すると、これまで発言をしていなかったアリエスは潤んだ瞳で悲嘆に暮れたように言った。
「出会うのが遅かっただけです。好きで後から出会ったわけではありません。好きになってしまった。それが罪ですか?」
エリスが散々並べた不貞の事実を意に介さず、平然と主張するアリエスに、腹の底では微塵も謝罪の気持ちがないことが窺い知れる。
「エリスがこの男に尽くした十三年を踏みつけて、まだ自分達が正しいと? 罪悪感なく彼女を嵌めて、不義を正当化してよいと?」
「時間じゃない。一目でアリエスが運命の人だとわかったんだ。愛している。どうしたって仕方ないことだ。真実の愛を否定し偽りの結婚をしてもすぐに破綻する。エリスだって不幸だろう」
クロードは振り向いてエリスを一瞥した。頬を紅潮させしんしんと募る憤りに耐えている。怒りの種を一粒残らず吐き出させてやろうか、と思考するが、理解不能の主張を重ねる相手には無駄骨だ。エリスの麗しい唇が汚れるだけ、と判断した。
クロードはエリスに再び背を向ける。瞬間、王太子とアリエスは硬直した。クロードの顔を見たまま酸欠になった如く蒼白になっている。二人の表情にエリスは顔を顰めたが、
「王子は姫を守る為に存在する。決して魔女を守る為ではない。とんでもないミスキャストだな。この配役はきみらには荷が重過ぎるらしい。村人Aと村人Bがお似合いだろう」
パチン。
クロードが指を鳴らすと世界がうねるような衝撃に襲われた。身体が浮遊する感覚。そして、全てが暗転した。
********
「わからないって、あのなぁ」
「ただ一目見た時思った。『可愛い』って。動悸がして心臓が口から飛び出そうになるのを必死で抑えたことは覚えている。一年前のことなのにあの衝撃は忘れられない」
今は王となった男が、終始締まりなくにやついて言うので、旧友は気味悪く呆れた。
あのパーティーの夜。王太子だった男は消えた。そしてクロードが王に成り変わった。全くの別人であるのに、誰も気づかないのは、クロードが王国中にぐるりと意識操作の魔術を施したからである。
召喚に応じたまま、魔界に戻らないクロードを友であるルシフェルは随分心配していた。人間界をはちゃめちゃに破壊しまくっているのではないか、と。クロードがおかしくなったと言う噂は魔界中に広まっていた。しかし、その真偽は不明だった。悪魔は、人間か或いは人間界にいる魔族に呼ばれない限りこちらの世界に渡ることは出来ない。クロードの現状を把握できないまま一年が過ぎた。ルシフェルは本日、クロードの召喚により人間界に招かれたのである。
そして状況を把握した。まさかの「稀代の王」をしている。
ルシフェルとクロードは一万年近くの付き合いになるが、ルシフェルの知る限り、クロードは気位が高く気紛れな男で他者に対して辛辣だった。人間の召喚に応じることも暇つぶしの種くらいにしか考えていない。高い魔力を保持する為、王族、高位貴族或いは屈強な猛者が、時の権力を奪い合う為にこぞって彼を召喚する。身代わりの術者を立て、己の代わりに血肉を捧げさせる。しかし、術者が反旗を翻し、自分を生贄にしようとした者達を八つ裂きにしろと、逆にクロードをけしかけるケースも多々あった。血で血を洗う惨事にクロードの残忍な噂は広まり続けた。異形の化け物。その姿を見て生きて帰ったものはいない。文献に記された醜悪な姿に彼を召喚しようとする者はいなくなった。
そこへ久方ぶりに呼び出しを受けた。どう暴れてやろうか腹底で笑って声を発したが、召喚者はこれまで見たこともない、か細く可憐な女の子である。クロードはその姿に釘付けになった。頭に血が上りあわあわと浮足だって何も考えられない。記憶の限り初めての出来事だった。
「それで例の香油は持って来てくれたのか?」
「あぁ」
ルシフェルは胸ポケットから小瓶を抜き取り、クロードの前へテーブルの上を滑らせた。
「そんな物の為にわざわざオレを呼んだのか?」
「あぁ」
「怒るぞ」
クロードはにやついて口元を押さえている。
ルシフェルが依頼されて持参したのは、魔界にしか咲かない花の蜜から精製する香油である。インキュバスが好んで使用する。初めてでも痛みが少なくて済む媚薬だ。
「礼は弾む。何がいい?」
「別にいいさ。結婚祝いだ。しかし夫婦なんだから契約とは言え一年も待つ必要があったのか?」
「気持ちの問題だ」
「あっそう」
クロードのこの一年のエリスに対する手間の掛け方は異常であった。一時間置きに花束を贈り部屋中花に埋もれさせてみたり、朝昼晩と違うドレスを着せて愛でてみたり、食事を膝の上で取らせて困惑させたり、侍女から聞いた女性の喜びそうなことは片っ端から試して、どうにかエリスの気を引こうと必死だった。
意識操作で最初から自分と婚約していたことにしたし、村人ABの記憶は消失させたものの、何処か暗い影が残っていた。愛し愛される王妃にする。表面上での婚儀では契約は不履行で、こちらは万全であるがエリスの気持ちは中々頑なだった。しかし先日いつものように愛を囁けば真っ赤な顔で小さく、
「わたくしもです」
と返ったのである。悶絶級の可愛さだった。そして、本日めでたく一年経過しその身を捧げて貰う算段である。これから毎日一生かけて大切に頂くのである。
「取り敢えず、魔界に帰ったらお前がおかしくなった噂は、事実だと肯定しといてやるよ。天下のクロード・ミハエルは女の為に万単位の人間に意識操作を施して、天下泰平の世をつくり、稀代の王に成り下がって初夜の準備に一年費やしたってな。何か言い訳あるか?」
席を立つルシフェルにクロードは少し考えてから、目を細めて告げた。
「愛しているから仕方がない」