71,夢にまで見た旅の終わりは
「ここが治療室です」
そう前置きして、セーミャはためらいもなく入って行く。そのあとに続くラスターとシェリックは、どこか遠慮がちに足を踏み入れた。すると、つんとした刺激臭が微かに鼻を突いたのだ。
「今はみんな出払っていますのでどうぞ」
薬品の匂いが立ち込めるその部屋は、ラスターには苦ではない。薬師も多種多様の薬を扱うため、馴染みのある匂いだからだ。清潔で明るい。四つ並んだ寝台の横、窓が全て開け放たれているため、余計にそう感じるのだろう。
窓の外に見える王宮の壁を眺めながら寝台を通りすぎ、一番奥にある扉の前までやってくる。開放感あるこの部屋で唯一、閉塞感のあるその扉。前にいたセーミャはおもむろに息を吸い込んだ。まるで、これからやることに気合いを入れているようにも見えた。
何事だろうとシェリックと二人して見守る中、セーミャは口元に手を当てて。
「お――っ師匠様! いい加減起きてくださーい!!」
とっさに守った耳は間に合わず、セーミャから発された大音声の余韻が鼓膜を越えて響いた。
肩を怒らせて立つセーミャ。扉の向こうから来るであろう反応を待つも、沈黙が保たれるだけ。部屋の中にいるであろう人が、答えてくれそうな気配は一切ない。
「……駄目ですね。朝は起きていらしたんですけど」
「どうする?」
「こうなったら、強行突破です」
取手がひとりでに動いたのは、しびれを切らせたセーミャが手を伸ばしかけたその時だった。扉は内側からゆっくりと開かれる。
「そんな大きな声出さなくても聞こえてるよ。今日はちゃんと起きたの、君、確認してたでしょう」
中から出てきたのは、シェリックと同じくらい背の高い、ひょろりとした色白の男性だった。
無表情に言われながらもセーミャがそれに動じた様子はなく、それどころか腰に手を添えて臨戦する態勢でいる。
「あなたのそれは当てにならないからお呼びしたんです。こちらの部屋でなくて、治療室で待っていてくださいと言いましたでしょう」
「そうだっけ?」
「ちゃんとお伝えしました」
ため息を吐いてもおかしくなさそうな雰囲気を醸し出したセーミャに、ラスターもついつい苦笑いがこぼれる。ユノしかり、セーミャしかり。アルティナの人たちは苦労が絶えない人ばかりだなと、変なところで感心してしまった。同情を禁じ得ない。
「それで――」
男性の視線がこちらへと寄越される。シェリックとラスターとを順繰りに眺めたあと、彼は「うん」と頷いた。
「そちらが初めましての方かな。君は薬師なんだって?」
「う――はい。ラスターと言います」
普段の調子で頷きかけて、慌てて答えを変える。
「僕はエリウス=ハイレン。君とは手がける分野が似通ってるから、これから何度かお世話になるかもしれない。よろしくね」
「う、うん、よろしくお願いします」
彼の物言いは淡々としているけれど、どうやら一応は歓迎されているらしい。いまいちつかみどころのない人だと思いながら、差し出された右手をおずおずと握る。判然としない部分では、リディオルみたいだ。
なんて考えごとをしていたら、返された強さにあれ、と気づく。こう言っては失礼だけど、外見から鑑みるに力はそこまでなさそうな先入観を持ってしまったのだ。
これでは祖母に怒られてしまう。初めに持った印象だけがその人の全てではないのに。
「それから、久しぶりになるのかな」
ラスターが合わせようとした視線の先。エリウスの手は離れ、その目も既にラスターではない人物へと向けられていた。
「そうですね――六年ぶりです」
背の高い二人で、味気もなく交わされる。
六年だなんて、途方もない年月だ。ラスターの齢は十六だけれど、それを三つにわけてもまだ足りない。シェリックは、それだけの歳月を空けていたのだ。
「おかえり。何もこんな変な時に戻ってこなくても良かったのに」
「それを俺に言われても、どうにもできません。俺ではなく、リディオルに言ってくだされば、今よりはまだましな状況になったかもしれませんが」
「それはそうだね……詮ないことを言ったよ」
「お構いなく」
ただ淡々と、世間話のように紡がれる会話。ラスターは固唾を呑みながら、それらを眺めていた。二人は互いに見知った間柄なのだ。ラスターには口を挟むつもりなんてない。ないけれど、何も言えずにいた。
「思ったよりも元気そうで良かったよ。今にも死んじゃいそうな顔して出てったじゃない、君」
「……当時は状況に頭がついていかなかっただけです。今は、受け入れているつもりです」
「そっか、それならまあ……それに――うん」
エリウスはちらとラスターに視線を移し、再びシェリックに目を戻す。そうして彼は言ったのだ。
「いい顔になった」
シェリックは一瞬目を張って、エリウスを見る。ほんの少しだけ、笑って返した。
「――ありがとうございます」
二人の間の、たったそれだけのやり取り。
ラスターはただ傍で見ていただけなのに、胸の奥がぎゅっと詰まるのを感じた。
ラスターはシェリックではない。故郷の国から出てきたこともなかったし、アルティナに来たことだって初めてだ。故郷に帰りつくということは、その人の帰りを待つ人にとっては嬉しいことなのだ。迎えられた人にも、嬉しいことなのだ。そこに国の違いなどない。
ラスターやラスターの母親の帰りを待っている祖母だってきっと、首を長くしているのだろう。
帰らなければ。いつかきっと、必ず。母親と一緒に、祖母の元へ。ラスターも、待たせてしまっている人がいるのだから。
――でも、今は。
シェリックを助けるのだと決めてしまった。遠回りをして、寄り道することを選んでしまった。
母親を探すことを諦めたわけではない。けれど、探すのも帰るのも、もう少し先だ。
いずれは帰るその時までに、ラスターはシェリックの助けになる。賢人として、できることをするのだ。
「キーシャ様に言われてこちらに来たのですが、何か言われていますか?」
「ああ、それね」
エリウスはもう一度ラスターを見やる。何かしただろうか。
「ここからだとちょっと遠いけど、僕らが行けばいいかな」
「どこにですか?」
「ついてくればわかるよ」
「またそんな適当なことを言うんですから……」
疲れきったセーミャの肩が、また少し下がる。
「だって、初めから教えちゃったら面白みがないでしょ?」
「そんなことはないですよ」
「僕がつまらないじゃない」
「……知りません」
船の中で、セーミャがぽろっとこぼしていた『お師匠様』の話。あれはきっと、こういうところなのかもしれない。そこまで言うほどでもないし、楽しそうだと思うのだけれど。
「そういえばシェリック」
「はい?」
「君、もう会ったの?」
説明は何もない。誰に会ったとも言わず、エリウスはシェリックに問いかける。それだけでもシェリックは察したらしい。想像もつかなかったラスターとは違って。
「ええ……昨日」
「そっか。ならいいかな」
置いてきぼりにされた会話の端で、ラスターはセーミャと目が合った。
『わかる?』
『わかりません』
お互いに身振りと目線だけで会話して、肩をすくめてしまう。それを目撃されていたようで、エリウスから声がかけられた。
「前任の人だよ。薬師の」
「でしたら、レーシェ殿ですね」
「聞いたコトある」
リディオルが話していた。どんな人なのだろう。シェリックや、このエリウスという人たちと肩を並べる薬師の人とは。名前から判断するに、恐らくは女性だ。こんな立派な場所にいるのだから、よほどすごい人に違いない。
躍る心を抱きながら、ラスターはまだ見ぬその人を思い描く。
先を行くエリウスやシェリックに遅れないよう、セーミャとともに慌てて治療室を出る。
「――遅い」
途端、聞こえてきた声に固まる。しっかり前を向いていなかったことを、ラスターは後悔した。
「女性を待たせるものではないと、教わらなかった?」
ゆったりとした長衣に身を包み、その上から白衣を羽織った出で立ち。現れた女性はいささか憤った様子でやってくると、エリウスの目の前で立ち止まった。
「ごめん。今から向かうところだったんだけど」
「あなたじゃなかったら文句のひとつでも言いたくなりますわ、エリウス殿」
「僕じゃなかったらいいってこと?」
「あら、そんなことはありませんわ」
右手を腰に当て、彼女はセーミャを見やる。
「苦労している弟子のあの子に免じて、明言は避けておきますけど」
「それ、十分文句になってない?」
「そう思われるのでしたら、早めに行動なさってくださいな」
「動いてるでしょ。ほら、ちゃんと部屋から出てきたし」
「出ただけではありませんか。エリウス殿は不精がすぎます、何事も」
「……本当にすいません」
言われた当人の代わりに、セーミャが消え入りそうな声で頭を下げる。
「むしろ同じ賢人の立場として、私があなたに謝らなくてはならないわ。ごめんなさいね、セーミャ」
「いえ、お師匠様をちゃんと動かせないわたしが悪いんです。レーシェ殿が悪いわけでは、決してないので!」
「……あのさ、それ僕がいないところで話してくれる?」
とても渋い声で、エリウスからぼそりとこぼされる。
目が離せない。エリウスの前にいる、レーシェと呼ばれた女性から。
「――さて」
彼女はゆっくりと、こちらへ歩み寄ってきた。シェリックとセーミャが順に道を空ける。何も口に出せず、動けずにいたラスターの元への道を。
「あなたが薬師のラスターね? 私はレーシェ=ヴェレーノと申します」
頭ががんと殴られたような衝撃があった。そんなはずはない。そんなこと、あるわけがない。
認めたくない思いと否定したい気持ちがない交ぜとなって、信じがたい感情があとから絶えず湧き上がってくる。
「受継の話は聞いたわ。大変なことばかりだと思うけど、私からもできる限りの助力は惜しまないつもりで――」
「――お母さん」
彼女の言葉を遮り、ぽつりと口から落ちてきた。一度出てしまったら、あふれた疑問は止まらなかった。
「お母さん、だよね? どうしてレーシェだなんて名乗るの? お母さん、なんだよね……?」
言いたいことも聞きたいこともたくさんある。
それなのに、どうして彼女は『レーシェ』だなんて名乗るのだ。
「あなたは、リリャ=セドラじゃないの……?」
他人の空似? そんなことない。別れたのは幼い頃だったけれど、ラスターが見間違えるはずがない。似た人、それだけで片づけたくない。だって、ラスターの母親なのだ。
長いこと探していた。三年前にシェリックと出会う、それより前からずっと。
祖母に必ず連れて戻ってくることを約束して、ラスターは探し続けた。
ようやく見つけたのだ。目の前にいる彼女は、ラスターの母親だ。そうに決まっている。
なのに、どうして――どうして知らない人のようにふるまうのだ。レーシェ=ヴェレーノなんて人は知らない。この人は、リリャ=セドラであるべき人なのに。
うつむいた顔から涙がひとつこぼれ落ちた。
悔しくて、悲しくて、なんだかよくわからない感情がごちゃごちゃに混ぜられて。
それとも、違うのだろうか。彼女は、ラスターの母親ではないのだろうか。ラスターの思い違いだったのだろうか。
そうならば、ラスターの言葉は彼女を困らせるだけだ。ラスターの願望が形を成して現れてしまって。彼女の中に、勝手に母親を見出してしまって。突然泣いてしまって。
「ごめ、なさ……!」
もっと先だと思っていた。だって、ラスターはシェリックの助けになると誓ったのだから。母親を探すのは、もっとあとになるはずだったのだ。
「ラスター……」
ほら、シェリックも困惑している。ラスターも、こんなつもりではなかった。
目の当たりにしてしまったからだ。先刻、シェリックがエリウスに再会した場面を。見てしまった光景に、そうであればいいと、そうであったらいいと、ラスターも望んでしまったからだ。
確信が疑問に、疑問が失望へと変わっていって――不意に抱き寄せられた。
「……ごめんなさい、冗談がすぎたわ」
懐かしい声音。記憶の中と変わらない優しさ。嗅ぎ慣れない香り。
「大きくなっていてびっくりしたのよ。でも、そうよね。あれだけ年月が経っているんだから。私のこと、わからなかったらどうしようって。私はあなたを置いていった、酷い母親だから」
手放そうとしていた確信が、その言葉で明確になる。
「いらっしゃい、ラスター。こんなところまではるばるようこそ。会えて、嬉しいわ」
「お母さん……!」
ああ、本物だ。本物の、ラスターの母親だ。
しがみついたラスターをあやすように、その手は優しく背中をなでてくる。夢にまで見て、望んだ旅の終着がそこにあって。
「う――わあああん!」
上がった声とあふれた涙は、しばらく止まりそうになかった。