61,定めた想いは誰がために
手首を返して空気を払う。二人にも薬草にも当たらない軌道を描いて、風を切る音を立てた。
受け取った瞬間から、試すまでもないとわかっている。疑う余地すらなく、この棍はラスターのものだと。
どうしてなんて、些細なことだ。先と同じように、はぐらかされる予感しかしない。代わりに、ラスターは別の感想を口にした。
「すごいね。手品みたい」
思ったありのままを伝えるも、思いがけない答えが返ってくる。
「手品とは違うな。種もしかけもありゃしない、これが魔法だよ」
「魔法?」
そんなものが、本当にあるのか。では、船で起こったことも、全て魔法だったということか。
「自己紹介をしておこうか。王宮魔術師、リディオル=マゴス。それが俺の名前だ。こっちは俺の下僕のユノ」
「……補佐、です。補佐。一応、魔術師見習いです。何勝手に変な役割をつけてるんですか」
「失敬、俺の後輩だ」
「そうなんだ……」
アルティナと何か関連があるのだとは知っていた。けれども、リディオルがアルティナとどんな関わりを持つのか、詳しくは知らなかった。シェリックはリディオルのことを古い友人だと話していて、二人の繋がりはそれだけだと思っていたのだ。
「気のない返事だなぁ」
「ごめん、リディオル」
だから、知ってはいたけれど、確かめたくもあった。
「王宮魔術師って……それってやっぱりすごい人なの?」
たっぷりと間の空いたあと、リディオルの爆笑が響き渡った。
「くっははは! そうだよな、そりゃわかんねぇよな!」
「リディオル殿、笑いすぎですよ」
とっさに耳をふさいでそこから逃れたユノが、冷静に駄目出しをする。
「だって、知らないし」
そんなに笑わなくてもいいだろうに。
「外の人はそんなことわからないんですから。賢人だなんて言って、理解できる人がどれくらいいると思っているんですか」
「まぁ、そうだわな。王国にいる奴ら以外で、賢人について詳しく知る奴はいねぇよな」
リディオルは涙目になりながら、堪えきれない衝動を抑えて話す。もういっそのこと、先ほどみたいに大笑いしてくれればいいのに。つかなかった諦めがラスターの口をとがらせる。
「……セーミャが、シェリックはアルティナの上級職に就いてるんだって言ってたケド」
「それが賢人だよ」
王宮魔術師。占星術師。役職を言われても基準がわからないのだ。それは、ラスターが目指している薬師のようなもなのかと、想像するしかない。
ラスターは握りしめていた棒から顔を上げる。変な笑い方をして、ついには涙まで出ていたらしいリディオルが目元を拭いながら、ようやく笑いを収めた。
「アルティナに従う十二の上級職、十二賢人なんて呼ばれてるか。で、略して賢人。俺やシェリックがそれに当たる。こいつは賢人見習いって言えばわかりやすいか?」
背中を叩かれたユノがよろめき、恨めしげにリディオルを振り返る。
「……はいはい、未熟者ですよ」
「ひよっ子で半人前な青二才だな」
「そうですけど! ……そうですけど」
「そうへこむな。そのうちいいことあるからよ」
「なんですかその、慰めになるようなならないような適当な言葉は!」
「慰めてねぇからな」
「──ああもう、ああ言えばこう言うし!」
「たりめぇだ」
「──ねえ、リディオル」
さらに言葉を連ねようとしていたユノが口を閉ざし、にやけながらそれを聞いていたリディオルが笑みをしまう。そこまで注目してくれなくともいいのに。
「あん?」
リディオルに訊かれ、本当に聞いていいことなのか迷う。なんのために──ラスターの、いや、シェリックのために。
見誤ってはならない目的を定めて、一度はためらった口を再度開く。
「あのときシェリックが飲んだのは、酔い止めだったんでしょ?」
船の中で交わされたやり取り。ラスターに渡される予定で、シェリックが飲んでしまった薬。
「どうしてそう思う?」
興味深そうに、リディオルは先を促した。
──あの薬が酔い止めだなんて、俺がいつ言った?
思い起こされる言葉がある。思い出すたびに背筋が寒くなって、鳥肌すら立った。
「リディオルは酔い止めだとは言ってない。だけど、酔い止めじゃないとも言ってない。だったらリディオルが持ってた薬は、酔い止めだった可能性だってあった。違う?」
リディオルははぐらかして、明言はしなかった。ラスターを追いつめて、ひとつしか答えを出せないように誘導するために。
あのとき、ラスターは動転していて気づけなかった。
けれど、シェリックに出ていた症状は、船酔い以外のなんでもない。薬を飲んでいたにもかかわらず酷くなったのは、船の揺れが想像以上に大きかったからだろう。途中で揺れなくなっていたのも、嵐の中に置き去りにされたような景色だったのもきっと、リディオルの仕業だ。そうでなければ、あんな不可思議な現象は起きやしない。
シェリックが言っていた。リディオルは風を操れるのだと。ならばその延長線上で、嵐だって操れるのではないだろうか。
「ボクの薬が増進剤になるはずないよ──だってあれ、ただの風邪薬だもん」
効果は解熱と鎮痛。鎮めこそすれ、他の何かを促進させる成分など入れた記憶がない。
「──参ったね。あの場の勢いでいけると思ったんだが、なかなかどうして手ごわいな、嬢ちゃん。さすが、島で見破っただけあるな」
リディオルは、正解とも不正解とも言わない。はっきりとした答えをせず、核心をつかませないようにするのは、きっと彼の性分なのだろう。
「それで、どうする? お優しい俺でも味方につけてここから出て行くか? 俺の権限なら、嬢ちゃんを連れ出すことだってわけないぜ?」
王宮から出られたなら、ラスターは母親を探しに行くことができる。アルティナに留まることなく、他の場所にだって行ける。ラスターはまた、当てもない旅に戻るのだ。どこにいるかもわからない母親を探しに。今度は、一人きりで。
「──ううん」
ラスターは首を横に振った。
「お母さんを探したいのは本当。でも、今はシェリックのコトが知りたい。たくさん助けてもらったのに、まだ何も返せてないから」
シェリックに何度も助けられてばかりで、ラスターは何もできていない。心を砕いてもらったのに、それに見合う方法が見つからない。借りてばかりではいけないのに。返さなければならない思いが降り積もっていく。ラスターは埋もれていくばかりだ。
──すべてが他の人と同じでなくてもいいのです。
浮かびかけた苦笑いに待ったがかけられる。思い出した言葉があった。
──これだけは決して譲れないと思うことを、一番に考えればいいのですよ。
わからないと、ラスターはそう答えた。
やりたいことはある。母親を探したい。彼女を見つけるために。こうしたいという思いがある。助けられた思いに報いるには、同じように助けるのがいいのではないか。今度はラスターが、シェリックを。誰にはねのけられても、反対されたとしても。
それがラスターにとっては譲れないことになるのだろうか。いや、きっとそうだ。これがラスターの、誰にも譲れないことなのだ。成し遂げたい。曲げたくない。諦めたくない。譲りたくない。
たとえそれが、シェリックの考えとは正反対だったとしても。
「──うん。やっぱり、ボクはここにいたい」
「お?」
「シェリックに、今まで助けてもらった分を返したい。今度は、ボクの番だ」
アルティナへは連れてこられた旅路だったし、決して望んでいた場所ではなかったけれど、ラスターは決めたのだ。
母親を探すことを諦めたわけではない。だってまだ、祖母が待っているのだから。ラスターが母親を連れて戻ってくる日を。たった一人で。
絶対に見つけ出してみせる。決意したラスターの思いは変わらない。
けれど、シェリックの助けになるのは今しかできない。母親探しを優先してアルティナから離れたとしよう。ラスターが再び戻ってきたとき、同じように彼がアルティナにいる保証はない。
先のことなんてわからない。未来が確定していないのと同様に。だからラスターは考える。今ラスターが、何をどうしたいのかを。
フィノが教えてくれた。ラスターが譲りたくなくて、一番に考えているのは。
「シェリックの力になりたい。決めたよ。シェリックが駄目だって言っても、ボクはここにいる。だから、ここからは出て行かない。ボクはシェリックの傍にいるって──わっ」
大きな手が、ラスターの頭をわしゃっとなでる。
なでるというよりはかき回す、と呼んだ方が正しい粗雑さで。
「リディオル? なに?」
ラスターは尋ねる。ラスターから手を離したリディオルは、いつもの人を食ったような笑みではなかった。
見間違いだろうか。気のせいだろうか。その笑みが少し、ほんの少しだけ切なく見えたのは。
「──あいつの傍にいたのが嬢ちゃんで良かったよ」
「……? どういたしまして?」
「はははっ、本当にあの人そっくりだわ。そのうち会わせてみてぇもんだな」
どこかで聞いたことのある台詞だ。
「誰なの、それ?」
「レーシェ=ヴェレーノ、王宮の薬師だ。おっかねぇ人だけどな」
リディオルが告げた名前に、当然ながら覚えはない。薬師なら、確かにラスターと似ている。ラスターが目指す立場にいる人なら、会ってみたいとも思う。しかし、それらを考慮に入れても気になった単語があった。
「怖い人……?」
おっかない人だと言われているのなら、ラスターもそれほど怖いということだろうか。
ラスターは悶々と考えてしまうのだった。