50,巡り合いはたまさかに
音を立てもせず、扉は滑らかに開かれる。シェリックが引き開けた扉は、音を立てもせずなめらかに開く。その先に待っていたのは、思っていたよりもずっと明るい部屋だった。
差し込む陽光が室内に舞い散り、さん然と輝いている。廊下よりも明るい。ラスターは明度の差異に目を細めた。
何かに似ている。そう思ったのは一瞬で、浮かんだのはルパで見た光景。扉の手前で一度別れた、フィノの笑顔が思い起こされた。
港町ルパ。彼と出会った場所。待ち合わせていた風向計の内部は、ここと似たような明るさだった。
「風向計みたいだな」
同じ感想を抱いていたらしいシェリックに頷く。
この部屋は、風向計よりも眩しい。
ラスターが歩く度、そこに高い音が鳴る。廊下よりも、さらに高く。ラスターとシェリック、二人は違う拍子を刻む。
面白くなって天井を仰いだ。空を見上げるくらいに高い。風向計と違うのは、天窓に張られた硝子に色がついていないことだ。けれども透明度は高く、頭上から照らす太陽の光をそのまま室内に取り込んでいる。風向計以上に明るいと思ったのはそのせいだろうか。
色とりどりではないけれど、それがより、どこか礼拝堂を思わせた。部屋の奥に、人ではない綺麗な存在がいてもおかしくなさそうだ。
口を閉ざしたシェリックにならい、ラスターも無言で奥へと足を進める。
光で満ちた部屋の中、目線より少し高い位置に何かが見えた。初めに認識できたのは黒。瞬きののちに目を凝らして、ようやくそれが人の頭なのだとわかった。
真正面に座るのは、ゆったりとした白の装束をまとう金髪の女性だ。そしてその傍らで、静かに控える黒髪の男性がいる。壇の手前で足を止めた二人を認めると、男性が口を開いた。
「お呼び立てして申し訳ありません、シェリック殿」
決して大きくはないけれど、よく通る声。凛とした声音が二人に告げた。続けて女性も口を開く。
「それと、手荒な真似をしてしまったこと、深くお詫び申し上げますわ」
ラスターの目は、頭を下げる女性に釘づけになった。顔を上げた女性はこちらを見て微笑している。
──それで、これが毒でない保証はあるかしら?
ラスターの記憶が呼び起こす。この人は、もしや。
「あの──」
「関係ない者も巻き込み、下手をすれば命を落としかねなかった招待には正直腹を立てておりますが、私への用件よりも先に伺いたいことがあります」
尋ねようとしたラスターよりも先に、シェリックが声を上げた。黒髪の彼と同じように毅然とした声音。彼と異なるところは、その口調がいささか厳しいところか。
「シャレル様、そうまでして私をこちらに呼び戻した理由をお聞かせください。彼女を道連れにしてまで私を呼び戻した、その理由を」
シェリックの強い語調が、その場の空気をも緊張させる。
ラスターは息を詰めて双方を見守った。問われているのはラスターのことだが、下手に口を挟めない。
「あなたの力をお借りしたいとお伝えしたはずですよ、シェリック殿。こちらにいらっしゃったということは、そのおつもりで戻ってこられたのでしょう?」
「そちらの返答次第です。王宮には参りましたが、私が応じない選択肢も残っておりますことをお忘れなきよう」
「それは弱りました」
眉尻を下げた彼女が見せたのは、いわゆる困惑した顔だ。困りきったその表情をしたまま、彼女は言う。
「応じてくださらなければ、ラスター殿の命の保証はできかねます、と言っても?」
「──っ、」
瞬間、シェリックがラスターの前へと立ち塞がった。彼女からラスターを隠すように。
半分遮られた視界の先で、彼女が綻んだ。
「価値は十分あるようですね。結構です」
「ラスターは関係ない!」
怒気を含んだ声に、ラスターの肩が意図せず跳ねる。
「そうですね。そのとおりです。ラスター殿についてはシェリック殿とは無関係です。偶然が重なっただけのこと」
「そんな理由がまかりとおるとでもお思いですか!」
大きさも、怒っている感情も、感じられる。
けれど、どうしてだろう。ラスターには、シェリックの声よりも、彼女の笑みの方が怖く思えた。
「ええ。本当のことですから。それと、理由はもうひとつ──シェリック殿、あなたの安全を守るためです」
「それは、どういう……」
険しかったシェリックの口調がたちまち一変した。虚を突かれたシェリック同様に、ラスターも首を傾げる。
――シェリックの安全を守るため?
牢にいたシェリックの安全を守るためとは、一体どういうことだろう。牢にいたままではまずかったからか、出てきたために危険が及ぶからか。
ラスターがシェリックを連れ出してから、実に三年の月日が経過している。ラスターの背は少し伸びたし、シェリックの表情はだいぶ柔らかくなった。あのときから変化したことはいくつもある。ならば、シェリックの立場も変わったということだろうか。
「詳しい話はのちほど致しましょう。お力添えを、頂けますね?」
説明など何もない。けれどもシェリックから、諦めにも似た息が漏れるのを聞いた。
「……わかりました。いずれは私が納得できる理由をお聞かせいただけると、そう考えていてよろしいですか?」
「ええ。お約束いたしましょう」
ラスターが連れてこられた理由とはなんだ。それはシェリックとは関係ないのだろうか。ラスターは、シェリックを連れ戻すための人質だったはずだろう?
フィノはそうだと肯定していた。けれども、シャレルは違うという。
ならば、どうしてラスターはアルティナに連れてこられたのだ。ラスター自身、アルティナに訪れるのは初めてなのに。
答えを求めてシャレルを見ると、気づいた彼女が柔和に微笑む。何をされたわけでもないのに、ラスターはうろたえてしまった。
「船の中ではお世話になりましたね、ラスター殿。その節はどうもありがとうございました」
「ううん。たいしたコト、したわけじゃないから……」
見間違いでも思い違いでもなかった。ルパから乗った船の中、熱を出したキーシャのすぐ傍で腰をかけていた女性。やはり、この人だ。
ラスターが連れてこられた理由。それはシェリックとは関係ない? ラスターはシェリックを連れ戻すための人質なのに?
フィノは肯定していた。けれども、彼女は違うのだという。
ならば、どうしてラスターはアルティナに連れてこられたのだ。ラスター自身、アルティナに訪れたのは初めてだというのに。
「ともあれ、長旅ご苦労様でした。ナクル、部屋まで案内して差し上げて」
「承知致しました。シェリック殿、ラスター殿、どうぞ私についてきてください」
シェリックが一礼したのを見て、ラスターも慌ててそれにならった。女性が気になるも、先導する男性に遅れてはいけない。名残惜しみながら足を速める。
こっそり盗み見たシェリックは、どこか釈然としない顔のままだ。説明してもらう約束はしていても、それが絶対とは限らない。納得したなら、シェリックの表情も晴れるだろうに。
「──あれ?」
「どうかしたか?」
「ううん、なんでもない……」
戻ってきた扉の前。ラスターがもう一度振り返ってみても、やはり変わらない。
そこに残っていたはずのフィノの姿は、どこにも見当たらなかった。
**
よどみない足取りで前を行く背中と、まったく目に慣れない景色を眺めながら、ラスターは元来た廊下を歩いていく。
今度は一体どこに連れていかれるのだろう。
すれ違う人々から好奇心丸出しの目を向けられ、いちいち目を合わせては逸らされるのも億劫になり、ラスターはつま先へと視線を落とした。隣に並ぶ靴より小さい自分の足。一歩の大きさも、進む歩幅も、履いている靴も違う。
高らかに鳴っていた靴音は音を立てなくなり、ほんの少し残念に思う。天井も先ほどの部屋より低い。ラスターが跳躍しても届かない高さであることに変わりはないが、シェリックならば届くだろうか。物言わぬ天井は、何も教えてくれない。
「──わっ!」
よそ見していたせいで、前にいた背中が止まったことにも気づかなかった。
「何してるんだ、おまえは」
ぶつかりかけたところを、寸でのところでシェリックに押さえられる。
「あ、ありがと」
しかし、腕ではなく首根っこをつかむのはどうなのだろうか。ちょっとばかり苦しい。
改めて目にしたそこには、ひとつの扉があった。先ほど入った扉よりはひと回り小さい。それでもラスターが今まで見てきた家の、どの扉よりも大きい。
「どうぞ。お嬢様がお待ちです」
「──え?」
「入ります」
一度振り向いて告げた男性の意味をつかみあぐね、扉を叩いて中へと入って行く様子をただ見ていることしかできなかった。果たして、開かれた部屋の中、ラスターは今度こそ言葉を失くした。
「おかえりなさい、ナクル。お母様からはなんの──」
そこにいたお嬢様は言いかけた言葉を止める。これ以上ないほどに目を見開いた直後、けたたましい音を慣らして立ち上がった。その様は、ナクルと呼ばれた男性の言葉も耳に入っていないようだった。
「はしたないですよ、お嬢様」
「ラスター!? それに、あなたは……」
「ラスター殿とシェリック殿をお連れしました。ご報告に上がった方がいいと思いまして、こちらに参りました」
澄ました声でナクルが話す。
船内で会った彼女と名前が同じ。似ているどころではない。本人だ。服装と髪型を変えただけで人というのはこうも変わるものなのか。
「──キーシャ……だよね? っわ!」
足早にやってくるなり抱きついてきた彼女を受け止める。どうしたものかと口を開きかけて、問うのをやめた。
キーシャの肩が微かに震えている。
泣いているのだろうか、泣かせてしまったのだろうか。声をかけることがためらわれ、どうしていいかわからず、助けを求める目が奥にいた一人を映した。
咄嗟に仰いだシェリックは既にその人を捉えている。細まった眼差しで。
そうこうするうちに、キーシャがラスターからがばりと離れた。
「突然消えるからどうしたのかと思ったわ! 良かった、無事で……!」
「うん、ボクは大丈夫。キーシャも無事に着いたみたいで良かった」
今にも滴がこぼれそうなほど、潤んだ彼女の瞳。心の底から良かったと思った。会えるかもしれないと思っていた人物と、まさか早々に再会できるなんて思ってもいなかったから。
それと──
キーシャに受け答えしながらも、ラスターは奥にいる人物から目を離せなかった。隣にいたシェリックが、キーシャでなく、そちらばかりに視線を送っていたのもある。険しい表情と静かに立ち上る怒気。シャレルと対面したとき以上に不穏さを漂わせる。
アルティナに属するのだと言っていた。幾度となく出くわし、言葉を交わし──船からラスターたちを落としたその人物は、ゆっくりと口を開いた。
「──感動的な再会のとこわりぃが、こちらからも挨拶させてくれますかね? キーシャ様」
アルティナにいるのだとはわかっていた。それでも思わずにはいられない。どうして、今ここに。この王宮に。どうして、キーシャとともにいるのだ。
疑わずにいた繋がりが、どうしたって結びついてしまう。彼とキーシャの間を彷徨う視線は、何を信じたら良いのか。
「思ってたより元気そうで何よりだぜ、嬢ちゃん。それと、シェリック」
最後に見たときと変わらない不敵な笑み。ラスターは一歩、シェリックへと寄る。
「リディオル……」
忘れもしない彼の名が、ラスターの口からこぼれてきた。
丈の長い、深い紫紺の長衣。ゆったりとした袖は、動きやすさよりも着心地を重視したのだろう。
彼も、ルパや船内にいたときとは服装が違う。黒一色ではなくなった装いに、リディオル自身がいやに馴染んで見えた。
「島の居心地は悪くなかったろ? ああ、それと潮の味はどうだった? めったにない体験ができてお得だっただろ?」
「ああ、これ以上ないくらい最悪だったな」
挨拶からの続く言葉につまるラスターの頭上から、殊更不機嫌な声が降ってきた。それはラスターが一瞬リディオルへ抱いていた恐怖を押し込め、隣を向くのが怖くなってしまったほどに。
この抑えられた声音、どこかで聞いたことがある。向けられているのがラスターでないことが救いだ。リディオルはどうして平気なのだろう。シェリックにこんな声で話されたら、何も返せなくなってしまう。
「なんだ、お気に召さなかったか。せっかくお望みの場所まで案内してやったのに」
「わざわざ招待をしてくれたことには感謝している。せめてもう少しましな案内をしてもらいたかったな。ただ、こうして礼を言わせてもらえる配慮をしてくれたことはありがたいとは思っている」
その低い口調のどこにありがたさを感じているのか。はなはだ疑問ではあるが、それを問う勇気はラスターにない。ラスターから離れたキーシャも同様に、固唾をのんで見守っている。
どちらが怖いと比べるよりも、どちらも怖い。
一触即発とした空気が増したその場に、割って入る者が一人だけいた。正しく言うなら、その人は初めからそこにいた。ちょうどシェリックとリディオルが立つ間に。
「リディオル殿、シェリック殿。人を間に挟んでの挨拶はおやめください」
淡々と告げられた言葉に、漂っていた緊張が少しだけ緩和される。
「おまえがそこにいるのがわりぃんだろうが、ナクル」
「勝手に人のせいにして頂きたいものですね。私がお二人をここまで案内するということはご存知でしたでしょう? お会いするなり臨戦態勢に入らずに、せめて顔を合わせたなら挨拶をするという礼儀くらいは覚えてください。キーシャ様やラスター殿が怯えています」
「おまえは小姑か」
「何をおっしゃいますか。もし私があなたの姑でしたら、真っ当な人間になれるようにお教えいたしますのに。今とは、全く、別の」
今のはラスターにもわかる。わざと区切られ、強調されたのだと。
「俺ほどの清廉な人間に何を言う」
「あなたがご自身を真面目な方だとおっしゃるなら、この世の中にはまともな方が今以上に増えますね」
「へぇ? それはおまえも入ってんのか?」
「あなたと比較して、とおっしゃるのでしたら肯定させていただきます」
「言ってくれんじゃねぇか」
臆することのないナクルの言い分に、ラスターは唖然となる。あのリディオルにここまで言える人がいるとは。彼は一体何者だろう。
世界とはかくも広いものなのか。リディオルが一を差し出せば十返ってくる。それも、明らかに不必要な単語を添えて。
ナクルとリディオルの間に、シェリックとは別の意味で不穏な空気が漂う。売られた喧嘩がいつ買われてしまうのか。それはリディオル次第なのだろう。
「──さて」
正面を向いていたナクルは、ラスターとシェリックの顔を交互に見つめてくる。彼にそんな意図はないのかもしれないけれど、観察されているようで少々落ち着かない。場の主導権も握られているような感覚に陥ってしまう。
元より、逆らえる意志すらないのだが。
「お二人にはまず、礼を欠いたこちらの言動を詫びなければなりません。申し訳ありませんでした」
あっさりと言われ、同時に深々と頭を下げられる。返答に困り、ラスターはシェリックを見上げた。シェリックはこちらなど見やしない。彼らがいる方向をひたと見据えて、不服を申し立てた。
「命に危険が及ぶ行為だったと、知っていてその命令が出されたのか?」
「命令じゃねぇよ」
返答はリディオルからきた。
「シャレル様だったら絶対にそんな馬鹿げた命令は出さねぇ。それは、おまえもよく知ってんだろ?」
「つまり、独断で決行したと認めるんだな?」
「ああ、認めるぜ? ただ、ひとつ間違っちゃあいる。命が危険に脅かされないと保証があったからこそ実行に移したんだ。どんな形であれ、おまえらは確実に助かって、あの島に行きつくことができた。助かったのは単に悪運が強かっただけじゃねぇよ。俺がそうなるように仕向けたからだ」
無事にたどり着けるように。ラスターとシェリックが必ず輝石の島に行けるように。決して誇張ではないとリディオルは言う。僥倖でもめぐり合わせでもなく、必然で、不可欠だったのだと。
けれども、言いようのない不安が首をもたげる。それは、ラスターがずっと気にかかっていたことだった。
「──ねえ、リディオル」
「ん? なんだ?」
「もしあのとき、ボクが頷いてたらどうするつもりだったの?」
「あのとき? ──ああ」
──王宮に来る気はねぇか?
もしもラスターが、リディオルの誘いに応じていたなら。
返ってくるであろう答えに想像がつきながらも、尋ねずにはいられなかった。