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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
一章 港町ルパ
3/207

3,再会の朝、陽の光


 ルパの町は朝が早い。

 遠海まで漁に出る船が、夜明け直後に汽笛を鳴らす。それが、港町ルパの町中に響く目覚ましだ。

 遠く、長く、さらに深く、低く。響く汽笛の音は、どこか寂しさを感じさせた。

 汽笛を響かせて、一(せき)の船が出ていく。それは、本日最初の出航だ。


 すっかり目が覚めてしまったラスターは、窓にもたれ、出航していくその様子を見ていた。

 夜明けとはいえ、辺りはまだ薄暗い。町のあちこちにはちらほらと明かりが点いている。明かりの灯ったあの家の人たちは、これから仕事を始めるのだろう。

 ラスターは上がってくる欠伸あくびをかみ殺す。思い出すのは、寝る間際にシェリックが言っていたことだ。

 シェリックが早いと言ったのはラスターたちの行動ではなく、町の活動だったのかもしれない。確かに、町中に響くこの音なら起きない者はほとんどいないだろう。目覚ましにはちょうどいい。ちなみにラスターも起こされた者の一人だ。

 目を擦りながら寄った窓辺で、ちょうど出航する瞬間を見ることができた。何か良いことでも起こりそうだ。

 寝台が窓辺で良かった。そうでなければ、気にも留めずに見逃していただろう。


 ──もしかしたら、シェリックもその一人なのだろうか。

 昨夜は思っていた以上に疲れていたのか、昨晩意識を飛ばすように寝入ってしまったらしい。だから、シェリックがいつ寝たのか、いつ起きて部屋から出ていったのか、ラスターは知らない。

 入口に近い寝台を見ながら頬をかく。そう、いないのだ。ラスターが目を覚ましたときからずっと。

 布団にしわがないということは、昨夜から戻っていないのかもしれない。

 窓から離れ、座り込んでいた布団に突っ伏す。足をバタバタさせて、むー、と言葉にならないうめき声を上げた。

 出かけるなら何か言ってくれても良いではないか。いや、ラスターを起こしたくなかったという可能性もある。それならそれで、書き置きのひとつでも残してくれればいいものを。

 枕を抱えて、ぶつけようのない感情をもて余す。


 ラスターだって一人でいたいときはあるし、何も、片時も離れずにいたいわけではない。それでも行方を知らないことに不安を感じるのは、二人でいることに慣れてしまったからだろうか。

 それに、シェリックに出会う前から始まっているこの旅の理由だって、まだ彼に話していないのだ。

 言えるわけがない。いなくなった母親を、あてもなく探しているなんて。

 明確な目的地なんてなくて、足取りさえもろくにつかめず、ずるずると年月だけが去ってしまった。快く送り出してくれた祖母の笑顔が脳裏に浮かぶ。あの笑顔を裏切るのは嫌だ。祖母を悲しませたくないから、母親を見つけるまでラスターは帰りたくないのだ。それに、帰る場所なんてもう──

 ラスターは目を閉じる。


 シェリックに出会ったあの日。

 あれは、母親の知り合いがいると言われたのだ。森の奥で見かけたから、探しに行ってみるといい、と。祖母が作った薬を店に届けたとき、たまたま店にいた顔馴染みの者と出くわして言われたのだ。

 とはいえ、その時点では半信半疑。音沙汰のなかった母親がそんな簡単に見つかりはしないと思いつつも、気づいたら祖母を説得し、家を出たラスターがいた。

 森の中になれているラスターでも、教わった場所へ向かうのは初めてだった。方向と距離を確かめながら進んでいたのに、気づけば霧雨を浴びていた。濡れないようかばいながら歩いていたせいで、いつしか方向がわからなくなってしまった。森の中を右往左往しながらなおも進めた足で、目当ての建物が見えた時の安堵あんどと言ったら。

 ルパを見つけたときの心境と、どちらが勝るだろう。

 しかしその安堵もつかの間にしか過ぎなかった。近づくにつれて、その建物は不穏な空気を醸し出していったのだ。遠目でよく建物だとわかったと思うほど、それは森と同化していた。

 辛うじて人工物だと把握できたのは、表面の色だ。石造りの建物をつたが覆い隠し、その隙間からわずかに覗いている茶色で判別できたのである。朽ちている建物と称しても問題ないほど、見る者を遠ざける雰囲気をそこかしこに漂わせていた。


 最果ての牢屋。

 ラスターが名前を思い出したのはそのときだった。ありとあらゆる罪人が最終的にたどり着く場所。それも、へんぴなところにある牢屋だと。

 ──母親の知り合いが、牢屋に?

 森の奥と牢屋は決して結びつかない。教えてもらった情報が間違いだったかもしれないし、森の奥といっても牢屋ではなかったかもしれない。

 浮かんだ疑問に首をひねるも、もし母親の知り合いがここにいたのなら、という可能性も捨てきれなかった。ラスターがここに着いたことを、ただの徒労で終わらせたくなかった。

 考えていても何も起こらない。自分で確かめるのが一番手っ取り早い。

 ラスターは意を決し、引き返したくなる気持ちを奮い立たせ、中へと進んだ。途中でいくつも見かけたのは人のなれの果て。鉄格子によって生と死の境を隔てられているようで、それらを凝視する勇気は出なかった。なるべく視界に入れないようにして、ともすれば回れ右したくなる足を叱咤しったして、ラスターは恐る恐る奥へと進んだ。そうして、鉄格子を境にして出会ったのがシェリックだった。


 あれから、もう三年だ。

 繋がれていた鉄の戒めを解き、彼をそこから連れ出したことに後悔はしていない。

 氏素性が知れなくとも、あんな死者ばかりがいる場所に独りでいるのは、駄目だと思ったのだ。ラスターだったらきっと耐えられない。想像に身を震わせた。

 シェリックには、一度だけ尋ねたことがある。リリャ=セドラを知らないかと。母親の名を挙げ、知っているかどうかを。

 もしかしたら知り合いというのはシェリックかもしれないと。ラスターは、一縷いちるの望みをかけていた。

 しかし、ラスターの願いも虚しく、シェリックの答えは芳しくなかった。

 最果ての牢屋にいて、言葉を交わせたのはシェリックただ一人だけ。ラスターの探し人はおらず、探し人の知人もおらず──あのときに手がかりすら絶たれてしまって、向かう先がわからなくなってしまったのだ。

 ラスターが訊いたあの問いを、シェリックはどうして何も聞かないのか。そしてなぜ、今でも一緒に来てくれるのか。以前尋ねたときには「あのまま一人にしたら寝覚めが悪いから」と話していたか。


「ボクにつき合う必要なんてないんだケドな」


 そうこぼして起きあがる。

 両手でぱんっと頬を叩き、気持ちを切り替えた。

 町を見て回ろう。なにせ、昨日はあまりの空腹と疲労でこの宿屋に直行してしまったため、ここにたどりつくまでの町並み以外、ほとんど見ていないのだ。

 時間があるなら、行きたいところも見たいものもある。町を探索してみても面白そうだ。それに。

 昨夜、寝台の脇に落としていたかばんを拾い上げる。両手でひと抱えできるほどの大きさで、そこそこ大きい。この中には大切なものが入っているのだ。ラスターの商売道具でもある、薬を作るための道具が。

 その割に扱いはぞんざいだけれど、愛情ゆえ、だと思うことにしておく。まさか昨日、眠気に負けて、片づけるわけでもなくその辺に放置したとかではない。

 旅の最中ずっと肩にかけていたもので、なかなかに重い。中身を減らしはしたのだけれど、知らず知らずのうちに増えていくのだ。不思議である。

 鞄の中を調べて深々とため息をついた。色々足りないのがわかってしまった。そろそろ仕入れなければならない。

 えいやと、かけ声を上げながら鞄を肩にかける。外出準備完了だ。


「よしっ」


 さらに寝台の横に立てかけていたこんを手に取る。ラスターの大事な相棒だ。何度か握って感触を確かめたのち、廊下へ続く扉を開けた。


「うわ、寒っ」


 朝独特の肌寒さに身震いをする。同時にここに来るまでシェリックと論議していた話を思い出した。やはり上着が欲しい。

 鍵をかけるかどうか悩んだが、特に盗られそうな高価な物を置いていない。なので、開けたままにしておくことにした。


「シェリックが戻ってくるかもしれないしね」


 頷いて納得させる。

 廊下に出ると、どこからか音がした。耳を澄ましてみれば、階下から聞こえてくる話し声のようだ。これから仕事に向かう町の人たちかと思ったけれど、この声は。

 間違えはしない。聞こえてきたうちの一人は、シェリックの声だ。



  **



 昨日の喧騒けんそうとはほど遠い静けさの中、シェリックは食堂の片隅を陣取って話していた。周りに他の客はおらず、まるで貸し切りの店のようだ。

 白んだ空を知らしめるかのごとく響いた汽笛。今日もまた、一日を始めようと。


「まあ、大変と言えば大変だったか」


 二人しかいないだけあって、聞こえてくる音自体も少ない。普通に話していても部屋の端まで聞こえているらしい。何度か店員を呼ぶ際に会話するほどの声量でも届いていたので、それは立証済みである。聞かれても困る話でもなかったので、声は潜めていなかった。


「曖昧だなあ。おまえ、やっぱ昔から全然変わってないのな」

「そいつはどうも」


 酒が入っているグラスを手の中で弄ぶ。中の氷が形を崩し、軽やかな音で応えた。


「しっかし、あんときは度肝抜かされたぞ。若いながらも成績優秀、寡黙で真面目で、絵に描いたような優秀者。間違ったことなんてやりそうにないおまえがね、まさかと思った」

「おい、誰だそれは」

「おまえ以外に誰がいる?」

「少なくともそれは俺じゃない」


 苦笑いで応じた。彼が抱いているシェリックの人物像があまりにもかけ離れている。それはシェリック自身とは全く違う、誰か知らない別人ではないかと思ったほどだ。


「誰にでも失敗することはあるだろ。ただの人間に過ぎないんだよ、俺は」


 シェリックは肘を突き、遠き日に思いを馳せて目を細めた。


「完璧な人間はいないって?」

「ああ。そんな奴がいたらお目にかかりたいね」

「俺の目の前に一人いるぜ?」

「断じて違う」


 おどけた仕草で肩をすくめられる。

 長らく別々に過ごしていたせいか、積もる話は確かに山ほどあった。昨夜、彼に言われたとおりだ。それでも。その話を口にするのに、シェリックには少しばかり勇気が必要だった。

 グラスを卓に置き、何気ない風を装って問いかける。


「──そういえば、あんたはまだ?」


 具体的な名前など何ひとつとしてない。けれど、彼にはその指示語だけでわかると踏んでいた。


「まあな。あれだけ長い間いるとそろそろ時間の感覚がなくなりそうだぜ」

「長い、か。そうだな」


 そこで言葉を切り、視線を奥の方に転じる。


「ん?」


 つられて相手も後ろを向いた。

 こちらに歩いてくる子どもが見えたからだ。あの背格好はラスターか。シェリックを探しにきたか、はたまた外へと向かう途中か──おそらくはその両方だろうと結論づける。


「起きたか」

「うん。汽笛で起こされた。えっと……」


 ラスターはシェリックの向かいに腰かけている男性を見た。裾の長い、黒の外套を着て、胸元を銀色の飾りで止めている。その格好がよほど不思議なのか、何度か目を瞬かせていた。この近辺ではあまり見かけない服装だからだろう。


「こっちは俺の古い友人のリディオルだ」


 シェリックの言葉に目を見開き、ラスターはリディオルの顔をまじまじと見ている。


「ボクはラスター」

「よろしく」


 彼から差し出された右手におずおずと握手を交わす。ラスターはあまり物怖じしない性格なのだが、この反応は珍しい。


「今から出かけるのか?」


 まだ夜が明けてそれほど経ってはいない。店など開いているだろうか。

 その意味を正しく汲み取ったラスターが頷く。


「うん。ほら、漁に行く人のために開いてる店とかあるんじゃないかと思って。シェリックは……」


 卓の上にあるグラスを目に留めると、ラスターの目が少し細くなったのを見た。


「朝から飲んでるし。っていうかこれ、もしかして夜通し飲んでる?」

「お互い明け方には酒は止めたさ。心配しなくても、潰れることはないから安心してくれ」


 グラスを掲げたリディオルがそう答え、ラスターからはふうんと気のない返事が寄越される。

 シェリックのグラスにはまだ残っているけれど、それは黙っておこう。酒入りでないグラスも別にあるので、嘘は言っていない。


「別にいいケド、資金だけは削らないでよ?」

「そこまではいかねえよ」


 言うにこと欠いて、そうくるか。


「こっちは大人の話があるの。おまえは遠慮なく行ってこい」


 手を振って追い払うも、ラスターはどこ吹く風だ。


「わかった。じゃ、行ってくる」


 素直というか、聞き分けがいいというか。そうしてあっさりと背を向け、外へと向かっていった。

 店を出ていったラスターの後ろ姿を見送り、シェリックは話を再開しようと口を開いた。


「悪いな。あのとおり敬語の知らん──何か言いたいことでも?」


 まるで奇怪なものでも見たかのようなリディオルに、そう尋ねざるを得なかった。よほど予想外の出来事だったのか、今度は「いや、」と含み笑いで返された。


「おまえにあそこまで言う奴がいるとは。それに放任主義とはね。いや、面白いものを見た」

「……見せものじゃない」


 変に感心しているリディオルを見ていると、頭が痛くなってきた。そう、間違っても見せものではない。


「敬語に関しては気にしてないさ。それに、半信半疑だったがおまえに連れがいたとはね。最近の坊主にしては威勢のいい奴じゃないか」


 ……坊主?

 グラスを傾けた手がぴたりと止まる。


「リディ、若干語弊があるぞ」

「ん?」


 シェリックに指摘され、やがてああ、と思い当たったようだ。


「ひょっとして、嬢ちゃんかい?」


 リディオルへと頷く。


「ああ。あんな格好してるからとてもそうは見えないけどな。服も、単に動きやすいから、と言ってたか」


 初めて会ったときから変わらない、男物の服に活発な瞳。女っ気がない行動、さらに加えて、一人称が『ボク』ときた。

 前に、なぜ男物の服ばかりを着ているのか、と尋ねたことがあった。別に性別を隠したいからとかそういう理由ではないようで、ラスターからは、動きやすいからという答えが返ってきた。

 見た目にこだわらず、あっけらかんとしていて。


「晴れ着のまま旅に出ようとする世間知らずのお嬢様もいるくらいだから、常識ぐらいはわかってるんじゃないか?」

「まあ、それくらいはな」


 果たして、その常識に当てはまるものがどの程度なのか。褒められたことではないが、シェリックのその尺度は一般人よりも低いと自負している。さて、一般常識に当たるのはどこからどこまでになるのだろうか。


「──なぁ、シェリック」

「ん?」

「戻ってこねぇか?」


 笑みのなくなったリディオルの表情。互いにわかりきった話題ゆえ、誰がとも、どこにとも、言わないし──聞かない。

 携えていたグラスを卓に置き、リディオルをひたと見据える。

 シェリックに言えるのはひとつだけだ。


「戻らねえよ」


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