90,活路は単純明快で
瞬きをする暇すら惜しく、食い入るように彼女を見つめる。彼女に向けて立つつま先も、奮い立たせるために握った両手も、決して逸らしたくない。一秒でも、一瞬でもずらしてはならないと、ラスターの奥底がささやいている。
均衡を破ったのは、ラスターと彼女、そのどちらでもなかった。
「――ね、ねえ、ナキ」
おどおどとした声に気を取られたのはどちらが先だったか。ほとんど同時に外された意識が三人目へと向けられる。
頭の形に沿って無駄なく切られた、薄い色彩の髪。それなのに前髪だけが伸びていて、泳いだ彼の目を覆い隠している。座ったままではわからなかった彼の身長は、きっとシェリックよりも高いだろう。彼の丸まった背がしゃんとすればの推測だけれど。
「何よ」
「ひえっ、す、すみません!」
怒鳴ったわけではない。彼女はそちらを向いて応じただけだ。だというのに、話しかけてきた彼の、この過剰なまでの怯え具合はどうしたことか。ナキ、というのが彼女の名前だろうか。
書物を押さえつけている彼女の左指が、規則的に音を鳴らす。
「なに、何か用なの?」
「う、うん。ちょっと、ナキに手伝ってほしくて」
首を縮こまらせながら、それでもしっかりと、彼はそう口にした。
「えっと、ほら、レーシェ殿に頼まれた薬なんだけど、あれができたから、一緒に治療室まで行ってほしいなーって……」
口の中でもごもごと言いながら、徐々に弱くなっていく語尾。それとは真逆に彼女の目はだんだんと細くなっていく。
「あたしに荷物持ちをしろっていうの?」
「まさか! うまく説明できるかわからないから、ナキについてきてほしくって……」
黙って聞いていた彼女は、ラスターの方を向いた。
「あんたは?」
投げかけられた問いは容易くラスターを飛び越える。どうやら、ラスターに向いたものではなく、その後方にいたもう一人の人物へ向けられたようだった。
「手が離せない」
彼女へと応じた声が気になってそちらを見る。彼の答えが決して誇張されたのではないと知った。
煮詰めている薬草から片時も目を離さない。横から見える彼の目は忙しなく動き回り、赤い液体を鍋に入れたかと思うと、何とも言えない渋い匂いが立ち込めた。
「あんたそれ」
「頼まれた薬膳酒だ」
とがめかけた彼女をいとも簡単に封じる。
「そんなに温めたらお酒の成分飛ぶじゃない」
「酒の味だけほしいらしい。勤務中に酔いつぶれるわけにはいかないと」
「ああ、それで」
「だから手が離せない」
目だけ彼女を向き、もう一度繰り返した。
「……わかったわよ」
左指で鳴らしていた音を止めて、彼女はわずらわしげに立ち上がった。引かれた椅子が耳障りな悲鳴を上げるも、ひと息で収まる。
「ファイク、あたしが行く。ただし、荷物は全部あんたが持ちなさいよ」
ぎょろりと動いた目が横に立つ彼を捉え、すくみ上がった彼が言葉もなく二度頷いた。
「説明するだけだから。それ以外はあんたに任せるから」
「う、うん。それでも助かるよ。ありがとう、ナキ」
慌てふためきながら準備をし始める彼を無視して、彼女はひと足先に戸口へと立つ。
「――出かけてくるわ。レーシェ様が戻ってきたら伝えておいて」
伝えたわりにこちらからの返事を待つ気はなかったようで、さっさと出て行ってしまった。可哀想だったのは上擦った声を上げた彼だ。
「え、え。ちょっ、ちょっと、準備がまだだって! 待ってよ、ナキー!」
彼女に少し遅れて、彼もばたばたと出て行ってしまう。呆気に取られて見ていることしかできなかったラスターは、挽きかけの薬草の元へと戻る。肩透かしを食らったような、そんな気分だ。
二人がいなくなったそこに響くのは、ことことと煮られている鍋。鼻までやってくるのは嗅ぎ慣れない匂い。ラスターは不意に、祖母が作ってくれた煮込み料理を思い出した。野菜がたっぷりで、出汁の香りが漂ってきて、匂いを嗅いではお腹を鳴らしたものだった。挽かれた草の匂いが加わり、目を閉じればそこはもう祖母の家だ。
次に食べられるのはいつになるだろう。ラスターが薬を作り終わる頃には祖母が具だくさんな鍋の中身をよそってくれて、卓の上に並べて、二人で食べて――
「おい」
「へ? ――あ」
呼びかけられて横を向く。先ほど手が離せないと言っていた男性が、そこに立っていた。
消された火を確認して、ラスターはこっそり息を吐く。火から下ろされた鍋は香りを残したまま黙りこくって、先ほどまで傍にいた男性を大人しく待っていた。
「ナキが突っかかって悪かったな」
かけられはしないとすら思っていた謝罪がきて、ラスターは持っていたすりこぎを置いた。
「あいつは特にレーシェ殿を尊敬しているし、次の賢人になると意気込んでいたから、ぽっと出てきたあんたが気にくわなかったんだろ」
「うん」
一言一句聞き漏らさないよう、ラスターは神妙に頷いた。
もしもラスターが彼女の立場だったら? 自分が目指していた目標が、あとからやってきた人に簡単に奪い取られたら? そうして今度はその人を目標にしなければならないとしたら?
「それは……悔しい、よね」
それに、きっとそれだけでは済まないだろう。嘆いて、恨んで、今までやってきた全てを否定したくなるかもしれない。
「ああ。だからというつもりはないが、俺もあんたを認めてはいない」
ラスターはその人を見上げる。
先ほどの彼女が――ナキがそうだと話したように、今この人が話してくれたように、この人がそこに当てはまらないとどうして言えよう。
この人だってきっと、賢人を目指してここにいたのだ。ラスターが快く迎え入れられるはずがない。
知っている人と、見たことのある人たちばかりで、ラスターは安心しきっていた。でもそうだ。この王宮にいるのは、そんな人たちだけではない。見もしない、知りもしない人だってもちろんいるし、みんながみんな友好的な人たちだとは限らないのだ。
ここは外国で、ラスターのいたところとはまるきり違うところだ。シェリックやレーシェが過ごしたと言ってはいても、ラスターと直接関わりのある人はほとんどいないのだ。
――ここでは、誰が味方か敵かわかったもんじゃねえぞ。
シェリックの言葉が、遅まきながら身に染みる。親しみ深い人たちに囲まれていたから、ラスターには見えていなかっただけだ。
「あんたが認めてほしいっていうんなら、実力を示せばいい」
妙なことを言われた気がして、その人をぽかんと仰いだ。
「アルティナは実力がすべてだ。あんたがレーシェ殿の娘だろうが何だろうが、あんた自身の力を示せばあいつだって納得するだろ」
「……そうかな?」
「多分な」
この人はどうなのだろう――
そんなの、訊かなくたってわかる。この人はそれで認めてくれるだろう。今はラスターを認めていなくたって、いずれは認める可能性があるのだと言ってくれているのだ。
嫌われているわけではない。この人にはちゃんとした理由があって、彼女にも理由がある。変えられる方法があるなら、そうすればいい。
「――わかった、ありがとう。ええと……」
「グレイだ。あんたは?」
教えてくれた名前に顔が緩む。嫌われているのではないのだと知っても、名乗ってくれないと思っていた。彼女と同じように、この人も名乗りを上げはしないと。
「ラスターだよ。ありがとう、グレイ!」
「どういたしましてと言いたいところだが、なんとかするのはあんただ。ラスター」
グレイは再び鍋の傍へと戻っていく。点けられた火が待ちわびたとばかりに鍋をにぎやかにして、漂う香りも強くなる。
愛想はあまりない。味方でもないのだと思う。それでも悪い人ではないようで、ラスターはほんの少しだけ元気をもらった。