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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
四章 アルティナ王国
75/207

75,侵食はさざ波のごとくに


 戻ってきた治療室。初めに目に入ったのは、先ほどまで和やかに会話をしていた時の痕跡だ。

 こんな事態になるとは思いもしなかった、その時間の名残だ。片づけもせずここから出てきてしまったから、今眺めるととても寂しい光景に思える。

 飲みかけていたお茶は冷めきっているだろうし、セーミャが出してくれていた茶菓子もわびしげに置かれている。


「こっち」

「はい」


 先導するエリウスに続いて扉をくぐる。

 小部屋のさらに奥、その浴室には腕まくりしたセーミャがいた。彼女の前にあったのは、一人が入ればいっぱいになりそうなほどの、これまた小さな浴槽だった。浴槽の中は空で、深さはそれほどない。


「お師匠様、準備はできています」

「うん、ありがとう」


 手巾と毛布を携えたちぐはぐな姿に、そこから先の想像ができかねた。


「シェリック」


 その浴槽を指し、エリウスは言う。


「落として」

「……は?」


 ずいぶん乱暴な台詞が聞こえた。


「その傷、冷やさなくちゃいけない」


 そういうことか。一瞬のためらいはすぐに解消され、念のためとユノに確認を取る。


「このまま下ろすぞ」

「――はい」


 さすがに浴槽の中へ下ろすのは躊躇ちゅうちょされ、ユノを浴槽の傍らへと座らせる。

 セーミャが横からユノの左肩を取り、浴槽のふちにかける。濡らした手巾をその肩へと乗せ、さらに毛布でユノをくるむのだ。


「寒くは、ないですが……」

「身体を冷やさないようにだよ」


 理由はエリウスが教えてくれた。


「位置が位置だから沈めてもいいんだけど、それだと冷やしすぎちゃうからね。君の体力がもたないかもしれない。その傷を受けたことで、君が思っているよりも体力を使ってる。今は少しでも温存しておくべきだよ」


 これから大変なんだからね、なんてつぶやくと、セーミャに桶を渡す。


「ユノ、君はともかく患部を冷やすこと。いいって言うまでね。シェリックは――」


 言いよどんだエリウスが、シェリックの後方に視線を送る。


「リディオルですね」

「うん。あっちの対応よろしく。もう少ししたらレーシェが来ると思うから、そっちの部屋に薬置いててって言っておいて」

「わかりました、こちらはお願いします」


 答えた途端、入ってきた部屋の方から盛大な音が聞こえてきた。鳴ったのは、椅子が倒れた音だろうか。


「任せて。セーミャ、布押さえててくれる?」

「はい」

「自分で――」

「できるならね」


 度重なる指摘にも負けじと声を上げかけたユノを、エリウスはぴしゃりと制した。


「多分、それどころじゃなくなるよ。さっき痛みを感じないって言ってたけど、それ、結構危険な状態だからね。言っておくけど、脅しでもなんでもないから」


 無表情に言われては、さすがのユノも堪えたのだろう。今度は何も答えず、腕を冷やし始めるセーミャに大人しく従っている。

 不穏な会話に不安がよぎるも、ここにいるのは素人ではない。治療師だ。命には関係ない傷だと言っていた、その言葉を信じるしかない。

 きびすを返し、シェリックは浴室をあとにする。

 先の音はリディオルだろう。ユノに怪我をさせたことで、暴れていやしないだろうか。八つ当たりをしてはいないだろうか。さすがに治療室でそんなことをしてはいないとは思うけれど。

 そんなことを想像しながら戻った治療室で、シェリックは世にも珍しい光景に出くわした。物に当たったにしては奇妙な状態。そこにいるのは、本当にリディオルだろうか。


「何してるんだ……?」


 目をしばたたかせてしまったのは、それが信じられなかったからだ。どう声をかけたものかと悩みつつ、シェリックは見たそのままを尋ねた。


「……うるっせーな、ちょっと着地を目測し損ねただけだよ。いってぇ……」


 椅子を巻き込みながら座るリディオルがそこにいて、状況を判断するのが難しい。むしゃくしゃしてそこに座り込んだわけではあるまい。あぜんとしつつも手を差し伸べる。


「あー……わりぃ、借りる」

「大丈夫か?」

「平気だっつの。格好わりぃわ、いてぇわ……」


 ばつの悪そうなその顔をまじまじと眺める。


「――なんだよ?」

「いや……おまえにしてはめったに見られない失態だなと」

「希少価値はたけぇぞ?」


 軽口への返答がなんとなくできずにいて、ならば話題を変えようと努める。


「ユノはそっちの浴室にいるぞ」


 既に知り得ているのだとは思うけれど、端的に説明しておいた。


「浴室? なんでまた?」

「――エリウス殿が熱傷だと話していた。左肩、だいぶ変色していたのは見たぞ」


 シェリックは自身の左肩を示して教える。


「熱傷、ね……」

「命に関わるものではないそうだ」

「へぇ……そりゃなによりだな」


 倒れた椅子を直しながら口にし、リディオルは最後に直した椅子へと腰をかけた。

 考え始めたその横顔を見下ろす。


「リディ、おまえ――」


 シェリックが訊こうとしたのと、リディオルがそこに立ち上がったのは同時だった。


「ちょいと確かめたいことがある。ユノ、よろしく頼むな」

「――リディ!」


 肩をつかんで引き止める。

 何を確かめるというのだ。何を調べるというのだ。リディオルは多くを語りはしない。わかっていたのに、今それがもどかしく感じてしまう。

 ユノを探しに行く前から、何かおかしいと思っていたのだ。

 リディオルの一連の言動を聞いていて、確信したことがひとつある。リディオルは、何も知らない。あれだけシェリックたちの行動を把握していたのにも関わらず。ユノに起きたことだけ、何ひとつとして。

 常よりも言葉少なに語るそこに、押し込められたのが動揺であり、怒りであり、焦燥でもあるのなら、それはリディオルだけが負う責ではない。

 人にできるのは、手に届く範囲のことだけだ。現状において手の届かないところまで望むのは、ただの欲であり、おごりだ。


「責任を感じているなら、それは違う。守ってやれなかったのは、おまえのせいじゃない」


 それを聞いて、リディオルは息だけで笑った。


「別に、責任感じてるわけじゃねぇよ。俺もユノも覚悟はしてた。いずれこうなるかもしれないっつー、予想はあったんだよ。俺は俺で確認したいことがあるだけだ、無茶するわけでもねぇっつーの。うちの天才少年様が動けないんじゃあ、俺らが動くしかねぇだろ?」


 それは道理だと、あくまでも仕方なくそうしているのだと、言外に告げられる。疑いなく、そうさせることなく。


「本当だな?」

「あーあー、怖いこと。信用がないねぇ。そんなにらむなっての」


 そう話すリディオルからは、揺らいだ感情など見えない。


「あると思っていたのか?」


 信用と信頼は別物だ。今のリディオルは、目を離したなら何をするのかわからない危うさがある。たとえリディオルがその様子を見せることなく、シェリックの杞憂きゆうにすぎないのだとしても。


「さぁてね」


 シェリックの手からするりと逃れ、リディオルはひらりと手を振る。


「そろそろ嬢ちゃんたちも来るようだし、出迎えてやったらどうだい? 保護者さん?」

「あいつの保護者はここにいるだろ。俺じゃない」


 そうだ、自分などではない。ラスターの家族である、母親がちゃんといる。


「おまえこそ、ちゃんと戻れよ」

「はいはい、そのうちな」


 リディオルは適当に返しながら、治療室から出て行こうとする。一瞬だけ、その背中が笑った気がした。

 覚悟はしていた。その言葉に嘘はないだろう。では、あの動揺は? シェリックの見間違いで思いすごしだというのか?

 リディオルが後悔をしていないわけがない。そうならないために、リディオルは対策を講じていたのではなかったか。


「ユノは大丈夫だよ。さっきも言ったけど、命に別状はない」


 後ろからやってきた声に振り向く。


「そうですか……」

「ただ、まあ……痕は残るだろうね。あれだけ深いから、はっきりと」


 良かったとは言い難い。けれど命が脅かされる怪我ではなかったことは、幸いだと言えよう。


「ユノはセーミャに託してきたよ。しばらくは任せられる」


 エリウスはじっと視線を寄越した。


「君、僕に訊きたいことあるんでしょ?」

「――ええ」


 リディオルがいなくなった頃を見計らって、エリウスがこちらにやってきたその理由。聞かれたくないのはシェリックの都合だったけれども、わざわざその頃合いを狙ったということは、エリウスにとっても同じだったのかもしれない。

 ――ほら、行くなら早く行こうか。

 ユノを探しに行くあの時。通りすぎるエリウスに肩を叩かれて、シェリックは彼に呼びかけられたのだ。

 ディア、と。


「どうしてあなたがあの名をご存じなんですか」


 懐かしさがこみ上げるより先に耳を疑い、揺らいだ感情が足を縫い止めて。

 リディオルすら知らないその名を、この王宮で知っているのは二人だけ。そう思っていたことがたやすく覆された。シェリックの把握している限り、それを知るのはレーシェと、それから――

 下ろしていた手がそれに触れる。服越しに伝わってくる硬い感触は、首から下げることをやめた、借りものの星命石。


「聞いたからだよ」


 対するエリウスの答えは、簡潔なものだった。


「シェリックに」


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