77,ひと休みは暗がりで
もぞもぞもぞ。
寝返りを繰り返しても、頭がずり落ちない枕を使うのは初めてだ。なんとなく収まりが悪くて、反対側にごろんと寝転がる――そうして体勢を変えたのはこれで何度目だろう。
ちょうど窓から差し込まれる明かりが目に入り、ラスターは首だけ動かしてそちらを眺める。ラスターがいた村と比べると星があまり見えない。上空には雲もあって、空のあちこちを覆い隠しているせいかもしれない。
全身をめぐる鼓動の音を聞き、ぱっちりと冴えてしまった目で、天井の一点を見上げた。今まで見たことのある寝室の、どこよりも高い天井。ラスターの元を去ってから、ここでずっと、母親は暮らしてきたのだろうか。
――せっかく会えたんだから、久しぶりに一緒に寝ましょ。
そんなことを言ってラスターを強引に引っ張り、母親は自室へと連れてきたのだ。
思い出すのは昼間のこと。母親と再会して、ずっと聞きたかったことを教えてもらって、リディオルがやってきて、それから――
ラスターは半身を起こし、雲に半分隠れてしまった月を仰ぐ。雲間から覗く月は白く、地上の光に劣らず明るい。
ユノは大丈夫だろうか。
――私たちは薬を作るのが仕事。それ以外のことで気を揉んでもどうしようもないでしょう。そういうことは専門の人に任せればいいの。腕利きの治療師がここにいるんだから、あとはなんとかしてくれるわ。
薬を作る母親を手伝って、完成したそれを治療師の元へと届けて。その時にユノやセーミャの姿は見えなかったけれど、きっとなんとかしてくれたのだろう。どんな処置がなされたのかはわからないから、ラスターには想像することしかできない。
ユノの負った熱傷は数刻で完治する傷ではないだろうし、同様に短時間で良くなる傷でもないだろう。だったら、信じて待つだけだ。また薬が必要になったら、ラスターたちはそれを作ればいいのだ。母親の言うように、できないことまで気に病んでも仕方ないのだから。
それでも心配に思うかどうかというのは別ものだ。ラスターの頭から、あの時見えてしまった傷の様子が離れない。肌があれだけ変色していた熱傷だ。もし治ったとしても、ユノの左腕が元のように動くかどうか。
「――眠れない?」
声のした方へ向くと、隣の布団から顔を出していた母親と目が合った気がした。母親も眠れなかったのだろうか。それとも、ラスターの気配で起こしてしまっただろうか。
「うん……ちょっと」
よぎってしまうのだ。眠ろうとして目を閉じると、どうしたって浮かんできてしまう。目に焼きついた光景が、なかなか離れてくれない。
「ユノは大丈夫よ。エリウス殿がついているんだから。ああ見えて腕はいいのよ」
「うん……」
優れた技量を持つ治療師だから。心配いらないから。大丈夫だから。
何度言われても、巣食う不安が消えることはない。治療師であるエリウスの腕を疑うつもりではないけれど、安心できないのだ。見てしまった衝撃が大きすぎたからだろうか。それとも、ユノの傷を見た母親やエリウスの反応が神妙だったからだろうか。
「しょうがないわねえ……」
のそりと身を起こした母親が、驚くラスターへと笑いかける。暗がりの中で、そんな気配がした。
「どうせ眠れないなら、ちょっと待ってなさい。お母さんがいいもの作ってあげるわ」
「……いいもの?」
「秘密よ」
含み笑いで答える母親に、湧いてきたのは楽しみとは真逆の感情だった。嫌な予感がしたのも無理はない。母親がいいものというと、たいていこちらにとってはあまりよくないものだったりするのだ。ラスターの経験と記憶から、疑うなという方が難しい。
あくびをこぼしつつも、鼻歌を歌いながらどこかへ行ってしまう。そんな母親をあぜんと見送り、ラスターはもう一度眠ろうと布団の上に転がった。今のうちに眠ってしまえば、被害に遭うこともない。悪あがきしたところで、どうせ眠れないだろうとはわかっていたけれど、それでも。
そうして浮かんできたのは、昨日キーシャから聞いた話だ。
賢人が殺されてしまったこと。ラスターが囮として据えられたこと。ユノが襲われて、怪我を負わされたこと。
ユノの怪我は、もしかしてその人の仕業なのだろうか。ユノは賢人の見習いだった。賢人とまるきり無関係ではない。それどころか、立ち場としては比較的近しい位置だ。
リディオルはラスター以外にユノを囮として使うと話していた。囮とされて、もし本当に、そのとおりにユノが狙われたのだとしたら――
ラスターは肌寒さを覚えて腕をさする。
――次は、自分かもしれない。
ユノのことは心配だ。それ以上に怖いと感じてしまって、そう考えてしまった自分が申し訳なくなる。感情をすり替えたつもりはない。ユノが心配なのは嘘でも建前でもない。
だけど、次に標的にされるかもしれない可能性があって、それを実感してしまったらもう駄目だった。いつかそう遠くないうち、我が身にも降りかかってくるかもしれない。
――でも。
固く目を閉じる。
言ってくれたのだ。リディオルが。ラスターを囮に据えて、その代わりに守ると。指一本だって触れさせないと。
今思えばそれは、ラスターを安心させる嘘だったかもしれない。その気にさせるための建前だったのかもしれない。
約束をくれたのだから、それに応えたい。そう考えるラスターは甘いのだろうか。シェリックの助けとなるために、ラスターが差し出せるものはそれしかなくて――
「はーい、お待たせー」
戻ってきた母親の元気な声で我に返された。母親が持つふたつの器から、湯気がゆらゆらと立ち上っていた。それを見て身を起こす。
「熱いわよ」
「ありがと」
渡された器を両手で受け取り、器に近づけた顔をしかめる。
熱いとは確かに聞いたけれど、この熱さは予想以上だ。顔に浴びた熱気が強い。これは冷まさないことには飲めなさそうだと思い知る。
「アルティナの人はみんなお茶が好きなの?」
キーシャの部屋で、治療室で。色々な人から出された茶を思い出す。
「さあ? まあ、私があちこちに広めたから、そのせいじゃない?」
「……そうなの?」
「何も薬を作るだけが薬師の仕事じゃないわよ。身体的だけでなく、精神的な薬も時には必要。なかなか気づきにくいのが難点だけどね」
漂ってくる甘い香りに視線を落とす。ほのかに混じる酸味に、ほっこりと息を吐けるような、そんな香りだ。
確かに、母親の言うとおりかもしれない、香りだけでも穏やかな気分になれる。
息を吹きかけて冷ましながら、ラスターは思わず笑ってしまった。酸味があるなら、もしかしたらシェリックはこれを飲めないかもしれない。輝石の島でシェリックがすっぱい飴を口に入れた時、思いきり顔をしかめていたのを思い出したのだ。
「なあに? 思い出し笑いなんかしちゃって」
寝台に腰をかけ、向かい合わせになった母親が尋ねてくる。
「うん、ちょっと。シェリック、これ飲めなさそうだなと思って」
「え、嘘。まだ食べられないの? 酸味のあるもの」
「駄目みたい」
輝石の島にいた時に駄目だったから、恐らく今でも駄目だろう。人の味覚は、数日やそこらで変えられるようなものではないはずだ。
「昔からなのよ。と言っても私と出会った頃からだから……ざっと十年前くらい?」
「そうなんだ」
母親は懐かしむように、笑みをこぼす。
「あの頃は本当に生意気でねー。笑わないわ、にこりともしないわ、いつも不機嫌そうだわで話しかけるのも苦労したわよ」
ようやく飲めるようになった茶を口に含み、言葉と一緒に飲み込んだ。
笑わない。にこりともしない。不機嫌そう。それは、誰が?
「――シェリックが?」
「そう」
別に、今もいつも笑顔でいるわけではない。母親が生意気だと称するシェリックと、ラスターが知る今のシェリックと、人物像があまり合致しないのだ。
「私の知ってる頃と比べて、ずいぶん柔らかくなったわ、あの子」
「ふーん……」
想像もつかない。三年だけしかともにいなかったラスターには、比べられる要素を持っていないからだ。
ラスターの知らないシェリックがここにいる。母親はそれを知っている。決して本人には聞けない。絶対に話したがらないからだ。旅をしていた間中、あれだけ昔のことには干渉しないと、お互いに決めていたのに。おかしなものだ。
でも、今ならわかる。ひとつ知ると、もうひとつ知りたくなって、全部知りたくなってしまう。『どうして』や『なぜ』が浮かんでしまって、止まらなくなってしまう。
もし今母親に聞いたなら、もっと教えてくれるだろうか。母親だけが知っているシェリックを。聞いてみたい好奇心が膨れ上がり、内なる声が押しとどめる。
そうだ。やってはならない。それは裏切りだ。ラスターの意志とも反してしまう。
――待って! ごめん、それは聞きたくない。
シェリックのことを教えてくれようとしたセーミャを止めたのは、他でもないラスターだ。ラスターは決めていたのだ。シェリックのいないところで、シェリックのことは勝手に聞かないと。訊きもしないのだと。もし聞かなければならなくなったなら、それは本人の口から聞くのだと。
「――ま、そんなわけで」
ラスターの額に、母親の指が当てられる。
「今日はここまでよ。話し込みすぎると、夜が明けちゃうわ。それ飲んだら寝ること。いいわね?」
「はーい……わかった」
心の内を見透かされたのか、母親に釘を刺されて苦笑いする。
それに、ほんの少し、眠気がやってきたのだ。先ほどまで目が冴えていたことが嘘のように。
「ねえお母さん、これ、なに? 睡眠薬……?」
聞きそびれてしまった器の中身。その正体は。
「まさか。ただの薬草茶よ。安眠効果のあるやつ。睡眠薬なんて使ったら、明日起きられないでしょ」
その答えに、ラスターは吹き出してしまった。
「そうだね。昼まで寝ちゃいそう」
「でしょう? だからやめたのよ」
母親の言う精神的な薬も必要とは、こういうものだろうか。不安や緊張、気がかりを軽くするような。
――ボクが目指してる薬師はそんな人じゃない!
毒を流し、村を犠牲にし、ラスターたちを置いて出て行ってしまった母親。理由を教えてもらった今でも納得なんてできないし、理解したくない。それに、許せはしない。
薬師が作る薬は、人を不幸にするものであってはならない。祖母の教えは、ラスターも正しいと思っている。
そんなことをしたかと思えば、こうしてラスターに茶を淹れてくれる。
「先寝るわ。おやすみ、ラスター」
「うん、おやすみ」
再びあくびをこぼしながら、母親は先に布団に潜り込んでしまう。ラスターはまだ中身の残っている器を脇の卓へと置き、母親と同じように布団に入る。
薬師と呼ばれ、毒使いの魔女と呼ばれ、母親の本質はどちらなのだろう。
シェリックだけではない。ラスターの知らない母親もここにいる。
どれが本当のシェリックで、母親なのだろう。そこにはもっと、ラスターの知らない一面だってあるはずで――
重くなった目蓋がやがて視界を閉ざし、ラスターを眠りの世界へと引き込んでいった。