動き出す時間。
「申し訳ございません。こちらはただ今交渉中でして……」
優しげな眉を困ったように寄せて店主は言い、それにがっかりしたように客は帰っていった。
ここは古びた町家を改修して営まれている骨董屋、「聖堂」。
戦前から残る町家がたくさん並び、車の入ってこられない、狭い路地が入り組んだ石畳の通りにひっそりと構えられている。
紫の暖簾が目印。それが季節折々の風に優雅に靡く店先で客を見送る。
その前で店主は一つため息をついた。ほっそりとした手で暖簾を避けて店に入るなり、色素の薄い瞳を彼に移す。
「これで良いのですか? うちの店としては、ご希望されるお客様にお断りするなんてことはしたくないのですがねぇ」
話しかけた先の相手は、安堵したように息を吐きだし店主の瞳を見返した。
「ありがとう。これでもう少しこの店にいることができる」
花がほころびるように微笑したのは洋装姿の若い男だった
仕立てはいいのだろうが今の時代ではデザインが古い、そんな服装。それを着ている男の容姿は柔和な印象が強く、物腰も柔らかく繊細な様子で、顔立ちはすっきりしていて整っていた。優し気な目許と穏やかに微笑する口許が一層その容姿を引き立たせていた。
店主はそんな男の顔を興味深げに眺めた後、店の奥にある、いつも座っている椅子に腰を下ろした。和服の裾を優雅にさばき、腰を下ろす姿さえしとやかに艶がある。
長い黒髪を後ろで一つにまとめているのだが、両頬の横に落とされた一房の髪が店主が首をかしげるとさらりと揺れた。
「……あなたは、この店にいることが目的ではありませんよね?」
店の端、店主と対角線上になる場所に立っている男に、そう尋ねる。広くない店なので、穏やかに問いかけた店主の質問も十分に男に聞こえていた。
そっほりとした手に白磁の茶器を手にした店主は、問いかけの返答を静かに待つ。
男は何かを言いたそうに、わずかに眉間にしわを刻んだ。
この古びた骨董屋「聖堂」はただの骨董屋ではない。
誰かの手を渡り――時には何人もの手を渡ることもある――時代を重ねてきた品々の中に、ある日何かの原因で「魂」が宿ることがある。
それはその持ち手だった人間の魂だったりそうでなかったり、またはその品自体が長い年月を経て魂を宿らせたり。
理由も経路もさまざまであるが、確かに骨董屋の品すべてに何かしらの魂が宿っている。何もない品はここにはない――そんな、少し変わった店だった。
そして店主が声をかけた男。客がなかなか来ない閑古鳥の鳴く店内にたたずむ男もまた、そんな魂の一つだった。
「目的……ではないけれど、売られるのもまた目的ではないさ」
不本意だと言いたげに、男は店主を軽くにらんだ。それを受けて、和服の男はふんわりと微笑んだ。
「それはあなたの考え方次第だと、私は思います」
「考え方?」
店主の言葉に、今度は男は首を傾げた。
「先ほどお客様がここに来たことは運命なのです。そして……ここにあなたがいることもまた運命です。どうしてかと問われると、その答えを示して差し上げることはできませんが。そして『品』であるあなたはこの店に来たからには、またここから出ることも運命なのですよ。この店は、買い手が今必要としているものを提供することに存在意義があります。人間が持つ感情に導かれ……そのとき最も必要としている品と巡り合う。それが時には良くないものであっても、私はお客様が求めるものであれば売ることに躊躇いはありません。ですから、先ほどのことは、私としては不本意なことなのです」
店主が言葉柔らかく、しかしつけつけと言いたいこと言う。男はまた軽く睨んだ。そんな視線を受けても動じるはずもない店主は、小気味いいほどに視線を交わして、静かにお茶を口にした。
男は黙ったまま店主から視線をそらさない。だが決して怒っているような様子はない。
「僕はもう、誰の時間も刻まない……」
悲し気に、独り言のように呟いた。それからふわりと姿を掠めさせ、店主の前から消えていく。
その様子を見ていた和服の男は、小さくため息をつく。誰もいなくなった店内で、飾り棚に置かれている「それ」を見つめながら、
「困りましたねぇ。これでは開店以来初めての販売拒否になってしまいますよ」
まるで困っていないように、おっとりと柔らかくごちった。
それは、数年前に店主の許にやってきた。
古い懐中時計。丁寧な職人の仕事で、こまかな細工を施された蓋は見るものをうっとりとさせ、正確な時間は手にした者のそれをしっかりと見届ける。文字盤も鎖も、何もかもが当時の最高級のものを使用した一点もの。
大切な一人息子のために、豊かな資材を持つ両親が進学祝いとして作らせたものだった。
その時計はとても大切にされた。丁寧に磨かれ、少しの不調も見逃されることなく手入れされ、持ち主の日々を見守った。
学生だった持ち主の「彼」はやがて成人し、伴侶となる女性とも出会い結婚した。つつましく幸せな家庭を築き、妻の体に新しい命も宿った。時計はそれらすべてを彼の傍らで見てきた。
しかし、時代が彼を戦争へと向かわせた。
妻に時計を託し、必ず帰ってくるからと約束し戦地に向かう。しかし彼はその約束を果たすことはなかった。
激戦地に送られた彼はその亡骸さえ、二度と妻と時計の許へ帰ることはなかった。
ただ、死んだ。そう聞かされただけだった。
栄誉ある戦死。みなそう口にしたが、家族は納得できるはずもなかった。国のために命を捧げたかもしれないが、それははたして家族のためなのだろうか。時代風潮的には絶対口にしていけない言葉だが、妻も時計も燻りを覚えた。
残された妻は更に、その戦争のさなかに大切な我が子を失った。絶望のために彼女は死のうとしたが、結局死ぬことはしなかった。助けられたことをきっかけに、生きることを、長く苦しんだが彼女は選んだ。そして時計はそれをも見てきた。大切な夫婦の記憶として。
その後妻は新たな男と出会い結婚した。戦争も終わり、混乱の中で女が一人生きていくのは苦労しかなかったが、やっと妻にも希望が見えてきた。
妻は次の家庭にも時計を持って行った。形見として、自分と亡くなった夫の時間を刻んでくれた時計に感謝し、大切に箱の中に入れこまめに手入れもした。
時計は静かにその時間を過ごしてきた。何も言わず、箱の中で。
眠るように。だが時々目を覚ます、暗い箱の中で穏やかに。
そして時計は考えた。自分が何のために存在しているのかと。
それは悲観してではなく、大切にされているからこその感謝からだった。自分でも何かできることはないだろうか。そう考えた時計は、やがて気づいた。
誰かが常に時間を見るわけではない。だけど、誰かのために存在するのだからいつでも時間を刻んでいよう。
時計はいつの間にか、ねじまきもなく動くようになっていた。
ある日妻はそれを見て、亡くなった夫がこの時計にいると思い、涙した。
夫を亡くし、子供も亡くした時以来、声を抑えることができないくらい泣いた。
自分は決して一人ではない。今の夫ももちろん優しいし愛しているが、心から愛したのはあの人だけだ。そしてこの時計にはあの人の心が宿っている。
そう思って、それからは時計をなおのこと大切にした。疵一つつくことがないよう、曇り一つないように毎日毎日磨き、ふたを開け文字盤を確認する。
妻は新たにもうけた子供の世話に明け暮れようと、夫婦喧嘩をしようと、家事や育児で酷使する手で、やがて年老いしわを刻んでも時計の手入れをやめなかった。
時計は、途中で終わってしまった過去の二人の時間を刻むように、そして妻の幸せを願うように、時を静かに一つ一つ刻んでいった。
そうして、時計は世界で一番幸せだと感じるほど、大切に守られてきた。
――だが、人間には寿命がある。
再婚した夫が亡くなり、妻自身もやがて天寿を全うする時が来た。
時計にも、また誰かと別れなければいけない時が来た。
悲しかった。途方もなく悲しくて、時を刻むのをやめた。
もう誰の時間も刻まない。そう決めて時計は長い眠りについた。
涼みを帯び始めた風が吹く夕方。店主は長いまつげを伏せがちにして、本を読んでいた。
店の中は静まり返り、ひっそりとしている。魂を宿す品々も、くつろいだ様子で過ごしているもの、眠っているもの。今まさに目を覚ましたもの。反応は様々であるが、閑古鳥なのも常だった。
店同様古い重厚なテーブルの上の気に入りの茶器の中には、これまた気に入りのお茶が入っている。すっきりとした甘みがおいしいそれを一口飲もうと、店主は視線を本から持ち上げる。
が、穏やかなまなざしをお茶ではなく、店先で揺蕩う暖簾へとむける。するといくらもしないうちに、その向こうから一人の客が姿を現した。
「いらっしゃいませ」
店主は穏やかに優しく、しかしほんの少し困ったように眉を揺らした。
「あの……」
客は言葉を視線を店に並べられている品々の中で一点に留めながら言葉をつづけた。
「交渉は、どうなりましたか?」
気後れしているのだろうか、語尾が最後のほうには聞き取りにくくなる。
成人しているかいないか、どちらだろうかという微妙な年齢に思えた。はつらつとした印象はないが、瑞々しく感じる容姿は、派手ではないが今どきの格好をしているせいでとてもこの店の雰囲気には合っていない。まあ、時代錯誤のようなこの店の雰囲気に合うのは今どき珍しく和服を日常的に来ている男くらいなものなのだろうけれど。
「申し訳ありません。まだはっきりとお返事できないのです」
数日前にも現れた客は、明らかに落胆した。切羽詰まった表情は見ていて何やら詰まるものを感じるほどだ。
客の目当ては前回同様、あの時計だ。
この店に来る者は何かしらの目的を持っている。
たまにふらりとここを見つけて入ってくる者がいることにはいるが、それは稀であって、たいていの人間は心の底から望むことがあるから、それを叶えようとしてこの店に来る。
そしてこの客もそんな中の一人だったはずだ。だけど少し変わっていた。
最初は何がほしいのかも分からないようだった。ただ気が付いたらここに来ていた。そんな様子だった。
そしてそれが何度かあり、次第に求めるものを理解したようにあの懐中時計を欲するようになった。その傾倒ぶりは店主も目を見張るほどで、熱意に負けて何度か時計の意思確認をせず売ってしまおうかと思ったほどだった。
だけど、いくら人間ではないからと言って、そんなことはしたくなかった。
品々の中には売られていくのを拒む者がいる。その理由はまちまちで、店主はそのたびに子供に言い聞かせるようにそれらに語りかけ、承諾を得たうえで手放すことをしてきた。
だから今回もそうするつもりであったが、どうにもこうにもあの洋装姿の青年は頑固だった。頑として首を縦に振らず、どんな言葉も青年には響かない。
それを思い出し、店主は客に気づかれないように小さく小さくため息を落とした。
目の前の客は店主より背が低い。店主が透明な瞳で見下ろすと、しょぼくれて今にも泣きそうに見えた。
しかしどうして、こんな若い客があの古びれた懐中時計をほしがるのか。
「どうして、そこまであの時計を?」
肩を落とした客を、来客用のソファに促しながら店主は問いかけた。客は素直にそれに従う。
「自分でもよく分かりません。時計に興味もなかったでのすが、どうしてもあの時計だけはほしいんです……」
うそをついている様子はなかった。誠実な瞳を見ればすぐ分かるような気がした。
店主は不思議な力で他人の過去や思考まで知ることができるが、普段からその力を使うことはなく、あくまでも会話や表情の中から相手を知ることを大切にしている。
「何か、気に入ったのですか?」
「いえ……そういうことではないんです」
「では……?」
返答になっていない客のそれに、店主は小さく首を傾げた。焦らせるつもりはないので、考えを巡らせている客を見守る。
そんな様子を、じっと時計の青年が見守っている。客にその姿は見えないが、店主の視界にはクリアに存在している。
眉間にしわを刻み、黙ったままこちらを見ている。店主はちらりと青年に視線を投げただけで、特に何も言わなかった。
沈黙が店の中を漂った。客は俯きがちに考えを巡らせていたが、やがて呟くように言葉を零した。
「あれは、僕のものだから……」
「……なるほど」
店主は当たり前のように穏やかにそう返した。だが客のほうは無意識のように呟いたのかもしれない。自分の言葉に驚きを隠せず目を見張った。
それは青年も同様だった。客が言った言葉を理解すると、その優しげな瞳に驚きを露わにした。
「僕のって……そんなはずない。だって、君は彼じゃない……」
青年の言葉は客には聞こえない。
「僕が両親から、正確には以前の……父と母から頂いたものです」
客は何かを手繰り寄せるように視線をさまよわせながら続けた。古い記憶を心の奥底から引き寄せ、抱きしめて覚醒させていく。
今の自分が生まれる前の記憶。それはなかなか持ち合わせて生まれてはこないはずなのだが――しかし、幾多の人間が生まれては死んでいく中で、こうした不思議なこともあるだろう。
しかし青年にはそんなことを考える余裕など、今はない。混乱した色もそのままに客を凝視する。
「何を言っているんだ……」
「進学の祝いにと、頂いたんです。僕はとても気に入っていつも身に着けていました」
一言発するたびに客の中の何かが鮮明になっていくようで、瞳の揺らぎが消え言葉も確信を含んでいく。
店主はその様子を見守った。客の話す内容はとても今の時代ではない情景ととも語られていく。事細かに、この若い客からは想像できないような語彙に溢れていた。
店に来た当初は気後れからか背筋も丸まっていたが、今は別人かと思うほど姿勢よく溌剌としていた。
「……妻に、託しました。僕が戻ってくるまで預かっておいてくれと」
客の言葉に青年の目が大きく見開かれた。当時を思い出しているのだろうか。手から手に自分が渡されたときのことを思い出したのだろうか。その優しげな瞳にうっすらと涙を浮かべた。
「でも。僕は戻れなかった。妻と、生まれてくる子供と時計に申し訳ないことをしたと、今でも悔やまれます」
客もまたその瞳に涙を浮かべ、そして言葉を押し出せなくなったように黙り込んだ。青年もそれを黙ったまま見つめていた。
誰も話さなくなった店内で、店主は穏やかに微笑んだ。
「そうでしたか。それはお疲れ様でした。あなたは長い間眠っておられて、記憶が戻りつつあったんですね。そして時計を探し求めていた、というわけですね」
店主の言葉に客はこくりと頷いた。そして濡れた瞳で飾り棚にある時計を見やる。青年は本体のすぐ横に立っているのだが、もちろんそれは客には見えない。
「今度こそ、大切にしたい……妻も子供ももういないけど、この時計だけは二度と手放したくない。そう思っています」
決して揺るがない瞳で愛しそうに時計を見つめる。客は時計を見つめながらくしゃりと子供のように笑った。その笑顔が青年の中の「彼」に重なる。
いつも自分を見つめ、たまらなく嬉しそうに笑ってくれていた彼の笑顔。何年たっても忘れるはずもなかった。まぎれもなくその笑顔は「彼」だ。
「迎えに来てくれた……」
青年はその場で泣き崩れた。二度と手に入らないと思っていたのに。もう誰の時間も刻まない。心を閉ざしてしまった青年の時間が、また動き始める。
店主は客と青年の不思議なめぐりあわせに、優しく沁みいるように微笑した。
「そうですね。今度こそ大切にして差し上げてください」
「……でも、交渉されている方が買い上げてしまったら……」
「大丈夫ですよ。あちらの客様には私から伝えておきます。あなたでなくてはあの時計も嫌がると思いますし、私はあなたにお売りしたいのです」
どうせ交渉している相手などいなかったのだから、少しでも早く時計を客に渡してあげたい。店主は静かに立ち上がり、そっと飾り棚から収めている箱ごと時計を持ち上げる。
それから、すぐそばで泣いている青年に対して、いつくしむように視線を止める。
「かまいませんね?」
「……ありがとう……」
二人だけしか聞き取れないほどの小さな声で短いやり取りをした。
そのまま客に時計を手渡した。客の手の上で、時計は一度目覚めたかのように震え、それから一呼吸間を置くと、かちり、と針を動かした。
古めかしいがまだまだ正確に時を刻むことはできる。一つ一つ楽しそうに満足そうに時計は針を動かしていく。
その様子を見ていた客は、懐かしそうに時計を一つ撫でた。
「やっと、この手に戻ってきてくれた……ありがとう」
時計の代金を支払って、客は店から出ようと入口に足を向けた。店主は客を見送るために先に立ち、ほっそりとして手で紫の暖簾を持ち上げた。
「お買い上げありがとうございました」
「いえ、こちらこそありがとうございました」
店主の笑顔に客も笑顔で答える。そして客は言葉を継いだ。
「妻と子供も、あなたにはお世話になりました。感謝しています」
「…………いいえ。大したことはしていませんので。奥様にもあなたにもこうしてお会いできたこと、私の方こそ感謝しております。誠にありがとうございました」
静かに去っていく後ろ姿に、店主は深く頭を下げて見送った。
おしまい