80,真白き声に消されて
「はい、三回目」
涙のにじんだラスターの目が捉えたのは、何食わぬ顔で赤い実を摘み取った横顔だった。
意図がわからず、二度瞬かせる。その横顔がラスターへと向かれ、ようやく先の言葉が自分にあてられた言葉だと知った。
レーシェの意味深な微笑。
それが指す意味にも思い当たり、ラスターは首をすくめる。
見つからないようにしていたのだ。かみ殺しきれなかったあくびはわずかに漏れて、少しの涙に変わってしまったけれど。その痕跡を、どうやらばっちりと見られていたようだ。
加えて回数の指摘。今までラスターがこっそりこぼしていたあくびの数と同じ。今の一回だけでなく、三度全て気づかれていたということ。
「……ごめんなさい」
ラスターの完敗だ。レーシェの目は一体どこについているのだろう。
「そう邪険にしてやるな。寝られなかったのも無理はないだろう。体調もまだ回復したわけじゃないだろうし」
「あなた、いつからそんなに甘くなったの? それに体調って、どこか悪いの?」
問い質すレーシェに、ラスターは口を開けなくなる。
言えない。口が裂けてでも言いたくない。ほんの数日前に倒れただなんて、そんなこと。
昨昼の会話を思い出してみてもわかる。今回だって、もの申される対象がシェリックになることは明白だ。要因となったのもシェリックで、だからそれは紛れもない事実なのだけれど――ラスターが求めたのはそうではないというか。
「初めて王国に来たんだ、共和国とは気候も文化も違う。身体が慣れないのも仕方ないだろう」
「ふうん……?」
両手で口元を覆い隠したまま、ラスターは会話する二人を順繰りに眺めた。
母親が『レーシェ』と呼ばれる度に、彼女はそうなのだと納得せざるを得なくなる。この場所で彼女はリリャではなく、レーシェなのだと。そう言い聞かせる。
昨夜レーシェが作ってくれた薬草茶を飲み干したあと、それまで眠れなかったのが嘘のように不思議と眠りに落ちたのだ。今朝の目覚めもよかったのだが、すっきりとしていたのは起きてからしばらくの間だけだった。いざこうして動き始めると、次第に眠くなってきたのである。
薬草茶の効果が残っているのか、もしくは眠りが浅かったのか。
日差しがぽかぽかしているのがいけない。こうも暖かく、すごしやすくしてくれるから、その誘惑に勝てないではないか。
眠れたとは言ってもあのあとだけだったから、ラスターがいつも寝ている時間と比べたなら明らかに足りない。ぼやっとする頭があって、新しい考えを生み出すよりは、今までに起きたことを思い返す方が遥かに楽で。だからきっと、余計なことを考えてしまうのだ。
輝石の島で起きたことを。シェリックと、真っ向から対峙してしまったことを。諦めたくないのに、諦めなくてはならなくて。無力な自分はただ身勝手な言葉を投げつけるしかできなくて。
もっと別な対応ができたのではないだろうか。冷静になって、落ち着けていたなら、あの時とは違う言葉で説得できただろうに。
きっと今同じことを言われたなら、あのときみたいに、激情のまま口を走らせることはないだろう。今のラスターには、抑えられる余裕がある。今ならそうできるのだと、ラスター自身が理解している。
「――また無理をするなよ」
そうささやかれ、ラスターは隣まで来ていたシェリックを仰ぐ。いつの間にかレーシェとの話を終わらせていたようだ。
ラスターが勘ぐったのは一瞬。心が読まれたかと思った。
「大丈夫だよ」
「おまえの大丈夫ほど信用ならないものはない」
「ちゃんと寝たもん」
「ちゃんと寝られたなら、あくびするわけないだろう」
確かにそうである。シェリックにまで気づかれていたなんて。これでは、ラスターが隠そうとしていたことが無駄になってしまったではないか。かけた労力に対する見返りがないどころか、恥をかかされたなんて。納得がいかない。
「熱は?」
伸びてきた手から逃げ遅れ、ラスターの額にシェリックの大きな手が添えられた。
「……ないよ?」
「なんでそこは疑問なんだよ。ああ、確かに。ないか」
一連の流れを見とがめたのはレーシェだ。
「――ちょっと。私の可愛い娘にちょっかいかけるつもり?」
ラスターに抱きつきながら、レーシェはシェリックへ威嚇する。
「……おまえの目の前でそんな怖いことできるか」
ラスターから外した手を宙に浮かせ、シェリックが目を細めた。心外だとでも言いたそうに。
「まー、失礼なこと言うわね」
シェリックの傍から離され、されるがままのラスターはちょっぴり複雑な気分だ。
レーシェはこんな人だっただろうか。長年の時間が経過しているせいか、ラスターの記憶の中にあるレーシェの性格と合致しないのだ。別れたのが幼い頃だったから、はっきりと思い出せない。ひと目見た時には、あんなにはっきりとレーシェだとわかったのに。
それに、シェリックも。心配してくれるのはわかる。けれども、輝石の島で倒れた時からもう五日も経っているのだ。そこまで過保護にされなくたって、ちゃんと動けるのに。
「今日はどこかで一回お昼寝でもしましょうか。いい天気だし、森のところは風とおりもいいから、涼しくて最高よ」
「うん」
それはいい。レーシェの提案はとても魅力的なものだったし、何よりそれは寝心地が良さそうだ。みんなでお昼寝なんて、とても楽しそうではないか。
夜と比べると、やはり明るいうちは暖かい。レーシェが言うように、この時刻は風が心地よく吹いていることだし。
「あー、はいはい。好きにしろよ。ほら、こっちは終わったぞ」
「ありがとう。人手がいると助かるわ」
レーシェはラスターを解放するとすかさずかごを差し出し、シェリックがつんだ薬草を受け取る。かごの中身を確認すると、満足そうに頷いた。
「うん、このくらいでいいかしら。ラスター、あとはあっちの端の、黄色い花が咲いてる植物の葉っぱ持ってきてくれる?」
「葉っぱだね? どのくらい?」
「二十枚くらいで、若いのがいいわ」
「はーい」
ラスターは二人から離れ、レーシェが指さした方へと小走りで向かう。
ラスターと、レーシェと、シェリックと。思えば奇妙な顔ぶれである。
朝から三人で集めているのは薬草だ。昨日ユノへと持っていった分で熱傷に使う薬の在庫がほとんどなくなってしまったため、その材料となる薬草をこうしてつみに来たのである。ちなみにシェリックがここにいるのはなりゆきだ。朝様子を見にやってきて、それを見たレーシェに半ば強引に手伝わされているのである。
目的の葉を見つけ、ラスターはシェリックと、シェリックを手伝わせたレーシェとをこっそり見やる。
賢人なのに。偉い人だろうに。一緒に薬草を集める姿がなんだか不思議で。
ラスターが思う『賢人』は、リディオルの印象が強い。リディオルと、その見習いであるユノと。傍若無人にも思える振る舞いで、見習いを従えているような。
シェリックがリディオルと同じだとは思わない。レーシェだって違うだろう。だから、ひと言に『賢人』と言っても色々な人がいるのだなあと思ったのだ。
ぷちっと音がして、指先でつまんだ葉が茎から外れる。途端、草の匂いがそこに漂った。
ラスターはふと思い当たる。でも、そうか。ラスターも賢人なのか。
二人の方から流れてきた風をなんとなく目で追う。どこまで行くのだろう。風の終点を見つけるよりも早く、花壇の向こうに見えた人がいた。なんとなしにその人を観察すると、それが思いがけず見知った顔で、ラスターは声を上げた。
「――あれ、セーミャ?」
そこにいたのは治療師見習いの女性だ。きょろきょろと辺りを見渡しながらやってくるその姿は、何かを探している様子。視界に入っていないのか、まだラスターたちには気づいていない。
ラスターはつんでいた手を休め、そちらへ近づく。すると、セーミャはようやくラスターを認めた。
「ラスターじゃないですか。おはようございます」
「おはよう。どうしたの? 探しもの?」
「ええ。お師匠様見ませんでした?」
彼女が師と仰ぐ人。ラスターは昨日出会った治療師を思い出す。物静かだけど的確な指示を出していた人だ。
「ううん、見てないよ。いないの?」
「はい。朝から姿が見えなくて。多分どこかで寝ていると思うのですけど」
先ほどレーシェが提案したそのままを、体現したような言葉だ。
「あら、セーミャじゃない」
話す二人に気づいたのかレーシェとシェリックもやってくる。
「おはようございます、レーシェ殿。それに、シェリック殿も」
「おはよう」
「おはよ。何かあった? 薬が切れたなら、すぐにでも作るわよ」
レーシェが持っているかごを示すも、セーミャは首を横に振った。
「いえ、薬はまだ残っています。もうしばらくは保ちますので、大丈夫です。あの、どこかでお師匠様見ませんでした?」
「エリウス殿? いや、俺は見てないな」
「私もよ。昼寝室で寝ているのではなくて?」
「それはありません。今、そちらでリディオル殿が眠っていらっしゃるので」
断言されたあと。知った名が呼ばれて、ラスターの聞き間違いかと疑った。
「――リディが?」
ラスターより早く、シェリックが聞き返す。その声音に混じった怪訝さは、ラスターも同じ気持ちだ。どうして治療室に?
「はい。昨夜倒れていたところを、たまたまわたしが見つけたんです。お師匠様が過労だとおっしゃっていました」
「あいつは……ちゃんと戻れと言ったものを……」
大きな息を吐くシェリックと意外そうな顔をしたレーシェとを交互に見て、セーミャの表情が困惑に染まる。
「で、でも、二、三日で良くなるだろうとお師匠様が――!」
慌てて説明を入れるセーミャに、レーシェは感謝の言葉を告げた。
「ありがと。それなら、疲労回復に効く薬でも作ってあげなきゃかしら。あの子が倒れるなんて、今まで聞いたことないわよ」
シェリックが大きく頷き返した。
「人に散々忠告しておいて、自分をないがしろにした罰だな。しばらく寝台に縛りつけておけばいい」
「物騒ねえ」
今までされたことへの意趣返しでも含まれているのだろうか。シェリックが本当にそれをやりそうで怖い。
「なんだかこの光景も久しぶりね。昼寝室ができる前はよく探してたでしょう?」
「そうなんですよ。森の方かと思ったのですが、そちらにも見当たらなくて。もう、どこに行ったのやら。あと探していないのは――」
可能性のありそうな場所を指折り挙げて、時折レーシェが賛同する。「そこならいそうね」なんて言いながら。
ラスターは今つんだばかりの薬草をかごに入れる。そうして、セーミャへと尋ねた。
「良かったら手伝おうか?」
先ほどのレーシェの様子から考えても、初めにつむと決めていた量はこれでそろったはずだ。それをひと区切りと考えるのなら、ラスターの手は空いている。熱傷の薬だって、渡した分は残っていると言われたから、そんなにすぐ必要ではないだろうし。
「本当ですか? それはありがたい申し出ですけど……」
「水くさいことは言わない。私も手伝うわよ。人手が多い方が探しやすいでしょ?」
「――はい、ありがとうございます!」
セーミャが勢いよく頭を下げる。
「――あら」
出し抜けの声に、ラスターとセーミャはそちらを向いた。どうやら、シェリックがレーシェの手からかごを取り上げたようだ。
レーシェは軽くなった手と、傍らにいたシェリックとを見比べている。
「なに? 突然」
「なら、俺はこれを置いてこよう。ついでにあいつの様子を見に行ってくる」
シェリックをじっと眺め、レーシェはふうと息を吐いた。
「親友が心配だって言えばいいのに」
「……親友になった覚えはないが。まあ、人並みには心配だな。行ってくる」
そそくさと、そこから逃げるようにシェリックは行ってしまう。
「いつまでも素直じゃないんだから」
「恥ずかしいのかも。ねえ、セーミャ。ボクも、あとで様子見に行っていいかな」
気にならないと言えば嘘になる。薬師として何かできることがあるかもしれないし、それにユノの様子も見に行きたい。どちらも治療の邪魔にならなければ、の話だ。
「ええ、もちろんです。リディオル殿はわかりませんが、ユノ殿は起きていましたよ」
「そうなの?」
それなら話せるだろうか。
ラスターは、ユノからカードをもらったのだ。だから、今度はラスターの番。話すことで、ユノを元気づけてあげられたらいい。
「あとで行きましょうか。エリウス殿を見つけたら、みんなで一緒に、ね?」
「はい!」
「うん!」
ラスターとセーミャの返事が、ものの見事にかぶる。
「さて、一番近いのはどこかしら? さっき言ってた楽士部屋の窓の下と、塔の上?」
「はい。ここからですと、薬草園の端が一番近いかと思います」
「ああ、あそこの大木のところ? 確かに、森以外では絶好の休憩場所だわ。あの人、いい場所押さえてるわね……」
悔しがるレーシェは何を想像しているのやら。先を歩く二人の会話を聞きながら、ラスターは後ろをついていく。だから注意力があったのか、見まわしていたラスターの目がそれを見つけたのだ。
薬草園に不似合いな黒い色。賢人たちが羽織る色彩。向かう先に見える大木ではなく、そこから外れた一本の木陰。大木ではないけれど、その木もそれなりに大きい。ラスター一人くらいだったら、木の幹で隠れられそうなほど。
ちらと見えただけだけど、きっと間違いはないだろう。ラスターが王宮を歩いていて気づいたのは、賢人や賢人見習いしかあの黒い衣装は羽織らないということだった。だって、ラスターは何度も見たのだから。
昨日、ユノを見つけた場所にほど近い。その木に寄りかかった人影はひとつ。
「ねえ――あれ」
思った以上に開いてしまった二人と距離を詰め、セーミャの肩を叩いてもう一度呼びかける。
「セーミャ!」
「はい?」
「あそこにいるの、そうじゃない?」
振り返った首。ラスターが指さした方向を眺めて、目をすがめる。目にしたのはきっと同じものだ。
「あ、そうかもしれないですね。もう、こんなところにいるなんて」
方向を修正したセーミャに続いて、ラスターもそちらへと向かう。
「黒……?」
何かを確かめるように、うしろからレーシェのつぶやきが聞こえる。気にはなったけれど、たいしたことではないだろう。
セーミャが先にたどり着く。その人の背後へと近づいて、手を腰に当てて。
「お師匠様、もう、探しましたよ」
「――セーミャ、ラスター! 待ちなさい!」
叫ばれた声。それより早くセーミャは覗き込んで。
「ほら、寝ていないで早く戻りましょ――え」
一度腰に当てた手がだらりと下げられる。一点を凝視したまま、セーミャの動きは止まった。彼を見ていた目も、話しかけていた口も、彫像のように止まって。
「セーミャ?」
違う人だったのだろうか。それならば、セーミャがこんな顔をするはずがない。こんな、自分の見たものが信じられないような顔など――
唐突に、ラスターの中で嫌な予感が膨れ上がる。セーミャは何を見つけたのだ。
駆け寄ったラスターが。その後ろから追いついたレーシェが。その目に映したのは。
項垂れた頭。木に寄りかかり、膝と地面に落とされたそれぞれの腕。眠っているようにも見えるその体勢の中、ひとつだけ異なる状態があって。
ユノを見つけた時とは比べものにもならなかった。目が離せない。ラスターの呑んだ息が、とっさにセーミャへとしがみついた腕が、おかしいほどに凍りつく。
そこにいたのは治療師だった。白衣ではなく、黒い外套を羽織って。薬草園の香りに包まれていてもわかる、むせるほどの鉄の匂い。ここまで近づかないと気づけないのかと思うほどに。その左胸は外套に同化しながらも赤黒く汚され、ひと振りの短刀が突き刺さって。それだけでは足りないかと言うように、彼の足元にもその赤は侵食していた。
誰も目にも明らかだ。疑いようもなく、セーミャの探していたこの人は――
「――お師匠様ぁっ!!」
ラスターがそれを認識するより早く、セーミャの絶叫が響き渡った。
四章 了