83,願い、祈る先に、神は
――頑張って、やれるだけやって、それでも駄目なら、神様にお願いするしかないんじゃないかな。
それは以前、落ち込んでいたセーミャに向けて、師が話してくれたことだ。
人を救う技術を持ち得ているのに、非現実めいたことを語る師がおかしくて、ついつい吹き出してしまった。師でもそんなことを言うのだと、告げた覚えもある。だからだろう。語られた一言一句まではっきりと覚えているのは。それから、確かこうも言っていた。
――だって、できないものはできないじゃない。自分の力でどうしようもならないんだったら、あとは誰かに頼るしかないでしょ。なるようにしかならないんだから。
怠け者で、適当で、ひと筋縄ではいかない人だった。そのくせ反省なんて一切せず、見習いたちがどれだけ言い聞かせてもどこ吹く風の人だった。
いつも手に負えなくて、手間取らせられて。師の力が必要な度、訊きたいことや教えてほしいこと、ただの伝言をしたい時ですら王宮のあちこちを探し回って。
見習い総出で、血相を変えて探し回っていたのが、いつの日から一人減り、二人減り、ついにはセーミャ一人が探す役目を負うようになった。セーミャがいち早く見つけるものだから、だったらセーミャに任せればいいと、先輩や同僚に押しつけられて。
ほら、苦労ばかりかけられていた。一番近くにいて、誰よりも迷惑を被って、煩わしくて。
それなのに、思い出すのは心に残った言葉だ。たまにかけられた優しさだったり、そんなきれいな記憶ばかり。
どうしてそんなことばかり思い出すのだろう。眠っているだけにも見える師の顔が穏やかで、今にも起きてきそうだからか。「あれ、セーミャ。君、何してるの」とか「僕の顔なんか眺めてて楽しい?」なんて言いながら起き出してきそうだ。
けれども、その声はもう二度と聞けなくて、その瞳も、もう二度と開かれることはなくて。
本当は面倒だった。どうして毎回毎回手を焼かせてくれるのだろうと、この役目を押しつけた見習いたちを呪いさえもした。多大な労力を要して、手間がかかって、大変で――だからこそ、セーミャは他の誰よりも師の近くにいることができた。傍にいて、師の腕前や心得を学ぶことができた。
――治療師が倒れちゃ元も子もないでしょ。休息は必要。どんなときでも僕ら治療師がいるから安心して過ごせるように、ってしたいよね。もちろん、怪我とか病気しないのが一番だけど。
どんなときでも――
視界の端に忙しなく動き回る仲間の姿を見つけて、セーミャはぼんやりと思う。ずっとここで座っているわけにはいかない。戻らなければ。あの中に。動かなければ。セーミャは動けるのだ。動かせる手も足も、考えられる頭だってあるのだ。ここで眠っている師とセーミャは、違うのだから。
「……お師匠様、行ってきますね」
返ってくるはずもない答えを待ちはせず、セーミャは腰を上げる。
どれだけ祈ろうが、願おうが、叶わないことだってある。師が間違った教えを説いているのではないとわかっていても、現実はいつだって無情だ。
欲したところで簡単に手に入れられはしないし、望んだところで必ずしも成就するわけではない。今も、昔も、それを教えられる。否応がなく、思い知らされる。
願うだけでは、何ひとつ変えられやしない。
祈るだけでは、どこにも届くわけなどない。
頑張って、やれるだけやったその先に、叶わない願いだってあって、物事の全てが幸せな結末で幕を閉じるわけではないのだと。
だから、セーミャはわかったのだ。そのことに気づいてしまったのだ。図らずも知ってしまったのだ。
神様なんて、どこにもいやしないのだと。
**
――嬢ちゃんには囮になってもらいたい。
ラスターの脳裏によぎったのは、リディオルから面と向かって頼まれたことだ。
それはもはや頼みごとというよりも申し入れというか、要求されたというか、半ば強要されたというか――この期に及んでいきさつを追及することはしないし、仮にしたところで意味などない。なぜなら、最終的にそれを決めたのはラスターだからだ。
ラスターが教えてもらったのは、自分だけでなくユノも囮とされていること。囮の数を増やして、賢人を殺した犯人がそれに食いつけばいいと、そんな内容だった。
リディオルの目的は、ある意味では達成された。賢人になったラスターではなく、ユノがけがを負ったことで。けれども、それだけだ。つかめた手がかりはないに等しく、それどころか賢人がもう一人殺されてしまうという事態に陥ってしまった。
どうしてこんなことが起きてしまったのだろう。そう思わずにはいられなかった。
ラスターを含め、治療室であちこち動き回る人たちは、エリウスを治すために動いているのではない。ユノとリディオル、二人を治療するため。そして、エリウスを葬る準備をしているため。
親族の者はいるのか、連絡はつくのか。後任はどうするのか。今この場をまとめる人は。葬送する方法は。そんな話がちらほら聞こえてくる。
ラスターはレーシェに連れられてここまで来て、命じられたそのまま補助をしている。それはいいのだ。けれど、どうしても視界の端に映る姿が気になってしまう。
エリウスが横たえられた寝台の傍ら、そこにいる一人の姿。微動だにせず彼を見つめて、セーミャは長いことそこに座っている。悲しむことも嘆くことも、そもそも声を発することすらせず、ただじっと座ったままだ。
何もせずにいるその姿は周囲の見習いたちと対照的で、そこだけ浮き彫りにされたように目がいってしまう。
目の前のエリウスを見ているようで、その実、何も見ていないのではないか。見えていないのではないかという想像すら浮かんで、背筋に冷たいものが走った。そうこうしていたら、声をかける機会を逃していたのだ。
そもそも話しかけていいのだろうか。こういうときはそっとしておいてあげた方がいいのではないか。二の足を踏みながら、ラスターは何も行動を起こせずにいた。
「ラスター、そっちは終わった?」
「あ、ごめんなさい、まだ!」
レーシェの声に呼び戻され、ラスターは止めていた手を動かす。
「それが終わらないと次の薬に取りかかれないの。急いで?」
「う、うん」
優しく、柔らかく言われているのに、目が全く笑っていない。今はセーミャのことより、自分のことを気にした方が良さそうだ。
この人は怒らせると容赦ない。何十回――へたをしたら何百回。ラスターが今よりもっと幼い頃、それだけの数を飲んだクゥートを思い出し、自然と心が引き締まった。
幼いから。子どもだから。そんな言い訳など通用しなかった。
これ以上遅らせてしまったら、母親は絶対にクゥートを作り始める。それも、とてつもなく苦いクゥートを。母親の腕ならば苦くないクゥートを作ることだってできるだろうに、わざわざ苦くこしらえてくるのだ。
いくら身体には良いものだと言っていても、苦すぎる薬湯は拒否したいのが本音だ。
「――セーミャさん?」
気になる名前が聞こえ、ラスターの意識もついついそちらへと向かった。
ラスターがセーミャから目を離したのは、母親と話していた少しの間だけだ。そのわずかな間でセーミャは立ち上がり、忙しなく動き回る仲間の一人へと近づいていたのである。
歩きながら結いあげ、後頭部の中央でまとめた髪から手を離して。
ラスターだけではない。他の治療師見習いたちも、固唾を呑んでその光景を見守っている。
「まだ休んでいてください。俺たちだけでも、全然――」
「ルース」
誰もが手を休めて見守る中、セーミャは彼へと告げた。
「わたしも手伝います」
「ですけど……」
「大丈夫です。今は一人でも人手が欲しいところでしょう?」
対する彼が弱りきった顔で腕組みをする。セーミャの言うことはきっと当たっているのだ。それなのに彼がためらうのは、今までのセーミャの様子を見ていたからだ。
理屈と、感情と。ラスターにだってわかる。彼が迷っていることを。あれだけエリウスの傍にいたセーミャを、治療師の仕事へと戻していいのか逡巡していることを。
「わたしも治療師の端くれですから、わかります。お師匠様がいない分、人も足りていないでしょう? わたしは見習いですけど、それでもお役立てはできます」
「知ってるよ、それは……」
悩んでいた彼は、地の底まで届きそうなほど長い息を吐き、組んでいた腕をほどいた。
「――わかった。お願いします、セーミャさん」
「お任せください」
セーミャは頷き、一度ラスターへと向いた視線がふいと逸らされる。
入口脇にかけられていた白衣を羽織り、セーミャは手を洗い始める。一連の流れを見ていた他の治療師見習いの人たちも、元の作業へとぎくしゃくと戻っていく。
ラスターからは背を向けたまま、自身の手を洗うセーミャ。
――早くユノ殿を見つけましょう、ラスター。
昨日ラスターを元気づけてくれたセーミャが嘘のようで、今の静かな様子が怖いとすら思ってしまう。
師が亡くなってしまったことを、悲しんでいないはずがないのに。つかの間合わさったセーミャの瞳が、いつもよりほんの少しだけ赤かった気がして――
「ラスター?」
低い呼び声に肩が跳ねた。恐る恐る振り返ると、大変にこやかな笑みを浮かべて、こちらを見る母親がそこにいて。
これはまずい。
「あとでおいしいもの飲ませてあげる」
「……はい」
奈落の底に突き落とされるような、そんな宣告をされた。