98,秘された決意、その胸に
リディオルの言だ。疑いこそしなかったけれども、誇張されているんだろうなと思ってはいた。
「うわ……」
ユノがいる寝台までやってきたラスターが目にしたのは、リディオルの言葉どおり『すげぇ形相をしている』ユノだった。
ラスターと初めて出くわしたあのときのような、厳しい顔。食い入るように目の前の紙束を見ているその様は、どこか鬼気迫るものがある。
形相もさることながら、ラスターが声を上げたのはもうひとつ理由があった。けが人が布団の上に正座をして、布団の端までいっぱいに広げられた資料らしき紙束とにらめっこしているこの光景は、治療師でないラスターでもどうかと思ったほどだ。
リディオルは、なんだかんだと言いながら止めてくれそうである。そのリディオルがラスターに丸投げしたということは、既に何度も説得を試みたあとだろう。効果がなかったか、ユノの頑固さにさじを投げたかはわからないが、何にせよ徒労に終わったのは、今のユノから一目瞭然だ。
ラスターが来たのにも気づいてない様子だし、さてどうしたらいいだろう。邪魔になってしまわないだろうか。この様子では、声をかけない限り気づいてもらえない気もする。
ためらうラスターの横を、進み出る影がひとつ。彼は傍まで歩み寄ると、ユノが貪るように眺めていた資料を、その手から取り上げた。
「休むなら休みなさい、ユノ。頑張るのは悪いことではないですが、あなたのその態度は、周りの方に心配をかけますよ」
資料を目で追ったユノは、あ然とした表情でその人を見上げた。
「フィノ殿……それに、ラスター殿」
こう着していた時が動き出す。きっかけをくれたフィノに内心感謝をしつつ、ラスターもユノへと近づいた。
「様子を見に来たよ。具合はどう?」
「悪くはないです」
ようやくラスターを認識し、正座を崩しながら、二人に椅子を勧めてくれた。
「すいません、気づきもせずに。つい、夢中になってしまって……」
広げられた資料を集め始めたユノを手伝い、ユノの位置から遠くにあった資料をまとめて手渡した。
「ううん――はい、どうぞ。さっき、リディオルが気にしてたよ。ずっとあのままだからなだめてやってくれって」
少し諦め気味だったことは言わないのが無難だろう。
「ありがとうございます。でも半分はリディオル殿のせいですよ。あの人だって過労で倒れたのに、休もうとしないじゃないですか」
口をとがらせ、ユノは反論する。
「ですから、オレはオレのできることをしているんです。この場所で作れはしないですけど、資料読むことくらいでしたら、オレでもできますから」
「人に合わせる必要はないでしょう」
読もうとしていたその束は、またしてもフィノにひょいと奪われてしまう。ふたつの資料を合わせ、量を増したその紙束は、フィノの片手の中に収まった。それを持ちながら腕を組んで立つフィノに、なんとなく威圧感を覚える。ユノの目も、心なしか泳いでいるように見えた。
「けが人であり病人であることに変わりはありません。聞けば、昨日もこれを読んでいたとか? 最も優先すべきことは別にあるでしょう。あと三日くらいはゆっくり休んでいるべきだと思いますが?」
気のせいか、思いすごしか。フィノの声がいつもより低い。据わった目でユノを見下ろし、有無を言わさない調子で言葉を連ねていく。
「リディオル殿はリディオル殿です。見逃すわけではなく、あとで私からお願いしておきますから。あなたはあなたの体調を考えてください」
「……はい」
強張らせた顔。気落ちした様子でユノは答える。フィノのいう『お願い』とは、今ユノに言ったことだろうか。お願いというよりそれは、脅迫とか脅しの類になるような。
「眠れないのでしたら睡眠薬をお持ちしましょうか? 幸いここは薬には困らない場所です」
「それはちょっと、遠慮します……」
「でしたら私にそれを選ばせないようお願いします――ラスター殿」
「あっはい!」
二人の会話を傍観する体でいたラスターは、上ずった返事をしてしまう。
「ユノが資料を見ないように、少しの間預かっていただけますか?」
渡された紙の束を受け取ると、ずっしりとした重さが腕にのしかかってくる。ラスターは力強く頷いた。
「うん。絶対渡さない」
「心強いです」
そう言って微笑んだフィノは、そこから出て行った。
遠ざかる足音。やがて、フィノがレーシェやリディオルたちと話し始める声が聞こえてくる。ラスターは抱えていた資料をきつく抱きしめると、詰めていた息を恐る恐る吐き出した。近くで同じ気配がもうひとつ。
「……びっくりした」
ラスターはリディオルだけでなく、フィノとだって対峙したこともあった。そのときに抱いた恐怖は別のもので、フィノへの怖さではなかった。あれほど怖い空気をまとうフィノは、今が初めてだった。
「フィノって、怒るとすごい怖いんだね」
「……みたいですね。リディオル殿とはまた違った怖さが……」
「リディオルも怒るの?」
確かにリディオルは怖い。ルパから乗った船でラスターに向けられた凄みは、もう二度と体験したくはない部類だ。
けれど、それと『怒る』とはまたちょっと違う気がするのだ。あのときラスターに向けられたのはどちらかというと脅しだったわけだし、リディオルの怒る姿があまり想像できない。
いつもの小馬鹿にしたような態度でなく、笑みを浮かべながら罵詈雑言を並べたてるのだろうか。それっぽい。
「フィノ殿とは全然違います。あの人は怒るというよりは、やることなすこと全てこちらに押しつけてきて、有無を言わせずやらせるんです」
「あ、それならわかるかも」
烈火のごとく怒るのは想像できなかったけれど、人の意見を聞かずに押しつけることはしそうだ。
「なので、オレは目にものを見せてやるんです。けがだって早く治して、リディオル殿の力になりたいんです」
その瞳に強い意志を宿し、ラスターを見上げてくる。無事だった右の手を差し出して。
「ですのでラスター殿、それを返してください」
望まれているのは、ラスターが両手に抱えている資料だ。
渡せない。フィノに託されたから。預かるよう、お願いをされたから。ここで返してしまったら、フィノとの約束を果たせない。
けれど、ユノを応援したい気持ちだってある。誰かの力になりたい。それはラスターだって思っていることで、決して他人事とは思えないから。
「ラスター殿、お願いします」
催促の呼びかけ。譲歩する気配のないユノを見て、ラスターは資料をぎゅっと抱え込んだ。
「嫌だ」
「なんでですか? フィノ殿と約束されたことなら、オレが全部責任を取りますから。ラスター殿に強要したのはオレですし」
困った顔のユノにほだされそうになる。フィノに託されたから、という理由も確かにある。でも、それだけではない。
「――だってユノ、呼んでくれないじゃん」
「何がです?」
きょとんとした顔で問いかけられ、ラスターは繰り返し答える。
「呼び捨てでいいって言ったのに、呼んでくれないし」
ユノの顔が、みるみるうちにしまったといいたげなものに変わった。
「ですけど、さすがにそれは申し訳なくて……!」
慌てふためいたユノを端目に、ラスターは持っていた資料ごとうしろを向く。
託されただけではない。何より、ラスターが嫌だった。
「呼んでくれないから渡さない」
「ああもう、フィノ殿もラスター殿もなんでこう……!」
弱り果てているユノの様子に、ラスターは背を向けたまま笑ってしまった。リディオルとの話から予想はついていたけれど、ユノは苦労気質かもしれない。
「――わかりましたよラスター! その資料返してください!」
「フィノと約束したからだーめ」
「……呼んだんですけど、オレ」
「うん、それはありがとう」
枕に背を預け、ユノは深々とため息を吐いた。
「どうあっても渡す気なんてないじゃないですか、もう」
他愛ないことで戯れて、ふざけて。シェリックと二人でいたときみたいだ。もしラスターの近くに同年代の友人がいたなら、互いにこんな感じなのだろうか。さっき見たユノは、友人というよりは、もっと別の――
「なんか、弟みたいだよねユノ」
「――え」
親子ほどの歳は離れていないだろう。例えるなら、ラスターとシェリックのような。
フィノと話をしていたとき、二人はまるで兄弟のようだった。無茶をする弟と、それをたしなめる兄と。そういえば、フィノには兄がいると聞いたけれど、もし弟がいるなら、きっとユノみたいな人かもしれない。フィノのように、ユノにも兄弟はいるのだろうか。
「そんなに似てますか?」
「んー……?」
似ているかと訊かれるとどうだろう。会話を聞いていた限りでは兄弟のようだと思ったけれど。
「二人の話してる雰囲気がそんな感じかなって思っただけ。ボクは兄弟がいないから、いたらあんなふうなのかなーって」
「そうですか……」
「ユノは? 兄弟いないの?」
湧いた好奇心がラスターの口を開かせる。興味津々で待つラスターに、ユノは笑って答えてくれた。
「兄が一人、います」
「あ、そうなんだ」
「はい」
弟みたいだと思ったラスターの意見は、あながち間違ってはいなかったようだ。
兄弟どころか、同年代の子どもですらあまりいなかった。母親を探しに出てくるまでは、傍にいたのはほとんど祖母だけだったし、今考えると友人などと呼べる人はいなかったのではないだろうか。
キーシャと、それからユノと。
「なんですか? オレの顔、何かついてます?」
「ううん」
片や大国の王女様で、片や魔術師の見習いで。仮初めの賢人である自分と同列の立場と考えるのはおこがましい。けれど、そんな垣根を越えて、二人と友人になれたらいいな、なんて。
そんな淡い期待が、ラスターの脳裏をかすめたのだ。