99,願いは彼をかき消して
セーミャがシェリックに連れられて治療室の前まで戻ってくると、部屋の中からいつになくにぎやかな声が漏れていた。湿っぽい雰囲気ばかりに覆われていた昨日とは違って、湧いては収まる笑い声すら聞こえてきた。
「にぎやかだな」
「そうですね」
昨日の今日であの空気を一掃するなんて――抱きかけた謎は、ほんの一瞬ばかりだった。そうか。魔術師のリディオルと見習いのユノ。いつもここにはいない人物がいるのだった。
もし見習いたちだけだったなら、あの重い空気を払拭できなかったかもしれない。現時点でここに部外者がいることと、変えてもらった空気とに複雑な思いを抱きながら、セーミャは治療室へと続く扉を開いた。
「ただいま戻りました」
「あら、おかえりなさい」
予想からななめ上の応答をされ、セーミャは室内に入りかけていた足をぴたりと止めた。
「レーシェ殿? どうかされたんですか?」
元賢人とはいえ、変わらず薬師である彼女の持ち場はここではない。たまに見かける姿ではあるし、別に珍しくもなかったけれど。
「あなたに――いえ、治療師見習いに話したいことがあって。ちょっといいかしら」
「はい、構いませんけど……」
ちらりと室内をうかがう。レーシェの他に、そこにはリディオルとルース、治療師見習いが三人、セーミャのうしろにはシェリックもいる。
「席を外そうか?」
「いいえ、問題ないわ。聞かれて困る話でもないから」
シェリックの申し出に首を振り、レーシェはルースの目の前へと移動する。見習い全員に話があるにしては、ずいぶんおかしなところへ行くものだ。レーシェの意図がわからず、セーミャは彼女の挙動を見守った。
「なんですか。俺、ここでつるし上げられるんですか?」
「さらし者かしらね」
「うわー、嫌ですね」
交わされた朗らかな会話。レーシェの握られていた右手がルースの眼前で開かれた途端、彼の表情が一変した。しまわれた笑み。引き結ばれた口。息をすることすら忘れたように、ルースはただじっと視線を注いでいた。
やがて彼の目がレーシェの手と顔とを行き来し、かすれた笑みがこぼされた。
「……冗談ですよね?」
「残念ながら」
軽口で流そうとした場が、重みをもってそこに沈む。決して強い語調ではなかった。微笑さえ浮かべられていたのに、それが余計に重圧を与えてくる。
誰も何も言わず、レーシェの次の言葉を待っていた。
「これより述べることは、シャレル=ソフィア=セルティナ王妃の命によるものである。治療師見習いルース=フォルティス。前賢人エリウス=ハイレンの遺志と現賢人二名の推薦により、治療師の地位を授ける」
ひと息で言いきると、レーシェはルースに問いかける。右手は開いたそのままに。
「――とはいえ、受諾するのも拒否するのもそれは自由よ。これは強制ではないし、あなたの意思は尊重します。その上で尋ねるわ。ルース、あなたにこの話を受ける気はあるかしら?」
二の句を継げなくなったのはルースだけではない。そこにいた誰もが声を発せず、目の前の光景に固唾を呑んで見入られていた。当事者であるルースはと言えば、言葉にならない呻きを漏らしながら頭をかいていた。
賢人になるのは見習いたちの最終目標だ。名誉であり、名声を得たということでもあり、よほどの理由でもなければ拒否するなんてまずないだろう。セーミャだってうらやましいと思うし、ルースほどの人なら納得がいく。人選が間違っていると抗議したいわけではない。どうしてこんなに早くとも思うけれど、それはいち見習いが気にするべき事柄でもない。
ただ、あえて言わせてもらうのなら、ひとつだけ。
セーミャの目が一点を捉えて離さない。レーシェが開いた右手のひら。そこに乗せられていたのは、ひとつの石だった。
汚れひとつない、白い布の上。小指の先ほどの小さな球形の石が、微動だにせず乗っていた。淡い水色で飾りけのない素朴な石。あれは、まさか――
「――それ、今すぐ答えないといけませんか」
「今でなくても構わないわ。でも、そうね……明日までには色よい返事をもらえるとありがたいわね」
「そうやって誘導しないでくださいよ。――わかりました。明日までには、必ず」
「私のところか、シャレル様のところへ話に来てちょうだい」
広げられていたレーシェの手が握りこまれる。白い布と、そこに乗せられていた石ごと、その手の中にしまわれてしまう。
「私からの用事は以上よ。邪魔したわね」
「――レーシェ殿!」
あとくされのないように出て行こうとしたレーシェを、セーミャはとっさに呼び止めた。
「なにかしら?」
どうして。なぜ。
聞きたい思いだけが先行して、考えがまとまらない。確信すらなくて、似ているというただそれだけの理由だった。
「どうして、賢人ではなくなったあなたが、その知らせを……」
ラスターが言っていた。セーミャと再会したあのとき、賢人になったのだと。
「たまたま私がそこにいただけよ。深い意味はないわ」
違う。聞きたいのはそんなことではない。
「用事はもういいかしら?」
「――いいえ」
まだ、何も済んでいない。何ひとつ、確かめられていない。
「レーシェ殿がその手にお持ちの石は、どなたのものですか?」
「これ?」
レーシェはとても丁寧に、セーミャの目の前で右手を広げてくれた。
水色の小さな石がはっきり見える。晴れた空を思わせる、淡い色。銀の金具に繋がれた耳飾り。大事な石だと聞いた。セーミャの記憶だとこれは、左耳につけられていたはずだ。
「星命石よ。前賢人、治療師エリウス=ハイレンの」
――やはり、そうなのか。
叫びそうになった口を閉ざし、レーシェの手から奪い取ってしまいたい衝動をなんとか堪える。
「……わかりました、ありがとうございます」
「どういたしまして」
セーミャの脇をすり抜け、去っていくレーシェの気配だけを捉える。セーミャは、下げた頭を上げることができなかった。
あれは師の星命石だった。本物の。聞いたことがある。受継がなされるのなら、賢人が入れ替わるのなら、星命石もともに受け継がれるのだと。
ルースが賢人となるのなら、きっとあの石が授けられるのだろう。今度は、ルースの手に。
新しい賢人が決まったなら、古い賢人となった師は? 星命石も残されずに葬られて、跡形もなく消えてしまうのだ。初めから、誰も何も、そこにいなかったみたいに。
「いつの間にそんな話が出ていたんだ?」
「さっきだな。俺も初耳だったぜ」
「――セーミャさん」
ルースの呼びかけだけ、いやにはっきりと聞こえてきた。セーミャは頭をもたげ、床に貼りついていた視線を引きはがす。
セーミャのすぐ傍らに立つルースは、神妙な面持ちでいた。
何をそんなにためらっているのだろう。レーシェの前で見せていた笑みも、冗談を言う口もそこにはなかった。
――ああ、きっと、セーミャはよほどひどい顔をしているのだ。受継の話を聞いて、師の星命石を見せられて、周りが見るに堪えない顔をしているのだ。
セーミャはみぞおちに手を添え、力を込める。
「――おめでとうございます、ルース。受けたらいいと思いますよ。名誉ある地位じゃないですか。まさか蹴るなんて、しませんよね?」
セーミャは語りかける。
「どうせ迷うまでもなく答えなんて出ているんでしょう? 頑張ってくださいね、ルース。困ったときにはわたしたちがついていますから」
ルースの肩を叩き、激励を送って。
「ほら、どうしてそんなに辛気臭い顔なんてしてるんですか。大役を仰せつかったんですから、しゃきっとしないと!」
目標が手の届く位置にあるのだ。一歩踏み出せばつかめるのなら、背中を押してあげるのが同僚としての役目だ。
「……ありがとう」
苦しそうな、嬉しそうな、そんな表情でルースは繰り返した。
「ありがとう……セーミャさん」
「もう、しっかりしてくださいよ」
セーミャは言葉を継ぐ。ルースが話を受けてくれるように。セーミャが応援するのは、嘘なんかではないのだと。
それだけをひたすらに、ただ一心に考えて。