54,彼らの事情は何を生む
「相変わらず険しい顔してどうしたよ?」
「大体において誰かさんのせいだな」
「へぇ、そんなひどい輩がいたとはな」
人目をはばかるようにやってきた森の中。王宮の中を比べると人が来ず、密会のひとつでもするのにはちょうどいいと、ふざけ半分に話されていたのを聞いた覚えがある。
「──で? 俺になんの用だ? 別に、さっきの続きをやりにきたわけじゃねぇんだろ?」
「なんだ、それで邪魔が入らないように、ここへ来たんじゃなかったのか?」
所望されたなら、それもやむを得ないと。
「好戦的過ぎんだろ」
「発端に言われたくはないな」
「わかった、休戦を申し込む」
折り合いをつけるならこの辺りか。どうせ、一生続くものではないのだ。
「受諾してやるよ、リディ」
シェリックの返答に「あーあー、これだからおまえは……」なんていうものだから、「突っ返してやろうか?」と脅せば「わりぃ」と謝られる。どんな年代でも、素直な気持ちは大事だ。
「けどおまえ、そんな態度ばっかしてっから、とうとう嬢ちゃんにも愛想つかされたんじゃねぇの? なぁ、保護者さん?」
「誰が保護者だ。あいつの保護者になった覚えはない」
「嬢ちゃんを追いかけないで、こんなところで油売ってていいのかよ?」
「……」
手痛いところを突かれ、シェリックは閉口した。
「知らない場所、知らない人ばっか。心細い中で頼りのおまえに突き放されたんじゃあ、さすがの嬢ちゃんだって参るだろうよ。味方がいない状況を想像してみろ。なかなかに過酷じゃねぇか?」
まかり間違っても突き放したつもりはないが、周りからそう見えたのならきっとそうなのだろう。
「──自覚は、してる」
「へぇ?」
返された楽しげな様子には無視をする。
「王宮で、俺がいつでもあいつを守れるとは限らない。ただ、あいつに考えてもらいたかっただけだ。身の振り方と、ここで生きていく方法を」
今まで傍にいられたように、このアルティナでも傍にいられるとは限らない。シェリックがここに戻るということは、自分たちを取り巻く現状も変化するのだということだ。
「にしては酷じゃねぇか? まだアルティナに来て間もない、ここに慣れていなくてかつ体調万全でない嬢ちゃんを突き放すにはさ。今嬢ちゃんが頼りにできるのはまえしかいねぇんだ。俺だって、いつまたおまえらの敵に回るかわからねぇぞ?」
からかい混じりに告げるリディオルの台詞は、決して冗談ではないだろう。笑わない彼の目がそれを語っている。シェリックとリディオルと、互いの優先事項が異なれば、再び相対する可能性だって十分にある。シェリックがどう思おうが、リディオルはそれを厭わないと言っているのだ。
「まるで、今だけ味方であるような口ぶりだな」
「ああ、少なくとも敵じゃねぇな。休戦協定を結んだ今は」
二歩、三歩離れた距離。近からず、遠からず。それがシェリックたちの距離感だ。決めたわけでもなく、それ以上近づこうともせず。
「その言葉、どこまで信じるに値する? 今おまえが口にしたこと全て、謀りでなければいいけどな」
「怖いねぇ。どんだけ疑ってんだよ、おまえ」
「ここではずっとそうだったろう。信じていいのは、自分だけだ」
シェリックにそう教えてくれた人はもういない。その人とは別の、彼女の言葉ばかりが消えなかったせいだ。アルティナに戻ったことで、顕著にそれが思い出された。当たり前のようにあった存在が何よりも大切なものだったと気づくのは、それが失われたときだ。
手が届かなくなって、目に見えなくなって、その大きさを実感する。傍にあるときは気づかない。いつだって。
「いつまでも後悔してんなよ。人間、後悔してばかりじゃあ、前になんか進めやしねぇ」
「そうだな……」
後悔、しているのだろうか。ラスターに言った文言に、こうして王宮に戻ってきたことに。──否、アルティナへと戻ってきたことに関しては、決して後悔していない。戻らなければなせないことだって、あるのだから。
「おまえ、嬢ちゃんをどうするんだ?」
「さてな」
「おい、なんとなくだったらやめとけよ」
なんと変わり身の早い。ラスターを人質に使おうとしていただとうと、言及するのはやめた。表面的ではあっても、リディオルなりに心配してくれているのだ。
「なんとなくじゃない。これでも考えてるんだよ。どうしたら、あいつをここから出してやれるのかを」
嘘でも偽りでもなく、ただ純粋な考えだった。心にすとんと落ちてきて、妙にしっくり収まったほどの。
「頼まれてもアルティナには譲らない。あいつはここにいるべき人間じゃないからだ」
ラスターには目的がある。あてもなく誰かを探していると、この三年もの間、シェリックは傍で見てきた。ラスターの探し人が彼女の母親であると知ったのは、つい最近だ。だから、ラスターはここに留まるべきではない。なんとしてでも、ラスターを外に出さなければならない。ラスターの目的も、目指す場所も、ここではないのだから。
「──ところでリディ」
「ん?」
ひとつ、気になっていた。
「おまえ、いつから盗み聞いていた?」
ラスターが部屋から飛び出していったのはついさっきだ。それを知るのは、あの部屋で話していたシェリックだけのはず。
じっと視線を外さないでいれば、リディオルは片手で頭をかいた。
「別に盗み聞いたつもりはねぇよ。たまたま通りがかっただけだ、他意はねぇ」
「風だけで通りがかるのは、他意がないと言うのか?」
「なんで気づくかねぇ……」
「あれで気づかないと思うおまえが悪い」
ラスターと話していたとき、部屋の外に人の気配は感じられなかった。シェリックが部屋を出た途端、そこに流れた不自然な風がひとつ。窓も開いていないのに、風だけ流れるのはおかしいだろう。尋ねてみれば案の定だった。
人のことを相変わらずと言っているけれど、そちらの現況の把握具合も大概ではないだろうか。
「いい加減人のことを詮索するのはよしたらどうだ」
「これが性分なんでね。この状況が改善されたらやめるさ」
「何かあったのか?」
状況。改善。ここで、何か良くないことが起きているのか。
そう訊いた、一瞬。
「──別に? おまえの力が必要なだけだよ」
覗いたかと思った表情はすぐにしまわれ、いつものリディオルがそこにいた。
「結果論だけを話されて、俺が納得すると思っているのか?」
「思わねぇからそれだけ言ってる。早い話が、見つからなかったんだよ。だからおまえをここに呼び戻した。それだけの話だ」
「呼び戻すだけのために、わざわざ賢人を使うのか?」
「温情かどうか知らねぇけど、比較的親しかった俺が抜擢されたんだろ。道中の話し相手にはなんなかったけどな」
「たまたま手の空いていたおまえが選ばれたと? 他の人でなく」
「じゃねぇの? お優しい俺は、わざわざこうして赴いてやったわけだ。ありがてぇだろ?」
「恩着せがましい」
やれやれだねぇなんて、ことさら大げさに肩をすくめられる。
「六年も経って、どうして今?」
「時効なんじゃねぇ? そんだけ経ったら、十分償えたって思われたとかな?」
「俺がしでかしたことは、そんな軽いものではないだろう」
聞いていたリディオルが苦笑する。
「大人しく聞いてりゃ、質問攻めかよ」
「情報が少ないからな」
「俺から聞き出してやろうって? おっかないねぇ」
年月が経てば自然と許される──そんな贖罪はどこにもない。置いた距離がもたらすのは、自分の心の平穏だけだ。それにしても、なぜ選ばれたのがリディオルだったのか。
──選ばれた?
「おまえ、どうして受けた?」
ふと浮いた疑問を投げかける。シェリックの知るリディオルは、そんな面倒なことを受ける人物ではない。
真っ直ぐに見返されるものの、そこには微かな揺らぎが見えた。
シェリックを知り、比較的親しく、かつ賢人であるリディオルからの迎え。どうして他の者ではいけなかったのか。逆に考えるのなら、リディオルでなければ駄目だったということか。
「──レーシェの事件に、関係があるんだな?」
リディオルは何も言わない。けれども、微かに浮かべられている苦々しい表情が、何よりも雄弁な答えだった。
「あの事件に関わりがあるなら、確かに俺は当事者だな。罰を受ける身なら、呼び戻されて当然か」
牢に入れただけでは飽き足らず、直接的な制裁を下すために。
けれど、疑問が残る。シェリックの安全を守るためだというシャレルの言が、どうも引っかかるのだ。
「ちげぇよ。そうじゃねぇ」
リディオルはゆるく首を振った。
「早とちりすんな。まだ明確な関わりがあるとは言ってねぇ。あるのかどうかすらも定かでないから、お前に話したくなかったんだよ。まぁ、あの事件がきっかけになったのは確かかもしれねぇけどな」
「どういう意味だ」
あの事件は解決したわけではないが、一応の結末は迎えたはずだ。それ以上の何かなんて、起こりえないだろうに。それとも、シェリックがいなくなったあとに、あの混乱した渦中で何か起こっていたとでも言うのか。
リディオルは覚悟を決めたように息を吐くと、不気味なほどに表情を消してこう告げてきた。
「賢人のうち、三人が何者かによって殺された」
「──なぜ」
前後の文脈に、繋がりが全く見えない。
「知らねぇよ。とにかく、ここ三年の間でだ」
呑んだ息が、上がろうとしていた言葉を押し戻す。なんだそれは。
「どうしてそんなことになった」
問いかけたシェリックへ、リディオルは口の端をゆがめて笑った。
「さぁな。俺はずっとここにいたわけじゃないから、詳しくは知らねぇ。ただ、そのせいでアルティナからは簡単に出られなくなった」
「いい薬だな」
「どこがだよ、しゃくの種だっつの」
不平と不満を顔にありありと映し、リディオルは溜めていた息を吐き出した。
「レマイルを覚えてるか?」
「ああ。レーシェと親しかったな。──彼女が?」
「殺された。王宮にいなかったときに。それがたまたまなのか、狙われたのかはわからねぇ。だから、所在が知れてるおまえを呼び戻したんだろ。王宮の外で殺されないように」
つまりはこういうことか。シェリックが王宮の外で殺されないように。目の届くところへ置いておきたかったと、そういうことか。
「関連があるなら、あの人の仇討ちと考えても無理はないと思わねぇか? まだ推測の域でしかねぇが、もしそうだったとしたらおまえが一番危ねぇ」
こじつけじみていると笑い飛ばしてもいい。リディオルの言った内容は、それほど突拍子のないことだった。けれどシェリックにそうできないのは、実際に亡くなっている人たちがいるからだ。
関連づけたくなる理由はわかった。何もわからないままでいるより、動機のひとつだけでもはっきりさせていた方が、可能性は広がる。だからと言って、それが本当に関連しているものなのかどうかはわからないけれど。
──けれども、なぜ賢人たちが? レーシェの事件を仮に関連づけたとして、得をするのは果たして誰なのか。
レーシェの事件のあとに変わったこと。投獄されたシェリックと、息を引き取ったレーシェと──結果として賢人を二人欠くことになった、その他に。
「だが、レーシェはあのとき亡くなって……」
いや、だからこそ報復に行き着いたのか。それならば納得できる。
「──おまえ」
リディオルの言うように狙われるのが自分だったとしても、そうやすやすと殺されてやるつもりはない。戸惑うような、躊躇うような。もの言いたげにしているリディオルの視線とかち合った。
「もしかして、あのあとのことは知らねぇのか?」
「あのあと?」
知る機会はなく、牢屋にいたシェリックに情報をくれる人間などやって来やしなかった。罪人に与えられる情報など皆無に等しい。牢屋に入るのに、外の情報なんてものは必要ないからだ。
「なんだ、てっきり知ってるもんかと思ってたわ……わりぃ。じゃあ、朗報かもしれねぇな」
「そう改まらずともいいだろ……なんだ」
もったいぶったような態度を流しつつ、聞く体勢だけは取っておく。どうせたいした情報でもないだろうと。
そうして待つシェリックへと、リディオルは言ったのだ。
「レーシェは生きてる」
「──は?」
疑うは自らの耳かリディオルの言葉か、そのどちらもか。
──生きている? 誰が?
「冗談はよせ。あのときレーシェは、俺の腕の中で……」
刻一刻と冷たくなっていくレーシェの身体を、つなぎ止めたくて、ただただかき抱いて。手遅れなのはどこかでわかっていたのに、そこから離れる選択肢は浮かんでこなかった。もういいからしゃべるなといさめたシェリックに首を振り、なおも言葉として残そうとするレーシェがいた。シェリックには、止めることすらできなかった。
どうもできなかった。その冷えきった右手を握りしめて、遺言になるであろうレーシェの言葉を聞いていることしかできなかったのだ。
──ごめんなさい。
絶え絶えの息で。握り返すことすらままならなくなった声で。消えていく命の灯火を、ひと欠片でもそこに残そうとして──あのまま亡くなってしまったと思っていた。助かる見込みがほとんどなかった状況で、彼女の生存を信じろと言われた方が難しい。
「だから、生きてる。あの人は死んでねぇ──まぁ、あの状況しか見てないんじゃ無理もねぇか」
「……そうか」
あのとき駆けつけたリディオルが見た光景は、彼の目に、果たしてどう映っていたのだろう。
──失敗しちゃったわ……ごめんなさい、せっかくあの人に会えると、そう思っていたのに。やっぱり、まだ、私には──
彼女の瞳が閉ざされたのを最後に、名を呼ぶことも、手を伸ばすことも頭から消え失せて、青白い顔を見下ろすしかなかった。放心状態のままそこから引き離され、気づいたら牢屋へと入れられていたシェリックには何もわからなかった。
「レーシェは、生きて――」
祈るように閉じた目蓋の裏側。思い出のまま封じた、懐かしい笑顔がよぎった。