94,語るはあなたの大切な
解熱剤と、栄養剤と、それから――
携えるそれらに忘れ物がないことを再度確認し、大丈夫だと言い聞かせ、ラスターは急ぎ足で歩く。万が一にも檜物を落とさないよう、両手でしっかりと抱え直して。
両手を使わなければならないほどの重さはない。それでも両手で持ちたかったのは、ラスターの気持ちの問題だ。
落としてはならない。
ぎゅっとこもった力で、ラスターはぽつりとつぶやいた。
「大丈夫かな……」
向かう先は治療室。この解熱剤を使うのは誰だろう。それとも今すぐに必要ということではなくて、予備の分がなくなったから、その補充をしたかったのだろうか。すぐさま使用する分でなければいい。
それよりも何よりも、気がかりなのは別のことだ。ほんの少し前に呼び止められた声と、交わした言葉。思い出すのは、つい先ほど出くわしたセーミャだ。
羽織った白衣。まとめ上げられた髪。治療室で見かけていた彼女の格好とまったく同じ格好。けれど少しだけ、顔色が悪いように見えた。
今にも倒れてしまいそうなというと、誇張し過ぎている。けれど、セーミャは何かに必死で抗っているようだった。認められない現実があって、彼女の師匠であった人の死を受け入れるにはまだきっと時間が足りなくて、けれども現実として見なくてはならなくて。
大切な人だったのだ。大事な人が亡くなって、セーミャの悲しみはどれくらいなのだろう。ちゃんと休めているのだろうか。あんなことが起こって、あんな光景に遭遇して、あれ以来働きづくめではないのだろうか。
「シェリックを探してたケド……なんの用事だったのかな」
詮索してはいけないのに、なぜだか気になってしまう。ラスターへと尋ねてきたセーミャが、どこか焦っているようにも見えたからか。セーミャの探し人がシェリックだったからか。
「――ラスター殿?」
見ていなかった前。かけられた声に覚えがあった。
ラスターは立ち止まり、驚いた顔をした彼を見る。さまよった目がもう一度ラスターを映し、彼――フィノは表情を緩めた。
「二日ぶり、ですね……」
「うん」
アルティナに着いてから早四日。王宮にやってきてから換算するなら、さらにもう三日が上乗せされる。――いや、まだそれしか経っていないのだ。この数日、正しく答えるのであれば、ルパにたどり着いてから目まぐるしく様々なことが起こりすぎていたせいで。
たくさんの人と出会った。一度は別れ、再会したりもした。フィノと最後に会ったのが、シャレルと会うあの扉の前。ずいぶんと久しい気がするのは、ラスターの感覚がおかしいせいだろうか。
いや、きっと正しい。この二日間だけでも様々なことが起きたのだ。
ユノが怪我を負って、その傷が癒えぬうちに今度はリディオルが倒れて、いなくなった治療師を見つけたと思ったら、彼は殺されてしまっていて。
「エリウス殿が亡くなられたとき、レーシェ殿とその場に居合わせたとお聞きしましたが」
「……うん。セーミャも一緒にいて……」
――お師匠様ぁっ!!
セーミャの上げた悲鳴が耳から離れない。見つけたエリウスを前にして、静かに話しかけるセーミャがいて。
怖かった。セーミャも、エリウスの側に行ってしまいそうで。
「大丈夫ですか?」
「わからない。さっきも偶然会ったケド、顔色良くなかったし……」
「いえ、ラスター殿が、です」
「ボク?」
てっきりセーミャのことを話していると思ったのだ。亡くなったのはセーミャの師だったのだから。
「人の死に遭遇するのは、誰でも辛いものです。たとえ、亡くなられた方がどんな方だったとしても」
そうだろうか。ラスターとエリウスは出会っていくばくも経っていない。接点なんて、ほとんどないに等しいのに。
「大丈夫だよ」
だって、ラスターはセーミャではないのだから。
答えた途端、フィノにため息を吐かれた。
「……あなたの大丈夫ほど信用ならないものはありませんね」
「え、そんなコトないよ。大丈夫だって!」
「冗談です」
必死に否定すればくすりと笑われる。
輝石の島で倒れて、フィノに世話になった身としては何も言えない。シェリックがここにいたなら、また「甘い」と怒られるかもしれない。ひとしきり笑うと、フィノは笑みを収めた。
「――賢人に、なられたのでしたね」
「うん」
ひとつひとつ確かめるような問いかけに、ラスターも心して頷いた。
夢ではないかと思う瞬間がある。ラスターがここにいるのは夢で、もしくは幻で、本当のラスターはまだ海すら見たことがないのではないか。シェリックなんて人とも出会ってなくて、ラスターの母親は家にいて、祖母と三人で仲良く暮らしている――そんな夢物語。
けれど、これが現実だ。
「うん、そうだよ」
ラスターはアルティナにいて、賢人になって、ここにいる。
全部全部起きたことで、空想してるわけでも物語の中にいるのでもない。
「でもまだよくわからないから、教わりながらやってるって感じかな」
「ラスター殿はレーシェ殿の補佐をされているのですか?」
「そうなの、かな? 補佐しながら教わってるって言ったらいいかな……今も追加の依頼が来て、治療室に行かなきゃいけないんだ」
「それは奇遇ですね。私も治療室に向かっている最中だったんですよ。歩きながら話しましょうか」
「うん」
同じ場所に向かうのだったら、歩きながら話した方が早い。
「フィノはどうして治療室に行くの?」
ラスターが問うと、フィノは手に持っていた麻袋を示した。
「私はレーシェ殿に頼まれた鉱石を届けに、です。なんでも、薬にするのだとお聞きしましたが」
「薬……」
鉱石。薬。
いくつかの種類がラスターの頭に浮かぶ。確かに鉱石も薬として使う時がある。削って内服したり、外傷用としての薬をこしらえたり、あるいは鉱石のまま使用して症状を和らげたり。
「そっか、フィノ、石を集めてたんだよね」
フィノがラスターたちを王宮まで先導した際、門番とそんな会話をしていただろうか。
「ええ。私は鉱石学者の見習いですから。輝源石の調査や収集、採掘、また加工をして星命石を作ったり、今回のように薬となる鉱石を提供したりしています。アルティナ王族初代から今代に至るまで、王族代々の星命石は、全て鉱石学者が手がけたそうです」
「へえ……」
代々とは、すごいことではないだろうか。
鉱石学者と聞いて、鉱石を調べている人、としかラスターには浮かばなかった。
思い込んだ印象だけがその人の全てではない。薬師が薬を作るだけではないように、鉱石学者も、ただ石を調べるだけではない。
賢人と呼ばれる人や、その下に就く見習いの認識を、改めなければ。
「お母様だったのですね」
不意につぶやきが聞こえ、ラスターは隣を歩くフィノを見上げた。受け止められた目が微笑みで返された。
「レーシェ殿は」
「――うん」
フィノに母親を探しているのだと話してはいない。けれど一度だけ、ルパで輝石の島について聞いた折に、フィノにも尋ねたのだ。母親の名を、聞いたことはないかと。その人がラスターの母親なのだとは言わずに。
「輝石の島にもいなくって、探す当てがなくなっちゃったから、どうしようかと思ってたんだ。偶然……なんだケド、でも、見つかって良かった。どこかで、もう会えないかもって思ってたから」
シェリックにも話しはしなかった。母親を見つけ出すと決意した裏で、ほんのわずかに、諦めかけていた感情があったのを。
「それは良かったですね。お名前から女性の方だろうとは思っていたのですが、まさかレーシェ殿だったとは」
「あはは、そうだよね。名前が違うから、同じ人だなんてわからないよね」
そこではたと思い当たる。どうして母親に名前がふたつあるのだろう。ここではラスターの知らない名で呼ばれ、ラスターが知る名前は誰も知らない。
――偽名?
リリャ=セドラの名を隠して、レーシェ=ヴェレーノとして生きていくという意思表示なのだろうか。
――私は戻るつもりはないわ。
ラスターにそう告げた母親は。
「ラスター殿? どうかなされましたか?」
「あ、ううん。なんでも――わっ!」
慌てて手を振ったせいで、均衡を崩しかけた荷物の中からガチャと音が鳴る。一気に走り出した心臓を鎮めようと、ラスターは一度深く息を吐いた。
「……心臓止まるかと思った」
「よろしければこちらをお貸ししましょうか? 割れた音ではなかったですが」
差し出されたのは一枚の白い布。
「ありがとう、でも大丈夫だよ。落とさないように持つから」
「そうですか」
しまわれていく布を見て思う。さて、なんの話をしていたっけ。突然名を呼ばれて驚いてしまって、フィノから母親が見つかって良かったと激励されたのだったか。
そこでふと湧いた好奇心。その思いのまま、ラスターはフィノに訊いてみた。
「フィノは? お父さんとかお母さんは、アルティナにいるの?」
息子が王宮にいて、賢人見習いで、とても鼻が高いのではないだろうか。
フィノのその顔に、浮かべられたのは柔らかな笑みだった。
「おりません。アルティナにも――どこにも」
両の瞳に、語れない寂しさがよぎったように見えて、ラスターは何も言えなくなる。そんな様子を見ていたフィノは、苦笑した。
「ああ、いえ、両親はもうおりませんが、私には兄弟が一人おりますから。寂しくはありませんよ」
「そうなんだ」
心を見透かされた気がして、恥じ入った気持ちを抑えるべく頬に手を当てる。
たった一人のフィノの兄弟。フィノと似ているのだろうか。
「お兄さん、なの?」
「ええ、そうです」
微笑むフィノから、フィノの兄はとても大切な人なのだろうと伺い知れた。
だって、フィノはこんなにも優しいのだ。きっと兄から優しくしてもらって、フィノはその背中を見てきたに違いない。両親がいないというのなら、見本となるのはその人だったのだろう。それはとても素敵なことではないか。
兄弟のいないラスターにはわからない。母親がいて、祖母もいて、幸せな環境なのだろう。
それでもラスターが母親を探したように、祖母に思いを馳せるように。家族を思うその気持ちに、なんら変わりはないのではないかと思うのだ。