2.見知らぬ青天井
——『あなたは結末を知っている』
ぼんやりとした意識の中、そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
誰の言葉だっただろうか。
映画か何かの台詞だったような気がする。
そんな特に意味の無いことを考えながら、のろのろと上半身を起こす。
「——痛……」
目がやけに痛む。
真っ白にぼやけた視界。頭痛。
そして、得体の知れない強烈な違和感。
二日酔い……か?
咄嗟にそんな考えが脳裏を過ぎった。
目頭を押さえながら昨晩の記憶を探るが、深酒をした記憶は無い。
いや、それどころか一切合切全て……何も、思い出せない。
「…………んな馬鹿な」
荒唐無稽な妄想を苦笑しつつ否定する。
あまりにも突飛な発想だ。
ただ単にいつも通り過ぎて、印象に残っていないだけだろう。
おぼろ気な記憶を探る。
昨晩は、確か……そう、いつも通りに全没型のゲーム——VRMMORPG『AVATAR』——を友人とプレイしていたはずだ。
そんな記憶はある。
特に酒は入っていなかったし、目新しいことも無かった……はずだ。
もう少し細かく思い出そうと、記憶を掘り返す。
昨日はどこのダンジョンに行った? 何時頃にログアウトした——
「——っッ」
再びの頭痛と強烈な違和感。
先程よりも痛みが増している。
どうにも二日酔いでは無さそうな症状に、不安も増した。
暫く頭痛がおさまるのを待ってみるか?
もし治らなければ、病院だろうか?
そんな不安をよそに、然程かからず痛みはひいてくれた。
妙な病気かとも思ったが、杞憂だったようだ。
安堵と共に目を開くと、ぼやけていた視界も元に戻っていた。
目の前にあったものが、自然と視界に入る。
目頭を押さえていた自分の手が、当然のように視界に入る。
入ったはずだ。
「……!?」
驚愕のあまり、声も出なかった。
別に血塗れだったとかではない。
ただ……手が、自分の記憶にあるソレとは異なっていた。
毛むくじゃらになっている訳では無い。
骨でも無い。
形状は普通だ。
明らかに人間の手だ。
ただ、強いていえば色が問題だ。
明らかに自分自身の手だと認識できる配色ではないのだ。
灰色の手のひらが目の前にある。
思わず、助けを求めるように周囲を見渡す。
「――な!?」
当たり前のように自室が視界に入ると想定していた脳が、更なるパニックに陥った。
自分の手だけでは無かった。
周囲の様子も明らかに異常だ。
阿呆のように狼狽え、周りを何度も確認する。
だが、何度見直しても状況は変わらない。
「なんだ!? どこだ、ここ!」
端的に現在地を表現するなら、森の中だった。
勿論、知らない森だ。
木々の間から途切れ途切れに見える天井は青い。
心臓が未だかつてない程に早鐘を打つ。
得体の知れない悪寒に冷たい汗が滲んだ。
訳の分からない状況に、心の中の警戒レベルが二段飛ばしで跳ね上がっていくのを感じる。
自然と荒くなる呼吸を落ち着けるように息をのむが、やけに苦い。
「——やぁ……君も目が覚めたかい?」
背後からの突然の声に、警戒レベルが一気に天井を超える。
「——!」
自分でも信じられないほどの機敏さで身体を捻り、中空を舞うように振り返る。
「おっと——まるで、猫科の猛獣だね」
肩をすくめるような仕草の男が目の前に居た。
どことなく見覚えのある顔。
だがしかし、この強烈な違和感は何だ?
「あぁ、この格好が気になるかい?」
俺の狼狽ぶりを楽しむように笑う男。
「……まぁ、分からなくもないんだけど、君も人のことは言えない姿をしているよ」
ほら、と目前の男は懐から小さな鏡を取り出し、鏡面をこちらに向ける。
俺は警戒しながら、恐る恐るそれを覗きこむ――
「なんじゃ……こりゃ」
――何度目になるか分からない驚きに、目を見開く。
鏡に写った——目を見開いた男は、自分では無い?
だが、この顔にも見覚えがある。
褐色がかった灰色の皮膚、尖った長い耳、無造作に伸びた白色の髪、左目の眼帯、黒い外套、シンプルなデザインの黒いレザーメイル。
そのどれもが強烈な違和感と共にではあるが、確かに見覚えがあるのだ。
「いや、けど……」
鏡の向こうのダークエルフが、俺の声に合わせて口を動かす。
「おいおい、マジ、なの……か?」
現実を認識した俺は、慌てて自分の視界を隅々まで入念に何度も見渡す。
だが、本来有るべきもの——もしくは有って欲しいものは見当たらない。
HPや状態異常アイコン、メニュー等の各種ユーザインターフェースが無いのだ。
心のどこか冷たい部分が、現実逃避をするな、と嘲笑ってくる。
いや……落ち着け。
覚悟を決めるように、深呼吸を一つ。
もう一度周囲を見渡してみる。
――視界に入る全てに、ゲーム特有の作り物感が無かった。
何よりも肌に感じる少し冷えた風が教えてくれる。
どこか懐かしい湿った草木の臭いすらも訴えかけてくる。
そのどれもが、ゲームでは再現されていないものだと五感に主張してくる。
「驚いただろう? かく言う僕も驚いているところだよ」
全く冷静に見える素振りで、そう嘯く目前の男。
その言葉に、ほんの少し——男に意識を向けることが出来る程度の冷静さを取り戻す。
目は糸のように細く、笑みが固定されたような顔立ちに黒髪、某一神教の神官が着ても違和感を覚えないデザインの白っぽいローブ。
確実に見覚えのある顔と姿だった。
というか、昨晩一緒にゲームをしていた友人だ。
一つ問題なのは、何故かゲーム内の姿だという点だ。
友人がコスプレ趣味に目覚めただけなら、別に問題は無い。
趣味は自由だし、とやかく言う筋合いも無い。
だが、もっと大きな問題点がある。
俺自身もゲーム内の姿形をしていることだ。
しかも明らかに人間じゃない。
架空の生き物だ。
「――もう、立てるかい?」
「あ、あぁ……」
伸ばされた手を、咄嗟に掴む。
当然のように二つの手は重なる。
一方は普通の手。
もう一方は灰色の手。
――これは、悪い夢だろうか。
引き起こされながら、呆けたように考える。
夢ならば早めに覚めてほしい、と。
「もっと驚く前に伝えておくけど、君の足元に転がっている子はちゃんと生きているよ。踏まないようにね」
その言葉に足元を見る。
「うおっ!」
確かに見知らぬ金髪少女が転がっていた。
重武装のフルプレートメイルを着込んだ少女が。
驚きのあまり、誤って踏んでしまいそうになった。
心臓に悪い。
「ははは、やっぱり驚いたか。そりゃ驚くよね」
状況が分かっていないんじゃないか、と思えるほど暢気な言葉。
そんな友人の表情に、唐突に毒気が抜かれていく。
同時に抱く、不公平だという感情。
何故、俺ばかりがこうも狼狽えなければならない。
そう考えると、阿呆丸出しの行動が馬鹿らしくなってきた。
少し、本気で落ち着こう。
「――落ち着いたかい? ええっと……」
探るようにこちらを伺う声と共に、眼前の男はちらりと倒れている少女を見る。
「――あぁ、そうだな……」
恐らく、本名を呼ぶかどうか悩んだのだろう。
意識が無いとはいえ、見ず知らずの相手を前に推奨される行為ではない。
所謂ネットリテラシーの問題だ。
現状がオンライン状態なのかは不明だが。
「俺は……アインで良い。状況がよく分からないが、そっちの方が都合が良さそうだ」
少し悩んだが、結局ゲームのキャラクターに付けた名前を名乗ることにした。
「確かにそうだね。なら、僕はロックだ」
掴んだままの手を、まるで握手するかのように軽く振る。
いや……まるで、等ではなく正しく握手なのか。
「悪いな」
何がだい? と小首を傾げるロック。
「落ち着かせるために、わざと暢気に振る舞ってくれたんだろ?」
「はは、それは買い被りだろうね」
ただでさえ細い目が、笑うことで更に細くなる。
この笑みは、我が意を得たり、といったところだろう。
買い被りと本人は言うが、そうでは無いと確信できる顔だった。
「それで……何か、状況は分かるか?」
「さっぱりだね……僕も目が覚めて一時間も経っていない。一応、軽く周囲は見てきたから、擦り合わせをしておこうか。もしかしたら何か気付くかもしれない」
大分主語を省いた問いかけだが、意図は伝わる。
こういう何気ないことに、一人じゃなくて良かったと安堵を覚える。
一人だったら、きっとまだ混乱真っ最中だ。
「そうだな、一つずつ状況を確認していこう。まずは、そうだな……」
本当はもっと重要なこともあるが、とりあえず手近なところから片付けよう。
「この足元の眠り姫は知った顔か?」
「いや、初めて見る顔だね。ゲーム内外問わず見た覚えはないよ」
足元の少女? に視線を向ける。
まず目を引くのが、金髪だとか美少女だとかは差し置いて、着込んだ重鎧だろう。
こんな代物を現代日本でお目にかかる機会は、ほぼ皆無だ。
否応なしに目につく。
「この子が何者だとかは置いておいて……念のために聞くが、これはゲームの中だと思うか?」
正味のところ、これは聞いたところで意味が無い質問だと理解している。
ロックの返答は想像できる上に、それを聞いたところで証明ができない。
端から結論は出ない疑問なのだ。
ならば何故聞いたのか。
単純に精神衛生上の理由で聞いておきたかった、というのもある。
だが、今後の方針検討のうえで大前提になる部分だと思えるのだ。
故に認識の擦り合わせという点で、無意味では無い。
「違うだろうね。これがゲーム内だとは思えない」
「一応確認だが、その理由は?」
「これは君も理解しているだろうけど、全没型のゲームは仮想現実だと一目で分かるように、あえて質感のリアリティを落としている」
俺は素直に頷く。
パニックになりながらも、それは自分も感じた違和感だ。
あまりにも質感がリアル過ぎる。
「あとは、触覚と嗅覚か」
ゲーム内であれば痛みまで再現しないよう、触覚は極端に鈍くされている。
少なくとも、風の感触や気温は感じられないほどに。
あと特筆すべきは嗅覚だろう。
味覚もらしいが、技術的にそもそも再現が出来ないと聞く。
「グラフィックに関しては、ソフトウェア側のアップデートで更新は可能だろうけど……」
現在進行形で感じている大自然の香りが、そういう代物では無いと教えてくれる。
「触覚と嗅覚はハードウェア的な問題だから、ゲームのアップデートでリアルになったとは考えられないね」
「だとすると……これは現実である、という前提で考える必要がある訳だな」
「僕はそうすべきだと思うよ。命に関わりそうなら、尚のことね」
今の感情をどう捉えれば良いのか。
自分自身で答えが見付けられないまま周囲を――見知らぬ森を見渡す。
訳が分からなすぎて、逆に不安が薄いな。
「――仮に現実の出来事だとして、ここは日本だと思うか?」
「違うだろうね」
「断言できるのか?」
これも真っ当な解答は出ない問題だと思っていた。
しかし、自信ありげにロックは頷く。
「植生の問題かな。別に僕も全ての植物が分かる訳ではないけど……例えば、そうだな——」
ロックはそこら辺の木の根本あたりを指差す。
そこに注意を向けてみると――
「少なくとも僕は、七色の胞子を大量に放出する七色のキノコは知らないね」
——いよいよ以て、ここが地球なのかが怪しくなってきた。
「他に妙な生物を発見していないのが、唯一の救いかな」
せめて、あの胞子に害が無いことを祈ろう。