86,不和な剣と魔女の笑み
噂が噂を呼び、さらなる誇張で覆われては虚構と嫉妬で塗り固められた。真実は一番下へと埋められて、誰に見つけられることもなく。贔屓だなんだと揶揄されては、稚拙な嫌がらせをされて。
――それが、どうしたというのだ。
「私が、あなたに語る必要性はありますか?」
「ないわ」
レーシェは、実にあっさりと否定した。
やっかまれる度、ナクルはその都度沈黙を保ち、無反応を貫いてきた。
事情を知らない人たちが、好き勝手に悪評を流しているのは知っている。口さがない者たちに反論をしたところで、事態の悪化を余計に招くだけだ。
「だって、不公平じゃない。私の過去だけ知られているのは公平じゃないわ。あなたも、明らかにしてくれたらいいじゃない」
「ご遠慮します。取るに足らないことですから」
誰に何を言われようとかまわない。自分が心を砕くべきことは、別にあるのだから。
「そう……」
残念がるレーシェの瞳が愁いを帯びる。一度は下がったその口端が上がるまで、そう時間はかからなかった。
「――何か?」
耳に髪をかけ、レーシェの露わになった顔に、艶やかな笑みが浮かべられた。
「一度、隠さず話してみたらどうかしら? そのおきれいな顔を使って、シャレル様やキーシャ様に取り入ったと」
「――」
言われた言葉とその意味を理解するのに、少しの時間を要して。
「ナクル! やめなさい!」
キーシャのひと言で制され、はっと我に返った。
記憶になかったのはほんの一瞬。実際はどれだけ時間が経ったのかわからない。少なくとも、ナクルが剣の柄に手をかけるだけの時間は過ぎていた。
再度組まれた両腕と、涼しい顔をして微笑むレーシェに、ぎり、と奥歯を噛みしめる。ただ単に笑ったのではない。ナクルに向けられていたそれは、嘲笑だ。
「……私のことを、何と言おうがかまいません」
そう、何を言われようとかまわない――けれど。
「ですが、それ以上おっしゃるというのであれば、シャレル様やキーシャ様に対する侮辱と取りますがよろしいですか」
許せないのはただひとつ。主君の名を汚す、その言動だ。侮り、蔑み、軽んじられ、貶めるのであれば、仮借などできはしない。
宣戦布告にも似せて告げると、途端にため息を吐かれる。不本意だとでも言いたそうに。
「よろしくないわよ。嫌だ、あなたが教えてくれないから、私の推測を話しただけじゃない。あなたは自分のことを何ひとつ話さない謎めいた人だと、そう言われているのをご存知? 話さないのはやましいことがあるからだと、そうも噂されているわ。否定も肯定もしないから都合のいいように解釈されてしまうのでしょう――今、私が言ったように」
急に真面目な顔になって、レーシェは話す。
「せめて嘘か本当かだけでも話してみてはいかがかしら。事態の全てが好転するとは言えませんけど、あなたを見る目が少しは変わるのではなくて?」
レーシェの提案は一理ある。同じ王宮内とはいえ、ただの噂が、普段ナクルと直接関わることのないレーシェの元にまで届いていたのだ。どこまで広がっているのかなどと、あまり知りたくはない。
吹聴して回るのか? 今更? それをしたところでどう変わる?
ナクルは同情されたいわけではない。自分の境遇に対して、憐みの目を向けられたいわけでもない。現状が変化するなら、望むのはただひとつ。干渉も深入りもしないでほしい。
「――ご忠告、痛み入ります。けれど、わざわざ触れ回る趣味はありませんから」
「あなたの評価が、いずれキーシャ様にも及ぶ可能性は考えたことがあって? キーシャ様の護衛で騎士だと言うのなら、何者からも守って差し上げるのがあなたのお役目でしょう?」
言われなくても、そのつもりだ。
「――と、余計なことを申しましたわ。ああ、ご安心を、キーシャ様。ナクル殿を害したいわけではありませんから」
ナクルの横ではらはらと見守っていたキーシャへと、レーシェはくすくす笑いながら言う。ナクルの醸し出す剣呑な気配を、意に介しもせず。
「ナクル殿も、そんな怖い顔をしないでいただける? 剣から手をお放しなさいな。――ほら、耳をそばだててる方だって、怯えているじゃない」
廊下の曲がり角、柱の影。周囲にいた人たちに聞こえるように。わざわざ大きくされた言葉を耳にして、その場からそそくさと離れていく気配があった。ちらり、辺りを見やったレーシェと、目が合うその前に。
こんな人の往来がある場所で話すつもりはなかった。そこにいた王宮の人間に聞かせるために、レーシェはわざとここで話し始めたのだろう。
「では、キーシャ様やシャレル様を蔑むような世迷いごとは、今後一切口にしないようお願いいたします。――あなたがキーシャ様を排除するというのであれば、容赦はしません」
「はいはい。あり得ませんけど、かしこまりました。肝に銘じておきますわ」
レーシェは再度笑みを浮かべる。見る者が見たなら見惚れそうな、艶然さを備えて。
険悪な空気になりつつあるその場に、進み出る小柄な影があった。
「レーシェ……こんなことを言い合わせるために、あなたに薬室から出てもらったのではないわ。ナクルも、引きなさい。こんなところで流血沙汰なんて、それこそ冗談じゃないわ」
「キーシャ様、ですが」
「命令よ。聞けないというのなら、私を置いて先に戻りなさい」
ナクルがそれをできないとわかっているだろうに。レーシェとキーシャを、あるいは他の誰がそこにいたとしても、キーシャと二人きりになどさせたくはない。それは、ナクルの私情も少なからず入っている。
だってそうだろう。目の届かない位置にいて、どうやって主を守るというのだ。傍を離れるわけにはいかない。用心しなくてはならないこの時期に、傍を離れたくはない。何のための護衛だ。
握りしめていた柄から手を離す。肩越しに見上げてくるキーシャから、ナクルは目を逸らした。
「……申し訳ありませんでした」
「いいえ、ありがとう」
レーシェとは違う。穏やかに綻ぶキーシャが目の端に映った。
「――ねえ、レーシェ」
「なんでしょう、キーシャ様?」
キーシャの声音から、真剣な眼差しになったことがうかがえる。切り替えたキーシャにならって、ナクルも改めて背筋を伸ばす。穏やかでいられるように努めて、キーシャへと一歩近づいた。
「昨日、エリウス殿が亡くなっていたところに遭遇したのでしょう? 何か、気づいたことや気になったことはない?」
自分のあるべき場所はここだ。ナクルの身の置き場であり、主を守ることのできる位置は。
「キーシャ様が直々に調査するのは歓迎できませんわ。エリウス殿の事件について知りたいのであれば、私がナクル殿にお話ししておきますから。そのあとで伺ってくださいな。賢人が四人殺されております。今はまだ賢人だけですが、いつその魔の手がキーシャ様に及ぶかわかりません」
「安全な場所にいただけでは、何も見えてこないわ。ならば、自分の足で動かなくては。それに、調べると言っても私一人じゃないわ。ナクルがいるから、平気よ」
置かれていた信頼が、ナクルの息を詰める。元より口をはさむつもりはなかったけれど、キーシャの言葉は確かに一瞬、ナクルの呼吸を止めて。
「ほどほどになさってくださいね」
「ええ。無茶はしない。危なくなったら全力で逃げるわ」
「そのようにお願いします」
あきれた様子を隠しもせず、組んでいた腕を解きながらレーシェは言った。
「――ひとつだけ」
思案していた眼差しが、静かにキーシャを射る。
「私たちが見つけたとき、エリウス殿は外套を羽織っていました」
「ええ、それが?」
何もおかしくはない。逆に羽織ものを身に着けていない方が稀だ。
「エリウス殿は、常日頃から白い外衣を着ていました。なのに、あのときだけ黒い外套を身に着けていたことが、少し気になりましたわ」
亡くなった治療師、エリウス=ハイレン。
名を耳にしてナクルの脳裏に浮かんでくるのは、白衣を着た姿のエリウスだ。
――苦手なんだよね、その色。
彼はそんなこと言って、黒は着ないという噂を聞いたことがある。エリウスが十二賢人きっての変人だと称されていた所以のひとつだ。
その彼があれほど苦手にしていた黒を身にまとうなんて。珍しいと言えば珍しい――いや、珍しいを通り越して異様だ。
「私からお話しできるのは以上です。見つけたときの状況も、詳しくお話しした方がよろしいですか?」
「いえ、結構よ。ありがとうレーシェ、戻っていいわ」
「お役に立てて幸いです。それではキーシャ様、ご機嫌よう」
あまりにあっさりと背を向けて。振り返りも名残惜しみもせず、レーシェはその場から去っていった。
廊下にいた何人かがレーシェに道を譲るのが見て取れる。空けられたその道は元賢人のためか、それともナクルの噂を意図的に知らしめた彼女のためか――それはわからない。
「――恩義になんて、感じなくていいのよ」
ナクルにだけ聞こえるほどの小さな声がした。誰かなんて、確かめるまでもない。
遠ざかるレーシェから目を離さず、キーシャは言ったのだ。
「お母様があなたを護衛にしたこと、あなたの重荷になっているならいつだってやめていいの。頼りにしてはいるけれど、私はあなたに背負わせ続けたくない」
本音か建て前か、後ろ姿だけではわからなかった。何を考えてキーシャは口にしたのか。それでもナクルは答える。
「――お断りですね」
途端、あれほど動じていた心が静まったのを感じた。
「重荷になどなってはおりませんし、キーシャ様がそう思われているのであれば、それは私が望んで背負っているだけです。私がキーシャ様の護衛に就いた理由を、尾ひれのついた噂で推測されるのは決して歓迎すべきことではありません。ですが、当事者だけが存じていてくださればそれで十分です。先の動揺はまったく別の理由です。ですので、キーシャ様は――」
関係ありません、と。
口を閉じて、言い直した。
「――キーシャ様は、変わらず私の主でいてくださるとありがたいのですが」
誓ったのだ。受けた恩は返すと。ナクルがそうするだけの価値があるのだから。ナクルは自分に約したのだ。恩義に報いると、必ず果たすと。そのために、この小さな背中を守りきるのだと。
幼なじみだから。アルティナの王女様だから。そんな理由ではない。あのときナクルを救ってくれたのが、他でもないキーシャやシャレルだったから。だからナクルは恩を返すのだ。
置かれた信頼があって、込められた期待があるなら、応えねばならない。何よりも、ナクルがそうありたいと望んだのだから。
「私は変わらないわ。今、そういうことを話しているのではないでしょう」
「そうでしょうか」
「そうだわ。おかしなことを言わないで」
にじんで見えたわずかな不快感。キーシャの顔に浮かんだ感情がどんなものであれ、間近に見ることができて安堵する。
「――では、参りましょうか。キーシャ様」
「……どうして笑っているの?」
「さあ、どうしてでしょう」
ふくれっ面をしながらそっぽを向き、先を歩き始めたキーシャのうしろに続く。
ナクルは決めたのだ。
キーシャのために心を砕くと。どんなことが起きても必ず守ると。
キーシャから二歩離れた位置。それがナクルの定められた場所で、キーシャとナクルの関係性。
決してその隣にはいられずとも。