62,過去の清算、導くは
ひとつばかり深呼吸。後ろにいたもの言いたげな顔を押し止め、意を込めて扉を叩く。
応えた返事に扉を押し開けて、そこにいた意外そうな顔を真っ直ぐに見た。
「あら、珍しいですわね。あなたがここに来るなんて」
「お母様」
言葉の途中で呼びかけるのは失礼に当たると知っている。けれども。
笑みを浮かべ、瞬きひとつで先を促すシャレルの前まで進み出た。
「どうかなさったの、キーシャ?」
シャレルの問いかけにもう一度息を吸い込む。
「お話があります」
背後で閉められる扉の音を聞きながら、キーシャは凛と告げた。
**
彼女との最後の記憶は、腕の中で口にされたいくつもの謝罪だ。
最悪の想像を助長させるように、慌ただしい足音が折り重なるように近づいてきて。止まっていた時間と思考が回り始めたのは、何もかも全てが終わったあとだった。
彼女がどうなったのか、あの場所はどうなり、そのあとどんな事態が起きたのか、何も知らされることなく。唯一教えられたのは、自らの処遇だけ。
隔離された場所では情報を得ることすら許されず、またわざわざ教えてくれる奇特な者もいなかった。けれど。
――あの人は生きてる。
たったひと言、リディオルが教えてくれたのだ。
安堵と申し訳なさと。様々な感情がない交ぜとなって、今の逸る気持ちをあと押ししている。向かった足によどみはなかったのに、いざその時となると、そこから先に進むことに躊躇している自分もいて。
浮かんだ自嘲は唇をかみ締めることでやり過ごし、眼前にそびえる扉を見上げた。
軽く握った右の拳で、叩いた音は三度ばかり。少し間が空いて声がかけられる。
「――はい? 開いているのでどうぞ」
変わらない、懐かしい声音に目をつむる。わからないと思っていた。六年も歳月がすぎていれば、自分にはもうわからなくなっているだろうと。
こみ上げてくるのは懐古だ。そうに違いない。それ以外の、何でもないのだ。
「失礼します」
扉を開ける、ただそれだけの動作に緊張しているのはなぜだろう。取手を握り損ねそうで、舌をかみそうで、回す手が震えそうで――ああ、怖いのか、自分は。ここを開いて、彼女の無事を確認するのが、夢ではないかと思っているのか。
もうこれは夢ではないのに、それを知っているのに、答えを直視したくない自分がいて。知りたいのに知りたくない。夢ではないのに、夢だと思いたい。相反する感情を飲み下し、面を上げる。
果たして扉の先、逆光の中で彼女が息を呑む気配が伝わってきた。
それを見たシェリックからこぼれたのは切なさか、嘲笑か。締めつけられた胸で、吸った息が苦しくて。
「――変わりませんね、あなたは」
つかえるであろうと確信していた言葉は、思っていたよりもすんなりと出てきた。
「長らく、ご無沙汰をしておりました」
「ディ――シェリック?」
「はい、本日戻って参りました」
強張っていた頬が和らぎ、ふっと笑みが漏れる。
「その名前はとうの昔に捨てましたのに、まだお間違えですか?」
「やかましいわね、つい口をついただけよ。――でも、本当にあなたなのね?」
「はい」
「こんなこと、私が言える立場ではないけれど……」
彼女は息を吸い込む。
「おかえりなさい、また会えて嬉しいわ」
「ええ……ご無事で何よりです、レーシェ殿……」
生きていたことが何より嬉しくて。それが知れただけでも、アルティナまで戻ってきた価値はあった。経緯はどうであれ、シェリックがここに戻ってきたのは、紛れもない事実なのだから。
――だから、安心したことに浸りすぎていて、伸びてきた腕に気づかなかった。
「っ!?」
突然かかった力と覆われた視界に驚くも、何とか踏み止まる。ふわりと鼻腔をかすめた香りは嗅ぎ慣れないものだったけれど、どこか優しい香りで。
彼女に抱き締められたのだと気づくまで、少しの時間を要した。
「――レーシェ、殿?」
理性を総動員させて動揺を押し隠し、抱き止めていた彼女に問う。しばらく答えは返ってこず、彼女のしたいようにさせてやる。
――泣いて、いるのだろうか。嗚咽も何も聞こえてこないけれど。そういえば、声も出さずに涙するのは彼女の癖だったと思い出す。今もそうなのだろうか。押し殺した声で、彼女は――なんて思っていたら。
「……可愛くない大人になっちゃったわね」
ため息混じりに、そのひと言がつぶやかれた。
「昔はあんなに可愛くて、リディオルと二人して私のあとをついてきたものだったのに。ああ悲しいわ」
「……そんな頃はなかったと記憶していますが」
お返しとばかりに、こちらも盛大に息を吐く。
「妙齢の女性なんですから、そう簡単に異性に抱きついたりしないでください」
「あら、今更そういうこと言う? あなたと私の仲じゃないの」
「レーシェ殿……」
くすくすと笑い続ける彼女をいさめるも、聞いている様子はまるでない。そもそも、こちらの言うことを聞いてくれたことなど、今までにあっただろうか。いさめたところでこちらが丸め込まれて、それでしまいなのが常だった。
「ほら、それよ。人のこと『殿』なんてつけて。前みたいに呼び捨てにしてくれて、全然構わないのよ?」
「これでも一応立場があるので……そう前のようにはいかないでしょう」
「もう、本当につまらない奴になったわ。私は構わないと言っているのに」
「あなたの言う『大人』になったもので」
「ぶー」
「子どもか」
ようやく解放され、こっそりと安堵する。
「その生意気なもの言い、懐かしいわ」
「あんたが強要したんだろうが」
「そうね。ふふふ」
口元に手を当てながら笑うレーシェは楽しそうで、昔と変わらない笑い方だということに気づいてしまう。そこに六年もの歳月が流れているなんて、微塵も感じさせずに。
「それで、あなた、戻ったの?」
シェリックは首を振った。
「いや、まだだ」
王宮には戻ってきた。けれども、彼女が言ったのはそういう意味ではない。先の言葉を略さずに言うのなら、「正式に占星術師の立場に戻ったの?」ということだ。多分。
「では、形式だけでもやりましょうか」
初めからそれを前置きに掲げるのはいかがなものか。
「……あんた、やる気ないだろ」
「当たり前でしょ、だって面倒じゃない」
さらりと返された。――ああ、話していると思い知らされる。この人はこういう人だった。
自由で奔放で、どこか型破りで。時に信じられないほどの無茶をしでかして――いや、もうやめよう。彼女は生きていたのだから。
「――占星術師シェリック=エトワール。薬師、レーシェ=ヴェレーノの名をもってただ今より王宮に復帰することを認める――はい、これでいい?」
「承知致しました――適当すぎやしないか、それ」
「だったら、私以外の別の人に頼んでよ。リディオルとか。――そういえば、リディオルには? もう会ったの?」
「まあ……」
会ったというか、何と言うか。
「俺をここまで連れてきたのはあいつだからな」
直接的にではないけれど、あれもこれも、大体はリディオルの仕業だ。
「へえ。噂は聞いていたけれど、やっぱりあの子が迎えに行ったのね」
「ああ」
となると、王宮でも出ていたのか。秘密裏にことが進められていたのではなく、牢にいた自分を外に出すという、その話は。
「――それで、シェリック?」
「っ!」
額を指で弾かれる。
「人と話す時は、きちんと相手と目を合わせなさいと言ったでしょう。私は、ここにいるから」
後ろめたさから目を合わせていなかったことを、彼女はちゃんと気づいていたようだ。
――気づかないはずが、ないか。
どれだけ昔のようにやり取りを交わしても、シェリックの脳裏にはあの日のことばかり浮かんできてしまっていた。
目の前にいる彼女は幻で、正視したならば消え失せてしまうのではないかと思ってしまったのだ。夢ではないのだとわかっていても、それは自分が思い込んでいるだけで、本当は何もかもが嘘で、幻想で。
「ああ……悪い、レーシェ」
シェリックは真っ直ぐに彼女の顔を見る。六年ぶりになる、その顔を。恐々と目を合わせて。
「うん、よし」
満足げな様子を見て――その瞬間、時が止まった。
「何よ、人の顔をまじまじと。そんなにおかしくなった? 年取ったとか言ったら怒るわよ」
不思議に思ったらしい彼女が問いかけてくる。
「いや……」
どちらかと言うと暗めな栗色の髪。後ろで緩く結ばれたその髪は、肩から前に垂らされている。小首を傾げる動作も、彼女の癖だった。きょとんとしたその表情に覚えがあるような気がして。
――シェリック? なに?
耳の奥から聞こえてきたのは別の声だ。レーシェよりも幼い、少女の声。
「何でもない。きれいになったな」
「あら、お世辞でも嬉しいわ。で、本当は?」
「リディオルに呼ばれていたことを思い出した」
「これだからあなたは……でも、それだとあんまり引き止めちゃ悪いわね」
「悪い」
「いいのよ、またゆっくり話しましょう?」
「ああ」
浮かぶままに言葉を連ねる。ぎこちない動作で彼女に手を挙げ、部屋をあとにした。うまく笑えていただろうか。動揺は、隠せていただろうか。
――それが、あなたのためになるでしょう。
なぜあの時シャレルがシェリックにそう言ったのか。
てっきり、昔のことをとがめられていると思ったのだ。アルティナ側の都合とは言え王宮に戻ってくるのだから、悔恨の情は絶っておくべきなのだと。シェリックが後悔していた過去から、前に進めるように進言したのだと。
そうではなかった。
シャレルのあの言葉は、過去にシェリックが犯してしまったことに対してではない。現在のシェリックに向けた言葉だったのだ。
レーシェには早く会っておくべきだった。今この時ですら、遅かったのだと感じてしまうほどに。
他人の空似。そんな生易しい言葉などでは片づけられない。顔も、声も、生業とすることも、思い返せば何もかも。
似ていると思った。それは間違いではなかった。
――ああ、そうだ。
どうして気づけなかったのか。あれほど傍にいて、どうしてわからなかったのか。
過去から目を背けようとしていたシェリックが、知らず知らずのうちに重ね合わせていたからではない。ちゃんと見ていなかったからだ。あの子を見ながら、その向こうにレーシェを見ていたからだ。
そうなのだ。
――お母さんに続く手がかりになればもっといいなって。
話さなければ。ラスターに。一刻も早く、戻って話をしなければならない。
シェリックの足が速度を上げる。ラスターの待つ部屋へと。
似ているのも当然だ。
レーシェは恐らく、いやきっと間違いなく――ラスターの母親だ。