七・邪竜の襲来
彼がいつから“そうなって”しまったのか、誰も知らない。
普段は住処としている火山の地下洞から滅多に外に出ることなく、ただ眠っている。
しかし、気まぐれに、本当にただ気まぐれに、激しい衝動に突き動かされ、彼はこの世界で最も“我が物顔”で繁殖している生物を己が愉悦のためだけに蹂躙したくてたまらなくなるのだ。
逃げ惑う塵のようなあの生物共を、灼熱の息吹で焼きつくすも良し、爪で、角で、尾で、躯で弾き飛ばし、すり潰すも良し、口中に含み咀嚼するも良し。
それは彼にとってなにものにも代えがたい激烈な快感をもたらしてくれる。
一頻り愉しむと、彼は次の“その時”までその身を心地よい長き眠りに委ねるのだ。
(…ふむ、此度はこちらにするか…?)
快適な目覚めと共に訪れる内なる衝動のままに、彼はその巨躯をゆっくりと進める。
思いつきで決めた方角。それほど遠くない場所に、餌であり、快楽の元でもあるあの生物共の気配が大量に存在している。
(ああ、その時が待ち遠しい…。存分に絶望させ、無慈悲に屠ってくれよう。精々足掻くがいい。くくく、その方が味わい深い)
やがて、連中の構える“巣”が視界に入るようになると、彼は一旦歩みを止めた。
(ふくくく、くふははははは!!さぁ、愉悦の時の始まりぞ!!)
大空を震えさせ、大地を揺るがす程の咆哮の後、彼は全力で駆け出した。
★
「こいつをこの世界で使うのは初めてか…ま、アレが相手なら構わねぇよな…?」
濛々たる土煙を向こうに眺めながらひとりごちたカケルは、緩慢な動作で右拳を胸の中心辺りに、左拳を臍の少し下辺りに宛がう。
瞬間、両拳の甲に紋様が浮かび上がり、それに反応するかのように、拳を宛がった箇所から眩い紫の光が溢れだした。
『顕〈drive〉現、神〈kamui〉威』
二重に何やら機械的な音声が響くと、輝きを増した紫の光がカケルの躯を包み込む。
「さて、俺と大神さん達の悪ふざけ、この世界の連中にも愉しんでもらえたなら幸いなんだがな」
その身を異形に転じながら、カケルは微笑む。
「ファーンベルドの地に、“神威推参”………なんてな」
★
彼は訝しげに前を見やる。一匹の餌が、彼の眼前に突然現れ、紫の光を放っているのだ。しかし、所詮は塵。彼は一息にすり潰さんと四肢にさらなる力を籠める。
異変は、まさにその次の瞬間に起こった。
★
「嘘だろおい………」
急遽編成された部隊に組み込まれ、かの“災厄の邪竜ダイラム”に相対せよと命令を受けたメルヴィンは死を覚悟した。
“古の地邪竜ダイラム”
およそ百年に一度の割合で目覚め、人がそれまでに造り上げた町を、街を、国を、嘲笑うかのように破壊しつくすまさに“災厄”。
もはや天変地異と同列に扱われるそれは、襲われたなら“諦める”他に人に残された術はないのだと伝えられている。
「パンディードはもう終わりだ」
誰かの呟きは、皆の呟きでもある。
百年に一度の災厄が我が身に降りかかる不運。
その上、よりにもよって国の中枢たる王都を真っ先に狙われ、潰されてしまっては、小国であるパンディードなど、災厄の過ぎ去った後に建て直す暇など与えられず周辺の大国に呑み込まれてしまうだろう。
小山のようなかの邪竜が、土煙を上げながら目前に迫る様を見て、城壁の外に展開しているパンディード軍の将兵問わず誰もが絶望していた。
願わくば、今まさに避難を進めている民達が上手く逃げおおせるまで、少しでも多くの時を稼げるように。そう祈る他はない。
だが、今。
眼前の光景が、そんな皆の絶望すら軽く吹き飛ばし、全員が間の抜けた顔で呆けていた。
何故ならば、突然現れたたった一人の人物が、
山のような巨躯を誇る古竜の突撃を受け止めていたからだ。
しかも、片手で。
★
(どうしたデカブツ、意外とたいしたことないんだな?)
全身が、漆黒の金属質の光沢を放つ革のようなもので被われ、両手と両足には純白の手袋と半靴。袖無しで、裾が足首に届くこれも純白の外套を羽織り、のっぺりとした純白の仮面。
異形の姿のカケルは大した労でもないという風情で、凄まじい巨躯の怪物を片手で難なく抑え込んでいた。
(馬鹿な馬鹿な馬鹿なぁ!?貴様、何者か!?姿形が似ていようと我は欺けぬぞ!!あの矮小なる生物にこの我を、古より命繋ぐ偉大なる竜である我を抑える力などあるはずがない!!魔族か…いやそれでもあり得ぬ!!もしや魔神の類か…!?)
(お、念話通じるじゃないか。ん?俺?俺は異邦人てやつさ、別の世界からやってきた只の旅人だよ)
ダイラムは苛立たしげに唸る。
(ふざけるなぁ!!)
(いや、大真面目なんだが。アンタがこのまま先に進んじまうとさ、俺の大切な人達がとっても困るわけですよ。なんで、今回はおとなしく巣に帰ってくれないかな?代わりに頼みとかあるなら聞くし。俺に出来ることなら)
ダイラムはかつてこれ程の屈辱を味わったことは無い。
先程からどんなに力を籠めようとも四肢は悪戯に土を抉るのみで一向に前に進んでいない。
この世界に生まれてこのかた、己のすることを邪魔などされたことがないダイラムなのだ。
(破壊と蹂躙こそが我が望み!!あくまでも邪魔するとあらば…)
ダイラムの口が開き、息が大きく吸い込まれる。口中が赤熱を始め、豪焔が渦巻く。
(消し炭にしてくれるわ!!)
(おっと危ない)
ばぐんっ!
爆炎が今まさに吐き出されんとした瞬間、無造作に繰り出されたカケルの脚がダイラムの下顎を蹴りあげ、強引にその口を閉じた。
(ぐぶっ!?ぼふげふぐぶふぅっ!?)
吐き出される予定の灼熱の焔が逆流し、ダイラムが盛大に噎せる。正常な呼吸を取り戻さんと咳き込む度に、ぶしゅぶしゅっと焔が口の隙間から漏れだす。
(あ~、どうしても引いてくれない?てかさ、なんでわざわざ人を襲うんだ?理由は何なんだよ?)
(我は我が愉しむためだけに塵共を屠るのだ!!我が物顔でこの世界の支配者であるかのようにのさばる連中に、絶望を与える悦びよ!!何者にも邪魔などさせぬ!!)
(強者の理論、所詮この世は弱肉強食ってか…。こりゃ交渉は決裂かなぁ…キリ、チキ、キツ、聞こえるか?)
★
「勇者とは、勇者とはこれ程のものなのか…」
周囲の制止を振り切り、前線に赴いていたパンディードの王キャメロンは、王の威厳など微塵も感じられない程に呆けた顔で呟いた。
配下の者に命じ、カケルに邪竜の接近の報を伝えたのは、半ば自棄になっての博打のようなものだった。
王国との訣別を宣言したカケルがこの国を助ける義理など無い。それでも、藁にもすがる思いで“勇者という存在”に賭けてみる他に、かの邪竜に抗う術などこの国には無かったのである。
「このような凄まじい力を、他の国々はどう御していたというのだ…?」
呆けているのは王ばかりではない。傍に控える将軍となったヘイル卿と筆頭魔術師ディーキンス卿も愕然とした面持ちで、開いた口が塞がっていない。
「あ~、過去の勇者達とカケルを比べるのはやめた方がいいかもしれないですニャ」
『!?』
場違いに呑気な声のした方角に三人は振り返る。
近衛騎士に案内されて近付いてくるのはメルシエとロナ。メルシエの両肩には人猫族と人兎族の娘。ロナの頭の上にはいつかの人鳥族の娘が乗っている。
「メルシエ!?何故このような処に!?」
「ロナ!?何故避難しておらぬ!?」
突然現れた愛娘にヘイル卿もディーキンス卿も慌てふためく。二人は正式な軍属ではないため、避難するよう配下の者を遣わしていたはずだ。
「カケル殿が「どうにかする」と申されましたので」
「大丈夫だと思った」
『………』
全く理由になっていないが、娘達の小揺るぎもしない瞳を見て黙る他ない二人。
「貴方が王様ですかニャ?カケルの従者のキリですニャ」
「同じくチキ」
「前にも会った。キツ」
メルシエの肩からぴょいんと飛び降りたキリとチキはとことこ歩いて王に近寄り、ぺこりと頭を下げた。キツは変わらずロナの頭の上にいる。
「あ、あぁ…。それで、キリ…殿?その…」
「ニャ。カケルは今まで私達の世界から送られた勇者とは、ちょ~っとだけ違うんですニャ」
「………ほぅ?」
「アタシらの世界には地方ごとに管轄を持つ神々がいる。この世界からの要請があると、持ち回りで各神々の管轄から一人勇者を送る」
「で、大概は資質のある下界人に少しばかり餞別をくれてやって、送り出すだけですニャ」
「餞別…というのは?」
「まぁ殆どは武器だね。アタシらの世界の伝承にある神器の模造品なんかをくれてやるわけさ。それでもこの世界じゃ破格の威力だろうけどな」
過去の数々の逸話によれば、勇者はその剣の一振りで一軍を凪ぎ払うという。神器の“模造品”でそれならば… 。
王の背中に冷ややかな何かが走る。
「カケルは最初に家のとこの大神様に喚ばれた時には既に、下界人にしてはそうとう強かったですニャ」
「なんやかんやあって大神様達がカケルを気に入っちゃってな?秘伝の技やら術やらを教え込んだ。あん畜生めもそれを悉く吸収した」
「…例の件で使った術もそう」
キツが初めてこの会話に加わる。
「あの術か…」
ディーキンス卿が唸る。未だにあの術に関しては何をどうしたのかさっぱりわかっていない。
「因みにこの世界に来てから今この時まで、カケルは大神様達が与えた神器を一度たりとも使ってないですニャ」
「何度も外で“魔獣”っての?あれを狩る時も特に必要無さそうだったな、素手でぶん殴ってたし」
「魔獣を…?」
「素手で…?誠なのかメルシエ?」
「は、父上。カケル殿は豚鬼や飛亜竜であっても、武器を帯びることなく毎度素手で相対しておられました。凄まじい武人です」
「カケルは不思議な格闘技を使う。この辺の魔獣ならいちころ」
無表情で淡々と答えるメルシエ、眠たげな半眼のままロナ。
「何と申せばよいか…」
「言葉も無いな…」
「それで、今纏われているあれが…?」
「そうですニャ。家のとこの大神様達謹製、“カケルの為だけに造られた神器”ですニャ」
「大神様言ってたよ。「正直やり過ぎた、だが後悔はしていない」って」
『……………』
王とヘイル卿、ディーキンス卿は視線を邪竜とカケルに転じる。
抑え込んだまま状況は動いていない。
「王様、カケルから念話ですニャ。「交渉決裂、帰ってくれそうにないからデカブツを始末するが、構わないか?」だそうですニャ」
「う、うむ。そうして頂けるならむしろ有り難いが…」
「あと、「この竜は素材として色々使えそうだから、倒した後は貰っていく」だってさ?」
「………カケル殿が倒したのなら、その権利は当然カケル殿のもの、ですな…」
ディーキンス卿は正直、貴重な古竜を研究する機会を得られるかもしれないため後ろ髪を引かれる思いだが、さりとて、何もしていない、いや何も出来ない自分達がそれを主張することは流石に出来ない。
「カケルから返信。「じゃぁ今からこいつをぶちのめす」、以上」
王やその場にいるもの達は、再び視線を転じる。その光景を目に焼き付けんとするべく。
★
(…さてと、お前さんの理屈でいくならば、お前さんより強いなら、お前さんをどうしようがそいつの自由ってことだよな?)
ダイラムは生まれて初めての感情に戦慄していた。それは焦燥、そして恐怖。
目の前の生物は一体何なのか。力で負けたことなどこれまで一度たりともないのだ。しかも、命を奪われる可能性までもはっきりと感じ取れる、感じ取れてしまう。
(……………ぬがぁっっっ!!あり得ぬ!!認めぬ!!)
ダイラムは後方に飛び下がる。これも生まれて初めてのことだ。屈辱と憤りが心を満たす。
(貴様を潰す!!潰して我は我たる証を得るのだ!!)
ダイラムの体表から豪焔が溢れだし、その巨躯を覆う。特にその長大な角は既に赤熱し、周辺に凄まじいまでの熱を放射していた。
(おお~、こりゃまたど派手だね)
(喰らえぇぃっ!!!)
爆焔を纏いカケル目掛けて突進するダイラム。
(ほいっと)
しかし、カケルは赤熱する角の先端部を事もなげに捉え、両腕で抱え込む。至極あっさりと。
(!!??)
(よ…っと、流石に…重いな、おりゃ!!)
★
「出鱈目にもほどがある…」
王は絶句していた。
カケルはダイラムの突進を再び受け止めると、あろうことか角を支点にあの巨躯を持ち上げた後、大地に深々と突き刺してしまったのだ。
「ぷふー!伝説の邪竜とやらもああなっては形無しですニャ!」
「あはははは!見ろよ、じたばたしちまってみっともねぇ!」
「…滑稽」
最早どうすることも出来ず、四肢をもがくように動かす邪竜は確かに滑稽ではある。
その様を笑い飛ばす従者三人娘の傍らで、王も、ヘイル卿も、ディーキンス卿も、近衛の騎士達も、呆然としている。
「ロナ、カケル殿と旅に出るということは…」
「この先も、普通ではあり得ない経験が出来るかもしれない」
「楽しみですね」
「ん」
メルシエとロナはその様を見て、この先カケルと共に旅をすることへの期待感に胸を膨らませていた。恐らく余人には決して経験出来ない何かが待ち受けているに違いないと。二人とも意外と大物である。
★
(ああぁ!!あがぁ!!おのれ!!おのれぇっ!!)
どれ程もがいても、大地に深く突き刺さった己の角が邪魔でどうにもならない。
ダイラムはあらゆる負の感情が渦巻いて我を失っていた。
(死ぬ?我が死ぬ?このような無様な、あり得ぬ、そんなことはあってはならぬのだ!!)
明確に迫る死の恐怖にダイラムは怯える。
(何おたおたしてんだよ、今まで散々愉しんだんだろ?命を奪うことを。たまたま今回は奪われる側に回った。それだけのことじゃねぇか。弱肉強食の理、必要だから命を奪って生きる、何もおかしくなんざねぇよ)
(うぬがぁぁっ!!)
(…見苦しい)
カケルが飛び上がり、ダイラムの側頭部に蹴りを叩き込む。
(ぽげぇ!?)
脳幹まで達した衝撃にあっさりと白眼を剥くダイラム。
(せいっ!)
一度着地したカケルは位地を変えて再び飛び上がり、気の流れから見出だした心臓部目掛けて今度は掌打を叩き込む。
爆散した衝撃に命脈を絶たれ、古の地邪竜ダイラムはその永き生に終止符を打たれた。
「ん~、そういや竜の肉って喰えるのかね?ゴレンに相談してみるか?」
異形の姿を解き、懐から何やら呪文字の印された札を取り出し一振りする。ダイラムの巨躯が白い光に被われ、一瞬にしてその札に吸い込まれた。
★
「王様、カケルから伝言ですニャ。「折角だからこの状況を利用しろ」だそうですニャ?」
「な、何?」
「この状況を…?」
突然掻き消えたダイラムに戸惑う間もなく、キリに告げられたカケルの伝言。
「ん~多分ですニャ、こういった切迫した状況下では、普段の仮面が剥がれて正体が目に見え易くなるですニャ。多分“そういうこと” なのではないですかニャ?」
「………成る程な」
「んでは、これで失礼するですニャ。みんな!カケルが今日はドラゴンステーキだっていってるですニャ!」
「おお!肉三昧だな!」
「…楽しみ」
「古竜の肉ですか。どんな味なのでしょう?」
「薬効に期待」
『……………』
わらわらと愉しそうに去るキリ達を呆然と見送る王達。
しばらく歩いたところでぴたりと止まったキリが徐にくるりと振り向く。
「………王様達も食べにくるかニャ?」
『……………』
暫しの沈黙と葛藤。
「有り難いお誘いだが…、その、遠慮せねばなるまいな…」
王の顔はこれ以上ない程に苦々しいものである。傍らのヘイル卿やディーキンス卿も咳払いしたり、露骨に目を泳がせたりしている。近衛騎士も言わずもがな。もし喰えるものだとしたならば、この機を逃せば一生訪れはしないかもしれないものではある。
「…立場とか、役目とか、色々面倒臭いものですニャ。お察ししますニャ」
「………全くだ」
「お肉ですニャ~!」と叫ぶキリ達を筆頭に、賑やかに去りゆく一行を見送り、王は深い溜め息をついた。
因みに、カケルの粋な計らいにより、キツが運んできたゴレン謹製の古竜料理のフルコースを執務室で堪能したことは、王、ヘイル卿、ディーキンス卿三人だけの秘密である。




