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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
二章 船
23/207

23,対峙するのは彼と黒

 ※今回のお話は、お食事前後の時間にご覧になるのは控えた方がいいかもしれません。念のためひと言添えさせていただきます。



 力なくくずおれる身体と、はためいた栗色の長い髪。目に飛び込んだ光景がいつか見た記憶と重なって、シェリックは息を呑んだ。呼びかけた名前を寸でのところでこらえて、現実と相対する。


 ――違う。彼女ではない。

 今いる場所も、ここにいる人物も。あのときとは何もかもが違う。

 明滅した幻想を振り払い、飲み下した名前の代わりにリディオルを呼んだ。

 あのときにできなかったこと。自分への不甲斐なさ。呼んだ名前に宿された怒気には、少なからずそんな後悔も含まれているのだろう、なんて。目の前の場面を見ながら、どこかで他人事のように考えているシェリックがいた。


「ふざけてなんかいないさ。ま、お疲れさん、とでも言ってやるよ。よくまあ、そんな状態で動けたもんだ」

「……ずいぶん強引な招待を受けたからな。このあとに手荒い歓迎が待っているとなったら、応じるのは当然だろう」


 ――近々でかい嵐が来るぜ。

 先刻、そう言ったのはリディオルだ。手荒い歓迎――つまりは嵐とみて、まず間違いはない。

「そこまで待ちわびてくれてるならありがたいこった」なんてうそぶく彼をぎっと見据えた。

「ラスターに何をした」


 リディオルの腕の中、抱えられているラスターはぐったりとしている。つい先ほど部屋から元気よく出て行ったのが嘘のように、垂れ下がった両手は微動だにしない。青く見えた横顔は、照明のせいか、血の気が失せているのか。判別のつかないもどかしさと、迂闊うかつに近づけない位置が、シェリックに足を止めさせる。

 ――生きてはいると、思いたい。


「何をしたって、おまえがさっき言ったその通りのことさ。間近で見てたんならわかってんだろ? ちょっと話がしたくてね」

「話? おまえの言う話とは、人の自由を奪わないとできないものなのか」


 言外に意味合いが違うと込めるも、リディオルは笑うだけだ。答えの代わりとばかりに、肩をすくめられた。


「しっかしつまらねぇな。やっぱりおまえにゃバレてたか」

「当たり前だ。出発前に部屋を訪れたときの眠気、あれは魔術の反動だろう。これから来る嵐も、おまえの仕業でまず間違いないな?」


 それは疑問ですらない、確信を持っての問いかけだ。

 気にかかっていた。なぜ確信するまでに至らなかったのかと、悔やむほど。会うごとに眠気を増していったリディオルに――その意味に、気づくべきだった。


「ご名答。慣れない国に、助力も得られない。あそこまで大がかりだと、さすがに疲れるね。いやはや、大変だった」

「今すぐ止めるなら楽になるぞ」

「冗談。俺のやりたいことは何ひとつ終わってないんでね」


 リディオルの目的が見えてこない。わざわざ手間をかけてシェリックををおびき寄せて、ラスターが倒れる瞬間を見せつけて、何がしたい。そこまでして、ラスターにどんな話があるというのだ。


「ネボの日にしたのもわざとか」

「まさか。あれは本当にたまたまだ。さすがの俺でもそこまでは狙えねぇよ」


 おどけたように答えられる。

 ――ネボの日。

 水の神がおわす日であるから、水辺に近づいてはならない。気に入られた水神に、引きずり込まれてしまうからだ。そのため、ネボの日の船出は控えた方がいいと言われている。

 船に乗ったあと、シェリックも何度か耳にした。こんな日に出航するなんてついてないと、先輩にこぼす船員も見かけた。船乗りの間では有名な話らしい。

 それ以外にも、ネボの日は何故か海が荒れやすいと聞く。人の世界に降りてきた水神の悪戯だとも、海を荒らす人間たちに怒った海神の仕業だとも言われているが、その真偽は定かではない。


「いろいろ予想外が重なってひやひやしたけどな。ま、俺の薬もちゃんと効いたようで何よりだ」


 その言葉に眉をひそめる。


「薬? 効いていないんじゃ――」


 怪訝に開いた口を閉じた。違う。そうではない。シェリックは何か、思い違いをしている。

 リディオルがラスターに渡していた薬。酔い止めの一種だと説明されたそれを、ラスターから受け取り、実際口にしたのはシェリックだけだ。せり上がってくる吐き気を無理やり呑み込んだ。

 ──酔い止めの一種?

 ──まぁ、似たようなもんだな。

 尋ねたラスターへ、リディオルは明言を避けた。どうとでも取れる、ぞんざいな返しすらしていて。


「──おまえ、ラスターになんの薬を渡そうとした?」


 酔い止めだとばかり思っていた。リディオルの説明をありのまま信じていた。それなのに効かないのは、シェリックの症状が酷いからだと思っていた。だからラスターからの提案も、シェリックに作ってくれようとしていた薬も、全て断って――

 シェリックの様子を眺めていたリディオルが、無言で口の端を持ち上げる。それが何よりの答えだった。決して良い効果ではない。それどころか悪化する類だ。


「心配しなくても、死ぬもんじゃないさ。嬢ちゃんもな。さあてっと」


 何かが頬に触れる。


「!」


 すぐ目の前に現れた気配を察し、シェリックはとっさに後ろへ飛び退いた。身体に染み込まれた感覚がまだ残っていることに驚き、同時に感謝もした。

 その間、ひと呼吸。至近距離で響いた大音量に顔をしかめる。弾けた風の残滓ざんしが、前髪をはらりと揺らしていった。

 ――ラスターは。

 ラスターへ目を向けるも、先と変わらずリディオルに抱えられたままだ。その様がシェリックに彷彿ほうふつさせる。まるで、せっかく見つけた玩具を手放そうとしない幼子を。


「へぇ、やるじゃん」


 そう、玩具だ。

 完全にリディオルに遊ばれている。歯がみするも、今のところ対抗するすべは浮かんでこない。


「俺が教えた合図といい、忘れてないようで良かったわ」

「嫌になるくらい覚えていたな」


 一瞬かいた冷や汗には気づかなかったふりをし、よろけた先にあった壁へと手を突く。ひやりと伝わった温度に、壁の方が冷たいのだと変な感想を抱いた。


「ははっ、無様だな!」

「……抜かせ」


 今のは体調のせいばかりではない。傾いだ船にたたらを踏んだのだ。その拍子に、浮いていた脂汗が足元に落ちた。平衡感覚が鈍っているのは認めよう。それだけだと言い聞かせる。

 ――嵐が来たか。

 予想よりも遥かに早い。夜を越えるどころか、これから深くなっていく最中だと言うのに。思い通りにことが運ばないのは常だとはいえ、何もかも自分の思っていたこととは違う事態ばかりで腹が立つ。こうして相対した今でさえ、リディオルに踊らされている感覚しかしない。募ったわずらわしさに顔をしかめ、壁から離れてリディオルをにらみつけた。


「ラスターを返せ、リディオル」

「お断りだね」


 楽しんでさえいる。シェリックは、膨れ上がりつつある感情を押しとどめた。


「嬢ちゃんに話があるって言ったろ? 邪魔するなんて、無粋な真似じゃねぇか?」

「――無粋?」


 無粋などと、一体どの口が言うのか。


「本当にそれが無粋だと思うのなら、俺は何も言わない。こんな回りくどいやり方をしなくても、他に方法はいくらでもあるだろう。おまえのやり方は、話をするにはほど遠い。阻むのは当然だ」

「過保護だねぇ」


 例えばラスターがある人に恋慕の情を抱いていて、その相手も少なからず思っているのなら、邪魔するような真似はしない。それならばむしろ応援するし、男性側からとして相談に乗れることもあるだろう。今回はわけが違う。

 だってそうだろう。嵐を起こして、ラスターからわざわざ意識を奪って、そこにシェリックを呼び寄せて。まるで、シェリックに見せつけるかのような――いや、ようなじゃない。リディオルは、見せつけるために仕組んだのだ。


「嬢ちゃんの近くに怖い番犬がいちゃ、話すものも話せなくなるだろ? こっちとしちゃ、場を設けたかっただけだ」

「許可も取らずにか?」

「言ったらくれたのかよ?」

「こんな事態になるとわかっていたなら、やるわけがない」

「だと思ったからおまえにゃ黙ってたんだよ。察しろよ。ま、予定が狂ったってのもあるか」


 読めない笑顔で、のらりくらりとかわされる。すくめられた肩も、大仰な動作も、全てが演じられた仕草のようだ。この船は舞台で、シェリックは与えられた役のひとつ。展開も終幕も、彼の思うがまま――望むまま。


「ほらほら、嬢ちゃんが俺のところにいるのはわかったんだから、部外者はとっとと部屋に帰った。嬢ちゃんは、あとでちゃんと無事に送り届けてやるからよ。これで安心だろ?」


 片手でラスターを支えたまま、逆の手で適当に払われた。まるで、用済みのシェリックを追い払うかのように。――そう、自分の出番が済んだのなら、舞台からはけなければならない。もう、ここにいる必要はないのだから。

 ――なんて、冗談ではない。リディオルの振る舞いは、信じるに値しない。


「安心なんてできるか。この状況を見て、俺がおまえを信用すると思っているのか?」

「思わねぇな」


 演じているのが舞台ならば、台本に沿わずともいい。即興で演技を挟むことも、不意のできごとに応じて変えることも、できるはずだ。

 リディオルが嵐を起こした意味は。ラスターにしようとしている話とは。この場に限った話ではない。シェリックを船に誘導したことも、アルティナに呼び戻しに来たことも。ルパで接触したときから、既に計画していたというのか。

 いつから。どこから。リディオルの目的は──


「――おまえも大概しつけぇな」


 続いていた無言の対峙たいじ。リディオルは、根負けしたように息を吐いた。


「どうあっても素直に帰る気はないってか。困った心配性だねぇ。嬢ちゃんがそんなに気にかかるんだな?」


 それは質問ではない。単なる確認だ。


「ああ。旅の連れだからな」


 それ以外の何者でもない。けれど、心配をして何が悪いと言うのだ。


「赤の他人じゃねぇのか?」

「他人だな」


 三年前までは、接点すらなかった。


「だったら放っておけばいいじゃねぇか。こんな小娘一人を、おまえが気にかける必要はねぇだろう? 何をそんなにむきになってやがるんだ?」

「さあな」


 リディオルの言ったように、むきになっているのだろうか。よくわからない。

 はっきり言って体調は最悪だし、今すぐにでも部屋に戻って横になりたいし、無理を押してまでここにいる道理はない。

 なぜ――リディオルに呼ばれて。

 シェリックは呼ばれたから来たのだ。ラスターが戻ってこなかったから、ここまでやってきたのだ。それだけだ。


「……おまえに可愛げってやつがあればね」

「何が言いたい」

「別に?」


 初めから答えなど求めていなかったようで、リディオルはあっさりと引き下がった。


「おまえが気づいてるならあるいはと思ったが――まぁ、それはいい。用事は済んだし、ここいらでお引き取り願おうか」


 リディオルの手中に生まれた風は、彼の手のひらよりもずっと小さい。そこから上がっている唸り声が徐々に大きくなる。目には見えない小さな檻から早く出せと言わんばかりに。渦巻く風の大きさは小さくとも、その威力は大きさとまったく比例しないのが厄介だ。合図さえあればいつでもこちらに放たれるのだろう。

 本来ならば風なんてものは目に見えない。風はただの自然現象であり、色などついていないからだ。リディオルはシェリックにもわかるように、わざち白く、視覚化している。そんな手間をかけずともいいものを。


「悪いが遠慮する。引く気はない」

「立ってるのもやっとの状態で何を言ってやがる? おとなしく寝といた方がおまえの身のためだぜ? これから来る嵐はこんなものじゃねぇぞ」

「らしいな。おまえがあそこまで疲労困憊(こんぱい)だったんだ。そんじょそこらの嵐じゃないだろうな」

「お褒めに預かり光栄だな。そんななりして耐えられんのかよ? 俺は心配して言ってるんだぜ?」

「いらん心配だな」


 先ほどは、揺れたのも手伝ってよろける羽目になった。けれどもリディオルの言う通り、今は立っているだけで精一杯だ。同じようにリディオルから風を飛ばされたなら、もう一度無事に避けられるという自信はない。

 そもそもそんなに簡単に避けられるほど、リディオルの術は遅くない。先刻のも今見えているその風も、どちらも手加減されている。詳しくないシェリックでもわかってしまったことが悔しくて――リディオルに弄ばれていることを嫌でも確認してしまった。


「強情。どうあっても引かねぇんだな」

「引く気はさらさらないと言って――っ」


 自身の口元を押さえるも、一瞬間に合わなかった。飛び込んできた風の塊が、口から中へ入っていく。奥へ、さらに奥へ。

 話しながらもずっと注意は払っていた。リディオルの手中から風が消えた瞬間に口を押えたのに、一拍間に合わなかった。

 嚥下えんげの動作を待たずに、悠々と喉を通過していく。シェリックの意志と一切関係なく体の奥にまで入って、腹の中心に居座っている感覚があった。同時に、背中を氷塊が滑り落ちる。嫌な予感が湧き上がって――


「だったら、強制退場してもらうまでだよな?」


 そう宣告され、指がひとつ鳴らされる。途端、留まっていた風が一瞬にして弾け、胃の中を容赦なくかき回していった。


「――ぅ、ぐっ、ごほっ!」


 耐えきれずその場に膝を突く。こみ上げるものを抑えきれず、催した衝動のそのまま、戻された異物を吐き出した。充満する独特の匂いに二度、三度、繰り返す。

 酸味でひりつく喉を押さえる。目が合った床はその様を映し出して、こちらをあざ笑う。

 船に乗ってから固形物はほとんど口にしていない。それでも出てくるものはあるのだと、頭の隅でぼんやりと考える。頬を滑る滴がぽたりと落ちて、そこにこつりと足音が鳴った。


「言い訳するつもりじゃねぇけど、実力行使するつもりはなかったんだよ」


 口を拭い、灯りを遮った影を見上げる。逆光で顔は見えない。いつの間にか近くにいたリディオルは、もう一度口を開いた。


「引かないおまえが悪いんだぜ。しつこい男は嫌われるもんだ、覚えておくといい」

「リディ、オル――っ」

「じゃあな、部屋まで頑張って戻れよ?」


 リディオルが向きを変える前、運ばれていくラスターがちらと見えた。彼女の閉ざされた目蓋は開く気配もない。

 手を伸ばしたなら。彼の肩をつかんで、振り向かせ、固めた拳を振りかざし、力任せに殴りつけ、彼女を取り戻せたなら──

 そう遠くない。少しの距離だ。手が届かないなら、近寄ればいい。

 想像とは正反対に、手も足もぴくりとすら動かせない。代わりとばかりに、吐いた息と上下する肩が大きくなる。

 心配しなくても死ぬものではないと、リディオルは言った。シェリックは信じて待つしかないのか。

 今はあの言葉を信じるしかできない。

 ――信じる? 誰を? 何を?

 さんざん疑いをかけ、信じられないと言っておきながら、都合のいい部分だけ信じるなんて――いい物笑いの種だ。これを滑稽と言わずしてなんと言おう。信じたら裏切られる。そんなことはとうに知っていたはずだ。

 遠ざかる背中に言いたいことが山ほどある。言葉にならず、動けもせず、ひと言も発せない状態に、シェリックは唇をかんだ。切れるほどに強く。血の味が満ちても、なお。


「――く、そっ!」


 シェリックは身動きが取れないまま、二人は見えなくなって――ごちゃ混ぜにされたやり場のない怒りを、壁に叩きつけるしかできなかった。



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