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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
五章 アルティナ王国Ⅱ
93/207

93,呼び覚まされた彼の名と


 今思えば、向けられた眼差しに温かさは欠片ほどもなかった。

 物珍しく奇異な目、忌々しいとばかりに投げられた侮蔑と嘲笑。異端の者に注がれる目つきは、どれもこれも関わり合いになりたくない感情をはらんでいて、視線と同様に隔たりのある距離をも取られた。右も左もわからぬまま、受ける負の感情ばかりが膨れ上がり、押しつぶされかけて。そうして身に着いたのは感情任せの反発ではなく、自分の心を守るための受容と、来たるいつかに向けて誓った報復だった。

 憧れとはほど遠い羨望。突き刺さる憎しみ。願いもしなかった嫉妬。

 それらを甘受する一方で、徐々に侵食していくほの暗い感情を抱えて、シェリックは賢人という地位にあり続けた。

 どうしておまえなどが。なぜこんな子どもに。こんな、どこの出自ともわからない、得体の知れない奴に――

 だから、初めてではない。これまでに何度も投げかけられた台詞だった。今更どうと思うことでもない。王宮に戻ったなら、再び同じような言葉を浴びるであろうことは容易に想像できたし、シェリックとしても百も承知だった。また、あの日々に戻るだけだと、それもわかっていた。

 だと、いうのに。

 あの時と同じように返せないのは、戸惑いが邪魔するのは、シェリックに呼びかけられた名が全く別の名だったから。

 それだけではなく、自分にそんな言葉を投げかけたフィノは、今まで見たどれとも違う表情でシェリックに言ったからだ。例えるなら、何かを抑えているような、痛みを堪えるような。

 理由なんて知らない。それはフィノにしかわからない。訊きたい全てを知るより、シェリックにはまず、確認しなければならないことがあった。


「――どうしておまえに、その名で呼ばれなければならない」


 ディア。それは、シェリックが占星術師となる前の名だ。

 会ったばかりの人間に。噂でしかシェリックを知らないであろう者に。どうして呼ばれたのか。

 当てずっぽうではないだろう。確信を持っていなければ、絶対に出て来やしない。考えられるとしたなら――浮かんだ可能性はふたつばかり。


「レーシェに聞いたのか?」


 うちの一人は、もう一人よりもシェリックをよく知る人物。決して口が軽い女性ではない。けれども、何かの拍子にこぼれてしまった予想は捨てきれない。


「――いいえ」


 ところが、シェリックの予想に反してフィノは首を横に振った。ならば、可能性のもう一人――エリウスか。

 けれどもエリウスがフィノに話す理由が見当たらない。治療師と鉱石学者見習いに接点はあるのかと問われると首を傾げるしかないし、シェリックの知らない何かがあったとしても、同じく答えは出てこない。考えるだけ無駄だろう。


「私は、あなたがシェリック殿となる前から、あなたのことを存じ上げていたからです」

「……?」


 思いも寄らなかった回答に面食らう。同時に宿ったのは、フィノに対するさらなる警戒心。

 何を知っているのか。何を知ろうとしているのか。返答によっては口封じをしなければ――


「ティカ」


 そうして、フィノはひとつの名前を口にした。


「その名を覚えておいでですか?」

「忘れるはずがない」


 呼び起されたのは遠い遠い記憶。世界など知らなくて、見知り慣れ親しんだ家だけが全てだった頃。それは、禁術を犯してしまったあの頃よりも、シェリックが賢人となるよりももっと前。自分がディアと呼ばれていて、同じように身を寄せ合った同年代の仲間たちがいて、家族同然に暮らしていて。

 ティカ。無表情で、何を考えているかわからなくて、いつも部屋の隅にいては本を抱えていた。笑ったことなど一度もなく、あまり喋りもしない物静かな少年。それが、ティカと呼ばれていた少年だった。

 はたと止めた思考。目の前にいたフィノをぽかんと眺める。


「――フィノ」


 彼を呼ぶ。


「はい」


 彼は応える。

 まさか。いや、そんなはずは。

 記憶の中にあるおぼろげな姿と、今ここにいる微笑む彼と。彼がティカ? 一致しない。ティカが笑った姿など、想像すらできなかったのだから。声も外見も全然違う。

 少年だった自分は大きくなり、胸を張って大人だと言い張るにはまだまだ未熟で。では、幼子だったティカが大きくなったなら?

 違っていて当然だ。あれから何年経ったというのだ。

 思い出そうとすればするほど、薄れゆく記憶に拍車がかかる。ティカがどんな顔をしていたのか、どんな髪で、どんな話し方をしていたのかさえも。

 ――わからない。

 ならば、笑みを失くしたフィノでは? ティカから彼を想像するより、彼からティカを想像するのは? 苦渋に満ち、感情も、言いたいことも、押し殺して呑み込んだ彼の表情では?

 いつかの悔しげに上げた顔。感情をむき出しににらみつけてきたティカなど初めてで、その面影がフィノと重なって――かけていた疑いは、淡い確信と狼狽とともに崩れた。


「おまえ、ティカか?」

「そのとおりです。ようやく、思い出していただけましたか」


 フィノはゆっくりと首肯する。

 では、やはり。そうなのか。間違いではないのか。


「輝石の島の幻を作っていたのは、おまえだったよな」

「ええ。かつてのまがいものに過ぎませんけど。それでも似せることはできたと自負しております」

「確かにな」


 フィノの返答に偽りはないだろう。

 輝石の島は実在する――今は廃れていたとしても。初めて降り立ったはずのその島に、シェリックが覚えたのは違和感。ラスターにも話さなかったそれは、小さな既視感。


「お忘れではなかったようですね?」

「忘れられるものか」


 どれだけ年月が経とうと、褪せる記憶であったとしても、そこから完全に消え去りはしない。端の端にこびりついたまま、思い出した頃にその存在を主張する。

 輝石の島。

 見覚えがあるような、懐かしいような、そう感じたシェリックは間違いではなかった。覚えがあるはずだ。ところどころ異なるのは、きっと飛んでしまった記憶と思い込みのせい。

 幻影で偽物だった。夢で虚構だった。それでもあの島は、シェリックがシェリック=エトワールとなる前にいた家で、故郷と呼べる場所だった。

 ――彼がティカだというのならば。その島はシェリックだけではない。フィノも――ティカも、ともにいた。


「――もう全員始末されたあとかと思っていた」


 自分は逃げ出した最中に助けられ、難を逃れて。それからあの家がどうなったのか、残った家族たちはどうなったのか、人づてにしか聞いていない。近寄ることすらできず、知らず知らずのうちに記憶の片隅に追いやってしまっていた。もはやないものだと、ただただふたをして、端的にいうのなら見ないふりをして遠ざけていた。


「私は運が良かっただけです。他の方々がどうなったのかは、未だに……」


 呑み込んだ言葉に、フィノの無念さが見えた。無理もない。あの混乱の中では、生き延びて、こうして再会できていることですら奇跡だと思うのに。


「――それをいうなら、俺はおまえらを置いて最初に逃げ出した臆病者だ」

「ならば、初めに状況に気づいた賢き方ではありませんか。私は現状に気づきもせず、あれが日常であると疑いすらしませんでしたから」


 気づいたところで何だという。助かろうとして逃げたのは自分だけで、他のみんなを置き去りにした。


「子どもでしたから。私も、あなたも」


 フィノはいう。あの頃よりも、もっとずっと大きくなった背丈で彼はいう。


「自分のことだけで手一杯なのは仕方ないでしょう。大人とは違って、知恵も力も足りませんから。相手が大人とあっては、どれもこれも敵いません」

「……無力だと嘆くには、現実を受け止めきれていないか」


 思い出すことも拒んでいた自分には、過ぎた慰めだ。

 それにしても、なんと笑えない冗談だろう。ラスターとともに探していた輝石の島が、まさか自分が逃げ出した場所だったなんて。


「ルパであなたにお会いした時には驚きました。まさか、リディオル殿と約束を交わしていたのがディアだったとは、思いもしませんでしたから」


 そうだろう。取りつけられたのは『シェリック=エトワール』との約束だったのだから。ディアがティカの消息を知らなかったように、ティカもまた、ディアの消息を知らなかったのだから。


「どうして話してくれなかった」

「確証が持てないことをたやすく認めるのは、あまりにも軽率な行為でしょう。あなた方を島へ誘導する役目もありましたし」


 改めて聞かされると、なんて手の込んだしかけを施されていたのだろう。自分を呼び戻すためなら、こんな回りくどいことをせずとも良かったものを。

 ――ラスターがいたからか。

 シェリック一人だけではなかった。シェリックと一緒に、ラスターがいたからだ。最後は半ば力づくで連れてこられたけれど、それまでは穏便に進めようとしていたのだろう。恐らくは。

 実力行使は最終手段だったと思いたい。リディオルが迎えに来た時点で、あるいは船の中で、シェリックがアルティナ行きを受諾していたなら、あそこまで大がかりな罠をしかけずとも良かった。

 シェリックが輝石の島でアルティナ行きを承諾したのは、ラスターがこれ以上無茶をしないように、ラスターの安全を守るためだった。アルティナに戻り、賢人としての地位が戻ったなら、ただのシェリックでいるよりも要求は通りやすくなるのではないかと。シェリックが賢人でいる限り、アルティナがラスターに手出しすることはできなくなるのだと。

 予想外が重なった末、それでも結果としてもたらされたのは、ラスターが望んでいたひとつの結末を迎えたこと。シェリックにとっても、思いがけない再会があったこと。全部が全部良かったとは言い難いけれど、悪い結果ばかりではなかった。

 承服できかねることはやはりまだ残っているし、シェリックが王宮に来たからといって、事態が好転しているわけでもないし――

 踏みしめられた葉。足音よりも先に耳にしたのは、落ちていた葉を踏みしめた音が大きかったから。


「お話し中にすいません」

「セーミャ殿?」


 先に気づいたフィノが彼女の名を呼ぶ。治療師見習いのセーミャが、どうしてこんなところに。

 ひたと向けられた目線は一方向。


「シェリック殿、少々お時間よろしいですか? お話したいことがありまして」

「……俺は構わないが」


 ちらと投げた緯線に、フィノは頷く。


「私も構いません。こちらの用事は済みましたので」


 セーミャはフィノへと、申し訳なさそうに笑いかけた。


「すいません。シェリック殿、お借りしますね」

「ええ、かしこまりました。それでは、私はここで失礼します」


 明確な用事などではなかったろうに。律儀なものだ。もしかしたら本当に、シェリックに確認したかっただけかもしれない。そうして、自分の正体を明かしたかっただけかもしれない。


「それで、話とは?」


 身体の前で組まれた手。女性らしく柔らかな印象を受けるが、セーミャの浮かべている固い表情がそれをよしとしない。くすんだ目元に青白い顔。その中で目の奥だけがらんらんと輝いて、どこか怪しい雰囲気さえうかがわせる。


「――折り入って、お願いしたいことがあります」




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