避暑地ジェール
「美味しい」
街に出た私たちは、お行儀はあまりよくないけど、露店で買い食いをしながら大通りを歩く。
道すがらにレオさんに聞いたけど、ここはジェールという街だそうだ。
避暑地として注目を浴び、観光産業で成り立っている。
街の名前は聞いたことがあるが、目に見える風景に見覚えはない。
そのことから、ただ単に知識としては知っているが、私にとっては所縁のない場所なのだと思う。
「ふふっ、口にタレがついてるよ」
ナターシャさんはハンカチで私の口元を拭う。
恥ずかしくて、私は思わず赤面してしまった。
「少し広場のベンチで休憩しようか」
レオさんの提案で、私とナターシャさんはベンチに腰掛ける。
少し歩き疲れていたのを見抜かれたのかもしれない。
私はキョロキョロと周囲を見渡す。
人々の顔はにこやかで、通りにも人が溢れている。
この街が平和な時を過ごせているのが見て取れた。
「疲れたか?」
レオさんは近くの屋台で購入した飲み物を私に手渡す。
私はお礼を述べ、手渡された飲み物を口に含む。
口の中にすっきりとした爽快感と自然な甘みが広がる。
「へぇ、ハーブが入ってるのね、これ、とても美味しいわ」
喜ぶナターシャさんを見て、レオさんが微笑む。
私たちはベンチに横並びに座り、穏やかな時間を過ごす。
目の前の喧騒を眺めながら、もし、記憶が戻らなかったらと考えると少し不安になった。
それを察してか、ナターシャさんが私の頭を撫でる。
ナターシャさんは、なにかを決意したかのようにゆっくりと口を開く。
「ねぇ、マリーちゃん、もし、もしもだけど、貴女の記憶が戻るまで私たちと一緒に暮らしませんか?」
記憶がなく子供の私にとっては有難い申し出だ。
だが、そこまで甘えてしまってもいいのだろうか。
私が返答に戸惑っていると、ナターシャさんは私の手を取り言葉を続ける。
「私たちは旅行でこの街に来ているけど、そう長く滞在するわけじゃないの」
レオさんの方をちらりと見ると無言で頷く。
「旅行が終わる3日後まで私たちと一緒に行動して、それで結論を出してくれればいいわ」
私は首を縦に振ると、ナターシャさんはぎゅーっと私に抱きついた。
その体温がどうしようもなく愛おしく、心が安らぐのはなぜだろう。
「ふふっ、この段階で断られたらどうしようかと思ってたの、今日は観光を楽しみましょ」
今は記憶を取り戻すよりも、この時間を大切にしたい。
2人に手を引かれ広場を離れた私は、今はただ楽しむことにした。
◇
時刻は夕方を周り、日の傾きにあわせてポツポツと街に光が灯る。
3人で通りを歩いていると、ふと違和感を感じた私はその場に立ち止まってしまう。
いつの間にやら、周囲から人の気配が消えていることに気がつく。
警戒したナターシャさんは、私の肩に手を回し抱き寄せる。
「記憶を失ったままでは困るのよねぇ」
私たちの進行方向に1人のシスターが立ちはだかる。
シスターは頭にヴェールを被っており、口元しかみえていないが、彼女からはなぜか人ならざる者の気配を感じた。
「あらまぁ、そこの貴方、ただの人間のくせに邪魔するのかしら」
レオさんは片手を広げ私たちの間に入る。
「そういえば、人の記憶を取り戻すのにショック療法というのがあるのでしたっけ?」
口角を上げ卑しく笑うシスターの真横に、黒い渦が現れる。
シスターが黒い渦に手を突っ込むと、その中から白銀の剣を引き抜く。
その剣の神々しさに、私は思わずたじろいだ。
「そこの2人を殺せば少しは思い出してくれるかしら」
一瞬で距離を詰めたシスターの白銀の剣を、レオさんの剣が受け止める。
突如として現れた金の装飾が施された漆黒の剣に、シスターは驚き後方に飛ぶ。
「未来を司る女神スクルドよ、大人しく退いてはもらえないだろうか」
スクルドと呼ばれたシスターの周りに水が舞う。
彼女が手を上にあげると、宙を舞う水が渦を描き球体状に収束していく。
「貴方、少し生意気よ」
スクルドが手を振り下ろし魔法をこちらにぶつけようとした瞬間、球体に電流が走り、蒸発したかのように消滅してしまう。
「なに!?」
先程まで球体のあった上空に顔を向けたスクルドは、口を開けその場に固まる。
一体、何が起こったのか、状況を飲み込めていないようだった。
「驚く事はなにもない、魔法とは、空気中の魔素を体内に吸収し魔力に変え、それを対価に加護の力を使い行使されるものだ」
レオさんの頭上に、スクルドが作り出した水球と同じ物が生成される。
「ならば、加護や理論を分析してしまえば、魔法を構成する術式を読み解けるのではないか、それさえわかれば加護がなくても魔法が使えるのではないかと考えた」
一歩前にでたレオさんに気圧されたスクルドは。無意識に一歩後ろに引いてしまう。
それに気づいたスクルドは忌々しいとばかりに歯を噛みしめる。
「今のはその結果の応用だ、構成する術式がわかれば、解体する術式を作るのも容易だ」
スクルドは少し俯くと、笑い声をあげた。
「神器に魔法の真理、貴方一体何者かしら、少し興味が湧いたわ」
なおも退く気配のないスクルドに対して、レオさんはため息を吐き剣を構える。
私は、ナターシャさんの方を見ると、視線に気づいたのかこちらに顔を向けた。
「大丈夫、私の旦那様は超強いから安心して」
まさに、一触即発の様相だが、2人の間に1人の女性がいつのまにかごく自然に割り込んでいた。
「そこまでだスクルド、空間を途絶している私の負担も少しは考えろ」
命の鼓動すらも感じられない、まるで作られたような美しさに息を飲む。
彼女の身にまとう空気感はスクルドと同じで、まるでこの世の物とは思えなかった。
「それに、無関係な人間を傷つけるのは私の許すところではない」
目を細めた彼女は、スクルドを睨みつける。
気が削がれたのかスクルドは構えを解くと、持っていた武器を黒い渦に放り込む。
「わかったわよブリュンヒルデ、今日は大人しく退くわ」
スクルドは一瞬、不満そうに頬を膨らませたが、再び口角をあげ作り笑顔を見せる。
「また会いましょうねマリー」
スクルドは手を振ると、ブリュンヒルデと呼ばれた女性と共に消える。
気づけば、周囲に町の喧騒が戻り、先程まで誰もいなかった通りに人が溢れていた。