67,見上げてごらん、星闇を
ほうと漏れたのは嘆息か吐息か。誰のものかと順にめぐり、シェリック、リディオル、ナクルを経て、最後に行き着いたのはキーシャだった。
「気は済んだ?」
ラスターの向かい側からこぼされたのは、どこかあきれ果てたような声。息を呑んだその理由は、肘かけに頬杖を突き、もう片方の手で茶碗を持つキーシャの姿に、である。
不機嫌そのものの様子に、ラスターは思わず居住まいを正す。ここまでのあからさまな様子は初めてで、まずいことをしてしまったと肝を冷やした。
「キーシャ様、お行儀が悪いです」
そんなキーシャへと声をかけたナクルは、さすがだと思ってしまった。物怖じせずに話しかけられるなんて――ラスターにはできない。あんな様子を見てしまったらなおのこと。
「だってー、私の言いたいことは全部シェリックが言ってくれちゃったもんだから、私の出る幕がないじゃない。せっかくラスターと話をしていたのに、それも打ち切られてしまったし……面目丸つぶれだわ」
そう言えば『話はあとで』と言っていたはずなのに。流れはどうあれ、結果としてラスターがシェリックにしようとしていた話を終えてしまったのだ。弁解の言葉も浮かんでこない。
「……ごめん」
ただただそのひと言しか口に出せず、申し開きもできずにいて。
「本気にしないで。ただの憂さ晴らしなんだから」
そう言うなり、キーシャは横を向く。半眼になったその目が狙うのは、原因となったラスターではなかった。
「私が話そうとしたことだって、リディオルが話してしまったし」
じと目で見られたリディオルは「それは心外」と肩をすくめる。
「キーシャ様が話しづらいだろうと思いまして、私が代わりにお話しさせて頂いた次第でございます。立案者の私から話した方がそつなく伝わるかと思いまして」
「全て結果論ね」
「これは、過ぎた真似を」
道化のように大げさに、それでいて恭しく、リディオルは臣下の礼を取る。所作のひとつひとつは優雅だから、なんとも不思議な人だ。
「ま、嬢ちゃん一人に危険を及ばせるわけじゃねぇから安心してほしい。餌はひとつじゃねぇしな」
それこそ世間話でもするような気安さで語られた。リディオルはまだ手のつけていない茶碗を取り、静かになったそこへ茶のすする音を響かせる。
「お、うまいな」
なんて呑気な声がして。
「……今、なんと」
他四人の困惑者代表として、ナクルが口火を切った。
「もう一人据えてやってるんだよ、うちの見習いを。さて、どっちに食いつくかねぇ」
悪賢い顔をしながら楽しげに語るリディオルとは裏腹に、ラスターを除く三人の表情は同じだ。先のキーシャほどのふてくされ具合ではないにしろ、何を言っているのだと、そう言いたげだった。
そういえば気になった言葉がある。ラスターの他に据えられたもう一人。リディオルが見習いと呼んでいる人物に、思い当たる人が一人いて。
「ねえ、見習いって……もしかしてユノ?」
「嬢ちゃんさえてるねぇ」
リディオルの傍につき添うようにいた少年を思い出す。先ほど話した時もそうだった。いいように使われている気配がして、ラスターはユノに同情を覚えた。
「……もうあなたには何を言っても通じませんね」
とはナクル。頭を振る姿に、そこはかとなく憐憫と哀愁が漂う。
「同感だわ」
椅子に深く身を沈め、キーシャが同意する。膝の上で組まれたその指が動く様子は、今のところない。
「ラスター、ユノに会ったのか?」
「うん。さっきリディオルと一緒にいて、二人がここまで連れてきてくれたから」
「そうだったのか」
二人がここから出て行く間際、借りていた上着をユノに返したのだ。送り出したと思ったらリディオルだけ戻ってきて、そこにはシェリックもいたのである。
「で、口上は? 誰が述べる?」
「俺が。明日でもいいんだろう?」
「まあな。早い方がいいっつっても、今日は遅い。明日が無難だろうな」
リディオルとシェリックのやり取りを聞きながら、ラスターは両手の中ですっかり冷めきってしまった茶碗を口へと運ぶ。
――おいしい。
香りに誘われるまま飲んでみると、口の中がほんのりと甘く満たされていのがわかった。冷めてもおいしいお茶があるなんて、初めて知った。
強張っていた指先が解れていく。気づかないうちに、ずっと緊張していたのだ。茶碗から離してさすった指は、お茶同様に冷えていた。
慣れない場所で、今日一日だけでもいろいろなことがありすぎて、頭が破裂しそうだ。
けれどシェリックがいて、道を定めたおかげで、迷わずに進める――そんな気さえしている。だから大丈夫なんて、根拠のない自信すら浮かんできた。
「ごちそうさま」
飲み干した茶碗を卓に戻し、ラスターは指を組む。お茶からもらった温かさはどこかに消え失せてしまったけれど、温かみのある言葉をもらって、胸の中はほのかに温かい。
「お粗末様でした」
「すごくおいしかったよ。冷めてもおいしいお茶なんてあるんだね」
感想を述べたラスターから視線を外し、ナクルは一度、キーシャと目を合わせる。そのどちらともいえない表情に、ラスターは二人を見比べた。何かまずいことでも口走ってしまっただろうか。
「それ、もったいないわね」
「ですね」
「え?」
やはり、何か変なことを言ってしまったのだ。
「今度はぜひお熱いうちにお召し上がりください。これは、温かい方が風味のよく出る茶葉ですから」
「そうなんだ……ごめん、飲めなくて」
そうとは知らず、手をつけないままに放置してしまった。せっかくナクルが手ずから淹れてくれたのに。申し訳ないことをしてしまった。
「いいのよ、また今度ね」
「うん」
次があれば絶対に忘れない。ラスターは心の中で誓う。
「そろそろ行くか。夜も遅い」
促すシェリックにならい、ラスターもその場に立ち上がる。ずっと話していたからあまり感じなかったけれど、居心地の良さにすっかり長居してしまった。
「シェリック殿、本日はあの部屋をそのままお使いください」
ナクルへと頷きかけるもそれを中止して、シェリックはこんなことを尋ねたのだ。
「――俺が使っていた部屋は空いてるか?」
「ええ、それでしたらリディオル殿にご依頼を出しておりましたが」
注目を集めたリディオルは、「ああ、あれな」と何でもないように話してくれた。
「うちの見習いに片づけさせたぜ? まーだいぶ苦労してたけどな。一応使える状態にはしてあっから、好きにしろよ」
「助かる」
言い合いをしたり、仲良く話していたり。シェリックとリディオルは仲が良いのか悪いのかいまいちわからないけれど、きっと根底にあるものは変わらないのだろう。信念だったり、譲れない思いだったり。それぞれが定めているものが脅かされるのならば、二人は敵対するのだ。
だからリディオルは味方だし、敵にも回る。シェリックもそれを許容しているからリディオルを『親友』とは呼ばない。ずっと変わらないものがあるわけではなく、常に変化し続ける関係がそこにある。
ラスターには無理だ。そんな危うい関係性を抱えていくなど、到底できそうにない。
けれどもし。もしいつか、キーシャの望んだことと、ラスターの望んだことの方向性が違ったら? そのせいで敵対するしか道がなくなってしまったなら? ラスターの望むことが、どうしても譲れないことだったなら?
ラスターからの視線を感じたのか、キーシャがこちらを見てにっこりと笑う。
「それじゃ、おやすみなさい。良い夢を」
考えていたことを振り払い、キーシャへと笑みを向ける。不格好で笑みの形になったかすらも危うい笑い方になってしまったけれど。
「――うん、キーシャも」
もしその時が来たのなら――自分はどうするのだろう。
**
夜は好きだ。改めて確認するまでもないし、言ったところで何がどうなるというわけでもないけれど。
生き物が息を潜め、誰もがひっそりと静まる時間。静寂で満たされた空間は落ち着けるから。静けさの中で、ぼんやりと考えごとにふけるのも嫌いではない。
「――ごめん」
だからと言ってその沈黙が破られたことに、不服を唱えるつもりはなかったけれど。
二人の歩みは止まることなく続いている。ちらと視線を転じれば、不安そうな面持ちで答えを待つラスターがすぐ傍に見えた。重なった目を再び前に向ける。
「それは、何に対してだ?」
足を止めれば、それに合わせてラスターも立ち止まる。まるで示し合わせたかのように。
別に責めるつもりはない。ラスターが決めたことに抗議も文句も異論も、申し立てたい不服だって山ほどあるけれど、それでもそうしたいとラスターは押し通したのだ。ならば自分がこれ以上何を言っても、ラスターがそれを変えることはないだろう。
「色々。たくさん。今までの全部……かな」
自分もラスターも、今日一日だけで謝ってばかりではないだろうか。対象がそれぞれ異なるとはいえ。
「ルパを出てから船に乗って、輝石の島に着いて、アルティナに来て、ずっと迷惑かけどおしだったから」
そんなことは今更だ。次に出てくる言葉に何となく予想がついて、我知らず半眼になったシェリックはおもむろに右手を伸ばした。
「だから、ごめ――いひゃい!」
伸ばした手でラスターの頬をつねりあげると、されるがままだったラスターは目を白黒させながら逃れた。
「なっ、何するのさ!」
「いい加減聞き飽きたんだよ」
リディオルへと何度も謝った自分が言うべきではないけれど、同じことをされた側になってわかった。聞いているとだんだん腹が立ってくる。
「リディと俺に啖呵切っておいて、今更何を言う。お前の謝罪が聞きたくて了承したわけじゃねえんだよ、こっちは。次謝ったら反対も同じようにしてやるからな」
「う、うん。ご、ごめ――」
言いかけたラスターは慌てて口を押さえる。耳まで赤く染まった顔。逸らされた目が泳いでいて、そのうろたえようについつい肩を震わせてしまった。
「……ねえ、こっそりと笑わないでくれる?」
「おっまえ、本当に期待を裏切らない奴だな」
「それ、全然嬉しくない……」
声を上げなかっただけ褒めてほしいところだ。
「で? そっちも同じことしてやろうか?」
「ぜーったい嫌だ!」
左手を伸ばそうとしたら、両頬を押さえて飛び退かれる。ちょっと力を入れただけだろうに、相当痛かったらしい。
「じゃあ、謝るの禁止な」
「ううう……割に合わない」
「堂々としてればいいんだよ。迷惑だとか面倒かけたなんて思うな。決めたのはおまえなんだから、したいとおりにすればいい」
「――うん」
それまで浮かべていた涙目から一転して、ラスターはしっかりと返事をする。
それでいい。
「行くぞ」
王族の住まう区画を過ぎれば、そこから外側の廊下は一変して薄暗くなる。単に照明がなくなるからだ。リディオルから渡された灯りを点け、廊下を照らしながら進む。辛うじて足元が見えるくらいだが、その小さな灯りがシェリックには安心する明るさだ。
星を観測する時には灯りなど点けないし、暗闇の方が星は見える。逆に明るすぎると落ち着かなくなってしまうのだ。
「――うわあ……!」
「どうかしたか?」
離れた場所で上がった声音に、ラスターが立ち止まっていたことを知った。ラスターが身を乗り出して見ているのは上空。そちらまで戻り、同じ方向を眺めて納得した。
「ああ、今日はよく見えるな」
硝子のない窓から見えるのは、見渡す限りに広がった星空。初めてこの光景に魅入られたのはいつだったろう。
占星術師という名のとおり、星を見て意味を定めるのが自分の役目だ。得られた地位と、身勝手に決めた約束と。それを果たすまでは、ここから離れるわけにはいかない。そうも思っていたけれども、それだってこの星空に心奪われでもしなければ、こうして戻って来ようとすら思わなかった。
牢から出られたなら、あのまま姿を消しても良かったのだ。レーシェのこともアルティナのことも何もかも忘れ去って、雲隠れして、どこかでひっそりと暮らしていくことだってできたかもしれない。
出会ってしまったから。
偶然かも必然かもわからないいた。けれど、シェリックは出会ってしまったのだから。ラスターに、レーシェとよく似た少女に。
「なんか、シェリックを迎えてるみたいだね」
「――俺を?」
「うん」
思いがけないことを言われ、ラスターの横顔からもう一度星を見上げる。
「おかえり、って」
星のようにきらきらさせた目で、何を言い出すのかと思えば。
「残念ながら星の声は聞いたことないな」
その意味を考えはするけれど、星自体の声などとんと聞いたことがない。そもそも、星がしゃべるわけないだろうに。
「ええ、夢がない」
「はいはい。じゃあ、そういうことにしておいてやるよ」
「適当だし」
「適当なんだろ? 俺は」
先ほどの意趣返しをしてやる。
「そういう意味で言ったんじゃないんだケド――って、待ってよ、シェリック!」
先に歩き始めると、慌てた足音がうしろから続く。
煙たがられると思った。罪を犯した賢人が元の場所に収まることに、決していい顔はされないと。ここに待つのは歓迎ではないと、覚悟をして。
――おかえり、だなんて。
そんなことを言われるとは思わなかった。レーシェと同じ言葉を言われるなんて、思いもしなかったのだ。