96,見えた希望はひと筋の
穏やかで落ち着いた夕刻。久しく何事も起きずに平和な一日だったと、そう思った矢先だった。
「キーシャ様?」
執務室の静けさが突然破られたのは、ナクルの呼びかけよりも前のこと。
その犯人こと、うしろに追いやられた椅子の微かな叫びは、他のどんな音よりも大きく響いた。いつもなら気にもせず終わる、些細な音だったろうに。
「調べものをしてくるわ。ナクルはここにいてちょうだい」
レーシェと話がしたいと言って、ナクルに付き添いを頼んだのが昼前。戻ってきて昼食を取り、それからずっと、キーシャは何を言うこともなく書類を片づけていた。
執務室の机上、ナクルが積み上げた書類は全て右側に移されており、本日中に目を通すべき分は終わっている。机回りも綺麗に整頓されて、文句のつけようがない。今日は根を上げないし、やけに雑談がないと思ったら。
動き出すのが唐突だと思えば、その口から告げられた言葉も突拍子のないもので。ある意味予想の範疇にあったキーシャの行動に、ナクルは小さく息を吐いた。
「書庫に行くだけだからすぐ戻ってくるわ。何も街まで行くわけではないし、ここから近いでしょう」
「キーシャ様」
言い聞かせているようなもの言い。ナクルが再度その名を呼ぶと、既に入口へと向かい始めていたキーシャが足を止めた。
上着は羽織らず、肩にかけただけの出で立ち。とがめようとした口を閉じ、ナクルは別のことを言った。
「書庫までは確かに近いです」
「ええ」
「行って帰ってくればさほど時間はかからないでしょう」
「そうね」
「私を遠ざけてまで書庫に行きたい理由を、お聞かせ願いますか?」
よどみなく返されていた答えがなくなる。ナクルをじっと見返してくる目は見事だと言いたいが、そこから先は認められない。
「二人で向かったなら、あなたの仕事が滞るでしょう? それを妨げてまでついてきてほしいことではないと思っただけだわ」
わかっていた。キーシャがそう答えるであろうことは。
どうして、この人は。
「……王宮の状況がわかっておいでですか」
「もちろんよ」
どうして、こうなのだ。
「でしたら、現在において、私の職務における最優先事項が何に当たるか、キーシャ様はご存知でいらっしゃいますか」
噛んで含めるように、ナクルは言葉を重ねる。伝わらない、もどかしい気持ちを抱えたまま。無礼は承知の上。わかってほしい。ナクルが何を懸念しているのか。
「今私が手がけているどんな職務より、キーシャ様の安全を第一に考えてお守りすることです。事件の解決もなされていないこの状況で、お一人で出歩くなどということはおやめください」
二回目だ。この数日間で、ナクルが同じ注意をするのは。
新しい事件が起きたのはつい昨日。時間にしてほんの十数刻前。現在被害に遭っているのは賢人だけにせよ、いつキーシャの身が襲われてもおかしくはない。どれも王宮の中で起こっているからだ。
「……わかっていないわけではないのよ」
「でしたら、なぜです?」
今度こそ視線は外され、キーシャは何か迷っている素振りを見せる。ナクルに話そうか、話すまいか、あるいは。
ほんのわずかな時間。逡巡したのちに、キーシャは苦渋の顔で答えた。
「――言えないわ」
ナクルには話せないことか。
「それでは、せめて書庫へ向かう道中だけでもお守りさせていただけますか?」
「……ええ」
決して考えなしの行動ではないだろう。キーシャなりに、何か考えがあってのことだとはわかる。ナクルとて、キーシャが単なるわがままなどで言っているわけではないことはわかっているのだ。
ただ、理解が及ぶのとそれを許容できるか否かというのは別ものだ。理解できても認めることはできない。
「ごめんなさい、ナクル」
気落ちした声が発され、ナクルは表情を緩めた。
「キーシャ様はもっと御身を大事にしてください。キーシャ様がご自身を大切にしてくださるなら、それで十分です」
キーシャ自身がないがしろにするからだ。目的のために、自ら危険を顧みずに行動しようとするからだ。
それではいけない。
「……そうしたら、あなたからの小言も減るかしら?」
「それはどうでしょう」
澄まして答えたナクルへと吹き出し、キーシャは破顔した。
**
話があると、自分はそう聞いた。前を歩いているセーミャは黙したまま、ひたすらに歩を進めている。どこかへ向かっているのか、あてもなく歩いているのか。
「この辺でいいだろう」
シェリックは語らない背中へと呼びかける。前を行く足は、しかし止まりはしない。
「どこへ向かっているのか知らないが、森の奥までそうそう人はやってこない。そろそろ、話を聞かせてくれてもいいんじゃないか?」
「……そうですね」
目的地がなく、単にひと気のない場所へと行きたかったなら、ここでも十分、人の気配がない。あてもないなら、出くわしたあの場で話してくれても良かった。ならば、行き先はちゃんと定めているのだろう。
魔術師の塔へと続く森。周囲を見渡したセーミャは、さらに奥へと踏み込む。この場所では、まだ駄目なのだと。
「ですがすいません。もう少しだけ、わたしについてきていただけますか?」
「目指してる場所があるんだな?」
「はい」
明確な答えでもって、セーミャは意思表示をする。到達地点が定まっているなら、これ以上こちらから口を出さない方がいいだろう。シェリックも口を閉ざし、セーミャのうしろを歩き続けた。
終えてしまった会話。再び静かになった森が、いっそう暗くなった気がした。
森の中は変わらないのに、やや陰った視界を不便に感じる。その不便さがまたいいのだと。
効かない視界の代わりに、いつもより鋭敏になる感覚がある。仰いだ頭上に響くのは、葉を踏みわけていく二人分の足音と、湿った草の匂い。根につまづきかけて、突いた幹の冷たさに手を離す。
遮られた空がそこここで光ってみせ、どこか夕闇の中を思わせた。陽は高いというのに、まるで星空のような。
夜の時分ならシェリックの領域なのに、森の外から差し込む明るさがそれを許さない。暗くなるのはまだ早いのだと、遮られてもなおまぶしい光が密かに訴えてくる。
錯覚させられた時間と、狂いかけてきた感覚。無性に笑いたくなってしまったのに、懐かしい気持ちすら湧いてきたのは、このおかしな体感のせいか。夜が待ち遠しい、なんて。
振り向かないセーミャが清々しいほど潔い。わき目もふらず、ただ一心に。目的とする場所へ向かうその姿勢が、いつかの誰かと重なって――
「シェリック殿?」
呼びかけられて前方を向く。
一定だった距離がいつの間にか倍以上に開き、振り返らずにいたはずのセーミャがシェリックを顧みていた。
夜が早く来てほしいと。同時に、夜が来なければいいと。期待と不安が合わさって、それらを懐かしいとすら感じてしまって。
どうしてそんな思いが湧いてきたのか。セーミャを誰と重ねたのか。
「――ここでいいだろう」
半身だけで振り返っていたセーミャが、残りの半分も振り返る。要領を得ないシェリックに疑問を挟むことなく、空いた距離を詰めることもなく。
セーミャが何を思ってここまで来たのか。どこへ向かおうとしているのか。シェリックだからこそついてしまった見当が、心の中から呼びかけてくる。進んではならないと、警告を発してくる。
わかってしまった。否応がなく。セーミャがどうしてひと気のないここではなく、もっと奥にまで行こうとしているのか。シェリックに、何を話そうとしているのか。
眉尻を下げ、セーミャは困ったように笑う。
「察されましたか?」
「ああ」
シェリックでなければならなかった。フィノでは駄目だった。恐らく、あの場にラスターがいても駄目だった。シェリック一人だけに、セーミャは話があったのだ。
整いすぎたこの状況に、嫌悪感すら覚えてしまう。
ここで止めてしまう選択肢もあった。シェリックがひと言話したくないと言えば済むことだ。そうすればセーミャも諦めるだろう。シェリックに話す意思がないとみて、それ以上の追及を避けるだろう。
――お願い、一度だけでいいのよ。
そう、ただひと言告げればいいだけだ。できないと、無理だと。そうひと言告げるだけで。
――できるなら、もう一度だけでいいから。
願う彼女に、自分は。
「話くらいなら聞く。それで、気が済むのなら」
セーミャの目が大きく開かれる。
「わたしがこれから何をお話しするか、想像がついてなおおっしゃっているんですか?」
「ああ」
ただひと言、断るなど――どうしてできよう。
セーミャの顔が泣きそうに歪んで、シェリックへと下げられる頭があって。
「……ありがとうございます」
再び上げられたその面には、小さな笑顔が宿っていた。
「礼を言われるのはまだ早い。俺はただ、話を聞くと言っただけだ」
「そうですね」
引き結ばれた口は、今一度、ゆっくりと開かれる。
「お願いします、シェリック殿。教えてください。星を落とす術を。お師匠様に、お会いしたいんです」
シェリックへと、願いを口にした。
六年前と同じ。レーシェが望んだことと、まったく同じ。
理に背くそれは、死者との再会を望む、願いだった。




