56,繋いだ言葉と約束を
「――シャレル様、今、なんと」
聞き返しても、視線の先にいる女性は微笑むだけである。
先ほど来たときに彼女の傍に控えていた姿はなく、今ここにいるのは二人だけ。扉前で別れたフィノは、この場にはいない。
不用心だとは思っても、女性がそれを望んだのだろう。従者にさえも、聞かせたくはないのだと。
「ですから今申したとおりです、シェリック殿。あなたに賢人の地位へと戻っていただくのと同時に、ラスター殿にひとつの場所をお渡ししたいと。それだけですよ。キーシャの友人、薬師の見習い、占星術師の補佐――何でも構いません。浮かぶ肩書きはいくつもありますでしょう」
「そういうことではありません。なぜ私だけでなく、彼女もここに? あなたが望まれたのが地位についた私ならば、彼女は関係ないでしょう」
シェリックの心中に狼狽の感情が吹き荒れる。
なぜ? ラスターがキーシャを助けたから、その恩に報いようとして? ――いや、この人に限ってそれはあり得ない。そんな簡単な理由などでは、決してない。
そうだとわからないように歯がみする。
これでは、ラスターをここから出すことなど叶わなくなってしまう。
「ラスター殿の力を見込んでのことです。あの知識と技術、見習いでも十分ふさわしいと思いますよ?」
「本人の承諾もなしにことを進めるのは、あまり賛成致しかねますが」
それも、作為的にシェリックだけに話をするなんて、頷けるわけがない。
「それに、なんの後ろ盾もなく王宮に留めておくことがどれほど危険か、あなたならおわかりになりますでしょう?」
「脅しのつもりですか、それは」
人質として連れてきておきながら、彼女の立場を気にかける。拘束されていないだけましだと、そう思わせたいのか。それとも、アルティナの所有物だと見せつけて、シェリックの安易な希望すら封じようというのか。
「とんでもない。事実を述べただけです」
取り澄ましたその顔の裏で何を企んでいるのか、推し量れはしない。
彼女とはどこまで行っても平行線で終わりそうだ。ラスターをアルティナに関わらせたくないのが本音なのに、ここまで来てしまったらあとに引けない。中枢に深く入り込んでしまったら、そこから抜け出すには膨大な労力が必要になる。
「なら私だけお戻しください。彼女は私につき合わせていただけです。王宮とは何の関係ありません。明日にでも故郷に帰してやってください」
――それでも、関わることなしにできるというのなら、シェリックはそうしたい。
母親の行方を追っていたラスターには申し訳ないが、故郷に帰ってもらうのが彼女のためだ。ラスターを、アルティナに渡すつもりはない。
「本当に?」
「ええ」
「シェリック殿、本当に? ラスター殿は何も関係ないとおっしゃるのですか?」
「ですから、そうだと――」
言いかけて口を閉ざす。今、何か、声の調子が変わっただろうか。笑みはそのままで、それなのにひんやりと寒気を感じたような気がした。
「あなたと出会った時点で、関係なくはないでしょう?」
「――っ、それが理由になりはしないでしょう!」
荒げてしまった声で非難する。
ラスターと出会ったのは偶然だ。シェリックとラスターはアルティナとは何も関係のないところで出くわした、ただの囚人と少女だった。それ以外の、何ものでもなかったのだ。
「あなたは……使われるおつもりですか、ラスターを」
「そんな人聞きの悪いことを申したつもりはありませんわ。もしラスター殿が聞き入れてくださるなら、協力していただきたいと思っただけです」
読めない表情で彼女は微笑む。何を考え、どうしたいのか――彼女の思いどおりに全てを巻き込もうとするその思考が、見て取れる。たおやかで、上品で、そんな外見に似合わず、底知れない考えをめぐらせていて。
シェリックが今願うのはただひとつ。ラスターがアルティナの手駒とされる、その事態だけは避けなくてはならない。
「――少し、時間をいただけますか」
絞り出した答えは、是とも否とも言えないものだった。
「ええ。構いません。考える時間は必要でしょう。あなたも、ラスター殿も。けれど、どうか決断はお早めに。ラスター殿の立場が悪くなる前にお願いしますわ」
「ええ、そのつもりです」
「――ときにシェリック殿」
「――は」
返事になるまでに至らない。疑問と、警戒心とがない交ぜになった。
「レーシェ殿にはお目にかかりまして?」
まさかその名を聞くとは思わなかった。耳にするだけで胸が痛む。彼女は無事だとわかっていても、なお。
存命中だと聞いたのはつい先ほどで、間を置かずこちらに呼ばれたのだ。そんな中で会いに行く方が難しい――なんて、言い訳ばかりが頭に浮かんでくる。
本音を言うなら、今すぐにでも駆けていって、彼女の姿をこの目で確かめたい。
「いえ、まだですが……何か」
会いに行く決心がついていない。いくつもの理由を探して彼女から遠ざかっているのはそのせいだ。
「では、早急に会いに行かれることを勧めますわ。それが、あなたのためになるでしょう」
「承知しました」
――贖罪を、しなければならない。あんなことになってしまった彼女へ。手向けるつもりでいた花はこの手にないけれど、代わりの言葉はいくらでも紡げる――きっと。
紡いだところで、どれだけの謝罪を告げても足りないだろうけれど、伝えなければならない。
「シェリック殿」
凛とした声。呼ばれたシェリックは、床に落としていた視線をゆっくりと上げる。
「あなたがアルティナを快く思っていないことは存じております。ラスター殿も、あなたとの交渉にするためだけに呼び寄せたつもりはありません。それだけはお伝えしますわ」
「そうですか」
交渉するためだけにではない――では、交渉に使う気はあったのだ。他の意図だけでなく。
「お時間を取らせましたね。私からは以上ですわ」
「わかりました、ここで失礼致します」
頭を下げ、くるりと背を向ける。終わった話にこれ以上語ることはなかった。
後ろで彼女がどんな顔をしているのか、想像に難くない。いつものように、慈愛に満ちた眼差しを浮かべているのだろう。あの薄ら寒い気配とは違って。
閉めた扉の前で、重い息がついつい口から落ちた。
扉で隔てられているとはいえ、話し相手だった人はすぐ向こうにいる。それでも、これくらいは勘弁してくれないだろうか。
「お疲れ様でした」
離れた位置に立っていたフィノが歩み寄ってくる。苦笑しているところを見ると、今の一連の動作は目撃されていたのだろう。
「立ち聞きか?」
「まさか。この部屋の会話が外まで聞こえないことは、あなたもご存知でしょう?」
困ったような笑みに変わったフィノを見て、自分の失言に気づく。
「――悪い、今のはいらない発言だった」
彼で憂さ晴らしをするつもりはなかった。
「では、聞かなかったことにしましょう。私の胸に秘めておきます」
「あとで語り草にするためにか?」
「とんでもない――けれど、何かの拍子にこぼれてしまう可能性は否定できないですが」
「必然性が高そうだな」
「そんなことはありませんよ」
まだ、受け入れられていないのだ。戻るとは言ったものの、賢人の立場に戻った自分も、その周りに彼らがいることも。
牢に入れられていた三年間と、ラスターとともにいた三年間と――アルティナから離れていた六年間を埋めるには、時間が足りていない。慣れ親しんだ場所とは言え、ここにいた期間よりも、不在だった時期の方が長いシェリックにとっては。
「――フィノ」
「はい?」
「ラスターに会いに行ってやれないか? さっきおまえがここにいなかったことを、ずいぶん気にかけていたようだったから」
それは、単なる思いつきに過ぎなかった。
最初にここにやってきたとき、シェリックはラスターと二人でこの部屋に入った。出てきた時にフィノの姿が見えず、ラスターの落胆していた様が見て取れてしまった。
そのあとに話した際も、ラスターはフィノの行方をしきりに気にしていた。フィノはシェリックとラスターを連れてくる役目を終えた。だから姿を見せない、そんなことを思い込んでいるのかもしれない。
「そうでしたか、それは申し訳ないことをしてしまいましたね……」
フィノは口元を覆い隠し、悩んでいる素振りを見せる。
その落胆していたラスターへと、追撃をかけてしまった自分に言えることではない。知った顔が少ない中で見知らぬにいるのは、大層心細いだろう。今なら、そう考えられる。
ラスターの傍に、シェリックがいつでもいられるとは限らない。ならば、その役目を他の誰かに託してもいいのではないかと思ったのだ。
――もちろん、任せきりにするつもりはない。それでも妥協しようかという気持ちが浮かんできたのは、ラスターのせいだろうか。
「あの場に留まっても差し支えはなかったのですが……その、なんと言いますか……」
返答に詰まるフィノなど珍しい。
「何かあったのか?」
「いえ、そうではありません。そういうわけでは、ないのですが……」
言うべきか否か。迷っているフィノを待つ。そうして視線をさ迷わせていたフィノが、とても言いづらそうに答えたことには。
「……二人きりでお話ししたなら、ラスター殿を怖がらせてしまうかもしれないと思いまして」
思いも寄らなかった返答にがく然とする。
そういえば、フィノはラスターと二人きりになるのを避けているように見えた。一度王宮まで出かけたシェリックが戻ったとき、彼はラスターとは別の部屋にいたか。こさえていた飲み物を自分では持っていかず、シェリックに託しさえした。今思えば、あれはそういうことか。
「大丈夫だろ、あいつは。ああ見えて意外と強いぞ」
くじけてもへこたれても、その度に顔を上げて、笑って。
「輝石の島でのことなら気に病むな。お前は上の命に従っただけだ。そうしなければならなかったんだろう? 結果的にラスターが倒れる事態にはなったが、その前からあいつの体調は芳しくなかったからな。全てがおまえのせいじゃない。おまえは最後にラスターを看ていてくれた。それで十分だ」
輝石の島で起きたことが心残りだったのは、何もシェリックだけではない。フィノにも、悔やみきれないものがあったのだろう。
だから、もうこれでしまいだ。互いに心残りばかりでは、許すこともできなくなってしまう。
「……わかりました、そうおっしゃるなら。あとでラスター殿の元までうかがいます」
「ああ。頼む」
「ええ、かしこまりました」
――フィノが全部悪いんじゃないよ。
加担していたのは事実だけれど、その心まで同じだったかどうかなんてわからない。むしろ命を受けていた分、余計に悩んでいたのではないか。ラスターは恐らく、そう言いたかったのだろう。
全てを疑ってかかったシェリックとは違って、ラスターは信じようとしたのだ。敵対していたフィノをも。
――敵わないな。
彼女とはまた、別の意味で。
「私はこれで。シェリック殿、それではまた」
フィノからかけられた言葉に目を見張った。
「――ああ、そのうちな」
柔和な笑みを浮かべながら、フィノはそこから立ち去っていく。
再びの約束がラスターにも交わされればいい。これきりなのは、やはり寂しいから。