63,彼女の思惑、我知らず
それはほんの少し前。立ち寄ったそこで、交わされた言葉たちのこと。
一人で訪れたナクルに不思議そうな表情を見せるも、ナクルと目を合わせて何かを悟ったのだろう。特に何を言われることもなく、また追い返されることもなく、ナクルはその部屋に通された。
「お話がある、そういった顔をしていますね?」
「おっしゃるとおりです」
ナクルの脳裏に浮かんだのは、中庭の薬草園で名乗った少女のことだ。
「シャレル様、ラスター殿はレーシェ殿の――」
「どこでその話を聞いたのかしら?」
それ以上は言わせまいと、即座に返答がなされる。答えは――是。シャレルは知っている。
決して声を荒立てたわけではない。それなのに圧されるような力を感じてしまうのは、シャレルの人となりを良く知っているからだろうか。身がすくむ思いを感じつつも、ナクルは答えを返す。
「……調べたつもりはありません。ラスター殿のお名前を伺う機会があり、そこで知りました」
「そうでしたか。私もリディオル殿からお聞きしまして、改めてお会いしたのですが……驚きました」
シャレルの目が伏せられる。
「ラスター殿に折り入ってお願いしたいことがありまして、こうしてシェリック殿とともにお呼び立てした次第です。まだ彼女にお話ししてはおりませんが、決して悪い話ではありませんわ」
「それは……どのようなことでしょうか」
聞いていいものか。迷った末にナクルはその質問をした。答えられないことならば、シャレルからの答弁はないだろう。仮にそうであったなら、この話はここで終わりだ。恐らくはないだろう。
予想に反して、シャレルはそれを口にする。戸惑うナクルを眺め、聖母のように微笑みながら。
「ラスター殿を――」
**
「お話」
そこに横たわっている静寂に固唾を呑む。
繰り返して言う母親はとてもおっとりとしていて、急いていた自分が馬鹿らしく思えてくるほどに。人によってはいらだちを募らせるその話し方は、あるいは頼りなく見せることもある。そうして自分の調子に巻き込んでいくのが母親の得意とする話術だ。
本当は誰よりしたたかで、この国の全てを掌握しているのではないかと思われる人。実の娘であるキーシャだって、生半可な態度で相対したくはない人物だ。
「あなたもナクルも唐突にいらっしゃいますね。急いては何事も仕損じてしまいますのに」
「ナクルも?」
では、彼の気がそぞろだったのは母親が原因だったのか。そういえば、誰がナクルに話したのかを聞いていなかった覚えがある。後方に控えるナクルへと問い質したい衝動をぐっと堪えた。
「――ナクルから聞きました。ラスターを王宮に留め置き、賢人の一人として迎えようとしていると」
「あら、まだ内緒にしているつもりでしたのに。ナクル、お話ししてしまったのね」
「……申し訳ありません」
ナクルはきっと頭を下げたのだろう。声と音でそれを察する。
「ナクルが悪いのではありません。私が請うことに従っただけです」
「そう? ならば不問に致しましょう」
「お母様」
「なんでしょう?」
これは本当に正しいのか。一瞬浮かんだ疑問が頭をかすめる。けれども、ほんの一瞬だけだ。キーシャが望むのは、まったく別のことなのだから。
「ラスターを賢人に据えること、止めていただけませんか」
「あら、どうしてかしら」
「私が助けてもらったことは事実ですし、彼女の実力がお母様の目に適ったことも聞き及んでいます。ですので、私専属の薬師にしていただけないでしょうか」
――賢人、ではなく。
シャレルは頬を手に当て、しばし考えに浸っている。
「そうですね――キーシャ」
「はい」
期待を込めて目を向ける。そんなキーシャへと微笑み、シャレルは言ったのだ。
「それはできませんわ」
ところがその口から出てきたのは、キーシャの期待にそぐわないものだった。
「っ、どうしてですか!」
「それはあなたが一番ご存知でしょう。改めて言わないとわかりませんか、キーシャ=フォス=セルティナ」
呼ばれた名に、反論しかけた勢いが阻まれる。
「あなたは一国の王女に当たる身。氏素性の知れない者を傍に置いておけるような、軽々しい立場ではありません。自らの立場をよくお考えなさい」
正論で返されてぐうの音も出ない。アルティナの王女。突きつけられた現実が、重みを持ってキーシャにのしかかってくる。自分一人の要望、あるいは意思をたやすく通すことはできないのだと。
――ならば、母親が意図することはどこにある。
「考えていないわけではありません。私だからこそできることもあります」
ラスターを賢人にしないそのために。
「どこの誰とも知れない者をあなたの傍に? それは他の方々からさぞかし反感を買うでしょう。あなたの一存でそれを決めたのならなおのこと」
「そう、ですけど……賢人であってもそれは同じことです」
「いいえ、それは違いますわ。賢人は出自など一切関係ない、いわば実力で得られる地位です。ラスター殿の力があれば、賢人に就いても何も問題はないでしょう。少なくとも、ただこの王宮に留め置いているよりはずっと」
そうだ、母親はラスターの実力を認めている。こんな時でなければラスターが賢人となることを、キーシャも喜んで受け入れただろう。けれど、どうして『今』なのだ。
「あなたの憂慮もわかります、キーシャ。事件の解決もままならないこの状態で彼女を賢人に据えること、彼女の身に万が一のことがあるかもしれないと危惧したのでしょう」
「はい、そのとおりです」
ここで起きた不可解な事件。賢人と呼ばれる者たちのうち、三人が殺されてしまったこと。他の誰でもなく、なぜ賢人たちが。誰が。どうして。なんのために。
ここふた月ほどは鳴りを潜めているが、またいつ誰が標的にされてもおかしくはないのだ。戻ってきたばかりの賢人の一人、シェリック=エトワールが標的にされる可能性だって考えられなくはない。
それに、狙われるのが賢人ではなくなるかもしれない。彼と一緒にやってきたラスターが対象にされることだってあるかもしれない。理由がわからない限り、自分やナクル、母親が狙われる可能性だって捨てきれないのだ。
「困りましたね」
シャレルは眉尻を下げ、憂いの表情で遠くへと目を向ける。
「適任でしたのに、ラスター殿のような方はなかなかいませんのよ」
「なんの話ですか?」
なんとなく答えを待って。
「か弱く、女性で、まだ子ども。賢人に据えれば、次の標的としては絶好の狙いどころになったでしょうに」
ざわりと。それは、誰のことだ。
この人は、何を。
「――お母様っ!!」
今度こそ悲鳴に似た絶叫がキーシャの口から飛び出した。
利用する気でいるのだ。この人はアルティナのために、ラスターを使う気でいるのだ。今いる賢人を、これ以上減らさないために。
なんて人だ。なんという人なのだ。
「何を、お考えですか! いくらお母様でも、していいこととしてはいけないことがあります!」
「それで早期解決がなされるのなら、私がそれをしない理由がどこにありますか?」
「誰かの犠牲の上に成り立つ平穏なんて、私は望みません!」
「ならばあなたは、賢人が全員いなくなるまで黙って見過ごせとおっしゃるの?」
「そんなことはありません! けれど……!」
「反論をしたいならば、それに見合う別の解決策をお持ちなさい。今のあなたは、嫌だと駄々をこねている赤子に過ぎませんわ」
反論。解決策。
この国のこれからを考えるならば、事件は早く解決させなければならない。また誰かが犠牲になるその前に。
――わかってはいるのに。
やっと会えたのだ。二度と会えないかもしれないと思っていたラスターと。それをふいにするなんて、利用するなんて、キーシャにはできるはずもない。せっかく会えたのに。約束もしたのに。今度は死地に赴かせることになるかもしれないなんて。
キーシャは粟立った腕を抱え込んだ。
言えない。できない。そんなことは、決して。
恩をあだで返す? そんなこともしたくないのに――
「――シャレル様。お戯れはその辺になさってください」
ナクルがキーシャの目の前に割って入ってきたのは、その時だった。
「キーシャ様が真実と捉えてしまいます」
「ふふふ、久々の親子の会話ですもの。楽しんだって、罰は当たらないでしょう」
「あとで説明に回る私の身にもなってください」
交わされるやり取りに、わしづかみにされていた心臓がゆるゆるとほどけていく。それは、つまり。
「――、嘘?」
「全部ではありませんが」
キーシャの口から呆然とこぼれる。そのつぶやきを拾ったのはナクルだった。
吐いた息と一緒に、張りつめていた空気さえも弛緩していく。
「本当のこともありますわよ。彼女を囮にさせて頂くことも、そのひとつです」
「お母様……」
一体どこまでが本当で、どこからが虚偽なのだろう。
「キーシャ様、ご心配なさらずともラスター殿にはシェリック殿がついています。そのためにシェリック殿をお呼びしたのですから」
「護衛を任せるということ? でも、シェリックも賢人の一人よ?」
「リディオル殿もおります。一人よりは複数でいた方が、何かと安全でしょう」
「それは、そうだけど……」
それでもできることには限度がある。理解はできるが納得するまでには至らない。
「それと、訂正を――シャレル様、ひとつ質問をしてもよろしいですか?」
「構いませんわ」
ナクルの向こうで、呼ばれたシャレルの瞳が楽しげに揺らめく。
「ラスター殿は氏素性の知れない方ではありません。そのことを、あなたは初めからご存知でしたね? リディオル殿から聞くよりも前に」
「人を博識のように語るのではありません。しかし、そうですね……船で初めてお会いした時になんとなく予測が立ちました、とお話ししておきましょう」
「――やはり、そうでしたか」
次々と進められる会話に、ついていけなくなる。疑問を挟みたいけれど、到底聞ける雰囲気ではない。
「お話は以上かしら?」
「は、はい。これで失礼します――ナクル、行くわよ」
「かしこまりました」
生真面目に返答するナクルを従えて、キーシャはシャレルに背を向ける。そのすぐあとだった。
「――ねえ、キーシャ」
「はい?」
呼び止められ、肩越しに振り返る。
「あなたが一番大事にしたいことは何かしら?」
「――え?」
「この国? それとも周囲の方々? 王女であるその身? あなたは、何を一番重要視しているのかしら」
唐突にかけられた問い。きちんと振り向いて相対するも、答えに窮して言葉が詰まる。そんなキーシャを見て、シャレルは静かに言った。
「最も大切なことを見極めておかなければ、あなたが進む先に迷いが生じます。一時の感情に流されるのではなく、先を見据える力をお持ちなさい。それを、決して忘れてはなりません」
「……わかりました。失礼します」
キーシャは頭を下げ、今度こそそこから退出する。後ろでナクルが閉める扉の音を聞きながら、シャレルが言った言葉を反芻する。
――あなたが一番大事にしたいことは何かしら?
シャレルの問いかけが、キーシャの耳にいつまでも残った。