75,侵食はさざ波のごとくに
戻ってきた治療室。初めに目に入ったのは、先ほどまで和やかに会話をしていた時の痕跡だ。
こんな事態になるとは思いもしなかった、その時間の名残だ。片づけもせずここから出てきてしまったから、今眺めるととても寂しい光景に思える。
飲みかけていたお茶は冷めきっているだろうし、セーミャが出してくれていた茶菓子もわびしげに置かれている。
「こっち」
「はい」
先導するエリウスに続いて扉をくぐる。
小部屋のさらに奥、その浴室には腕まくりしたセーミャがいた。彼女の前にあったのは、一人が入ればいっぱいになりそうなほどの、これまた小さな浴槽だった。浴槽の中は空で、深さはそれほどない。
「お師匠様、準備はできています」
「うん、ありがとう」
手巾と毛布を携えたちぐはぐな姿に、そこから先の想像ができかねた。
「シェリック」
その浴槽を指し、エリウスは言う。
「落として」
「……は?」
ずいぶん乱暴な台詞が聞こえた。
「その傷、冷やさなくちゃいけない」
そういうことか。一瞬のためらいはすぐに解消され、念のためとユノに確認を取る。
「このまま下ろすぞ」
「――はい」
さすがに浴槽の中へ下ろすのは躊躇され、ユノを浴槽の傍らへと座らせる。
セーミャが横からユノの左肩を取り、浴槽のふちにかける。濡らした手巾をその肩へと乗せ、さらに毛布でユノをくるむのだ。
「寒くは、ないですが……」
「身体を冷やさないようにだよ」
理由はエリウスが教えてくれた。
「位置が位置だから沈めてもいいんだけど、それだと冷やしすぎちゃうからね。君の体力がもたないかもしれない。その傷を受けたことで、君が思っているよりも体力を使ってる。今は少しでも温存しておくべきだよ」
これから大変なんだからね、なんてつぶやくと、セーミャに桶を渡す。
「ユノ、君はともかく患部を冷やすこと。いいって言うまでね。シェリックは――」
言いよどんだエリウスが、シェリックの後方に視線を送る。
「リディオルですね」
「うん。あっちの対応よろしく。もう少ししたらレーシェが来ると思うから、そっちの部屋に薬置いててって言っておいて」
「わかりました、こちらはお願いします」
答えた途端、入ってきた部屋の方から盛大な音が聞こえてきた。鳴ったのは、椅子が倒れた音だろうか。
「任せて。セーミャ、布押さえててくれる?」
「はい」
「自分で――」
「できるならね」
度重なる指摘にも負けじと声を上げかけたユノを、エリウスはぴしゃりと制した。
「多分、それどころじゃなくなるよ。さっき痛みを感じないって言ってたけど、それ、結構危険な状態だからね。言っておくけど、脅しでもなんでもないから」
無表情に言われては、さすがのユノも堪えたのだろう。今度は何も答えず、腕を冷やし始めるセーミャに大人しく従っている。
不穏な会話に不安がよぎるも、ここにいるのは素人ではない。治療師だ。命には関係ない傷だと言っていた、その言葉を信じるしかない。
踵を返し、シェリックは浴室をあとにする。
先の音はリディオルだろう。ユノに怪我をさせたことで、暴れていやしないだろうか。八つ当たりをしてはいないだろうか。さすがに治療室でそんなことをしてはいないとは思うけれど。
そんなことを想像しながら戻った治療室で、シェリックは世にも珍しい光景に出くわした。物に当たったにしては奇妙な状態。そこにいるのは、本当にリディオルだろうか。
「何してるんだ……?」
目をしばたたかせてしまったのは、それが信じられなかったからだ。どう声をかけたものかと悩みつつ、シェリックは見たそのままを尋ねた。
「……うるっせーな、ちょっと着地を目測し損ねただけだよ。いってぇ……」
椅子を巻き込みながら座るリディオルがそこにいて、状況を判断するのが難しい。むしゃくしゃしてそこに座り込んだわけではあるまい。あぜんとしつつも手を差し伸べる。
「あー……わりぃ、借りる」
「大丈夫か?」
「平気だっつの。格好わりぃわ、いてぇわ……」
ばつの悪そうなその顔をまじまじと眺める。
「――なんだよ?」
「いや……おまえにしてはめったに見られない失態だなと」
「希少価値はたけぇぞ?」
軽口への返答がなんとなくできずにいて、ならば話題を変えようと努める。
「ユノはそっちの浴室にいるぞ」
既に知り得ているのだとは思うけれど、端的に説明しておいた。
「浴室? なんでまた?」
「――エリウス殿が熱傷だと話していた。左肩、だいぶ変色していたのは見たぞ」
シェリックは自身の左肩を示して教える。
「熱傷、ね……」
「命に関わるものではないそうだ」
「へぇ……そりゃなによりだな」
倒れた椅子を直しながら口にし、リディオルは最後に直した椅子へと腰をかけた。
考え始めたその横顔を見下ろす。
「リディ、おまえ――」
シェリックが訊こうとしたのと、リディオルがそこに立ち上がったのは同時だった。
「ちょいと確かめたいことがある。ユノ、よろしく頼むな」
「――リディ!」
肩をつかんで引き止める。
何を確かめるというのだ。何を調べるというのだ。リディオルは多くを語りはしない。わかっていたのに、今それがもどかしく感じてしまう。
ユノを探しに行く前から、何かおかしいと思っていたのだ。
リディオルの一連の言動を聞いていて、確信したことがひとつある。リディオルは、何も知らない。あれだけシェリックたちの行動を把握していたのにも関わらず。ユノに起きたことだけ、何ひとつとして。
常よりも言葉少なに語るそこに、押し込められたのが動揺であり、怒りであり、焦燥でもあるのなら、それはリディオルだけが負う責ではない。
人にできるのは、手に届く範囲のことだけだ。現状において手の届かないところまで望むのは、ただの欲であり、驕りだ。
「責任を感じているなら、それは違う。守ってやれなかったのは、おまえのせいじゃない」
それを聞いて、リディオルは息だけで笑った。
「別に、責任感じてるわけじゃねぇよ。俺もユノも覚悟はしてた。いずれこうなるかもしれないっつー、予想はあったんだよ。俺は俺で確認したいことがあるだけだ、無茶するわけでもねぇっつーの。うちの天才少年様が動けないんじゃあ、俺らが動くしかねぇだろ?」
それは道理だと、あくまでも仕方なくそうしているのだと、言外に告げられる。疑いなく、そうさせることなく。
「本当だな?」
「あーあー、怖いこと。信用がないねぇ。そんなにらむなっての」
そう話すリディオルからは、揺らいだ感情など見えない。
「あると思っていたのか?」
信用と信頼は別物だ。今のリディオルは、目を離したなら何をするのかわからない危うさがある。たとえリディオルがその様子を見せることなく、シェリックの杞憂にすぎないのだとしても。
「さぁてね」
シェリックの手からするりと逃れ、リディオルはひらりと手を振る。
「そろそろ嬢ちゃんたちも来るようだし、出迎えてやったらどうだい? 保護者さん?」
「あいつの保護者はここにいるだろ。俺じゃない」
そうだ、自分などではない。ラスターの家族である、母親がちゃんといる。
「おまえこそ、ちゃんと戻れよ」
「はいはい、そのうちな」
リディオルは適当に返しながら、治療室から出て行こうとする。一瞬だけ、その背中が笑った気がした。
覚悟はしていた。その言葉に嘘はないだろう。では、あの動揺は? シェリックの見間違いで思いすごしだというのか?
リディオルが後悔をしていないわけがない。そうならないために、リディオルは対策を講じていたのではなかったか。
「ユノは大丈夫だよ。さっきも言ったけど、命に別状はない」
後ろからやってきた声に振り向く。
「そうですか……」
「ただ、まあ……痕は残るだろうね。あれだけ深いから、はっきりと」
良かったとは言い難い。けれど命が脅かされる怪我ではなかったことは、幸いだと言えよう。
「ユノはセーミャに託してきたよ。しばらくは任せられる」
エリウスはじっと視線を寄越した。
「君、僕に訊きたいことあるんでしょ?」
「――ええ」
リディオルがいなくなった頃を見計らって、エリウスがこちらにやってきたその理由。聞かれたくないのはシェリックの都合だったけれども、わざわざその頃合いを狙ったということは、エリウスにとっても同じだったのかもしれない。
――ほら、行くなら早く行こうか。
ユノを探しに行くあの時。通りすぎるエリウスに肩を叩かれて、シェリックは彼に呼びかけられたのだ。
ディア、と。
「どうしてあなたがあの名をご存じなんですか」
懐かしさがこみ上げるより先に耳を疑い、揺らいだ感情が足を縫い止めて。
リディオルすら知らないその名を、この王宮で知っているのは二人だけ。そう思っていたことがたやすく覆された。シェリックの把握している限り、それを知るのはレーシェと、それから――
下ろしていた手がそれに触れる。服越しに伝わってくる硬い感触は、首から下げることをやめた、借りものの星命石。
「聞いたからだよ」
対するエリウスの答えは、簡潔なものだった。
「シェリックに」