76,散らばった硝子の破片
「それでは、行ってまいります」
「うん。でも、本当に大丈夫?」
「大丈夫です。すぐそこまで行くだけですし、いざとなったら大声で叫びますから」
半信半疑の眼差し。何度も話しながらまだそんな目を向けてくる師を、セーミャはしかと見返した。
これでも声の大きさには自信がある。王宮にある塔の一番上から叫んで、地上にいる人まで悠に届くくらいの大きさはあるのだ。
だから心配はいらない。そう無言で訴えたセーミャの意思が通じたのか、師は諦めたように目を伏せた。
「じゃあ、よろしくね」
「はい」
師の声に押されながら、セーミャは廊下へと出る。
夜も更けてきたこの時刻だと、王宮は静かだ。朝早くから動いていた人ならば眠りについているだろうし、セーミャのように起きている者でも、出歩くことは滅多にない。
ひとつの灯りが照らす範囲を歩いて、また次の灯りへ。この絶妙に配置されている灯りのおかげで夜も歩きづらいということはないし、灯りという荷物が減るのもありがたい。道具や治療薬で両手がふさがりやすいセーミャにとっては、とても助かるのだ。
「うわあ……」
だから続く廊下を目にして、思わず声を上げてしまったのは仕方のないことである。
灯りがあるのは嬉しい。ただし、それが点いていたらの話だ。
角を曲がったそこから先、廊下の灯りはひとつ残らず消えていたのである。ここから見える薬草園の方が明るいとはどういうことだろう。あちらの外灯は点いているのに、なぜこちらの灯りはことごとく消えているのか。
文句の代わりにため息がひとつ落ちた。なんのことはない、きっと誰かが薬草園にいるから明るくて、王宮のこの辺りにいた人たちはいないということだろう。作業が済んだなら帰る。それはセーミャも同じだ。ただ今日は予想外の事態に遭遇してしまって、まだ帰れないだけで。
廊下の一部が消灯されているのは何度か出くわしたことがあるし、今回は運悪くかち合ってしまっただけだ。
こんなことになるなら、出てくる際に治療室から灯りを持ってくれば良かった。燭台なりなんなり置いてあったろうに。
手荷物が増えてしまうからわずらわしいと思ってしまったのだ。それに、今の時刻ならまだ明るいだろうと、高をくくってしまったからだ。良いことも悪いことも、自分のした行いは自分へと返ってくる。報いはそういうものだ。
どうしたものか。セーミャは暗闇の前で思案する。
このまま先に進むのなら、それ相応の準備をしなければならない。主に、心の。一旦引き返して灯りを持ってくるのが無難な方法だろうけれど、ここまで来てまた戻るというのも、時間が惜しい。
惜しんでしまったなら答えはひとつだ。セーミャは諦めてそのまま進むことにした。
何かにぶつかるのは嫌だったので、窓側の壁に手を突きながら歩くことにする。幸い、外からの灯りと月明かりのおかげでところどころ見えることだし。
大丈夫、怖くない。落ち着いて歩いていけば、きっと大丈夫。向かっている厨房はいつも遅い時間まで仕込みをしているから、きっと誰かいるだろう。ここを抜けてしまえばあとは簡単だ。昼間のユノみたいに、あんなことが起きるなんて――
笑みを作っていた顔が強張り、思い出してしまった光景に足が止まる。
やっぱり、時間を惜しまずに灯りを持ってくるべきだった。気づかないようにしていた暗闇が深さを増したようにも思えて、進みたくない本音を助長させた。
「……大丈夫、怖くない」
言い聞かせて、セーミャはひとつ深呼吸をする。踏み出した足が何かにつまずいたのは、ちょうどその時だった。
「――っわあ! っとっとと……!」
よく見えずにいた足元。何かに引っかかるも寸でのところで堪え、辛うじて転ばずに済む。壁に手を当てていて良かった。そうでなければ、確実に転んでいた。
ばくばくと変に走り出す心臓を押さえ、セーミャはしゃがんでそれに触れる。こんなところに何があるのだろう。手の感触が教えてくれたのは、布と、何かの塊のようなもの。意外と柔らかくて温かい。
「――え」
その感触に一度手を離す。単なる布ではない。これは服? ただの塊などではない。これは――人?
「ちょ、ちょっと、大丈夫ですか……?」
足を引っかけてたたらを踏んでしまったことは、この際棚に上げよう。セーミャはそこに倒れている誰かへと声をかける。応答のないその人に、胸がざわりと騒いだ。
ここに倒れている誰かは無事なのだろうか。そもそも、生きているのだろうか。
浮かんだ最悪の可能性に冷や汗が滑り落ちる。
――いや、まだ死んでしまったとは限らない。倒れてしまっただけかもしれない。頭は打っていないだろうか。あるいは寝転がって――いや、それはないだろう。
とにかく、憶測で悪い方向へと考えてはならない。まずはこの人の状態を確認して、判断するのはそれからだ。
とはいえ灯りがないこの状態では、なかなかに困難を極めた。視覚からの情報に頼れないのならば、それ以外の部分で調べるしかない。耳で聞いて、手で触れて、確かめるしかない。
「ねえ、あなた、大丈夫ですか! 聞こえますか!」
セーミャは声を張り上げて呼びかける。嫌な予感を振り払いたくて、できる限りの大声で。その誰かからの反応はない。恐らくは。
暗がりに慣れてきた目と、申し訳なく思いながらまさぐっていた手がその人の口を探し当てた。口元に手をかざす。呼吸は――ある。この人は、生きている。
セーミャは身体中にあった息をすべて吐き出した。生きている、それがわかっただけでも良かった。心臓に悪い。ああ、本当に。なんて事態に遭遇したのだろう。
けれどまだ気を抜いてはならない。呼吸してはいるけれど、もしかしたら重症かもしれないのだ。
さてこれからどうしよう。こう暗くては容態もわからないし、だからといってこの人を明るいところまで引きずっていくわけにもいかない。
この人が酷い怪我でも負っていたら、動かすのは危険だからだ。調べた様子からは血の匂いはしないし、出血していることはなさそうだ。けれども倒れた時に頭を打っていたら危ない。
逡巡していたセーミャの元へ、その声はやってきた。
「――セーミャ、そこにいる?」
「お師匠様……!」
なんて頃合いのいいところに。
「君、灯り忘れたでしょ。この辺はもう消えてるって聞いたから持ってきたよ」
師の携える灯りが、ゆらゆらと揺らめいている。
「ここです! 手を貸してください!」
「何かあった?」
常にゆったりと動くその足取りは、少しだけ速度を増してやってくる。セーミャはかざされた灯りの強さに目を細め、光源から視線を逸らした。
「ここに人が倒れていて、呼吸はしているのですが、意識はないみたいで……」
歩いてきた師は、必死に状況を伝えるセーミャと、その人とを眺めている。
聞こえていないのだろうか。
「見えなくて状態がわからず、頭を打っていないかだけでも調べられないかと思いまして――」
「リディオル?」
なにげない師のひと言。聞き慣れたその名は、セーミャが伝えようとしていた説明の全てを吹き飛ばすには十分だった。
「え……」
今なんと言った。これが誰だと。
師の掲げた灯りが照らし出す。そこでようやく、セーミャにもその人の顔が見えた。
赤茶けた短髪。その前髪から覗くのは、紙のように白く、血の気の薄い顔色だった。決して灯りが小さいからではないだろう。
常と違うのはその顔色と、固く閉ざされた目蓋。からかい混じりに言葉を発する口すら、開く気配はなかった。
師が口にしたとおりだ。セーミャの聞き間違いでも、また見間違いなどでもない。
「リディオル殿……?」
そこに倒れていたのは、賢人の一人、魔術師のリディオルだった。




