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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
五章 アルティナ王国Ⅱ
84/207

84,泣けない一人


 開いた目にうっすらと見えたのは、真っ暗な天井だった。澄ました耳には何ひとつ音が聞こえてこないから、今は寝静まった時刻なのだろうと推測する。

 その場に半身を起こし、腕と肩を伸ばす。少なくとも半日以上は経っているだろう。昨日もそうだったけれど、長い間寝られたのは久しぶりだ。長時間寝ていたおかげでずいぶん楽になった。寝る前と比べると、身体は格段に軽い。

 まだ陽が照っていた頃に旧友が訪れ、話をしたことは覚えている。寝すぎたのでなければ、恐らくは昼間のこと。今はまだ日をまたいではいないはずだ。もしくは日が変わるぎりぎりの時刻。

 慌ただしく駆け込んできた知らせに、旧友が引っ張られていったのを見たけれど、そのあとどうなったのかはわからない。

 旧友がここに戻ってきた気配はない。戻ってきたとしても、恐らくは自分が眠っていたのを見て引き返したのだろう。四人目の賢人が亡くなり、忙殺されているのだろうことは想像に難くなかった。


 素足を床に下ろし、闇に慣れた目で歩き始める。元より自分に明暗などさしたる苦ではない。目で見えないならば、別の方法を使えばいいだけだ。そうして手探りと風探りで見つけた取手をひねり、扉を開いた。

 どうせ暗がりで、こんな夜なら就寝しているだろう。決めた心は、しかしながらその瞬間に裏切られる。

 なるべく静かにとはいえ、ひと息に開けてしまったおかげで、隣室の明るさを直視してしまった。耐えきれず目を閉じようとしたわずかな間に、誰かを見た気がした。

 目の錯覚などではない。呑んだ息は自分のものではなかったし、気配もちゃんと感じられる。覚えた頭痛は、予想すらしていなかった人物だったから。

 いや、可能性としてはあった。本人だと思いたくなかっただけで、頭がそれを認めたくなかっただけだ。


「リディオル殿?」


 潜められた声は、今の時刻に配慮してのことか、室内で熟睡している様子のユノを気遣ってのことか。あるいはそのどちらもか。

 状況を整理したい。切に、時間を欲した。


「起きられたんですね」


 ともすれば呑気にも聞こえる様子。どうして、ここにいて、そんな言葉をかけてくる。うめき声を漏らさず、頭を抱えなかっただけ、自分に及第点をあげたい。


「――あんた、何してんですか」


 言いたかったことの全てを堪え、辛うじてそのひと言を発する。ようやく慣れてきた明るさを、こめかみを押しながらにらみつけて。


「お加減はいかがです? リディオル殿、シェリック殿が出て行かれてからずっと眠っていたんですよ」


 ユノに繋がれている点滴を見ながら、何かを書きつづっていたセーミャがそこにいた。その目は手元に落とし、書面とユノとの間を往復して。


「あ、でも少し待ってください。これだけ書けば終わる――」


 リディオルはセーミャに近づき、その右腕をつかみ上げていた。宙ぶらりんになった右手は動きを止める。その代わりと言わんばかりに、丸くなった目がリディオルを見上げてきた。


「びっくりした……なんです?」


 答えたセーミャはリディオルの知るセーミャで、普段どおりの受け答えをする。どうして腕を取られたのかも、わからない顔で。

 どうしてなんて、訊きたいのはこちらの方だ。

 リディオルは、意識を取り戻してすぐに風を飛ばすことを試みた。万全とまではいかずとも風は飛ばせたし、その風が探していたものを見つけてくれた。リディオルと最後に話した治療師の無残な末路を。そこで上がった悲鳴は、今目の前にいるセーミャの悲痛な叫びだった。

 だというのに、どうして。ここにいるセーミャは、何事もなかったかのように振る舞っているのか。

 いつもどおり、変わりなく。治療師が死んだことなど嘘だったとでもいうように。そんなことはなかったのだと――いや、なかったことにしたいのだろうか。


「……俺みたいに倒れても知らねぇぞ」


 視線とともに、追及しかけた言葉も逸らす。


「治療師が倒れたら、治せるものも治せなくなるじゃないですか。わたしは、見習いですけど」


 加減はわきまえていると言外から読み取れ、嘆息たんそくする。加減を見誤り、倒れてしまったリディオルが忠告すべきことではないか。


「難儀なもんだな」


 セーミャの腕から手を離す。解放されたその腕は書きものを再開させることなく、だらりと下げられた。


「どうしてです?」

「見習いには、悲しんでる暇すら与えられねぇってか」


 リディオルが何を言いたいか感じ取ったのだろう。変化の見られなかったセーミャに、初めてそれが現れた。


「……わたしが望んだことです」


 唇が引き結ばれ、その顔から一切の表情が消える。


「望んだことだとしても、その感情にちゃんと従ってやれ。本来の感情が出せなくなって、そのうち感覚が麻痺まひするぞ」


 死にとらわれて、後悔ばかりが彼女を包んでいるようにも思える。でなければ、こんなに感情を押し殺した瞳をするわけがない。無理に作られた無表情。それが崩れる日が来ないと、どうして言えよう。

 しばらく互いに無言のままだった。リディオルから目を背け、去来する思いを押しとどめているのか、感情を出すまいと堪えているのか。

 隠された感情の全てを暴けるほど、リディオルはセーミャと親しい仲ではない。セーミャがどれほどエリウスの近くにいて、何を思っていたのかなんて知りもしない。それに、エリウスが何を考えて自分にあんな頼みごとをしてきたのかも。


「――わたしは、最低なことを考えました」


 ぽつりと、セーミャはつぶやいた。

 リディオルを向かず、どこを見るでもなく、床に視線を落としたまま。


「どうしてお師匠様なんだろう。どうして他の誰かではなくて、お師匠様だったんだろうって。他の賢人が狙われていたら良かったのに」


 それはきっと、告解だった。『いつもどおり』でいようとしたセーミャの心のうちで、『いつもどおり』でいなければならなかったセーミャの懺悔ざんげだった。

 セーミャは自身の両腕を抱え、リディオルをしっかりと見据えてくる。


「倒れるだけなら、お師匠様なら良かったのにって思いました。そうすれば助けられた。亡くなったのがシェリック殿だったら――あなただったら良かったのにとも、考えてしまったんです」

「……そうかい」

「だから、駄目なんです」


 セーミャは言う。合わさった目を外して。


「こんな最低なこと、一瞬でも考えてしまったわたしには、悲しむ資格なんてないんです」


 言い終わるとセーミャはリディオルから離れ、止めていた書き物を再開する。向けられた背に拒絶の意思を感じ、リディオルはそれ以上声をかけるのをやめた。

 ――そうではない。声をかける以前の問題だ。リディオルは何も言えない。リディオルには、セーミャに何も言えやしない。

 だってそうだろう。自分は、もしかしたらエリウスを止めることができたかもしれないのだ。何をしても、どんな手段を講じてでも引き留めるべきだった。自分は、そうしなければならなかった。

 だから、リディオルに言えることなど、何もありはしないのだ。



  **



 聞こえてきた会話に意識が浮上したのは少し前。

 そこに入っていいのかわからず、寝たふりを決め込んでいた。寝たふりをしたところで耳がふさげるわけもなく、結局全てを聞いてしまったのだけれど。

 扉の音が微かに響いて、ユノは薄目を開いた。

 もう大丈夫だろうか。開いた視界に、佇む一人を見つけてしまった。

 見慣れているはずのうしろ姿に違和感を覚えたのは、羽織っていたのが黒でなかったからだろう。照明をより明るくさせる白。その色は周囲と同化しているはずなのに、彼にはひどく不釣り合いだなと思ってしまった。

 不意に振り返ったリディオルと視線が合わさり、目を閉じなかったことを後悔した。力の抜けた笑みが浮かべられ、リディオルがこちらへやってくる。


「起きてたのか、おまえ」

「すいません……少し、前に」


 話を聞いてしまったことへの罪悪感が浮かんできた。誰かの懺悔ざんげを、許しを請おうともしない告白を、勝手に聞いてはならなかった。


「別に、構わねぇさ。それに、謝るのは俺の方だ」


 ユノの枕もとでしゃがみ、リディオルは深々と頭を下げた。


「えっ、いや、リディオル殿……!」


 これにはユノも慌てた。起き上がろうとした視界の中に透明な管を見つけてしまう。繋がれた点滴にためらったその間は、リディオルが謝罪を述べるのに十分だった。


「対策が万全でない状態で実行し、結果おまえを危険な目にさらした。謝って済むことじゃねぇが――すまねぇ。俺の失策だ」

「よしてください、リディオル殿だって、過労で倒れたって――っ」


 今度こそ勢いよく半身を起こしてしまったせいで、左肩に痛みが走る。今まで感じていなかったのが嘘のように、鈍い痛みがそこに留まった。

 誰だ、痛みがないと主張していたのは――ユノだ。


「俺のは自分で招いた業だ。おまえが気にすんじゃねぇ。どう見てもおまえの方が重傷なんだ、回復させることに専念しろよ」


 自問自答をして遊んでいる場合ではない。リディオルが頭を下げる必要なんてないのだ。ユノは、リディオルの指示に従っただけなのだから。

 ――それは、やはり、指示を出した側が責を負うべきなのだろうか。そんなことはないだろう。いつでも強引で、遊ばれてもいたけれど、嫌なことなら嫌と、ユノは告げていたのだし――それが受け入れられた試しはなかったような気も知るけれど、それはともかくとして。


「リディオル殿に……頼まれたことがまだ終わってません! 灯りだって、作成が途中で止まっています!」

「おまえ、いつからそんな仕事中毒者になったよ? いいから、こっちは任せてゆっくり休んでな」


 歯を食いしばってリディオルへと噛みつくも、涼しい顔で追い払われてしまう。

 いつもだったら、文句はあっても受け入れられた。けれど、今回ばかりは違う。


「それを言うなら、リディオル殿もですよ。なんで、過労なんて……」

「曲がりなりにも賢人だからな。おまえらとは仕事量がちげぇの。やることたんまりあるの。おわかりかよ?」

「それは……そう、ですけど……」


 立場を持ち出されると反論しづらい。リディオルの言うとおりだからだ。

 ユノはリディオルが手がけている全てを知らない。リディオルはユノへと指示を出すのだから、その全てを把握している。つまりは、そういうことだ。

 不平を鳴らそうとしかけた口をつぐむ。今言うべきは不平でも不満でもない。代わりの言葉を探して、ユノは口を開いた。


「――でしたら、早いとこ治して、リディオル殿の助けになります」


 虚を突かれた顔をじっと見つめると、その一瞬後にぶはっと吹き出される。


「努力してどうにかなるもんじゃねぇだろ、それ」

「気持ちの問題です。病が気からと言うなら、治りの早さも気の持ちようです」

「おまえ、無茶苦茶言いやがんな」

「破天荒な方に教わってきたからですよ」


 誰とは言わない。それでもきっと、ユノが誰を指しているのか気づいただろう。その張本人への、せめてもの意趣返しだ。

 肩を揺らして笑っていたリディオルが立ち上がる。


「――けどま、ありがとよ」


 その笑みのまま、リディオルは言ったのだ。



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