79,明かり、滅した現実は
翌日の目覚めは、とてもじゃないが爽やかとは言いづらいものだった。
「……おはようございます」
誰にでも等しく朝はやってくる。そうとはわかっているものの、払拭しがたいものだってある。持ち越される度合いが大きいほど、それは重くのしかかってくる。たとえば――そう、睡眠欲とか、疲れとか。
「おはようございます――って、うわ、ひっどい顔」
セーミャが寝ぼけ眼で開けた治療室には、既に先客がいた。セーミャと同じ治療師見習いの一人、ルースだ。
羽織った白衣の釦を止めず、そのせいで彼が歩く度に裾がひるがえる。近くに寄ったら邪魔そうだなとぼんやり思いながら、セーミャは自分にかけられた言葉を思い返して。結論。
「……人の顔を見て早々にひどい顔とか、やめてくれます?」
間違っても挨拶と一緒くたにされるひと言ではない。
「だって、ひっどいよ。隈あるし、眠そうだし、元気なさげだし」
入ってすぐにある荷物置き場に鞄を置くセーミャへと、今度はひとつひとつご丁寧に指を差して教えてくれる。
「目がしょぼしょぼしてるし、髪はぼさぼさだし、寝癖あるし、よだれの跡あるし」
「嘘っ」
「嘘」
慌てて口を押さえたセーミャにしれっと言うと、ルースは朗らかに笑うのだった。
「……ひどいです」
「セーミャさんの顔ほどじゃないよ」
「……」
追い討ち一閃。ルースとは今後一切寝起きで相対しないよう心に決める。絶対に避けよう。何がなんでも。
「冗談だって」
「……どこまでが冗談です? ご参考までに教えていただきたいのですが」
「怖い怖い。セーミャさん、目が笑ってないよ」
はぐらかして逃げようとするなら、初めから言わなければいいものを。
これ以上追及して、セーミャの痛手が増えるのもごめんだ。そうでなくとも、起きたばかりで頭がうまく回っていないのだから。
「あのあと遅くまでかかった?」
「それなりにです。でもお師匠様が早めに帰してくださったので、そこまで遅くはありませんでしたよ」
「そっか、良かった。とにかく昨夜はお疲れ様です。いいものあるから元気出して」
苦笑しながらも労わってくれるのはありがたい。出会い頭に人の気分を落としてから上げるのはいかがなものかとは思うのだけれど、上げてから落とされるよりはましだと思い直す。いいものと聞いて疑問が浮かんだ。
「いいものって、なんです? ――あ」
ルースが自分の鞄をあさり、やがてずいと出されたものはひとつ。それを目にして、セーミャは自分の顔が一気に輝くのがわかった。
眠気に疲労。蓄積していたものですら吹き飛ぶとは、まさにこのことだ。
ルースの手のひらに乗っていたもの。それは星命石の原石――輝源石だった。セーミャは加工された星命石しか見たことがなく、師の話を聞きながら、いつかはこの目で見てみたいと思っていたのだ。
まさか、こんなところで叶うとは。
「セーミャさんにあげるよ」
「――え?」
耳を疑う。あまりお目にかかれないから、値の張る品物ではないのだろうか。希少なものに、変わりはないだろうに。
「わたし、お礼できるものなんて何もないですよ」
どうしたら返せるだろう。これにつり合いそうなものは、今セーミャの手元にない。
「別にお返しを期待して渡したわけじゃないから、気にしないで」
「でも……悪いです」
長いこと探していたし、見たいとも思っていた。ルースは、その石をセーミャに進呈すると言うのだ。
何もなくもらうというのは悪い気がする。ためらうセーミャに、ルースがだめ押しをしてきた。
「ほら、いるの? いらないの?」
「その訊き方はずるいです!」
「ただの二択じゃない。それで、どっち?」
そのひと言で、セーミャはとうとう折り合いをつけた。
「……ほしいです」
「じゃあ、決まり。はい、どうぞ」
セーミャの手にころりと転がされたその石は、不格好でいびつな形をさらけ出している。けれども時折陽光をきらりと反射し、瞬きをするかのようにきらめくのだ。
「わー、きれいですね! すごい……ありがとうございます!」
「そこまで喜ばれるとあげたかいがあったかな」
「だって、なかなか見つからなかったんですよ、これ。どうしたんです?」
セーミャには見つけられず、ルースには見つけられる。悔しい気持ちがなかったとは言えない。
「ちょっとした伝手があってさ。知り合いが譲るよって言うから、遠慮なくもらってきたんだ。だからほんと、お礼とか気にしないで。俺も別の石もらったから、こっちはセーミャさんにおすそわけ」
「伝手って……怪しい類ではないですよね?」
「疑り深いな。そんなんじゃないよ――あ、そうそう、ユノ君起きてるよ」
開けていた鞄をしまい込んだルースにならって、セーミャは靴を履き替える。
「ユノ殿の状態は、あれからいかがです?」
「昨日の今日だから何とも言えないけど、先生が治療法を書いてってくれて。俺たちでも対応できるようにって」
「珍しいですね? お師匠様、出かける予定なんてありましたっけ?」
「覚えはないかな。でも、ここを空ける予定があるなら、こっちとしては助かるけど」
ルースの言うとおりだ。昨夜セーミャがいなくなったあとに、手の放せない用事でもできたのだろうか。
話しながら白衣を羽織っていると、寝台で半身を起こしているユノと目が合った。
「セーミャ殿、おはようございます」
「おはようございます、ユノ殿」
いくらか気分が和らいだような表情が見え、セーミャとしても胸をなで下ろす。昨日見つけた時は、それはもう酷かったから。
ユノの、自分で何とかしなければならないという様子は薄れている――と思われる。混乱していた状態も沈静化していそうだ。ひと晩だけでも時間が経ったことで、落ち着きを取り戻したのだろう。
ルースとともに両手を洗い、手拭きで水分をふく。気が引き締まったように感じるのは、手が冷えたせいか、白衣を着たせいか、それともユノと顔を合わせたせいか――もしかしたらその全部かもしれない。
「傷は痛みます?」
「いえ、鈍い感覚があって、痛みはあまり感じないです。昨日はお騒がせしてしまって、すいませんでした」
「そんなことないですよ。無事……ではない状態ですけど、それでも良かったです」
王宮内で度々起きている事件。その犠牲にはならなくて。大けがを負ったユノに命あっての物種というのは言い方が悪いだろうけれど、それでも生きていればこそだ。
「ユノ君、何かしたの? それやらかした人、見た?」
ルースが指で左肩を示す。ユノは顔を曇らせながら首を横に振った。
「何かした覚えはないです。気づかないところで何かしでかしているかもしれませんが……」
「記憶がないならそれは省略。じゃあ、質問を変えよう。ユノ君は、どうしてあそこに?」
ユノの目がルースから外される。治療室のあちこちをさまよい、もう一度ルースへと戻された。
「リディオル殿から頼まれていた灯りの試作品の、最終確認をしようとしていたんです」
「ああ、ユノ君なんだ。あれの担当してるの」
「そうです――あの、オレの近くに洋灯ありませんでした? ちょうど、これくらいの」
ユノが両手で示した大きさは、ユノの顔と同じくらいだろうか。決して小さくはない。
「いえ、なかったと思います」
セーミャが答えると、隣のルースも答えた。
「俺はそもそもユノ君が見つかった現場を見てない」
「そうですか……」
気落ちしたユノ。その洋灯はきっと、大事なものだったのだろう。
先ほどユノがさまよわせた目、探っていたのは洋灯だったのかもしれないと思い当たる。でもあの場面に出くわしてしまったら、他のものはなかなか目に入らないだろう。周りの様子には目もくれず、一目散にユノの元へと向かったことに、わずかな後悔がよぎる。あとであの場所に戻って探してみよう。
「通じるかどうかをリディオル殿と試そうとしていて、一人でいたところを襲われました。――ただ」
「ただ?」
口ごもったユノは、言うべきか言わざるべきか迷っているように思えた。
セーミャはユノの前にかがみ込む。そうして低くなった目線でユノを見上げた。
「教えてください、ユノ殿。賢人の方たちを殺した人と同じかどうかはわかりませんが、これまで手がかりなんてないに等しかったのですから」
顔を見ただろう人は、恐らく全員殺されてしまっている。襲われて、命があったのはユノが初めてだ。同一人物ではないかもしれないけれど、それでも何か、気づいたことがあるというのなら。
「……よく、わからないんです」
「わからない?」
「はい。突然目が見えなくなったと思ったら、左肩に熱いものが押しつけられて……はねのけようとしたんですけど、押さえ込まれてしまって……」
「そっか。そりゃ災難だったね」
男性か、女性か。王宮の者か、そうでない者か。
何かわかればと思ったのだけれど、やはり何もわからないままだ。押さえ込まれたということは、確実にユノよりも力のある人物。
――たくさんいるなあ。
十九歳とは言え、他の同年代の男性と比べるとユノはいささか細身である。なので、同性相手では腕力で敵わないのではないかと思ってしまうのだ。失礼ながら。
「となると、今日は魔術師見習いの人たちは大変かもね。ま、ユノ君はゆっくりしていくといいよ」
「――ルース!」
セーミャはルースを一喝する。
気づいたルースが口を閉ざしてもう遅い。今の言葉を、ユノは聞いてしまった。そこに戸惑いを呼び寄せてしまった。
「どういうことです……? 他に何か、あったんですか?」
ユノから問いかけられてしまっては、無視できないではないか。今はぐらかしたとしても、いずれはユノの耳に入ってしまうだろう。ならば、今ここで観念した方がいいかもしれない。
「……ごめん、セーミャさん。口が滑った」
「いえ、知られて困ることではありませんから。話してあげてください、ルース」
そう、別段困る内容ではない。遅かれ早かれユノ自身が知るであろうことだ。それでも、穏やかに笑っていたユノの顔を再び陰らせるには及ばないと思って、セーミャは黙っていただけだ。
「よく聞いてね、ユノ君。ユノ君の先生、倒れたんだよ。昨夜」
「え!?」
見開いた目に困惑と狼狽が合わさって浮かび上がる。
「リディオル殿が……? そんな、なんでそんなことに……」
うつむくユノ。そんなユノの真横へと立ち、ルースは言ったのだ。
「はい、そこまで。ユノ君は怪我人。昨日ここに運ばれてからも大変だったろ? 今は自分のことに専念するべき。他のことまで気を回す余裕なんてなかったんだから、しょうがないこと。だから、ユノ君の先生が倒れたのはユノ君のせいじゃない。それはいい?」
「……はい」
晴れない顔で、落ち込んだ声で、ユノはそれでも頷く。
「そうしたら、早いとこ全快しちゃいましょう? それで、リディオル殿もお師匠様も驚かすんです」
両手を合わせ、セーミャはユノへと笑いかける。それに気づいてか、ルースもことさら明るい声で続けてくれた。
「あ、それいいな。将来有望な見習い魔術師君の驚異的な回復力! とか、大々的に宣伝したりして。治療師見習いがこぞってやってくるかも。それか、ユノ君をひと目見ようとしてね。ユノ君、一気に人気者だ」
「やめてくださいよ」
二人のやり取りを聞いていたユノが、ようやく笑ってくれた。何もかも背負い込むのはよくない。身体的にも、精神的にも、楽にしてあげるのが治療師の役割なのだと、セーミャの師はそう話していた。
「――そういえば、お師匠様は?」
話題に上がったのに、まだ一度も見ていないことに気づく。立ち上がりながら問いかけるも、ルースに微妙な反応をされる。
昨夜はセーミャが先に治療室を出てきてしまったから、てっきりそのあともこの部屋に残ったままだと思っていたのに。治療室に師の姿はどこにも見あたらない。
昼寝室の寝台はひとつしかないし、昨日の今日でリディオルが起きているとは考えにくい。ルースが来たから、眠りに行ったのだろうか。一理ある。
「オレが目を覚ました時にはいませんでした」
「言われてみれば、俺も見てないな」
ユノに同意を示し、ルースは首をひねる。
「昼寝室にいるのかと思ったらリディオル殿が寝ててびっくりしたよ。俺は仮眠室から来たけどど、あっちにも先生はいなかったし、どこか別のところで寝てるんじゃない?」
そんなまさかと笑い飛ばすことなかれ。ルースが今話したことは、以前は日常茶飯事に起きていたからだ。一時期、治療師見習いの仕事は、治療師を探すことと話されていただろうか。あながち間違っていないから本当に笑えない。
「仕方ない人ですね……」
これでも改善された方だ。今でこそ昼寝室があるけれど、それが作られる前は王宮のあちこちを探し回らなくてはならなくて大変だったのだから。その事態に慣れず、セーミャがここに来た初めの頃は、大騒ぎしながら捜索したものだった。慣れとはげに恐ろしい。
今回も、恐らく王宮のどこかで眠っているのだろう。
自堕落な師が作らせた昼寝室を軽視していたけれど、こうして思い返してみると、大変ありがたい施設だったのだ。すぐに快適な部屋で寝られる師だけでなく、探し回らなくて済むようになった、セーミャたちにとっても。
「わたし、ちょっと探してきます。目を覚ましがてら」
ルースと出くわした時よりましにはなったけれど、眠気はしつこく残っていて、頭がぼんやりとする。外の空気でも吸ってくればすっきりするだろう。
「行ってらっしゃい、俺は二人を看ておくので」
「はい、お願いします」
今日はどこにいるのやら。
心当たりのある場所を思い浮かべながら、セーミャは足早に治療室をあとにした。