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十四月の染心機花学

作者: 七町アオイ

ぐうたらパーカーさんの「陽だまりノベルス」アンソロジーに参加させていただきました。「花びら」と「薬」をテーマとした短いお話です。

 片手には、一日遅れの卒業証書。

 季節はずれの風が、頬の隣でくるくると渦を巻いた。

 罅だらけの石畳も、崩れそうな煉瓦の壁も、息が苦しくなるほどの桜吹雪にも、もう慣れてしまった。眠らない桜の根を踏み越えて、やわらかそうな花びらを蹴飛ばした。

 もう十四月だというのに、校庭の桜は満開だった。青空の下、まさぐるように伸ばされた根が地を抉り、壁を穿っている。どれもこれも、見飽きた風景だった。まとわりつく花びらを払うこともせずに、螢一は瓦礫を跨ぎ、浅い息をした。

 いつか手入れをしたかもしれない花壇の跡を踏みつけて歩く。校舎裏への近道だった。


 寂れた実験教室。校舎と背中合わせのそれは、未だ辛うじて立っていた。薄っぺらな木戸を軋ませて、足を踏み入れる。ゆっくりと、ひたるように。

 すうっと、懐かしくて冷たい薬の匂いが、幽かな石鹸の香りとともに、胸に溜まった甘い風を追い出していった。

「あら」

 きゅるきゅるという小さな歯車の音に、少しかすれた声が交じる。氷がグラスを鳴らすような、引力を持った声だった。きっとこの声を聴きにくるのも、これで最後。


 ぱたん。


 木漏れ日のような、頼りないランプの下で、演算ボックスの蓋が閉じられる。並べられた試験管が音を立て、七色の薬が小さく波立った。

「卒業式は、きのうではなかったかしら」

 彼女の細い指が、角張ったボックスの縁を、つうっとなぞった。古い写真のようにくすんだ冬服の襟を直し、不思議そうに螢一を見つめる。石鹸の香りが濃度を増した。

「大丈夫なんですか、先輩。ボックスなんて触って」

 螢一は息を整え、磨りガラスのような瞳を見据えた。教室の端から端。撚り合わせるように視線が交差した。

「……へいきよ。いまは、落ち着いているから」

 細い咳をして、俯く彼女。長い髪が、桜病に特有の火照った頬を隠した。

 少しの沈黙。いつのまにか歯車の音は止んでいた。

 流れていた時間が、少しずつ淀み始めていた。


   ◇―◇―◇


 水槽みたいだと思っていた。

 どんなにネジ巻く風が吹こうと、窓を閉め切った実験室は、冷たく穏やかだった。おんぼろのランプから滴る光が、形のない細波を作っては、教室を満たしていく。その大きくも小さくもない空間で、萱は、確かに息をしていた。演算ボックスの緻密な歯車が紡ぎだす泡を吸って、飼われるように。

 まだ十四月だというのに、こんなにも桜は散っていた。窓の外では、空高く伸ばされた枝が揺れ、風を無理やり色づけていた。特に記録する必要のない、ありふれた光景だった。


「どうして、来たの」

 メモリの壊れた桜を見つめたまま、熱帯魚が泡を吐くように萱は訊いた。声がかすれているのはわかっていた。

「どうしてって――」

「ほかの子たちと同じように、この町をでなくてはならない、はずよ。踏切をわたって、乗るの。定刻の電車に乗るの」

 種を蒔くような、静かなことばに遮られ、螢一は声をつまらせた。深い臙脂色の筒を持ち替え、長い前髪を掻く。夏服の肩から花びらが落ち、底へと沈んでいった。

 淀みはいっそう濃く、複雑になってゆく。歯車の回転数の差が積み重なり、実験教室の骨格が小さく喘ぐ。

「――まださよなら云ってなかったんで」

 萱は応えなかった。空気を吐き出してまで応える必要はなかった。螢一をちらりと見る。とろみのあるランプの光が、彼の土色の髪を濡らしていた。いつかの蝶の翅のような、甘くて苦い色を溜め込んだ目。萱を見つめ返す彼は、少しも変わっていなかった。


 かちゃん。


 萱は並べられた試験官の中からふたつを抜き取り、別のスタンドへ移した。息苦しい沈黙に、細波が立った。

「ねえ、けーくん」

 左は空色、右には夕方色の薬が注がれていた。身を屈めて頬杖をつき、二本のガラスの隙間から、もう一度螢一を覗き見る。

「もし、あしたがきのうになるなら、あなたはこの薬をのむかしら」

 空色の薬の入った試験管を撫で、萱は尋ねた。またひとつ、小さな咳をして。


   ◇―◇―◇


 みしみしと、光が軋んでゆく。

 息が詰まりそうなほど、空間は粘り気を増していた。音が、ひどく重たい。水槽の中でことばを紡ぎ出すのは、とても難しいことだった。

「――意味がわかりません」

 螢一はすっかり苦笑いを忘れ、苛立つように云った。

「私はまじめに云っているの。ほんとうに、くるりと背を向けるように、きのうに戻れるなら、おとといに帰れるなら、あなたはこの薬をのむのかしらね」

 始めから答えを聞く気などないように、萱は歌う。磨りガラスの目を細め、つまみ上げた試験管をランプに透かした。彼女が浅い息をするたび、くらくらするほどの石鹸の香りに、螢一はむせ返った。

「……先輩は知っていたんじゃないんですか。こうなること」

 螢一は耐え切れず、吐き出していた。いまにも崩れそうな、弱々しい声で。

「何度夢から醒めても、きのうの朝日をみることはできないんです。消えてしまった花には、蝶は帰ってこないんです。そのことは先輩も、観測者として解りきって……これまでの演算でも――」

「その質問には、いずれ、答えてあげる。私と一緒に来るのなら。来る覚悟が、あるのならね」

 萱はもう一方の薬を取り、窓の外に視線を投げた。

 機械仕掛の桜の枝は、秩序を食べつくすように、渦巻いて、ネジ巻いて――

「でももう、時間がないわ」


 ――ぱりぃぃんっ。


 積み上がった空間の摩擦に、窓が割れ、うねり尖った破片とともに、狂った桜吹雪が雪崩れ込む。螢一は、思わず筒を取り落とし、機器と記紀の断末魔に耳を塞いだ。

 複雑に、煩雑に、行き場を失った時間が悲鳴をあげていた。きのうとあしたが撚り合わされ、独りよがりの線を作る。思い出がほつれてゆくような、苦味を帯びた振動。

「けーくんの頑張りは、無駄にはならないわ。ゼンマイを巻き直すのは、神様だけのお仕事じゃ、ないの」

 ふたつの試験管を細い指に挟み、萱は咳をして、伝えようとする。穴が開いた水槽から、きのうまでのものが止め処なく流れ出ていった。

「私と来るかしら、一緒に」

 その誘いに応える代わりに、螢一は転がった卒業証書を重たい腕で抱き寄せた。蝶のような瞳は、萱を捉えて震えていた。とても寒そうな、夏服の男の子。

「そう」

 夕方色の試験管が傾けられ、薬が瓦礫の上を跳ねた。濡らされ項垂れる花びら。乱れ散る飛沫は、桜のメモリを糧にするように新しい線を描き、やがて横波は縦波となった。

 萱は窓と時間の欠片を跨ぎ、泳ぐように出口へ向かう。螢一の頬の隣を、季節はずれの風がくるくると渦巻いた。

「先輩――」

「ごめんね、けーくん」

 かすれた声で種を蒔くように、動かない螢一の背中にことばを落とす。四角い光が、萱の火照った頬を撫でた。建て付けのわるい木戸を引いて、記憶の水槽をあとにする。

「卒業おめでとう」

 幽かな石鹸の香りを残して、萱はいなくなった。

 形を失った教室を、きのうの風が通り過ぎていった。

 あさっての方向から、踏切の音が聞こえた気がした。

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