85,憂える瞳は映し出して
「うえええ……」
卓に突っ伏した今の状況は、我ながら情けないと思う。閉じた目蓋の裏で味覚が強さを増し、ラスターは仕方なく目を開けた。口の中に残る苦味は変わらなくても、視覚が戻ったことで感覚があちこちにちらばる。軽減された感覚すら覚えた。
下を向いたのは失敗だった。何か別のものまで吐いてしまいそうだったので、丸めた背中をしゃんと伸ばす。こんなところで吐くなんて、それだけは回避せねばなるまい。
「だらしがないわね」
「だって……」
それは翌日のこと。
体調が良くなるようにと、ラスターの覚えている中でも過去最高に苦いクゥートを、母親から問答無用で渡されたのだ。ラスターは知っている。あくまでも表向きの理由であって、ラスターの体調が悪かろうと悪くなかろうと、その薬湯を必ず飲まなければならないことを。
選択の自由なんてない。飲まなければ、飲むまで出され続け、無言の圧力をかけられるだけだ。ならば早めに済ませてしまった方がいい。幼かったラスターは、早々にそれを学んだ。
これでもかと苦くされた味に、いくらあの頃よりは慣れているラスターでも、渋い顔をせざるを得なかった。その結果、冒頭に至る。
以前母親のクゥートを飲んだのはもう十年も前だというのに、飲んだときの記憶が鮮明に蘇ってくる。もしかしたら、当時よりもさらに苦くなっているのではないだろうか。腕を上げたという意味でも、それはありそうだ。
「安心なさい。使っている材料は、身体にいいものばかりだから」
喜ぶところなのだろうけれど、まったくもって喜べないというのはどうしたことか。
気づかわれているのはわかる。昨日シェリックが口を滑らせたこともあって、考慮した中にラスターの体調を入れたのであろうことも。
嬉しくないのではない。素直に嬉しいと言えないのは、この不思議な気づかわれ方であって、もっと別の方法を採れなかったのだろうかと疑いたくなるのだ。
「昔より苦くなってない? お母さんのクゥート」
「あら、そう? そんなことないと思うけど」
気のせいだと思いたい。思いたいけれど、ラスターの中にあるのはかつての記憶だけだから、真偽のほどはわからない。
ラスターが飲み干したグラスをじっと見つめて、レーシェはぼそりとつぶやく。
「――でもこれでいけるなら、もう少し苦くしても良さそうね」
「……」
聞かなければ良かった。
この次があるのだと、可能性を考えた今でも既に遠慮したい。そうなる前に逃げよう。絶対に逃げよう。何としてでも逃げよう。
意思を固めたところで絶対にそうできるのだという保証はどこにもないけれど。
「――はい? どなた?」
不意に飛ばされた声。それはラスターに向けられたものではなく、外から聞こえてきた音への応答だった。
「失礼するわ」
「あら、どうなさいました? キーシャ様」
開いた扉から顔を覗かせたのは、ラスターも知っている人物が二人。キーシャと、そのすぐ後ろにはナクルが控えていた。
ナクルと視線がぶつかってなんとなくお辞儀をすると、ナクルも合わせて会釈を返してくれた。
「訊きたいことがあって来ました。レーシェ、少し、あなたの時間を頂いてもいいかしら?」
「ええ、構いませんわ。キーシャ様直々のご依頼とありましては、お断りするわけにはいかないでしょう?」
「そんなつもりは……」
「冗談です。ではキーシャ様、参りましょう。――後は頼んだわ、みんな」
「はあい。こちらは任せてください」
ラスター以外の三人が各々異なる反応を見せる。
声をかけたレーシェは、裾を颯爽と翻しながら部屋を出て行った。着ていた長衣はそのままにして。
一度だけこちらを向いたキーシャの目が、ラスターとかち合わさる。
「――キーシャ様」
「ええ」
促されたナクルへとキーシャは返事をする。ラスターがキーシャと言葉を交わすより早く扉は閉じられ、二人の空間は隔てられたのだった。
**
「――それで、私に訊きたいこととはどういったことでしょう、キーシャ様?」
薬室を出てからいくばくも経たないうちに、後方から尋ねられる。
先頭を歩くキーシャに追従する形でナクルが、二人のあとを追いかけるようにしてレーシェがついてきている。
微かに動いた主の肩には気づかないふりをして、ナクルは後ろを顧みた。
「歩きながらお話しすることではありませんので、少々お待ちください。どこかで腰を据えましょう」
「世間話でもなく、あの部屋では話せはしない内容でもあると、そう解釈してもよろしいのかしら」
わざとなのか、それとも本気なのか。ナクルにはどうしても、こちらを試しているような言動に聞こえてならない。
「構わないとおっしゃるのであれば、あちらでお話しいたしましたが」
「それは、私にとって都合の悪い話かしら?」
「――いいえ」
黙って聞いていたキーシャが、返答とともに足を止める。
「レーシェに、というよりはラスターに、だわ。昨日のことを訊きたくて、あなたを連れ出したの。あそこで話したなら、ラスターに聞こえてしまうから」
「あら、それはお気づかいありがとうございます」
レーシェは苦笑を浮かべて、ふ、と息を吐いた。
「――けれど、それは無用の気づかいです、キーシャ様」
鋭くなった声質に、ナクルはキーシャの前へと動く。
レーシェがキーシャを害することはないだろう。それでも、万が一ということだって考えられた。
「ラスターはリディオルの案を聞いて賢人になると決めた。それならば、遅かれ早かれこういう事態に遭遇することは予想できていたでしょう。ラスターが決めた覚悟は、そんなことで崩れるようなものではないと思っております」
「ですが」
言うべきか言わざるべきか。ためらいの間をかき消し、ナクルは再度レーシェに告げた。
「ですが、あなたはそれでよろしいのですか」
「よろしいも何も、慈悲など必要ないでしょう。今回はたまたま私がそこにいた、ですからキーシャ様は配慮した、それだけのことでしょう。次もあるとは限りませんわ。あるいは、次も私がここにいられると、どうして断言できましょう」
レーシェの話す『次』。王宮から去っているかもしれない。ラスターの傍にはいないかもしれない。もしくはエリウスのように、殺される可能性だって捨てきれない。つまりは、そういうことだ。
「ユノの一件があります。私も狙われていないとは限りません。元賢人の命なら、垂涎ものではありませんか?」
どこまでも客観的に、レーシェは自らをそう称する。レーシェの言は正しい。アルティナにおいて模範となる、あるべき姿だと言えよう。
それでも私情を挟まないもの言いに、ナクルは眉根を寄せた。
「それに、あの場にいたのはラスターだけではないですわ。セーミャにとっても同じこと。等しく尋ねてみたならいかがでしょう」
「……セーミャに?」
「ええ」
訊き返したキーシャへ、レーシェはなおも言い募る。
「ああ、でもそうですわ。今、セーミャを庇える方は傍にいないかしら。私のような人は、誰も。それは不公平ではありません?」
わかりきったことをひとつずつ口に出して、レーシェは理屈を振りかざす。
それでは、あまりにも――
「ならば、私の出る幕はありません。ラスターにも自由に訊いていただいて結構です。それであの子が思いつめて壊れるなら、そこまでだったと、言わざるを得ませんわ」
よそごとのように語るレーシェの様子に、ナクルはとうとう我慢ならなくなった。
「――あなたに情というものはおありですか、毒使いの魔女……!」
押し殺し損ねた激情が言葉に乗る。これ以上隠しきれない感情をそれでも抑えようと努めて。レーシェは身体の前で腕を組み、冷たい目でもってナクルを見上げてきた。
「賢人になるにあたって、親の情も血縁も関係ない。それは、アルティナでよく知れたことでしょう? ここは実力主義。そう決めたのは、あなたの主である王族の方々ではなくて?」
言われるまでもないこと。
知っていたはずだ。ここでは力量、腕前、能力が全てで、他には何もないと。情や絆など、一切関係がないのだと。
「……そうですね、あなたに訊いた私が愚かでした」
「ナクル」
たしなめるキーシャに場を譲り、出かけた足を後ろへと下げる。
わざわざレーシェから、改めて教わるまでもない。アルティナがアルティナであるべき道理で、今のアルティナという国を造り上げた根拠だからだ。
さらに挙げるなら、根本も、訊く人物さえも間違っていた。賢人という地位に就くために、故郷の人々を犠牲にした人物。ナクルの眼前にいるのはその張本人だ。そんな人物に情けを求めることからして失策だったのだ。
吐息だけで笑われた気配がして、ナクルはつと顔を上げる。
キーシャではない。今の気配は、もう一人。
「あなたに私のことが言える?」
「それは、どのような意味でしょうか」
弓なりになっていたレーシェの唇がゆっくりと動いて。
「キーシャ様の幼なじみに過ぎなかったあなたが、どうやって大国の王女様の護衛に就けるようになったのかしら」
ナクルへと、そう問いかけてきた。