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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
二章 船
26/207

26,帰還、沈黙、言えない心


 手の甲で口元を拭い、反対の手で扉を押し開ける。ここに戻ってくるまでなんと長い道のりだったのか。思い返すだけでげっそりとする。

 ――あのあと。本格的に動けなくなったシェリックを、通りがかった船員が見つけ、慌てふためきながら応援を呼んで介抱してくれた。吐いた後処理をさせてしまったのを申し訳なく思う。介抱してくれたことにも詫びながら、止める彼らを押しきって、からがら部屋まで戻ってきた。

 休んだおかげでだいぶ楽にはなったとは言え、まだそこは嵐の中心。疲労の濃くなった身体を引きずるように歩くのはなかなか骨が折れた。ようやく部屋まで着いたときには、すっかり深くなった夜があった。


「リディオル……」


 手の甲に額を当てて呻く。

 なぜ。なんのつもりで。ラスターをどうするのだ──

 リディオルに詰め寄った問いが、繰り返し浮かんでくる。思考がまとまらない。扉に背をつけ、ずるずるとそこにしゃがみ込んだ。考えたいのに、頭が動いてくれない。目を閉じると血のめぐる音が一層強く感じられ、暗くなった視界では重い頭痛が際立つ。真っ直ぐに保てない平衡感覚がそれらに輪をかけていて、これは、なんとも――


「──気、持ちわりい……」


 あまりの症状に、力の抜けた漏れた。体内をめちゃくちゃにかき回されたような――いや、実際にかき回されたのだ。とにかく気持ち悪さが大半を占めている。何かを考えるどころではない。それどころか再度吐く。これは絶対に吐く。間違いなく吐く。


「あいつ……本気で何を持ってたんだ……」


 問題は、シェリックがなんの薬を飲んだのかだ。酔い止めではないことは判明した。けれど、薬に明るくないシェリックには、船酔いによく似た症状を持つ薬だとしかわからない。果たして、そんな薬はあるのか――考えることを諦める。考えたところでどうせ、素人にはわかりそうにもないからだ。

 この薬をラスターが飲んでいなくて良かった。不幸中の幸いだ。おかげで散々な目に遭ったが──致し方ない。

 しかし、それにしても、だ。

 ラスターを助け出すより前に、自分のことすらどうにもできないというのはなんと情けないのか。ああ、本当に。情けないことこの上ない。

 そのまま座っていたい誘惑に抗い、自分を叱咤しったして立ち上がる。ここまでなんとか来れたなら、あとほんの少しの距離を歩けないなんてことはないだろう。廊下を歩くのではない。部屋の中を移動するだけだ。立たずともいい。ってでもたどりつければ、それで。

 膝と手のひらで前へと進み、冷え切った温度を全身で感じていく。体温との違いが、徐々に冷静さを取り戻す。少しでも頭を上げたなら気持ち悪さに目が回る。

 目的の寝台へ着き、肘を使って這い上がる。布団の上から倒れ込み、ようやくひと心地ついた。横になればだいぶ楽だ。立っているよりも、座っているよりも。心身ともに疲弊しているのも手伝って、このまま寝てしまいそうに――


「……寝られるわけがあるか」


 無理だ。

 休みたいと訴える身体とは裏腹に、意識ははっきりと起きている。意図したことではなかったが、冷やされたから余計に。

 何か解決したか。ラスターに、リディオルに。何ひとつ、好転すらしていない。リディオルをどうにかしない限りには、ラスターを解放してもらえないだろう。

 仰向けになり、つむった目で思考回路をめぐらせる。

 リディオルをなんとかするには、まず自分の体調を回復させなければならない。普段とはわけが違う。まともに動けるようになっていないと、今よりも痛い目に遭うしかないからだ。事態が良くなるどころか、悪化の一途をたどっている。

 リディオルは一体、何を企んでいるのだろう。彼の目的が、いまいち見えてこない。

 ひとつだけはっきりしているのは、リディオルがラスターを利用しようとしていることだ。ラスターに何をするというのだ。何を吹き込み、何を語るつもりだ。

 あのとき、引き留められていればと、後悔ばかりが募る。

 単なる八つ当たりだということも、この上なくみじめだということも、全て承知の上だ。

 だからこそ、何かをせずにはいられない。このままで終わってしまうのは性に合わない。何か、起死回生の策を講じなければ――


「――?」


 シェリックはその場に身を起こす。そばだたせた耳が、何かを拾うことはない。

 気のせいか。今、何か聞こえたような気がしたのは。耳をそばだたせる。

 扉の外からだ。何かが触れたような、注意していないと聞き逃すほどの、微かな――


「――っ!」


 思い当たった可能性に飛び起き、気持ち悪さを無理くりに押し込めて、音がしたはずの扉へと向かった。

 取手を回すのももどかしく、シェリックは扉を勢いよく開く。そこには誰もいない。落胆とともに閉めようとしたそのとき、扉の裏に何かが見えた。


「ラスター?」


 呼びかけるも答えはない。壁に背を預けた状態で、両手足を投げ出している。

 生きているのか。

 祈るように首筋へと当てた指先が、微弱な脈拍を感じ取る。


「ラスター」


 呼びかけに答えはない。意識がないのもわかっている。

 それでもそこに座っていたのは、確かにラスターだった。



  **



 ──近々でかい嵐が来るぜ。

 嵐が。

 風は吹き荒れ、稲光が光っては時間差で音をとどろかせる。波にもてあそばれ、小さな船は右往左往するばかり。取れるはずのかじは効かず、悪化するばかりの事態がそこにあって。

 無事でいられるのだろうか──安全にたどりつけるのだろうか。

 夢と想像が混ぜ合わされ、叩きつける音に起こされた。開いた目が天井を映し出す。明るい。夜ではなかったか。いや、夜だからこそ室内は明るいのかと、妙な納得をする。暗くなければ灯りはつけない。

 ぼやけていた頭がはっきりしてくる。寝かされているのは寝台だ。まさか、まだ悪夢は続くのか。リディオルはどこにいるのだ。

 握りしめた布団、視界によぎった窓はひとつだけ。ここは違う部屋だ。胸をなで下ろしたのもつかの間、窓の向こう側を眺めて、ラスターは目を見開いた。

 室内とは違い、外は暗い。嵐は来ている。しかし、寝台どころか机も椅子も、揺れている気配はまるでないのだ。どうして?


「っ!? ほっ、こほっ!」


 そんなつもりはなかった。それなのに結果として勢い良く起き上がってしまったせいか、軽くむせてしまった。

 涙目になりながらもきょろきょろと見回してみる。やはりリディオルはいない。次に目についたのは、見慣れた棒と、自分の荷物。今度こそ自分たちの部屋だ。そのことに安堵しながら目を滑らせていく。見渡す両目が捉えたのは落ち着いた室内。当然のようにそこにある空気に、奇妙な違和感を覚えた。

 ──嘘だ。ありえない。

 裏づける証拠は、窓の向こうに広がる荒波の群。飛沫という咆哮ほうこうを上げ、幾重にもなり、船に向かって襲いかかってくる。

 嵐は止んでいない。それどころか、今まさにその渦中にある。


 それなのにどうしたことだろう。

 何か祭りでもあるかのように、いっそ清々しいほどにぎやかな音が聞こえてくるけれど、船はまったく揺れていない。この空間の違いは何なのだろう。それはまるで、一枚の絵画だ。ここだけ外から切り取られたような──あるいは嵐の映像を見せられているような。先のリディオルとの会話を思い出し、背中にぞくりと震えが走った。

 考えすぎだ。人間に、そんな芸当できるわけがない。

 頭を緩く振る。けれどもあの時、彼は風を操っていなかっただろうか。ラスターが意識を失う前、包まれた突風に根こそぎ奪い取られていった感覚を忘れはしない。また同じ状況に陥る可能性だって、拭いきれないのだ。

 かた、と鳴った音に肩が跳ね、勢いよく振り返る。三度みたびリディオルの姿がそこにないことを確認して、ゆっくりと息を吐いた。動かした目が、入口から近い方の寝台を捉える。布団もかけずに横になり、浅く寝息を立てている彼がそこにいた。


「シェリック……」


 ずいぶん久しぶりに彼の姿を見たような気がする。懐かしいとすら思ってしまった。

 急いていた心臓が静まっていく。大丈夫だ。シェリックがここにいる。

 思わず笑ってしまった。シェリックは片膝を立てていて、寝る気はなかったような様子だけれど、横になったら寝てしまうのに。しょうがないなあと、端にたたまれていた布団をかけてあげる。

 あの場からどう戻ってこれたのかは分からないけれど、きっとシェリックのおかげだろう。

 シェリックは確かにそこにいる。ラスターにとってはそれだけで十分だった。

 口の中でお礼の言葉をつぶやく。いてくれるだけで、こんなにも安心できる。今度は目を覚ましている時にちゃんと言いたい。シェリックに、面と向かって言いたい。頼まれていたことをこなせず、それでいてこちらは彼に迷惑をかけてばかりなのが悔しくて。

 ──嬢ちゃんにあいつは救えない。


「……そんなコト、ないもん」


 ラスターは目をつむる。自分にも、やれることはあるのだ。きっと何か、何かある。そう、なんとかしなければ、シェリックは、この船は──

 ──どちらかを選べば終わるんだ、簡単だろう?

 言葉が甦る。リディオルは言ったのだ。

 ──嬢ちゃんが王宮に来てくれるんなら、もう俺からあいつに手を出すことはしない。これ以上悪化しないように、あいつに薬をやろう。いい条件だと思うんだけどな。

 つかまれた腕を引き寄せられ、ラスターの意志とは関係なしに立たされて。

 ──ただし。もし、嬢ちゃんがこの話を断ったら、


「っ!」


 耳元で言われた気がして、ラスターは反射的に両耳をふさいだ。空耳などではない。それは確かに、言われた言葉のひとつなのだ。

 耳朶じだにまとわりつく、リディオルの低い声音。

 委縮してしまって動けずにいた、ラスターの耳に触れるか触れないかの位置で、リディオルはこうささやいたのだ。


 ──この船を、沈める。


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